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2007-04-29

大河エッセイ「私たち人類は本当に遠くまで来たね」


●人類のはじまり

たとえば『人類進化の700万年』(asin:4061498053)は、このテーマの最新重点をきれいにまとめた一冊。新聞記者が書いたせいか、とても分かりやすい。ホモ・サピエンスはいつ誕生したのか、いわゆる猿人・原人・旧人との関係など、さっと一望できて楽しい。

人類。その呼び名は直立二足歩行などを始めた段階から当てはめるらしい。その最古の化石(猿人)が今では700万年前にさかのぼる。それらは生物ゆえに進化と分岐を繰り返し、原人や旧人と呼ばれる段階に達する。私たちホモ・サピエンスはさらに新しい一種として、20〜15万年前のアフリカに出現した。現在の人間はみなその子孫だ。しかもホモ・サピエンスが初めてアフリカを出たのはほんの7〜6万年前。したがって、それより古い時代にユーラシアにいた北京原人やジャワ原人、ネアンデルタール人(旧人)などはホモ・サピエンスの直接の祖先ではありえず、すべて死に絶えたことになる。ただ、ネアンデルタール人は4〜3万年前にホモ・サピエンスと共存していたことも知られている。これらが基本の見取り図になろうか。こういうのは、たとえば、鎌倉幕府がいつ出来たかとか、信玄と謙信はどこで戦ったかというくらい、このまま常備すべき知識なのかもしれない。

(なお、ホモ・サピエンスの誕生や出アフリカの年代は、古い人類の化石ではなく今はむしろ現代人どうしのDNA比較から算出する。参考→篠田謙一『日本人になった祖先たち——DNAから解明するその多元的構造』asin:414091078X


●道具と言語のはじまり

で、改めて「う〜む」と思いめぐらせたことがある。

人類が石器の作製を始めたのは250万年前らしい。でもそのころ言語はまだなかったようだ。

では、言語はいつ身についたのだろう。そもそも言語能力はホモ・サピエンスだけとされている。だがその開始時期を化石からつきとめるは難しく、同書も確定はしていない。ただし、ある観点から7万5千年前とみなすことができるという。

南アフリカのブロンボス洞窟。この7万5千年前の地層から出土した、ある遺物がその根拠になっている。ギザギザの模様が刻まれた土片、そして、穴のあいたいくつかの貝殻だ。模様を描くという行為は、シンボルすなわち抽象化の能力を示すと推測される。また貝殻はネックレスにしたのではないかという。要するに、これが芸術や装飾といった人間ならでは精神の芽生えではないかというのだ。今世紀になってからの発見で、今も議論が続いている。これは言語の証拠と言うほどではないものの、人間性の起源=言語の起源という捉え方ができるわけだ。

ともあれ、言語は使わないが道具は使った人類がいたかもしれない。私たちホモ・サピエンスの祖先ですら、石を叩いたり尖らせたりといったことを、言葉を交わすことなく黙々と行ったり伝えていたりしていた時期があったかもしれないのだ。なんとなく不思議な気がしないだろうか。

動物は、個体がなにか新しい知恵を得ても言語がないから仲間や子孫に伝えるのは難しい、いやそうでもないのか、といった大きな問題に通じてくる。チンパンジーなどの類人猿はどうだっけと思っていたら、ちょうど『日経サイエンス別冊/社会性と知能の進化』に面白いトピックが載っていた。サイトから引用すると——

《チンパンジーやゴリラは野生でも飼育下でも,上手に道具を使うことが以前から知られていた。しかし野生のオランウータンで道具の使用が発見されたのは最近のことだ。「オランウータンの道具の文化が示す知能の進化」は,小枝を使って果実を食べたりシロアリ釣りをするといった行動が,群れの文化として伝えられている様子を報告する》。

http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/sci_book/bessatsu/51155/51155-maegaki.html

ヒト以外でも遺伝子の進化によらない文化的な進化(進歩)がありうるという話なので、すごいことだと思う。記事には、そのオランウータンや小枝や果実のカラー写真も載っている。

ということで、このオランウータンは言語なしで道具を使う。それが群れに伝わってもいる。同じく、原人やネアンデルタールあるいは初期のホモ・サピエンスに、「言語なし・道具あり」の生活があっても不思議はないのだろう。というか、初めて石器を使ったころの人類というのは、今の私たちがみたら、もしかして今の私たちより、今のオランウータンに似ていると感じるのかもしれない。


●言語発生は一回だけ?

さらに思いはめぐって、ふとまた素朴な疑問が浮かんだ。

ホモ・サピエンスは15〜20年前にアフリカで誕生した。そして言語を7.5万年前ごろには身につけていたとしよう。では、アフリカから世界各地に拡散したのは、言語を使い出す前だったのか後だったのか。どっちだ。言語を使い出す前だったとしたら、言語の発生は、世界の複数の場所で平行して起こったとも考えられる。言語などという高度な知能への進化は、地球上で一度だけ奇跡的に起こったにちがいないと、なんとなく思っているが、そうでもないのだろうか。無数にある言語も、もしかしたら起源は一つではないなんてことが、あったりするのだろうか。

『人類進化の700万年』にそのような問いはない。ただ、ホモ・サピエンスが各大陸に進出した時期が地図になって掲載されている。それを見るかぎり7.5万年より前ではない。たとえばアメリカ大陸に移動したのは1.4〜1.2万年前とある。だから、7.5万年前にアフリカで言語を身につけ、それから世界に広がったというシナリオはおかしくはない。ちなみに、オーストラリアには7〜5万年前というけっこう早い時期に移り住んでいる。原始的な舟で渡ったのだろうか(この時期の陸地は現在より広かったが完全に陸続きでもなかったようだ)。ということは、仮にその段階で言語がなかったら、その人たちは言語もなしに舟を作り、しかも言語もなしに海を進んでどこかへ向かったということになる。やっぱりそんな仮説はありえないのか。全体にこうした研究を知らないので、なんともいえない。(ちなみに拡散の時期について、最近のDNA研究はこれとは少し異なる年代を示している)


●文字のはじまり

さてさて、そのようにアフリカを出て、意外にもごく最近やっと全大陸に足を踏み入れたホモ・サピエンスは、これまた逆に意外だが、その後はあれよあれよという間に、農耕を開始し都市を建設してしまうわけだ。農業は1万年前、メソポタミア文明は5千5百年前に始まる。しかもメソポタミアではその5千5百年前に、文字まで作ってしまう。

ということで、ここでまたハタと考える。言語自体はともかく、文字の起源は世界でただ一つなんてことはないよな、と。各地でいくつも発明されているに違いないよな、と。

これについては、かの『銃・病原菌・鉄』(asin:4794210051) 下巻が論じている。それによれば、これまたけっこう意外なことに、文字がまったく独自の発想で発明された事例はじつに少ないみたいだ。メソポタミアの粘土に刻まれた世界初の文字システムは、その発想または字形がエジプトに伝わったはずと、著者ジャレド・ダイヤモンドは考える。アルファベットの元であるフェニキア文字もそこに由来するだろうと。では、中国の甲骨文字やインダス文字はどうかというと、メソポタミアから伝わったという証拠はない。ところがメソポタミアから伝わらなかったと断じる理由もないのだという。では確実に異なる文字システムは他に存在しなかったのか。たった一つ、マヤ文明の文字だけはユーラシアとの接触なしに別個に考案されたものだと、ダイアモンドは推測している。(ただし、同書とは異なる見解もあるようだ)


●言語→文字なのか

ところで踏まえておくべきは、古代文明の段階では、文字システムといっても、現在の私たちが使っているような整理された規則性や複雑な表現力は、ほとんどなかったらしいということだ。

さらに。もっとずっと大昔。せいぜい石器くらいの道具しかない人がいた。その人の頭に初めて言語みたいなものがもやもやと渦巻いた。その最初の言語にも、そうした規則性や表現力などは、もちろん見る影もなかっただろう。

そこで私はまた思う。その言語みたいなものが頭にもやもやと渦巻いたのと同じころ、その印となるような線や形が、地面や壁にもやもやと描かれたような形跡はないのだろうか。つまり、言語と文字の開始が同時であったり、あるいは順序が逆であったりした可能性だ。そうなると、7.5万年前のあのギザギザ模様だが、原始的な文字として使われていた、なんてことはないのだろうか。(ちなみに人類最古の壁画は3.2万年前)

脳と言語は共進化した(相互に改良を促した)とよく言われる。言語と文字もたぶんそうだろう。言語は文字を伴ってこそそのシステムとパワーが一気にアップすると思われる。また言語が高度化することで文字も機能的になるだろう。それがもっと古い時代から起こっていたとは考えられないか。つまり石器くらいは使っていた人類が、最も単純な声の言語を発したのと同時期に、最も単純な絵の言語を描いていたとしても、べつに不思議はない気がしてくるのだ。

これらは私の勝手な空想にすぎないわけだが、これをめぐる考察や定説はどうなっているのだろう。言語は文字の発生を必然的にもたらすとみるのかどうかも気になる。非常に興味がわいてきた。


●人類の曲がり角

私たちは本当に遠くまで来た。

常識的に「道具→言語→文字」を次々に作ってきたとしよう。この道程で、人間として最も本質的な進化はどれだったのか。それは言い換えれば、「道具を使い出した人」「言語も使い出した人」「文字も使い出した人」「道具も言語も文字も使いまくりの現代人」それぞれが、それぞれの世界をどう生きているか、どう眺めているか、その共感はどこで一番大きく断絶するのか、と考えてみることだ。やはり言語だろうか。それとも実は文字だろうか。

世紀の変わり目に「人類最大の発明は何か」という問いが話題になった。印刷術と答える人が多かった。やや飛躍するが、印刷と書物というシステムは、現在の人間の活動や精神にとって、言語や文字の発生それ自体を超えるほどの変革や衝撃だったと、捉えていいのかもしれない。

そんなわけで、また毎度のごとき結論に近づいていくのだが、パソコンやインターネットによる知能・知識の形態変貌は、印刷術をさらに上回る激震だとみなすこともまた可能だろう。Googleなしの生活なんて考えられない。web2.0という概念を、猿人や原人が理解することは無理だ。だがそれと同じくらい、メソポタミアの人も、グーテンベルクも、いや20世紀半ばごろの人ですら、なかなかそれは理解しがたいのではないか。


*以下参考リンク

金子亨「言語の起源」(未読)http://www.ne.jp/asahi/kaneko-tohru/languages-nowar/newpage15.htm

人類史上、最高の発明品は? http://q.hatena.ne.jp/1072446742

昔読んだ『銃・病原菌・鉄』 http://www.mayq.net/juu.html


***


(追記 5.2)

*いろいろコメントいただいたので、便乗して追記。

■都市に棲む山姥 さん

たびたび失礼します。文字を持たないで続いてきた民族もあります。今は、文字が声に優先してみられがちだから、それゆえに絵、文様、文字としてとばしてゆけるものの。それと聴こえず話せないひと、見えないひとの協力をえて、言葉の研究をしたら、学説とは異なる融通無碍な言葉の発生がと思いながら赤ちゃんと、思いつきました。赤ん坊は全ての音を聴き分けられるようなので、そこから目の前の対象と動きについての言葉へいたる統合が、ホモサピエンス以前にありえた言葉めいて思え、それから道具、表象としての言葉が統合されてくるあたりで、絵が文様化するという気がしたり、このあたり結論を結ばず考えてゆくと面白いですね。

■tokyocat さん

私たちは全員、赤ん坊のときに言葉のない世界を間違いなく生きていたのだと思うと、感慨深いですよね。

「言語→文字」(言語が生じれば文字も生じる)が「必然か」と考えるのですが、おしゃるとおり文字をもたない言語が存在するので、「必然ではない」のかもしれません。では、「言語が生じた惑星であれば、文字も生じる」が「必然か」という問いならどうでしょう。少なくとも地球には言語が生じ文字も生じました。サンプルが地球1個なので、「必然かどうかまったく分からない」とも言えそうですが、「100%必然」である可能性も消えません。そしてもちろん、「知能→言語」が必然かどうかは、それにも増して興味があります。その場合、猫やミミズやオケラやアメンボは、「知能はないし言語もない」とみなすのか、「知能はあるが言語はない」とみなすのか、そこが難しい(かつ面白い)ところですね。

■えのきさん

言葉なしで石器を作ったという事実は少し驚きです。「石を加工して鋭くすると狩に役立つ」ということは立派な「論理」だと思うのですが…これを言葉なしにどう着想し得たのか、そのときの彼らの頭の中にはどのような感覚が走っていたのか、非常に興味があります。もしかして音声以外のシンボルを用いたとは考えられないのでしょうか??

■tokyocat さん

エントリーに引いたオランウータンの例は、言語なしに道具を作り使い伝えることができた、ということなので、このオランウータンの気持ちになれば、初期人類の頭のなかの感覚も少し分かるのかもしれません。ただまあ、言語が本当にいつごろ生まれたかは、ほとんどはっきりしていないんだと思います。

■monopsy さん

そうそう、突然すみませんがえのきさんの投稿 >音声以外のシンボル については以前から興味深く感じてました。言語というのは必ず発声しなければならないのかなと。音声によらない言語というのも実は人間が知らないだけで動物もバシバシつかってるかもしれません。古代の人間がその能力をもちあわせていたかもしれないと考えたこともあります。ないとはいえないのなら「ある」と考えてもいいのかと。そんな妄想が発生したきっかけは龍村仁さんのガイアシンフォニーという書籍に登場する象の記事を読んでからです。ゾウさんは何かしらの信号?を使っているようです。

■tokyocat さん

動物もときどき信号のようなものは使うんでしょうね。人間の言語ほど複雑なものは見つかっていないだけで。ただ、人間には理解不能な複雑さをもつような言語を動物が使っていたとしても、人間にはそれが言語であるとは気づけないかもしれません。そうすると、そもそも「人間の言語と仕組みがまったく異なる言語なんてありうるのか」という問いが浮かんできます。これはどうなのか、正直わかりません。これと似ているのが「人間の数学や論理と仕組みがまったく異なる数学や論理なんてありうるのか」という問いなんですが、これについては「そんなものはないのかも」と、私はときどき思うのです。

*発見:自分に「さん」をつけると、日本語の下手な外人みたいで、ちょっと可笑しい。



***


(ふたたび追記 5.8)

■amafuba さん

先日の山姥です。 蜜蜂や蟻の巣とか生態を観察すると、人間が数学とか理科(科学とまでいうと私わからないので)として体系づけるなにかと同じようなはたらきをもっているような気がして、伝達する術も備わっているような。

このあたり、私には今のひとが使っている言葉のありかたによって、見えづらく聞きづらく話づらくなっているけれど、そっとゆっくり考えてみたら解けてゆきそうな謎に思えて興味はつきません。

■tokyocat

人間は特別な教育を受けなくても「話す」ようになりますが、特別な教育を受けないと「ピアノを弾く」ようにはならないでしょう。では、同じく「数える」ようにはなるんでしょうかねえ。どう思います。 

また、たとえば象は特別な教育を受けなくても「鼻で水をくむ」ようになりますが、同じく「話す」ようにはなりません。では「数える」ようにはなるんでしょうか。

私は、他の生物が「人間とは違ったやり方で数える」ことはありえる、と思います。…あれ、上記(言語の仕組みは一つではないが、数学は仕組みは一つだけ)とは違った結論になってしまったか。

では、以下のようにまとめてみます。——他の生物が、人間の言語に翻訳できない言語を使うことがあっても、人間の数学に翻訳できない数学を使うことはない。もし他の生物が数学を使うなら、それは必ず人間の数学に翻訳できる——。

どういうことをイメージしているかというと。

たとえば、落ちてくるボールを人間が正しく受けとめるとき、脳はなにか計算しているはずです。他の生物が似たことをするときも、その脳はやはりなんらかの計算をしているでしょう。このとき、人間の脳の計算を抽象化すると、ある数学(y=xの2乗)になります。他の生物の脳の計算を抽象化しても、やはりある数学になるでしょう。そして、その2つの数学は「必ず翻訳可能にちがいない」という気がするのです。

一方、言語はどうでしょうか。人間の各言語はみな互いに翻訳できると思われます。ところが、もし他の生物が、人間の言語とはまったく違った仕組みで、ものごとを整理したり理解したり伝達したり共感したりしているとしましょう。その場合、それをその生物の言語と呼んでいいかもしれません。しかし、その言語は人間の言語に「必ずしも翻訳可能ではない」という気がするのです。

というわけで、人間のこの言語は普遍ではないが、人間のこの数学は普遍だ、ということになります。……毎度たいして根拠のない直感にすぎませんので、よろしく。

*追記5.15 象は「話さない」ともかぎらないらしい。なんか低周波の音でやりとりするようだ。木で鼻をくくったりはしないけど。

都市に棲む山姥都市に棲む山姥 2007/04/29 14:11 たびたび失礼します。
文字を持たないで続いてきた民族もあります。今は、文字が
声に優先してみられがちだから、それゆえに絵、文様、文字としてとばしてゆけるものの。
それと聴こえず話せないひと、見えないひとの協力をえて、言葉の研究をしたら、学説とは異なる融通無碍な言葉の発生
がと思いながら赤ちゃんと、思いつきました。赤ん坊は全ての音を聴き分けられるようなので、そこから目の前の対象
と動きについての言葉へいたる統合が、ホモサピエンス以前
にありえた言葉めいて思え、それから道具、表象としての言葉が統合されてくるあたりで、絵が文様化するという気がしたり、このあたり結論を結ばず考えてゆくと面白いですね。

えのきえのき 2007/04/30 20:00 言葉なしで石器を作ったという事実は少し驚きです。「石を加工して鋭くすると狩に役立つ」ということは立派な「論理」だと思うのですが…これを言葉なしにどう着想し得たのか、そのときの彼らの頭の中にはどのような感覚が走っていたのか、非常に興味があります。もしかして音声以外のシンボルを用いたとは考えられないのでしょうか??

monopsymonopsy 2007/05/01 19:34 そうそう、突然すみませんがえのきさんの投稿
>音声以外のシンボル
については以前から興味深く感じてました。言語というのは必ず発声しなければならないのかなと。音声によらない言語というのも実は人間が知らないだけで動物もバシバシつかってるかもしれません。古代の人間がその能力をもちあわせていたかもしれないと考えたこともあります。ないとはいえないのなら「ある」と考えてもいいのかと。そんな妄想が発生したきっかけは龍村仁さんのガイアシンフォニーという書籍に登場する象の記事を読んでからです。ゾウさんは何かしらの信号?を使っているようです。

tokyocattokyocat 2007/05/02 22:56 遅いレスですが、上にまとめて書きました。

yamafubayamafuba 2007/05/03 12:30 先日の山姥です。 蜜蜂や蟻の巣とか生態を観察すると、人間が数学とか理科(科学とまでいうと私わからないので)として体系づけるなにかと同じようなはたらきをもっているような気がして、伝達する術も備わっているような。
このあたり、私には今のひとが使っている言葉のありかたによって、見えづらく聞きづらく話づらくなっているけれど、そっとゆっくり考えてみたら解けてゆきそうな謎に思えて
興味はつきません。