東京永久観光

【2019 輪廻転生】

小説と無小説のあいだ


その本の第1章は 「ヨークアベニュー、66丁目、ニューヨーク」と題されている。それはたとえばこんな風に綴られている。

ニューヨークを訪れる観光客に人気のサークルラインだが、ほとんどの客が気づかずに通りすぎてしまう場所からこの話は始まる。今しばし、映像を逆回しにして、ちょうど砂利を運搬してきた平たい船とすれ違ったあたりに戻っていただきたい。そう、摩天楼見物にちょっと疲れてきた頃に見えた、巨大なつり橋をくぐりぬけた地点である。この橋はクイーンズボローブリッジ。マンハッタン区を、イーストリバーを挟んで東隣のクイーンズ区と結ぶ大橋だ。人を中洲に運ぶロープウェイまで併設している。南から北へ数字が増えて行くマンハッタンの街路でいえば59丁目に架かっているこの橋は、サイモンとガーファンクルの曲にも歌われている。

その気づかずに通りすぎてしまいそうな場所で、語り手は我々を遊覧船から降ろし、赤いレンガの古びたある建物へと連れて行く。そして、そこでかつて苦闘の日々を送り、やがて銅像に、さらに長い時を経て国の最高表象ともいうべき紙幣にまでその表情が刻まれた、ヒデヨ・ノグチの短い物語へといざなう。

これはべつにリチャード・パワーズの新しい小説ではない。

では何だろう。というかいったい何の話なのか。急いではいけない(パワーズの小説もまったく同じ)。語り手の案内は狙いすまして遠回りする。まずそこで野口英世が顕微鏡を通して覗いていたもの。次いでしかしその顕微鏡では見ようとしても見えようのなかったあるもの―ウイルスへと。

科学者は病原体に限らず、細胞一般をウエットで柔らかな、大まかな形はあれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体と捉えている。ところがウイルスは違っていた。それはちょうどエッシャーの描く造形のように、優れて幾何学的な美しさをもっていた。あるものは正二十面体のごとく多角立方体、あるものは繭状のユニットがらせん状に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構成。そして同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていた。そこには大小や個性といった偏差がないのである。なぜか。それはウイルスが、生物ではなく限りなく物質に近い存在だったからである。

ここで我々は、ようやく本題もしくは少なくとも標題の姿がおぼろに見えてきたことを知る。だがまだ先がありそうだ。

しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。》

満を持して主人公の登場だろうか。いやまだ分からない。我々はやっと第3章「フォー・レター・ワード」に足を踏み入れたばかりなのだから。

高橋源一郎パワーズの小説『舞踏会へ向かう三人の農夫』を評して「認識の悦び」と述べた。今ここで歩んでいる物語においても、語り手と読み手を共通して魅了する最大のものというなら、まさにそれだろう。

私の机の上に2冊の本がある。一冊はパワーズの新しい小説『囚人のジレンマ』。そしてもう一冊の名は。福岡伸一生物と無生物のあいだ』。認識のショートトリップはどちらもまだ始まったばかり。

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福岡伸一生物と無生物のあいだ asin:4061498916
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』 asin:4622045176
リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』 asin:4622048183
リチャード・パワーズ囚人のジレンマ asin:4622072963
○過去の感想『舞踏会へ向かう三人の農夫
http://www.mayq.net/junky0101.html#010101
http://www.mayq.net/junky0101.html#010102
http://www.mayq.net/junky0101.html#010103
http://www.mayq.net/junky0101.html#010104
http://www.mayq.net/junky0101.html#010105
http://www.mayq.net/junky0101.html#010329
○過去の感想『ガラテイア2.2
http://www.mayq.net/junky0201.html#27
http://www.mayq.net/junky0201.html#29
http://www.mayq.net/junky0201.html#31
http://www.mayq.net/junky0202.html#03