東京永久観光

【2019 輪廻転生】

梅雨入り記念に一曲いかが


小泉今日子La La La…

まばらにスローに跳ねるこれくらいの雨…もまだ降らないが。

雲にも似たベース音の自在な動きに、堅く細かくささやかに弾けるリズム音や、ぬれる程度のギター音からいくらか大粒のピアノ音に受け継がれるコードストロークが、ぽっつぽっつぴっちぽっつ、みごとに心地よい。「和み系Dub」とAmazon評にあったが、その通りかな。藤原ヒロシ屋敷豪太の作曲編曲。その二人がプロデュースもした『17°』というアルバムから。1990年。当時聴いた。懐かしい。全般にクールでたぶん高度なテクニック。なかで一番気に入ったのがこの「La La La…」で、シングルにもなっている。


降り出した雨に 騒ぐ町
あなたはどこかで 雨やどり
水たまりに映る ぬれたヒール
赤いワンピースも だいなしだわ (作詞 小泉今日子


音楽ってのは今やそこかしこに溢れ飽和するばかりで、出つくした感を持って久しい。だから何を聴いてもいいのだが、むしろ何を聴いていいのやら、困ってしまう。

10代20代で自覚的に聴いたものが、結局その後の守備範囲を決めるのだろうか。

この一曲にしても、小泉今日子藤原ヒロシという固有名やそれに伴う音のイメージが自分の経験世界にちゃんと位置があるから、じゃあまた聴いてみるかという気がいつまでも残るのだ。これが経験的に取りつくタグのないアーティストやジャンルであれば、iTunesでかけてもテレビで見てもほぼ全部同じようにしか響かない。

日本の食は欧米に比べて材料などが幅広いので、おかげで世界を旅して我々がどうにか食べられるものの範囲もかなり広い、みたいな話を聞いたことがある。子どもの頃の食習慣はとても大事で、食わず嫌いがあるとその後の長い人生に影を落とすのだ。今からでもいいから何でも食べるようにしたい、何でも聞くようにしたいのだが。

17° asin:B00005GWSA
La La La… http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A000330/VIDL-10033.html


さてその小泉今日子も今やお母さん役か、と思わせたのが、映画『空中庭園』(2005)。ちなみに『レイクサイド マーダーケース』や『ALWAYS 三丁目の夕日』では薬師丸ひろ子がお母さん役だ。感慨無量。薬師丸の歌についてはまたいずれということで、ここでは以前書いた『空中庭園』のレビューをついでに。

映画『空中庭園』(豊田利晃監督)


板尾創路が真面目な顔して演じているではないか。その一家の現実が繕いようもなく揺らいでいく実感は、今にもそこに松本人志がおかしな格好(たとえば『ごっつええ感じ』の みすず)で登場してきてもおかしくないと思わせる特異さ。でもこの映画はそういうふうにねじれはしない。

ただ、まったく次元の異なるねじれといっていいが、画面がぐるっと回転したりする。それを代表として、通常の映画のセオリーを超えたことがいろいろ起こっていると時々思った。画面の作りがテレビ的というか、いかにも「作ったリアル」なのだ。作り物というのではない。写実的なリアルではなく「テレビ的にリアル」とでも言うか。そうした次元における表現の花が(よい意味で)みごとにいろいろ咲いている。そこにこの監督独自の世界・独自の面白さがあるのだろう。ちょっと寺山修司っぽくもあった。

映画も100年を超える歴史のなかで、もはや当初の形質は断絶している、それは当たり前だろう。そういうことを実感させる映画がこの一作に限らず増えているのかもしれない。だからそのうち、板尾のみならず松本のみすずが本当に出てきてしまう映画も誕生するだろう。

漱石や鴎外の小説と現在のライトノベルとの間に断絶がある、と言われるのと同じこと。ただ私は、20世紀の人間あるいは近代人(を今なお標榜する人間)として、いわゆる古きよき映画、古きよき小説のほうが好きなのだとは思う。 


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小泉今日子がお母さん役。感慨無量。薬師丸ひろ子のお母さん役(『レイクサイド マーザーケース』)と同様に。歴史が長いのは映画だけではない。80年代アイドルだって当然ながらすっかり歴史を自らに刻んでいる。

それと、主要キャストに本業がモデルの者が2人もいる。これまたそういう時代か。

大楠道代もいい。さすがというべきか。


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ところで、この映画の最大の魅力というなら、郊外マンションの風景に他ならない。さらに定番のようにしてショッピングセンター、バスによる通勤通学の光景。観覧車もある。見始めて、ロケ場所は多摩センターか南大沢あたりかと思ったが、一家は町田に住んでいるという設定だ。実際のロケ地もそうなのか。

その郊外の風景といえばホンマタカシ。そのホンマタカシに『東京の子供』という写真集があった。あの写真集の愛らしくもない子供たちがそろそろ中学生くらいになったのが、コウ(一家の長男)ということになるか。


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ところで、一家の長女が自分の出生現場はラブホテル「野猿」であると知らされて、という展開は、なんというか小説の得意分野という感じがした。なぜだろう。こうした展開が結局は言葉さらには言葉の意味自体にこそ力点がある表現だと感じられるのだ。そしてそのような表現ならやっぱり小説でこそ光る気がするのだ。


「何事もつつみ隠さず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合う」というような設定も、小説っぽく感じる。

たとえば『恋風』に言葉はほとんどない。『パリ、テキサス』もわずかの言葉だけが白ける。トラヴィスの元妻(ナスターシャ・キンスキー)への昔語りは、結局言葉に頼って小説っぽく、つまらない。一方だけ透けるガラス越しに後ろ向きで電話するという仕掛けは、映画的といえそうでとても面白いが。最後にトラヴィスが息子にあれこれ言い残すところなども、白ける(とはいえ、あれくらいの台詞が、物語の説明や納得のために、またその場の時間が自然に埋まっていくために、ちょうど必要とされた量や質だったのかもしれない)…話が脱線した。

だからこの展開については角田光代の原作のほうを読んでみたいと思う。


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空中庭園 asin:B000ENUYRC
東京の子供 asin:4898150667 関連 → http://www.mayq.net/junky0201.html#05
パリ、テキサス asin:B000057HM2
恋風 asin:B000K7VIRM