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2017-06-30

★飼育・死者の奢り/大江健三郎


 死者の奢り・飼育 (新潮文庫)


さっきひと眠りしたら、社会の劣化と深刻な恐怖におののく夢をみた。眠る前に大江健三郎の「飼育」を読み終えたせいだと思われる。江藤淳によるその短い解説も読んだせいだと思われる。こんな特異で強烈な反応をもたらすような小説に、近ごろあまり触れていない。

忘れないように夢のほうから書いておくと―― 

世間は暴動の予感に満ちており、周囲の人々が今にもこちらに襲いかかりそうな気配が濃厚に漂う。そんな夜の町から私は逃げなくてはと思っている。車かなにかで移動しながら、信頼できる人と、その不安について語り合っている。その人がひとつ出来事を伝えてきた。ある集落で行われた恒例の子ども相撲大会で黒人の子が優勝したら怒った観衆に表彰台から引きずり降ろされたという。そうこうしているうちに、私たち2人はなぜか、町の外れにある飲み屋に入っている。そこに久しぶりの友人に再会した(実在する久しぶりの友人)

……とここまで書いて、気づいた。こんな夢をみたのは、大江健三郎のせいでもあるが、同じく2、3日前にDVDで見た『マルホランド・ドライブ』のせいでもあるようだ。

ともあれ。江藤淳は新潮文庫『死者の奢り・飼育』の解説でこう書いている。当時デビューしたばかりだった大江は《ある時評家が評したように、もっぱら思想を表現しうる文体をもった新人と目されていた》と。ところが江藤はそれにあまり同意しない。

そしてここに現れているのは思想ではなく、むしろ抒情なのだという。《大江の抒情は、周囲をとりまく悪意にみちた世界に屈折せず、かえってそれに激しくつきあたろうとしている点で、過去のどの抒情家のそれとも異質であった。このような抒情は新しい文体を要求する。大江の文体が論理的な骨格と動的なうねりをもつのは、このような事情によっている》

さて夢の記憶はだんだん薄れてきたが、ともあれ、今回の夢は、状況がひどく逼迫しているのがひしひしと感じられるために心身が本当にこわばるような体験だったのだが、現実のこの日本社会で、少なくとも私は、そのような体験は、たとえ安倍政権の今であれ、したことがない、ということに気付かされた。

いや一度だけある。2011年3月に首都圏にも「放射能が来る」とちょっとマジに思って車で西に逃げたときは、少しそのような感触だったのを思い出す。あれはしかし、政治状況ではなく災害による自然状況がもたらした心身の恐怖だった。

そうすると何が今の話のポイントかというと―― 

1つは、311はきわめて特別な状況でありきわめて特別な抒情を私たちに味わわせたということ。もう1つは、それくらい特異な抒情を、西アジアや北アフリカの人たちは、自然ではなく政治による災厄のせいで、日夜感じているのかなということ。

そしてもう1つ。それに匹敵するほど特異な抒情を、若き大江健三郎の渾身の短編が、今さっき私にも味わわせたのだな、ということ。(なお一般的に、思想もなんらかの感触をもたらすと思うが、抒情とは感触そのものなのだろう)

ところで、なぜまた大江健三郎を読んだかというと、少し前に小谷野敦『芥川賞の偏差値』(asin:4576170295)を読んだら、大江の評価がかなり高く ちょっと意外だったことによる。小谷野という人は、著作もブログもツイートもとにかく正直なのがありがたい。

同書がつけた点数は個人の評価だから他人と違うのは仕方ない。だが、その小谷野個人の評価軸は正直でぶれないから信頼できるのだ。エライ学者にこびることもなければ、バカな読者におもねることもない。安部公房と円城塔の評価は私には驚くほど低く、「コンビニ人間」は反対に高すぎると思ったが、それも人はみな教養も価値観も違うのだから仕方ない。

なお、今回読んだ「死者の奢り」と「飼育」(芥川賞)を、私は30年も前に読んだはずだが、内容は忘れていた。しかし、「飼育」の、陰鬱を上回ってわきあがる興奮は、「万延元年のフットボール」を読んだときと同じだと思った。

「飼育」も「フットボール」も因習的な集落に起こった非常事態。いや、因習的な集落というのでは足りない。「飼育」は大江自身が子どもとして体験した戦時中の光景や感受性がベースになっていると思われるのだが、そこで語られる人々の生活は、現在の私たちからすれば、まるでアマゾンの未開集落のごとくすさまじい。

大江健三郎が「飼育」を書いた昭和33年には、戦時中の日本や貧しく文明化されていない日本は、まだ同時代のものだったろう。しかしそれから日本の戦後はおそろしく長く続き、戦時期は本当に遠くなった。というより、「飼育」にあるような光景や生活など、もはや完全に他所の国のようだ。

とはいえ、大江健三郎は私の父母の世代に当る。私の父母はある程度似たような戦争や貧困を味わっただろうし、そのことは私の感受性にもなんらか影響していることだろう。そのように人は国民の記憶の100年くらいを生きる。

 *

「飼育」についてもう少しだけ書いておくと―― 

この人の文章の面白さは、とにかく微に入り細に入りの描写なのだと感じた。それはひとえに観察が微に入り細に入りだからだろうとも思った。

小説なんて何が面白くて読むのか(たいして面白くもないのになぜ読むのか)と、小説を読むたびに思うわけだが、映画と同じく観察や描写を楽しむというのは一つの正解かもしれない(山登りを楽しむようなかんじで)。そういう点では、キーワードはやはり「思想」ではなく「抒情」なのかもしれない。

『マルホランド・ドライブ』のDVDに付いていたインタビューで、デヴィッド・リンチが「直感を信じなさい」という主旨のことを言っていたのも、そこに通じると思う。――問題含みの大江の小説やリンチの映画を大げさに持ち出しつつ、じつに単純なことしか書けなくて恐縮だが。

マルホランド・ドライブ [DVD]


なお「微に入り細に入り」の補足だが、「憂い顔の童子」を読んだときも似たことを感じた。ただ、「憂い顔」はカラッとしてクスッとするごちゃごちゃさだったのに対し、「飼育」は大江が比喩にも使っているように、まさに虫を潰して液が粘りつくような、触覚や嗅覚に訴える実にいやな描写の連続だ。

◎「憂い顔の童子」を読んだときの感想。

 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060526/p1

◎ついでに昔「万延元年のフットボール」を読んだときの感想。 

 http://www.mayq.net/manen.html