東京永久観光

【2019 輪廻転生】

写ってしまう眺められてしまう恐ろしさ


多木浩二肖像写真—時代のまなざし』(岩波新書 asin:4004310865)をパラパラと。リチャード・パワーズの小説『舞踏会へ向かう三人の農夫』(asin:4622045176)は、同名の実在写真がモチーフとなって展開していく。その写真家アウグスト・ザンダーのことが書いてあるようなので、手にしてみた次第。まあ「この手の書き物なら私にお任せあれ」とでもいったふうに、サラサラっと書かれた一冊かもしれない。それはそれとして。

見返しにある紹介文。《肖像写真を撮るまなざしの変遷から歴史が見えてくる。ブルジョワ知識人を撮った一九世紀のナダール。さまざまな職業の人間を撮って二〇世紀の全体像を描こうとしたザンダー。被写体にパフォーマンスさせた現代写真家アヴェドン。彼らの肖像写真からは、記述された歴史ではうかがい知ることがなかった人間の変容が浮かび上がる》

人の顔を描写することやそれを眺めることの意味は、じつは時代とともに変動してきた。そのことをいくつか具体的に知らされるわけだ。

肖像画は古くからあったが、非常に高価であったので、ほとんど富裕層に独占されてきた。人びとは自分の祖先の顔を知ることがなかったし、遠くに離れるさいに自分の愛する人の姿を携えることなどできなかった。写真の発明によって状況は一変する。一般の人びとも自分や家族や知人の肖像を手にするようになったのである》(はじめに)

ナダールには、人間を顔の個別性によって区別しようという目標があった。そしてそれは手で描く画像よりも写真によってこそ達成されると考えたかもしれないという。《人間が個々に違った顔をしているのはそのときに始まったことではないが、その差異に意識を集中することは新しいことだったのである

ナダールの時代、肖像写真を受け取った客のなかには「こんな顔はおれの顔じゃない」と怒り出す者もいたという。《すでにおびただしく写真を経験してきたわれわれと、そうでない十九世紀の人間とのあいだには、写真を見る能力に差異があった。さらに十九世紀の人間にも、自分の顔についての認識はあったものの、自分の顔だと思い込んでいるものと現実とはずれているというところまでは自覚していなかった。その隙を写真に突かれると、その写真を自分だとは考えられなくなる。現在では写真がほとんど日常生活の感受性に入り込み、むしろ写真の顔が自分の顔だと思うような反転が生じて、自分はこんな顔をしているのか、情けないな、案外いい顔しているじゃないか、とか受け止めるものである》

さて、19世紀のナダールが当時の支配層にのしあがってきたブルジョアばかりを撮影したのに対し、20世紀のザンダーは無名の無数の人々にカメラを向けた。「舞踏会へ向かう三人の農夫」はその代表作とされている。

《ザンダーの写真は一度見れば忘れられない魅力を持つ》とある。数多く引用されているごく小さな写真をみただけでも、まさにそう感じられる。実際のプリントをぜひとも見てみたい。ではザンダーの写真はなぜ魅力的なのか。それは《新しい社会の諸相に触れている》からだという。《写真のイメージでしかふれえない歴史、理論がどうあれ、それによっては記述されえない歴史に開かれたままなのである》。簡単な言い方だがやっぱりそれはそのとおりなのだろう。写真とは、意図した事実および意図を超えた事実をさまざまに写し込んでしまうものであり、図らずも後からそれらの事実がどんどん読み取れるという体験はじつに面白い。

むかし見た写真集だが、橋口譲二『17歳』とか、土田ヒロミ『ヒロシマ』『砂を数える』といった作品を思い出す。無名個人の集積という点でザンダーっぽいかもしれない。●17歳 asin:404851122X ●ヒロシマ asin:4333011973 http://www.hiromi-t.com/photogragh/hiroshima/hiroshima1945/hirosima_1945.html ●砂を数える asin:4924725080 http://www.hiromi-t.com/photogragh/suna/suna.html

ただし著者はこう言っている。

《普通、歴史は言語によって記述されねばならない。(略)しかし写真におけるまなざしは、記述的な歴史の構成される以前の状態で働いている。これはまなざしだけでなく、日常の習俗としか思われていないものも、いつのまにか歴史を変えていく新しい力になっていることと同様である。(略)写真は論証しないから、記述しえない歴史を語るようになるのである。言葉を換えれば、それは「記述される歴史」の無意識をなしているのである》

しかも興味深いことに、こんなことを漏らして同書は終わる。

《私はこの三人の写真を繰り返し眺め直した。写真というものがどれほど面白いかを感じながら、同時に言語化することは難しいものだと思った》

写真ってよくわからん、言語とは統べ方が違っているからなあ、というようなことだろう。だからこそ、言語で論述される歴史とは別に、写真の統べ方に従って構成された「歴史」があったとしたら、それは想像を超えて奇妙なものなのだろう。…というようなことから、先日「デジタルカメラはいかにしてモノリスたりうるのか」として考えたことを、ちょいとまた思い出した。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070906#p1

そこでも記したが、私は、そもそも写真や映画というものがなかった昔は、世界や自分や人生の見え方は今とは大きく違っていただろう、ということがとても気になるのだ。

その際、写真の歴史をこのように振り返ることは必須だろう。しかしそれ以上に必須なのは、現在の我々にとって写真やビデオの位置や価値は、もはやナダールともザンダーともアヴェドンとも大きく隔たっているかもしれないよ、という視点だと思われる。

たとえば端的なのは、デジカメや携帯写真の撮影や閲覧のあまりの日常化、あるいはビデオに人生のことごとくを記録せねばすまない気持ち。なんでも最近の赤ん坊は最初に歩いた瞬間を必ずビデオに残しておくとか。阿部和重の『シンセミア』や『鏖(みなごろし)』 に描かれたビデオ撮影の生々しさも思い出される。●シンセミア asin:4022643773 ●無情の世界 asin:4101377235

あともうひとつ。《人間が個々に違った顔をしているのはそのときに始まったことではないが、その差異に意識を集中することは新しいことだったのである》。同書はそう述べているわけだが、しかし昨今のインターネット下においては、人間の顔どころか通常最も秘匿されるべき個々の身体部位の無数の差異にすら、だれもが手軽に意識を集中できるような状況に、ああなんと我々は生きているではないか。どうなんだろうか、これは。