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【2019 輪廻転生】

小説の人間原理 〜 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」


高橋源一郎のインタビュー(文藝06年夏号 聞き手=柴田元幸)に関して、もう少し。

インタビューの最後のほうで、高橋源一郎は、「近代文学あるいは小説が終った後には何が来るのか」という問いを発端にして、小説というジャンル自体への無条件の信頼を改めて表明している。

小説というものは、言語芸術におけるいちばん新しい存在、ニューフェースですよね。だから、言語を使った、何か新しい芸術形式が生まれ、それが新しいジャンルとして成立し、みんないいということになって、小説がお役御免になっても、それはそれでいいんじゃないかというふうに思うんです。しかし、そのようなジャンルXの存在を僕は想像できません。なぜなら「小説」というものの最大の特徴は「人間」が、そこに登場することで、そして「小説」以上に「人間」というものを説明できる手段を我々は持っていないからです

…小説は、等身大の人間が出てきて何かを行なうという形の言語表現なんです。これが存在価値を失い、消滅して、この世界の中で全く意味を失うとは、僕には思えないのです。(…)我々の中に「本当のものはどこにあるか」とか「生きているとは何か」とか、なにより「人間とは何か」という問いがある限りは小説はある。それに答えられる芸術形式こそ小説なのだ、と僕は考えます。そういう問いがもしなくなったらなくなったで、それはけっこうです。(…)誰も「本当のものはどこにあるのか」という問いを発さなくなったら、小説は滅びるだろうし、それよりも小説は潔く去るべきだろうと思います


 (1)

これらを読んだとき私は、ちょっと人間原理っぽい、と思った。

人間原理」とは、「なぜ宇宙はこのような姿をしているのか。それは人間が存在しているからだ」とする考え方のこと。宇宙が人間のために作られたと信じるのではない。人間が誕生するには、宇宙は現在ある法則や組成でなければならなかったという理屈だ。宇宙が今と違っていたら、星々も生命も、まして哲学や科学を営む人間など現れようがない。言い換えれば、いかなる宇宙であれ、そこに人間みたいなやつがいたなら、そいつが活動する宇宙、そいつが観測する宇宙は、必ずや我々の宇宙に似ているはず、というわけ。

以下は理屈上の展開であり、インタビューを直接受けたものではないが。

小説がこうなっているのは、人間がこうなっているからだ。小説みたいなものが存在しているかぎり、そこには人間みたいなもの、すなわち「本当とは何か」「人生とは何か」「人間とは何か」と問うようなものが存在しているはずだ。人間がそうした精神をもたなかったなら、小説という表現は生まれようがない。人間という精神の存在が、小説という表現の存在を支えている。あるいは、小説という表現の存在が、人間という精神の存在を裏付けている。小説論における人間原理、もしくは、人間論における小説原理。

少し角度を変えて。どのような宇宙であれ、そこに生命や意識が生まれるとしたら、それは必ず人間と同じ形式の生命や意識になるのではないか。そんなふうに考えることが私はたまにある。そのアナロジーでいくと、どのような精神であれ、そこに表現が生まれるとしたら、それは必ず小説と同じ形式の表現になるのではないか。

さあ、どうなのだろう。

実をいうと、「小説」の代わりに「絵画」や「音楽」でも、あるいは「詩」でも、この理屈は成立するような気がしてくる。まあ、小説が言語であることや、詩とは違って特有の冗長さや融通性を持つことが、ここではポイントなのかもしれない。


 (2)

我々が人間であるかぎり小説は存在する。高橋源一郎の思いをこうまとめるなら、きわめて純真にみえる。「いやまったくそのとおり」と胸を熱くする人もいるだろう。しかし、「いつまでそんなこと言ってるんだ」とせせら笑う人もいるのではないか。「小説が潔く去るべき」ときが本当に来てしまったということはないのか。

(ちなみに、新奇や逸脱の代名詞であるかのごとき高橋源一郎が、「実は最も文壇的」と評されることもあるのは、おそらくこのことがいくらかは関係すると思う)

とりわけ今、小説の根拠に「人間」を置くなどということが、なにしろナイーブに聞こえるのは、やっぱりその「人間」という根拠自体が崩れつつあるせいだろう。東浩紀の「動物化」という洞察などが誰しも思い浮かぶはず。

(参考。こんなのがあった。http://www.hirokiazuma.com/texts/dobutsuka.html

ゲームやアニメの感覚に近いライトノベルが若い世代に特化して浸透していることは、当然この状況と関係が深いと思われる。とりわけ雑誌『ファウスト』の創刊(asin:4061795538)は、日本文学の嫡子とみなさるような作品とのいわば断絶を、否応なくイメージさせた。

…といかにも詳しそうに書いているが、私はあまり読んでいない。だから仮の話なのだが、ここには、「小説の根拠でもあった人間という要件が失われたところで書かれる小説=動物化する小説」といった図式が浮上するかもしれない。個人的にはそうした関心から読んでみたかった作家に、佐藤友哉がいる。


 (3)

その佐藤友哉の書き下ろし「1000の小説とバックベアード」が、『新潮』12月号に一挙掲載されていたのを、読んだ。(asin:B000JSDMW6

そうしたら意外や意外、上に引用した高橋源一郎の思いがそのまま溢れてくるような創作物だった。というか、これははっきり『日本文学盛衰史』(ASIN:4062747812)への共感をあらわにして書いたものではないか。語り手は自らを石川啄木になぞらえもする。「日本文学」と呼ばれる生き霊のごとき存在も出てくる。

冒頭、本棚に並ぶ古今東西の文学作品のタイトルがずらずら列記される。やはりこれは、文学とは今や出るものは出尽くし行き着くところにも行き着いて、あとはまさにデータベースとして好き勝手に取捨選択すればいい、といった冷めた境地に通じるのだろうか、などと思った。ところが先を読んでいくと、むしろ逆。そうした膨大な集積のなかには、永久不滅の1000の小説があって文学のいしずえを成しているのだよ、というような話になる。そして語り手である僕は、その文学の正統を鑑として自らも小説を書いていこうと決意を固めるのだ。小説を志す若者が冒険と遭遇の遍歴によって一人前になっていく、ビルドゥングスロマン教養小説)とも言える。

というわけで、「動物化する小説」という勝手な図式がそううまいこと当てはまる作品ではなさそうだ(そういう作品もどこかに本当にあるのだろうとは思うが)。べつに、新潮が「今年102年目の文芸誌」だから、敬虔な文学信徒のふりをしてみました、というわけでもないだろう。この小説の語り手であり書き手ともいえる「僕」の、小説に対する信頼と肯定は、高橋源一郎も顔負けのものだが、けっこう本音なのではという感じがする。

では、佐藤友哉高橋源一郎は似ているのだろうか。どこが似ているのだろう。そう問うこともできるが、今それはうまく考えられない。動物化ライトノベルスの関係についても、またいずれ。

ただ素朴に思うこと。「1000の小説とバックベアード」のテーマというなら「小説って何だろう」だった。我々は小説についてずっと考え続けていると、どうしたって小説というものを強く信じるようになってしまう、とは言えるのではないか。小説について考え続けたあげく、小説が心底イヤになった、全面否定して捨ててしまった、という内容の作品もあるのだろうか。それこそ「文学のコード」を否定しようとする人はいても、文学それ自体を本当に否定している人は小説など最初から書かないのではないか。ちょっとまた人間原理っぽくなった。中原昌也はどうなんだろう。

さて、そういう図式はさておき、「1000の小説とバックベアード」は、なにかと気が利き、気を引く、ナイスな小説だった。啄木の歌をアレンジした「友がみな僕よりえらく見える日は 刃物を振るいて お前らザクザク」も好かった。よく知らないけど、佐藤友哉っぽさというのがこういう口調に象徴されているのかも。


 *


◎追記:1000の小説とバックベアードはのち出版されている。
 1000の小説とバックベアード 1000の小説とバックベアード (新潮文庫)


◎おまけ:高橋源一郎日本文学盛衰史』については、
     読書しながら章ごとに書いた詳しい感想あります。
     → http://www.mayq.net/nihonbungaku0.html