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2005-08-20

じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(5)


東北沖で地震があった日、私の郷里福井では別の大変なことが起こっていた。墓地が陥没したのだ。それは旧盆の早朝。小山の斜面に作られた有名な墓地の出来事だ。幅と深さはなんと30m! たしかにぽっかり巨大な穴があいている。

参照:http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20050816p202.htm


さて、話はすっかりずれていくが――。

穴とは何か。「ない」という状態をあらわす言葉だ。しかし「ない」という状態は「ある」という状態のネガとしてしか成立しない。ドーナツが存在してこそドーナツの穴は存在できる。我々は「ない」という状態をそのようにしか把握できない。言葉のアヤではない。人間以外の生物にとっても、「ない」に当たる感覚というのは、「ある」に当たる感覚がなければ生じてこないにちがいない。

我々は目がみえるからこそ、目がみえないことを想像できる。生まれつき目がみえなかったら、目がみえることはもちろん目がみえないことも想像できないだろう。

先祖の死や自分の死は、この世から先祖や自分だけが消えてしまった状態として想像できる。では、この世のすべてが消えてしまった状態というのは、果して想像できるだろうか。できそうにない。この宇宙が「ない」ことを想像するには、そのベースに「ある」なにかを想像しなければならない。この宇宙が「ない」状態をネガとして穴として成立させる、もうひとつ背後の宇宙を。

我々はつい「宇宙の外」「天地創造の前」などという空想をしてしまうが、それなりに健全なことなのかもしれない。少なくとも、そうしなければ気は収まらないときがある。

ニュートンは、はてしなく一様な時間の流れと空間の広がりのなかを、地球やリンゴといったあらゆる物体が運動していく、と捉えた。いわば、この宇宙のベースに永久不変の時間と空間が「ある」と考えたのだろう。この考えは、今の我々がふだん感じている時間や空間の枠組みとじつは同じだ。ただその枠組みは絶対ではなかった。アインシュタインによって、時間と空間は絡みあうし伸び縮みすらするということになった。また、宇宙はビッグバンで誕生したとされるが、その理論でいくと、ビッグバンより前(?)には時間や空間そのものが存在しない。この宇宙自体がすっかり存在しない。…というふうによく言われる。おまけに、現在の物理学は、時間や空間はこれ以上分割できない最小単位をもつ、とまで言う。ちなみに、物体のほうも、その素になる粒子というのは「ある」とも「ない」ともつかない状態であってふいに出現したり消滅したりするとされる。

というわけで、我々がこの宇宙を捉えるベースにしている時間や空間(さらには物質)という感覚は、方便や錯覚みたいなものなのだろう。しかし、それを理解するためには、この時間の流れやこの空間の広がりが「ない」状態を想定しなければならない。ビッグバンを想像するには、この宇宙そのものがすっかり「ない」状態を想像しなければならない。

理屈としてはうなずける。しかしそんな想像は実をいうと誰もできないのではないか(みんな黙っているけれど)。この宇宙すべてがないことを想像するなんて、その「すべてがない」状態をネガとして穴として浮かび上がらせるベースとして、さらに大枠の何かが「ある」ことを想像しなければ無理だ。

ニュートンからアインシュタインへ、宇宙の見方が変更されたとき、新しい実体的な変動量としての時空というものが浮上したのだろう。しかし、だからといって、ニュートンから現在の我々までが直感的に踏まえてきた「時間と空間」という形式原理そのものが消滅したわけではないのではないか。かなり微妙にきこえても、そこは明瞭に区分できるし、したほうがいいと思うようになった。アインシュタイン的あるいは量子力学的な時間空間とは無縁に、もっと素朴でもっと普遍であるような「時間と空間」という把握の仕方を、我々はずっと仮想してきたし、これからも仮想せずには何ものも考えることができないと思われる。この世の事実として時空が伸び縮みする(物体も明滅する)ことを知ったうえで、そうした伸び縮みする時間と空間を理解するための基盤として、さらにベースにある「時間と空間」を我々の思考は求めずにはいられない。「なにもない」という想定は、「それでもなにかがある」という想定を抜きにしては現れようがない。繰り返すけれど、ドーナツの穴のためにはドーナツが必要なのだ。

こうした我々の生活がベースとして踏まえざるをえない時間や空間というものと、ちょっと似た位置にあるのが、数学と論理だ。なにかを考えるとき、どうしてもそれに従わざるをえない。リンゴ2個とみかん3個をカゴにいれたら全部で5個になった。数えるということは、この世界を支えるかなり普遍的ななにかなのではないか。

…とまあ、ここまで何もかもごちゃまぜにしてしまっても仕方ない。しかも、何度も言うけれど、本当はもっと物質や宇宙の実際について、数学の実際について知りたいのだ。ここに述べたごとき哲学っぽい思案は、その実際の面白さを詳しく理解してからでいいと思っている。それなのに、どうも順序が逆になる。

といいつつ、がらっと違った角度で、もうちょっとだけ付け加えるが――。

我々のこの宇宙はローカルな存在かもしれないらしい。この宇宙とは関わらないようなあり方だけれど、他にも宇宙があるかもしれないのだ。しかも無数の宇宙があるかもしれないという。奇妙だろうか。でも我々はそのことは想像できる。いや、そう考えないと我々はむしろ落ち着かない。逆にこの宇宙しか存在していないと考えることのほうが、ずっと気持ちが悪い。この宇宙が無限ではないかもしれないにも関わらず、この宇宙の外(?)やこの宇宙の前(?)には「まったくなにも存在していない」と考えることのほうが、我々には難しい。

さて、では、そもそも<「すべてがない」のではない>のは、いったい何故なんだろう。なんでこの世が「ある」のだろう。

=続く=

okinomahitookinomahito 2005/08/20 21:43 この宇宙が生まれる前の、「量子的な無」と哲学的な「無」は違うと思うんですよね。量子的無は素粒子、そして次元そのものがないのではあるけど、ポテンシャルはあるわけです。でもニヒリズム的な、または禅的な無はそれさえもない。思考空間の制約がかかってるのかもしれません。

tokyocattokyocat 2005/08/21 00:28 ふたたびありがとうございます。ポテンシャルという用語は詳しくは分からないのですが、量子的な振動が最低の状態であっても、その状態をいわばおさめている場だけはあると言うべきであり、しかも、この宇宙が生まれていないときでも、そのポテンシャルだけはあってそれはずっと継続している、ということかなと理解しました。ビッグバンが起こっていないときにも「ポテンシャルだけは絶対にある」とまで言いきれるかどうか、腑に落ちないところもあるのですが、物理理論としてはそうなってしまうということでしょうかね。言い換えれば、この宇宙と、どこかほかにあると想定できる(仮想ではない)べつの宇宙とでは、共通していないベース(物理定数などはそうなのでしょう)もあれば、共通しているベースもあって、ポテンシャルというベースは共通していると捉えるのがナチュラル、というわけでしょうか。だから、<それらすべてがない状態>は、私が想像できない以前に、宇宙理論としても想定しようがない、と。それも超えた、つまりポテンシャル自体がない状態(真空な空間自体がないというのと同じか?)というのは、今のところ言葉だけ仮想だけの話になってしまう、と。…もうちょっと勉強します。

okinomahitookinomahito 2005/08/21 02:09 量子的な無はビッグバン以前ですから、今の大統一理論では扱えませんが超統一理論が完成すれば(することがあれば)量子的な無までは到達でき、科学的な説明が付けられるわけです。しかしその無がない状態ってのは東京猫さんがおっしゃるように宇宙論を超えてしまっているでしょうね。それさえも対象にすることは、個人的には、もうゲーデル的問題に関わっていると感じます。