東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★春の庭/柴崎友香(芥川賞)

  
  春の庭


最初、このアパートがいわば主人公なのかと考えた。保坂和志カンバセイション・ピース』もたしかそんなふうだった。実際、それらの建物の配置や造り、そこから眺められる植生などが淡々と描写されていく。一方 人物のほうの主人公は一人に定まらないようでもある。

「環境小説」というネーミングがふと浮かんだ。エリック・サティブライアン・イーノ環境音楽あるいは家具の音楽を目指したのと同じ。この「春の庭」の文章も、周囲にすでにあふれている多数の文字や音声と交じり合いながら漂っている。現代社会では脳の言語活動を長時間ただ1個の小説に100パーセント集中させるといった事情はめったに実現されないから、小説が環境小説になるのは合理的かもしれない。そんな気持ちで読んでいった。この小説の主旨自体が特になにかを明確に解説するわけではないのだとしたら、とも考えた。柴崎友香の小説を以前読んだ印象も手伝って。

しかしその予測は読み進むにつれて裏切られ、やはり人物たちの行動や心情が前景化してくるのだった。思いがけず活劇のような展開にもなる。もちろんそれは良い読書体験になったということだ。そうでなければ、つまり本当に環境小説だったら、やはり読み続けるには限度があろう。

そもそも小説には人間が描かれる。そうでない小説を1つでも挙げるのは難しい。

物語というのも人間の物語だけを指す。建築物の経年変化、樹木の成長というような物語をまさに限定して記した小説なんてたぶん存在しない。しかも、人間の物語にしても外形的な行動や変化だけでは成り立たない。鉱物にも植物にも動物にもない人間ならではの生活や感情や思考を伴った人生の物語でなければ、小説作品としては、たぶん叱られるだろう。

何故こんなことを述べるのかというと、映画監督の黒沢清が、映画はなんで人間ドラマばっかり描くんだ? という問いを突きつけていたのが忘れられないからだ。

「いつのまにか映画は人間を描くメディアだと言われ始めた。そして、そうでなければ映画でないとさえ主張する人までいる。これはどうしたことか。映画は最初はそんな使命など背負わされていなかったはずなのに」(『映画はおそろしい』)http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090226/p1

わけがわからない印象の『CURE』なども、こうした問いを踏まえて見るとたいへん興味深い。

そんなことが頭にあるので、青木淳悟『このあいだ東京でね』を読んだときも、この小説はいわゆる人間を描いているのではないのではないか、少なくとも人間が主人公ではないのではないか、というふうに思ったのだった。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120711/p1

「春の庭」にもそれに似た予測をした。でも そんなに極端な小説ではなかった。もちろん「いわゆる人間の物語をいわゆる感動的に描く」ことがこの小説を書いた目的の中心ではないとは思える。(では何が目的なのかというと、私には言い当てられないのだが)


ともあれ。近ごろ、小説を、「おそろしく読まない」。何を読んでいるのかというとツイッターや、はてブや、ニュースまとめサイトだ。

そしてつくづく思う。小説が人間ドラマかどうかとか小説の主人公が人間でなくてもいいのかとか、そんな問いはどうでもいいと言えるくらい、小説はツイッターなどに比べたらあまりにも小説でありすぎる、と。

あるいは、『春の庭』とたとえば西村賢太の『苦役列車』は非常に異質な作品だが、それでも小説であるという点では似すぎていて小説ではないものとは間違えようがない。どちらを読む体験も、ツイッターのタイムラインを追うのとは、植物と鉱物くらいに隔たっている。

ツイッターの文章は人格をわりと表すと思うが。小説の文章も作家の人格を表すのだろうか? 西村賢太氏ではなく柴崎友香氏のほうが『苦役列車』の主人公のような人格の持ち主だったりすることは、ありうるのか?)


さてさて、「人間ではないものを描く小説はありうるのか」という観点があってこそ、その内容の特異さが私にとって明瞭になった作家が、円城塔だ。→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140921/p1