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【2019 輪廻転生】

論理学 知らずに死ぬのか


もし、それがそもそも「勝ち負けのあるスポーツである」ことを知らずにサッカーを見ていたら、「これ何? みんな何してるわけ?」となるだろう。もちろんサッカーをそこまで知らない人は少ない。ところが、じゃあ論理学は何をしているのかというと、一般的にそれくらい知られていないのが実状ではなかろうか。

というわけで、野矢茂樹の新刊『入門! 論理学』(中公新書) の出番。
asin:4121018621

私は野矢さんの『論理学』(asin:4130120530) も何度か読んだ。こちらは《筋金入りの素人》を目指すという触れ込みだから本格的入門書といえる。そのくせ語りの趣向と口調はかぎりなくチャーミングに凝っているので十分親しみやすい。常にそばに置きたい一冊。とはいえ入門書といえど本格的ではあるわけで、当然ところどころ理解できず息切れし飛ばし読みせざるをえない。ところが今回の『入門! 論理学』は、ポイントを絞りに絞ってくれたおかげで最初から最後まで完全にのみこめた。これはけっこう大事なことで、論理学(命題論理と述語論理)という土地のかなり大まかだがとにかく全体の風景が初めて眺められた気がするのだ。でもそれはやっぱり『論理学』の下地があったおかげなのか。あるいは、実は『論理学』で分かったことをすっかり忘れていて、『入門! 論理学』でまた同じことが分かっただけ、というなんとも無駄な人生の歩みを窺わせもする。ともあれ結局、『論理学』→『入門! 論理学』→もう一度『論理学』、の順序で読むのが正解なのだろう。論理を記号で表わすやり方も『入門! 論理学』では省かれているが、あのエレガントさに触れずじまいでいるのも惜しい。

私が眺めたというその「全体の風景」について、一応自分の言い方でまとめておくと。

我々が使っている思考や言語はいろいろなものに支えられている。支えている重要なひとつに論理がある。論理とは理屈をいうときの骨組みといっていい。で、思考や言語のなかからその理屈の骨組みだけを取り出すと、それは必ずある一定の造りをしている。また一定のメンバー(骨)がいる。その造りとメンバーを完全に把握しようというのが論理学だろう。そこまでは分かっていた。で、今回の本で、「命題論理」と「述語論理」という論理の基礎について、その造りとメンバーの正体や役目が、とうとうピタっとジグソーパズルのごとく枠にはまった。そんな実感が得られたのだ。といっても、論理の基礎を成すピースの数は案外少なくてびっくりだねという実感とともにである。(おいおい、今までそんなことすら把握していなかったのか、ということにもなるが)


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論理学をめぐって私がどうしても深く知りたいことは何なのだろう。それもまたこういう本を読むたびに、ますますはっきりしてくる。

1つはやっぱり不完全性定理だ。というか「数学は論理だけでは記述できない」ということの真の意味あい。この件についてもこの本は、あっさりであるがゆえにきわめてすっきりした指摘をしてくれて、今までになく大いにうなずけた。

《述語論理というのは、数学にギリギリまで接近した、論理学の手一杯のところまで来ているものと言えるのです。別の言い方をするならば、数学、少なくとも自然数論が必要とする論理は、私たちがここまでみてきた述語論理で十分まかなえるということです。その述語論理が完全で、数学は不完全だというのですから、私たちはここで完全な公理系が作れる、その境目にたっていることになります。》

そうか、述語論理とは行くところまで行き着いた体系なのか。

《命題論理にかぎらず、論理学の体系は基本的に完全な公理系を作ることができます。このことを考えると、数学の世界というのは、公理系という整理された体系に収まりきれないほどの豊かさをやっぱりもっているのだなあと、しみじみ思ってしまうのでした。》

いやまったく、数っていったい何だろうねと思ってしまうのでした。そして、こういうリアクションが私たち読者となんだか同じ口調であるところに、野矢さんという人の独特の魅力があり、しかも、もしかして論理の面白さの核心をめぐって野矢さんと私は今ここでホントに共感できたのかも、とまで思わせてくれて、うれしい。

さて、論理ということで個人的にどうしても知りたいことのもう一つ。それは‥。

たとえば「雨降りなら月は見えない。きょうは雨降りだ。だからきょうは月は見えない」。これは実際の経験として正しいが、それ以上に、<「AならばBである」かつ「Aである」、したがって「Bである」>というそもそも絶対に揺るがない論理に裏打ちされているのだ、というふうに我々は考える。そう考えざるをえない。そして私が知りたいのは、この<「AならばBである」かつ「Aである」、したがって「Bである」>に代表されるような、もうこれ以上理由を説明しようがない決まり事は、じゃあいったい何に由来しているのかということだ。言い換えれば、こうした決まり事はこの世界(この宇宙)では普遍的なのか、もっといえばこの世界(この宇宙)を超えても普遍的なのか、という問いだ。

さっきの「自然数論は述語論理より豊かな世界である」ということの意味は、私があまり知らないだけで、詳しく知っている人は山ほどいると思われる。ところが、この<「AならばBである」かつ「Aである」、したがって「Bである」>などの決まり事がどこに由来するのかは、私が知らないだけでなく、誰ひとり知っていないように思われる。

それは問いが間違っている、ということはありえるだろう。それは問うだけ無駄だよ、ということはもっとありえるだろう。それでも、その問いは「死んだらどうなるんだ」とか「宇宙の果ての外はどうなっているんだ」という問いに似て、分かりかねるが問わずにいられない問いではあるのだと、私は思う。

この問いのアレンジ。地球外に知的生命が存在したら、彼らもまた上にあげたような論理の決まり事に我々と同じくどうしても縛られざるをえないのか。そして、そうした決まり事を我々と同じような命題論理や述語論理として整備することになるのか。

本の感想がどんどん広がって、過去に考えたことに近づいてきた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050820#p1 私にとって「論理はどこにある?」は「数はどこにある?」と、今のところほとんど同じ問いのようだ。


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おまけ。排中律=Aまたは(Aではない)=を認めない立場の論理体系があることは知られている。それにからんで、野矢さんはこの本で、排中律に当てはまらないかもしれない日常の例として、ちょっと面白いものを挙げていた。それは「彼は勇気があるか、勇気がないか、どちらかだ」というもの。彼が勇気を試されるような場面に一度も遭遇せずに死んだ場合、どちらともいえないのではないかというのだ。

おまけのおまけ。森永または(森永ではない)http://www.morinaga.co.jp/hi-chew/


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▼重要な追記(2013/09/15):上に《述語論理が完全で、数学は不完全》という引用があるが、述語論理の「完全/不完全」とゲーデル不完全性定理の「完全/不完全」は別のことを示しているため、両者を比べるのはナンセンスであるようだ。ブルーバックスの『ゲーデル不完全性定理』(吉永良正)も両者を混同していると言う。http://taurus.ics.nara-wu.ac.jp/staff/kamo/shohyo/logic-2.html

以下も同趣旨のことを指摘している。
http://www.shayashi.jp/HistoryOfFOM/Books/books.html