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2008-06-26

いつかすべての再生のために


この曲を聴くとあの頃が懐かしい、というのは誰にでもある。

すっかり忘れていた自分の気持ちがふいによみがえる。そのとき見ていた風景や、一緒にいた人の顔や声、食べていた物の味や匂いまで思い出す。

自分がつけた日記を読み返すことでも、そういうことは起こりうるのかというと、起こりうるように思う。

ただし、日記というのは、文章をあらかじめ書いておかないといけないし、その文章をいちいち読まないといけない。それに比べ、懐かしの流行歌は、べつに記録したわけではなく、意図して記憶すらしたわけではない。それなのに、そのときの心や体の状態をあたかもそのまま保つかのような働きを自動的にしてしまう。

今、デジカメで何気なく撮っている写真というのは、ちょうど流行歌と日記の中間くらいに手軽で自動的な記録行為かもしれない。そして将来その写真は、忘れてしまった思い出の再生を、ひょっとしたら流行歌や日記を超えるほどの強度と詳細さで可能にするかもしれない。

だから、自分が毎日行ったことや考えたことをできるだけ残しておきたいと願うなら、今はデジカメを携行せよということになる。その1枚はきっとものを言う。というか、きっとたくさんのものを覚えておいてくれる。

以前、言語は検索が容易だが、写真などの画像は検索が難しいという話を書いた。そのことは考えれば考えるほど本質的な違いに思えてくる。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070906#p1

たとえばこのあいだ、渋谷の「パラダイス マカオ」のことをブログに書きデジカメ写真も載せた。私がそこに記した「パラダイス マカオ」という言語は、グーグルが確実に探知し確実に情報化するだろう。しかしあの写真のほうはグーグルも今はなかなか手が出せない。言い換えれば、その日の自分の行動を言語化してアップすれば、インターネットを介して万人に知られるところとなるが、その日の自分の行動をデジカメ写真化してアップしても、そう簡単にはつきとめられない、大丈夫、ということになる。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080614#p1

ところが、ではそのブログなどにせっせと記した言語と、ただ1回シャッターを押したデジカメ写真とで、どちらがより強くどちらがより詳しくその日の生活内容をさっとしまい込んだりさっと語り出したりするのかというと、これはデジカメ写真が勝るかもしれない。

ついでなので、話をもう一歩横に進めるが。言語の検索には言語が使われ、画像の検索には画像が使われるのではなくやっぱり言語が使われる。それは何故か。それは、言語はメタ情報(つまりその情報自体とは別にその情報が何であるかの情報)として使えるからなのだ。それは分かっていたが、さらに気づいたことがある。それは、そもそも言語とは現実そのものではまったくなく、すべて現実に関するメタ情報なのだということ。この世界すべてのメタ情報としてこそ言語は一から生成され機能してきた。言語とは何かという問いの、もしかしたら相当本質的な答えがこれなのかもしれない。

(だから、画像や音楽が、言語と並ぶ役割を果たしたいなら、少なくとも自らのメタ情報くらいは、同じく画像や音楽の形式によって構成できなければならないだろう。もちろん、画像や音楽にそんなことできるわけがないと思っているけれど、グーグルやインターネットは如何なることでもやってしまうのをずっと見てきているのだから、もう少し長生きしようではないか)

もうひとつ横に話はとんで。自分が買ったり聴いたりした音楽をパソコンで整理しやすいのは、音楽がCDというパッケージになり、しかもここが重要だが、世の中で流通するCDの多くが完全に共通の形式で情報化されているからだ。AmazonやiTunesがその中央制御装置として動いている。YouTubeもそれに近づきつつあるのかもしれない。ただし今言ったとおり、AmazonやiTunesが情報化しているのは、音楽の音「そのもの」ではなく、あくまでも音楽に「関する」メタ情報だ。つまり音楽に関する「言語」の情報にすぎない。曲名もアーチストもジャンルもすべて言語。

ちなみに映画作品は、音楽作品であるCDに比べ、インターネット共通のメタ情報化が進んでいない。だから、封切り映画についてブログに書いてリンクを張ろうにも、CDや本のように、Amazonなどのパーマネントなアドレスを記す手だてがない。仕方なくDVDの製品情報で代用している。

もうひとつちなみに、本はもちろんCDやDVDと同じくAmazonなどが徹底して情報化している。ただし、本だけはメタ情報も言語なら本それ自体の中身(本自体の情報)も言語なので、音楽とはちがって中身の情報まで統合しようという目論見を、AmazonもGoogleもそろって進めることが可能になっている。

しかしながら、このへんで話が本筋に戻るが、AmazonもGoogleも、懐かしのあの歌が私の体と心をどう駆けめぐるのか、すなわち「どう懐かしいのか」に関する情報は持っていない。そんなものは私の全身もしくは脳全体に刻まれているとしか言いようがない。ところが、一曲の歌それ自体は、全身または脳全体がもつほどの全体験や全記憶をなぜかそのまま呼び覚ましてくれるように思えるから、すごいということになる。そしてデジカメ写真も、言語ではなく画像として音楽と似たことをしてくれるだろう。

ちょいと話はややこしいが、もう1点だけ述べておくと。たしかに言語全体は、複雑に構築されながら現実をまったく独自のまったく新たな情報として使いやすく置き換えている。あまりにも使いやすく置き換えてくれるので、それが現実そのものかと錯覚しそうになるほどなのだ。しかし、今インターネット上に構築されている言語全体が、私上に構築されている言語全体と相似であるというわけではない。だから、私にとっては明らかに重要なキーワードが、はてなキーワードには登録されていないといったことがある。

さてそろそろ結論。

今日あなたが行ったことや考えたことを後からさっと呼び覚ませるようにしたいなら、今日あなたが撮った1枚のデジカメ写真や、今日あなたが聴いた1曲の歌のタイトルを、ブログに書いておくと良い! 今日食べたご飯の写真なんかはさらに良い!

そしてさらに私はこう思ったのだ。デジカメ写真や歌のタイトルでもいいが、今日読んだり買ったりした1冊の本の名を、毎日書いておくというのは、それ以上に有効なのではないかと。…そうか、とっくにそういうことを実践している人は無数にいる。それは実に有意義な所作だったのだ。


■今日の一冊

脳の見方 (ちくま文庫)

脳の見方 (ちくま文庫)


◎参照(1) 《わたしは、自らの考えたほとんどのことを記録しておきたいという欲望を持っている。なので、わたしのパソコンには考える過程での、色々な人の記録もつまっている。そして映像をいじくるのも好きなので、旅行先に行くと必ずデジカメをパシャパシャと撮りまくっている。一日に600枚ぐらい撮ったりもしていて、旅行に行ったときの記録はデジカメがほとんどを記録している。わたしにとっては立派なライフログだ。》http://www.critiqueofgames.net/2008/06/200806091305_wr_1.html


◎参照(2) 《豚茶漬けを食べると、T兄のことを思い出す》(http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20080624/p1