東京永久観光

【2019 輪廻転生】

アサッテの人


ウガンダ・トラさん――フルネームがこうだとは知らなかった。というか、アフリカにトラはいない。トラはやはり「タミールのトラ」とか「スマトラトラトラ(1個多かった)」とかがふさわしい――は、「カレーライスは飲み物だ」と言っていたらしい。

坂本龍馬は混ぜご飯が好きだった。司馬遼太郎『龍馬がゆく』にあったとおもう。おかずをいちいちつまむなんて面倒くさいちゃ、いっぺんにガバっと食いたいぜよ、ということだろう。

私もカレーやチャーハンは大好きだ(子どもみたいな)。やはりスプーンで一気に自在にすくいとれる点が素晴らしいのだろうか。激しい空腹時に間違ってもんじゃ焼き屋に入ってしまったような事態とは、著しく対照的。なんだあのヘラは。

映画『竜馬暗殺』の坂本龍馬原田芳雄だったが、松田優作も狂気じみた人斬り役で出ていた。その松田優作は若いころ文学座に所属し、後にジャズシンガーになる阿川泰子と同期だったそうで、ある日たぶん阿川の部屋に松田たちが遊びに来たときに、阿川は、よ〜しと張り切って日清焼きそばかなにかを作り、さあ召しあがれとふるまったところ、松田優作はホントに一口か二口でガバと食べてしまい、いくらなんでもそれはないでしょと呆れたという。『オシャレ30・30』で阿川がそんな趣旨のことを語っていたのを、このあいだYouTubeで見たのだ(が、もうない。他にも刺激的な松田発言が満載だったのに。こちら参照 → http://www.johta.com/yusaku/30.html

ロールキャベツ。巻くのも大変かもしれないが、食べるのはもっと大変だ。あれは是が非でも巻いたままナイフで輪切りにせねばならないのか。意地でもその状態で口中まで運ばねばならないのか。グルメ番組で他人が食べているのを見るだけでも、じれったくなる。他に、ミルフィーユやモスバーガー

さてさて。メシのみならず小説もまた、ばくばくごくごく摂取できるもののほうが望ましいのだろうか。

そうとも言えるが、そうでないとも言える。カレーやチャーハンのような小説も読みたいが、そうではない小説も読みたい。

ただしそれはそれとして(重要)。仮にたとえばマクドナルドのシェイクのごとき甘く柔らかく中身すら見ずに胃に流し込んでしまえる食べ物であろうとも、それを作る側には、必要な材料を準備したり適切な手順や技術で調理したりといったプロセスが存在したことだけは間違いない。

そうした材料や調理が存在することへの自覚を、作る人のみならず食べる人(読む人)にも促してしまう小説というのがある。そんなもてなしは不作法だという意見もあろう。しかし、そうしたメイキングをそのまま見せる(かのような)仕掛けの小説こそ、この上なく面白いのだというふうにも思う。

というわけで、諏訪哲史アサッテの人』。asin:4062142147

新しくオープンした食堂に「営業中」を確認して入ってみると、店主自らがテーブルに座り、まな板や包丁を前に腕組みしているではないか。冷蔵庫から野菜や肉を出してはくるものの、まだ首をひねっており、気弱に皮をむいたりガスコンロでちょっとあぶったりして、それをそのまま皿に盛って出す。何という料理だろう。それよりここホントに食堂なんだろうか。不安はつのる。が、とりあえず一口。「味はいかがです。食べられますか」「いやそんなこと言われても……え? あのこれってまだちゃんと出来上がって……というかその、メニューは……あと水……」「では次はこんなふうに手を加えてみましょう」。それが繰り返され、次第にスカレートし、ふと気がつくと、私はなぜか食堂内でシンコペーションのステップを踏みながら四方の壁に沿って踊り回っていた。

そんな小説なのだ(いやホント)

つまり「アサッテの人」こそ、文章や小説というものがいかなる材料や調理によって作られるのかを、いやでも考えさせてしまう小説の一つということになろう。

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評判の料理を食わずに死ねるかとまでは思わないけれど、評判の小説のほうはできるかぎり読んでみたいと。そうずっと思っている。

その思いを分析すると、「うまいものが読みたい」という以上に、そのうまいものがなぜうまいと評価されたのか、自分で読んで確かめたいという気持ちが大きい。

料理のほうはもちろん、「なぜうまいのか確かめたい」なんていうより、もう純粋に「うまいものが食べたい」から食べに行く。さらには腹が減りすぎた場合など「とにかく何でもいいから食べさせろ」となる。

あるいは、そのうまいものをできれば自分でも作りたいのかどうか、書きたいのかどうか、そんな関心の差も横たわっているのだろう。

それと、食事以上に読書は今、飢えて飢えてどうしようもないという状況ではない。むしろ逆で「あれも読まなきゃ、これも読まなきゃ」の困難のほうが勝る。ブログを読みニュースを読み、仕事の本を読み、電車では新書や雑誌を読み吊り広告も読みといった日々。腹はいつも半分くらいしか空かない。

だから余計な小説まで一冊食ってみる(読んでみる)には、やっぱり好奇心の支えは不可欠だ。そうしてまずいと感じれば中断してしまうのもしかたない。(食事では正しく腹が減っているので中断することは私は滅多にない。ただ昨日は青山界隈で食べたラーメンがあまりにうまくなくて、中断のやむなきに至った。涙)

ただまあ、「何が面白いのかひとつ見出してやろう」と意気込んで読み始めた小説でも、それが実際に読んで面白ければ、「知りたい」を超えて「楽しい」という動機に転じて読みふけってしまうものだ。だから案外、面白い小説の秘密や仕掛けというのは、読みながら自動的に分析できたりはしない。

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それにしても、食事は1日3回だ。毎日3回もやることって他に何かあるだろうか。読書は1日何回だろう。

それにからんで、私は食事のときは書物を読んでいることがあまりにも多いと気づく。家で食べる場合はテレビやネットのこともあるが、外では必ず皿ではなく文字を眺めて食べている。そうでないことなんてホントに一度もないのではないか。料理に対しさらには本に対しても礼を失している気がしてきた。(逆に「そういえば本を読むときって、必ずなんか食べてるな」という人もいるのだろうか。肥満に注意)

一応結論:どんな材料が使われているのか、どんな調理が行われたのか、もうちょっとしっかり見つめてみたら、けっこう楽しいのではないか、料理も小説も。

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そういえば、「アサッテの人」は芥川賞だったっけ?(2007年上半期)。私は『群像』の新人賞発表号で読んだ。

こんなヘンテコな作品が芥川賞とは、かなり珍しい。いわば「アサッテの芥川賞」といったところ。

2007年下半期の川上未映子乳と卵」なら、まさに「今日の芥川賞」に相応しく、文芸業界の戦略としても適正に思われる。asin:4163270108

というとなんか悪口みたいだが、「乳と卵」はもちろん面白かった。カレーやチャーハンを食べながらでもすいすい読めたというか。とはいえ、カレーやチャーハンのように中身はろくに気にせず食べてしまったという小説ではない。あれこんな素材が入っていたのか、この作家は料理する(文章を書く)ということをこんなふうに位置づけているのか、といった気づきも多かった。ただ、この人の本では『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』というのを読んだことがあり、こちらのほうがそれこそ世界はずっと広いように感じられた。永井均との対談(文藝春秋)もきわめて意外で興味深かった。それらに比べたら「乳と卵」はけっこうスタンダードかもとおもったしだい。