tokyokidの書評・論評・日記

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書評・新訂 日暮硯

tokyokid2007-01-23

書評・★新訂・日暮硯(笠谷和比古校注)岩波文庫

【あらすじ】
 この本は、江戸中期に一〇万石・信州松代藩の家老であった恩田木工(おんだ・もく)が、傾いた藩財政を立て直すためにどのように改革に取り組んだか、そして立て直しに成功したかの事実を、本人ではなく他人の目でみて記録した本を底本とし、校注を加えたもの。(時系列でいえば宝暦六年・西暦一七五六年に藩主・真田幸弘が襲封後初めて領国の松代に入国したとき前後からの事跡が記してある)。本のあらすじは、風水害などの対策出費で疲弊していた藩の財政の再建を「勘略奉行」として藩主から委嘱された木工は、領国でまず、以後自分は嘘をつかず、いったん言葉に出して決めたことは変更せず、日常の食べるものは飯と汁以外は香のものといえども菜(おかず)をとらず、着るものも(ぜいたくな絹物は用いずに)木綿で通す、という方針を樹て、宣言する。そしてそのことを最初に自分の家族郎党に徹底する。その上で公式の場に領内の百姓・町人つまり領民を呼び出し、これから(為政者たる)自分は嘘をつかず、いったん決めたことを変更することはない、と約束する。その上で藩は年貢の未納分を棒引きにし、一方領民側はいままでに前納・前々納の形で前払いしていた年貢(税金)を棒引きにする代りに、来月から今年の年貢は規定どおり毎月月割りで納めてくれよ、と持ちかける。恩田木工の思慮深いところは、これらの施策を藩の名において頭ごなしに強制するのではなく、あくまでも領民が村なり町なりに帰ってその支配下の末端の者たちひとりひとりと協議の上、請けるか請けないか決めてこい、と領民にゲタを預けることだ。その際、上記の今年の年貢を納めてもらう代りに、たとえば以前は税金滞納の督促のために村に出していた多数の足軽(下層階級の武士つまり役人)をこれからは出さない、と約束する。百姓側にしてみれば、督促に来られれば、接待もしなければならず(このあたりは現代の官民接待・官官接待の状況となんら変ることはない)、物入りになって百姓の大負担になっていたのが、以後接待しなくていい、だから費用の節約になる、と聞けば、木工の提案を喜んで受け入れるのである。同じことを、従来は領民の無料奉仕でまかなわれていた工事についても、以後は一部必要最小限の公共土木工事を除いて、無料の労働奉仕はさせない、と約束するのである。木工の巧みなところは、これだけの改革を下手にすれば、一揆や打ち壊しなどの騒動に発展し兼ねない政策を、自分を引き締め、家族・郎党を引き締め、藩の家臣団を引き締め、さらには百姓・町人などの領民全体を最後に引き締めることによって、政策の実を挙げていくことである。校訂者は、いくつも現存する写本を比較検討しながら、現在のわれわれにもわかるように丁寧な校注を施した本をつくり上げていく。江戸時代の文書には、句読点(や濁音・半濁音)がないし、段落もつけないのが普通であったから、そのままでは現代に通用し難い。そこで現代人にも読みやすく理解しやすいように段を立て、全文を十章に区切り、小見出しもつけて、かなや漢字を適切に変更して、読みやすくかつ分りやすくしてある。補注や参考本についての記述、それに校注者の懇切丁寧な解説もついていて、とても行き届いた編集ぶりの文庫本である。
【読みどころ】
 結論から言ってしまえば、為政者としての家老はこうでなくてはならない、という見本が恩田木工であり、その家老を使う立場の藩主とはこのように人を使わなければならない、という見本が真田幸弘なのである。話の焦点を木工に合わせて、政策がよくて為政者が人格者であれば、領民はその政策をよく理解して協力を惜しまないものである、ということでもある。それは公(おおやけ)の存在である藩にとっても利益であるばかりでなく、いい政策に協力することによって自分らの利益も確保される領民側にとっても、実利を伴っているから実現しやすい。そしてその為政ぶりを正当に評価して慈悲深い為政者を慕った領民がいたのであり、その業績を記録に残した人がいた、ということであろう。いまから二五〇年ほども前の話であるから、主人公の木工は武士で君主に忠義を尽くしたのは当然として、凡百の為政者と違う点は、弱者である領内の農民や町人にも目配りを忘れなかったことだ。忘れないというのは適切な表現ではないかも知れない。進んで慈悲と厳格を平等に適用して、たとえ身分が低い者といえども、正直者が馬鹿を見なくて済む政治を積極的に実現しようとした、というのが本当なのだろう。当時の領主と領民という身分制度の厳しかった封建時代にあっては、これは実に稀有の事例であった。「日暮硯」の記事は、その後木工の為政が効果を挙げ、領民からの年貢は月割方式でおおむね滞りなく、それも喜んで納められ、藩の財政も豊かになったと暗示されて終る。
【ひとこと】
 本書では、校注者は写本のひとつである長野県・色部義敦氏所蔵の本を「色部本」と呼んで底本として採用している。巻末に「馬場正方」とある本である。校訂者はこれに「補注」を加え、「参考本」を吟味し、さらに懇切丁寧な「解説」を付することで、「日暮硯」の著者は誰か、実存した恩田木工真田幸弘の実際の施政ぶりはどうであったか、その結果松代藩の財政を含む政治はどのように変っていったか、などの歴史を、古文書をひもといて追求し、その結果をわれわれ読者に分りやすく解説してみせてくれる。それによると、恩田木工の「嘘をつかず、誠実にことを運ぶ」施政ぶりが領民から慕われて、木工の死後も明治維新までずっと続いた、というのは事実だが、実際に財政改革の実がすぐに挙がって松代藩の財政事情が木工の「勘略奉行」就任後、直ちにまた極端に好転したかというと、事はそれほど簡単なものではなかった、というのが結論のようだ。じつは岩波文庫には、旧版の「日暮硯」(西尾実・林博校注)という昭和十六年(一九四一)第一刷発行の本がある。それに代る「新訂版」が、ここで取り上げた笠谷和比古校注の昭和六三年(一九八八)新版なのだが、旧版が八二頁の小品であるのに対して、この新訂版は一七八頁もあり、その分資料部分が目ざましく充実している。じつは評者がこの本の存在を知ったのは、イザヤ・ペンダサン著の「日本人とユダヤ人」によってであり、それまではこのような本があるということすら知らなかった。灯台下暗しとはこのことである(「日本人とユダヤ人」は、書評の別項で取り上げる)。本書を読んで、日本の政治家にも無私の心で、慈悲をもって、しかも官僚には厳しい仕事ぶりを要求するところの「まっとうな」政治家がいたことを示す古文書が日本に残っていた、ということで、おおいに感動したものだった。それにしても日本人は記録好きで、江戸時代中期の一地方の小藩のできごとであっても、写本がこれほどいくつも残っていることで証明される。何百年も前の江戸時代にすでに百姓・町人などの庶民階級においても文盲が少なかったことを裏付ける、これは世界にも稀な当時の日本人の高い文化水準を示すものとして、充分に誇るに足る事跡ではないだろうか。
【それはさておき】
 平成十九年(二〇〇七)一月十三日付朝日新聞国際版の「私の視点」では、落語の桂歌丸師匠が投稿のなかで、飛行機で乗り合わせた政治家が降り際に歌丸師匠に向かって「あまり政治家の悪口を言うなよ」と命令口調で言った、という記事があった。恩田木工の為政の結果の数字はともかくとして、その過程で示した嘘をつかず、誠実に、厳格に、敬虔に、分りやすく、というやり方を、現在の日本の政治家に求めるのは、木によって魚を求めるが如きものであると承知してはいるが、そのように願いたくなるのは、評者ばかりではなかろう。悲しむべき現実である。□