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2006-09-09

私を引きずる言語を引きずる論理と物語


本来 言語は論理というものにけっこう従う。「〜でないことはない」=「〜である」とか。でも実際の使用では完全に従いはしない。「良い薬ならば苦い、のであるから、この薬は苦いから良い薬なのだよ、美しい国、日本。」とか。数学の証明などは論理だけで出来上がるのだろうが、言語はそれとは少し違って不透明な使われ方をしているわけだ。

だいたい我々の言語は一定のルールに照らして誰かがゼロから作ったものではない。しかし、そうではありながら、言語の特に文法みたいなものは、どうしても論理に引きずられながら構築されてきたのだろう。論理とはそれくらい強力な型枠なのだ。

さてしかし、言葉を使って何か書いたりしていると、論理ばかりでなく、どうももっと別の何かにも強く引きずられているなあと感じることがある。何に引きずられているのか。それを「物語」と呼びたいことがある。

言語が論理だけでなく物語によっても統率されているから、論理的に多少いい加減な読み書きであっても、見過ごされたり、あるいはむしろ魅力的になったりする、ということ。そこから「言葉なんてどうせ遊戯だよ」というニヒリズムもやってくる。

では言語にとって、論理と物語はどっちが魔法のランプでどっちが魔法の指輪なのだろう。それは何ともいえない。どちらも同じくらい強力。

さてさて。猫やコウモリが「考えたり感じたりしている何か」があると言えるように、私たちが「考えたり感じたりしている本来の何か」があるとしたら、それは言語に変わるとき少しズレを生じるのだろう。言い換えれば、私たちの考え方や感じ方が言語という型枠にハマってしまうということ。でその言語は言語で、論理や物語にハマっているという面白い構図。

このとき、言語が論理や物語に引きずられしまうのは、私たちが「考えていることや感じている本来の何か」がそもそも論理や物語と相似だったからだ、というふうに考えると面白いかもしれない。そうすると、猫やコウモリは、言語という仲介なしに直接 論理的に物語的に考えたり感じたりしているということにも、なりかねない。よく分かりませんが。

「論理」は定義がはっきりしているが、「物語」はそうではないので、ここでいう「物語」ってそもそも何のこと? と思うだろう。でも逆に「物語」をこんなふうに位置づけることで定義したらどうか、という話なのである。

ところで今 「逆に」という表現をした。論理では「逆は必ずしも真ならず」。でもこの「逆に」は、論理語ではなく物語語なのである。


それなりの参考書:

論理トレーニング101 ASIN:478280136X

美しい国へ http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kenwood/nandemo/hidebu.htm


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こうしてパソコンで文章を打ちながらいつも感じるのは、文章がつづられつながっていく流れや動きは、私が文章を書きはじめた動機だけでなく、文章自体の動機とでもいうべきものにどうしても従ってしまう、それどころか、いつしか私の動機など忘れて、その文章自体の動機に任せてしまっている、ということ。文章は、「私が言いたかったこと」とは別に、なぜかある一定の力につねに引っ張られてしまう。その力を「論理」とか「物語」とか呼んでみた。文章の「分析的」な書き方(=文章で書く)、文章の「記述的」な書き方(=文章を書く)、と言い換えてもいい。

もっと単純な実感としてはこうだ。「言いたいことはあるんだけど、なかなかそのとおりには書けないね」

(これはリサイクル文章)


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言語と隔絶した考え方や感じ方というのは存立しえない、とも言えそうだ。しかし、映像はまた少なくとも言語とは全然違う成り立ちなんじゃないか、とは思う。

このあいだ小栗康平『映画を見る眼』を読んだら、言葉に文法や辞書があるのと比較して、こう述べていた。

《映像表現に、文法といえるだけの、強い縛りをもった規範はありません。ないことで、映像は論理的な叙述から逃れている、だから豊かだ、そうもいえるかもしれません。しかし明らかに映像を支えている考え方はあるはずで、ただそれが、誰でもああそうかと思えるようには、成分化はできないのです。》

こういう話をめぐっては、蓮實重彦『監督 小津安二郎』が実に鋭いところを突いている。ちょっとこの際 引用。

《あらゆる映画の画面は、移動撮影によるものか、パン、すなわちキャメラを水平に軸回転させるか、ティルト、つまりそれを上下に軸回転させるか、固定ショットによるものか、いずれにせよ、その四つしか存在しないのである。(‥)しかも映画は、被写体そのものの性格によっても、また題材や物語という点からしても、援用された手段を絶対的に正当化する理由をいささかも持ってはいない。また、それぞれの手段によって撮影された画面をつなぎあわせてゆくとき、その編集が従うべき絶対的な原理というものは存在しない。だから、「映画には文法がないのだと思う」という小津安二郎の発言は、ひたすらにロー・アングルの固定画面に執着した監督の自己弁明ではなく、一つの映画的な真実に触れる言葉だと解釈されねばならない。(‥)映画にはあ、言語使用に際してその発話や解読を規制する絶対的な秩序としての文法にあたるものは存在しないし、またしえないのである。》

《映画には、可能なことと不可能なことがある。被写体に向けられたキャメラのとりうる態度が三つに限られていたように、被写体もまた決して無限にあるわけではない。外界の諸事象はすべて可視的なものとは限られていないからである。たとえば風。(‥)あといくらも存在するだろうそうした不可視の対象のなかで、映画そのものにもっとも深いかかわりを持つものは視線である。瞳ならたやすくフィルムにあさめうる映画も、視線に対してはまったくの無力を告白するしかないのだ。瞳を鮮明なイメージとして画面に定着しえながら、視線は絶対に撮ることができないという点に、映画がかかえこんだ最大の逆説がある。そして小津安二郎は、ひたすらその逆説のみにこだわり続けた作家である。》

《あらゆる作品は、映画が条件として背負い込んでいる絶対的な不自由から目をそらせようとするための、一時的な気休めにすぎなくなる。観客を退屈させることのない作品のほとんどは、存在しないはずの文法に従っているかに撮られた、不自由な映画なのである。また、もっとも自由な映画とは、戦略的に不自由に徹することで、映画自身の限界をきわだたせうるような作品ということになるだろう。そうした意味で、小津安二郎は、この上なく自由な作家の一人だといわねばなるまい。》


問い:この文章は論理的か物語的か。

問い:「可能なことと不可能なことがある」のがつまり論理や文法というものではないのだろうか。


映画をみる眼 ASIN:4140810513

監督 小津安二郎 ASIN:4480873414

quarante_ansquarante_ans 2006/09/17 00:28 こんばんは、今回も興味深く読ませていただきました。
そう、「物語」以外に、「論理」や「文法」もよく考えるテーマです。いずれもその指し示すところが曖昧であるだけに、なかなか答らしきものが得られないのが共通点です。もっとも、答えは求めてはいて見つかることなど期待していませんが。
引用では、とくに小栗発言の「映像表現に、文法といえるだけの、強い縛りをもった規範はありません」という部分に考えさせられました。私としては、たとえば音楽でドミナントコードの後にトニックに戻りたくなるような、「そうでないとぎくしゃくした感じ」はあると思っていたので。そういう感じを、ぎくしゃくどころか、むしろドーンと静謐な映像の中に溶け込ませるのが、小津作品だとも思います。
今回の記事を読んで、フーコーのディスコース、ずいぶん前の「朝まで生テレビ」での西部邁氏による池田晶子晶子氏への発言、大島弓子のカット割などいろいろ考えさせてもらいました。ありがとうございます。そうしたことについては、時間のある時に自分でも書いてみたいと思います。

「問い」への私の答え
1.文中の「逆に」からすればやはり「物語的」でしょう。私にとって純粋に「論理的」というのは、「あの人はB型だから自己中心的だ」というように真偽に関係ないものではあります。
2.なるほど、おもしろいと思いますが、文法の方がずいぶん柔軟で、境界が曖昧だとは思います。
(hatena に登録したので「カロンタンのエサ係」から名前が変わりました)

tokyocattokyocat 2006/09/18 09:48 話が飛びすぎて失礼しました。映像に文法がないというのは、言語の文法との比較というより、映像だけの特異な条件(言語文法との比較に収まらない特異な条件)がある、ということが重点なんでしょうね。とりわけ映画の製作現場における物理的条件でしょうか。小栗さんの本も蓮実さんの本もそんなふうだったと思います。さてそれで、ドミナント(G7)からトニック(C)に戻りたくなるというのは、(そういうモードでない音楽はあるにせよそういうモードをとるかぎりは)たしかに不動で、こっちはまさに音楽だけに特異な条件というかんじですよね。こんなに絶対的な条件は文章にも映像にもないかも。ちなみに、ドミソの和音のミを半音下げると、今の私たちはたいてい「悲しく」感じますが、このように音響が心理に変わるのは何故なのか、もしこれが普遍的でなく歴史的地理的なものならいつからどこからそうなったのか、そんなことにもずっと首をひねっています。というわけで、hatenaでもどうぞよろしくお願いします。