国会は言論の府だということを実感する。どのように言葉を組み合わせて追求しても、同じく、なんらかの言葉を組み合わせて回避できてしまう。それがいくら詭弁と呼ばれようが、言葉が構成する理屈は強力だからだ。
それは法律の徹底性を思わせる。法治国家というけれど、それは、行政府の誤謬のなさを、すなわち役所の行為や役人の地位と給与を、言葉の理屈(法)ですみずみまで裏打ちし、絶対に死守できるような存在であるにすぎないのかもしれない。
そんな言葉の理屈に勝てるのは、言葉の暴力(ヤジや怒号)だけなのかもしれない。バカヤロ〜!