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Ideology Japan(英語ブログ)
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2005-04-14

『不登校は終わらない』は終わらない


東京シューレが貴戸理恵著『不登校は終わらない』に対する見解(以下「見解」)を発表しました。この見解に対する僕の見解は、貴戸さんによる本の出版を支持するというものです。しかしその思いは複雑で、どうリアクションしていいのか少々混乱しています。まだ考えはまとまってはいませんが、とりあえず思いつくままに書いてみることにします。

まず僕の身分を明らかにすると、東京シューレ出身者です。シューレと出会うことで救われ、育ちました。「見解」のなかで同じくシューレOBの須永祐慈さんが書いているように、僕にとってシューレはいつまでも心のよりどころとなる「ふるさと」のような存在です。

貴戸さんとは須永さんの紹介で知り合い、インタビューに応じました。インタビューはフォーマルな面接というよりはアルコールを交えての数人の歓談という形式で行われました。このことは親密なコミュニケーションを可能にし、僕自身貴戸さんや他の被調査者からたいへん興味深い話を聞くことができましたが、一方で社会調査としては危うい面もあったのかもしれません。その後貴戸さんは僕のことを本でとりあげましたが、歪曲された箇所は一切ありませんでした。調査から出版を通して僕は不快な思いをしたことはありませんし、むしろいろんな意味で得るものがあったと思っています。

話を始める前に、今回の件に対するネットでの反応では東京シューレの対応を異常視する声があるようなので、一言断っておきたいと思います。たしかに、「見解」を読むとまるで一切の批判を認めないカルト教団のような印象を持たざるをえないかもしれません。親切にも誤字の指摘までも含む262箇所にも及ぶ詳細な訂正要求からは、全体主義的な香りが漂います。しかし、そのこと自体は、全く悪いとは思いません。

東京シューレはこれまで、強大なサベツと戦ってきました。そのような中で、マスコミなどの取材に応じることは、人々の理解を得る上で必要であり、なおかつ歪曲などの被害を受けるリスクを伴うものでした。このことについてふやふやさんは書いています。少し長くなりますが非常に重要な点ですので引用します。

ところで昔ニュースステーションの取材に応じたことがあった。高校生のとき。

インタビュアーは自由の森学園に通う、有名な音楽家のお嬢さん。(彼女も確かある期間不登校だったように思う)勿論テーマは不登校で、彼女とも話が合ったし、私なりに言葉を一つ一つ選んでインタビューに答えた。

でもいざ放送されたものを見ると大きな衝撃を受けた。「こんな風に放送されちゃうの・・・・」彼女のナレーションは甘ったるく、不登校に同情を誘うようなニュアンスで、不登校=甘えととられかねない内容だった。勿論私の数秒のインタビューは伝えたいことが全く伝わってなかった。

小宮悦子「私も学校行きたくない〜って休んだことありますよー(内容をフォローするように)」久米宏「そんな小宮さんもこんなに立派になりましたー(笑)」それを見て私は2階の自分の部屋に駆け上がり大声を上げて泣いた。


シューレに在籍しているとき、たくさんの取材が来た。最初はスター気取りでカメラの前で言いたいことを言って悦に入っていた。でも放送されるのはいつも数秒で、しかも都合のいいように編集されていた。そのことに傷つく子どもも多く、シューレのミーティング(ミーティングで日々のスケジュールから掃除の割り振りまで、すべて子供達で決めていた。)で、「どこの取材を受けるか」もスタッフや代表が勝手に受けるのではなく、子供達のOKがでてから受けることになった。

(OKがでても、その際カメラに映りたくない子は手を上げてもらって映らないようにする。)

そんな経験から取材に関しては慎重に考えていたつもりだった。

でも油断してしまった。

他のシューレOB・OGが取材に応じていることもあるが、それよりなによりインタビュアーが同じ体験を共有する仲間だと思ってしまっていたのだ。

http://fuyafuya.at.webry.info/200504/article_1.html

このように、マスコミなどで「語ること」は、手痛い代償を伴うものでした。それは「語らさられる」ことでもあり、「語られる」ことでもあったのです。そのような中で私たちは、やられた時には反撃することを学びました。今回の件では貴戸さんから聞いた話も含めて考えると東京シューレはかなり全体主義的に振舞っているようですが、そのこと自体は僕は肯定します。「フェアに互いの立場を尊重して」などというのはブルジョア評論家の言い草です。有効な政治を志向するのであれば、「つぶすべき相手はいかなる手段を用いてもつぶす」という全体主義的態度をとることを恐れるべきではありません。今回その矢面(やおもて)に立たされた貴戸さんは気の毒ですが。っていうか不登校当事者である貴戸さんをシューレが叩く、という構図は共産党がプロレタリアを粛清するみたいでグロテスクですが。。。

さて、「見解」をどう読むか。「見解」には、二つのレベルがあります。調査倫理上の問題。そして貴戸さんによるこれまでの不登校を肯定する取り組みに対する批判への反発。この二つの側面は混然としていて時には区別しがたい部分もあります。しかしここではとりあえず暫定的に両者を分けて考えてみましょう。

まず調査倫理の点について。二人の被調査者が貴戸さんによって苦しめられたと書いていることは、重く受け止めなければならないと思います。特に匿名の方が自分に関する記述を削除するように求めていることに対しては貴戸さんは真摯に対応すべきでしょう。

about-hさんは4月11日のエントリーで、二人が出版以前のチェックでは削除を要求していなかったこと*1を指摘しています。それが今になって抗議するのはたしかに不可解なことに見えるかもしれません。しかしそう感じるとしたら、それは「強者の論理」であると思います。これは、セクハラの被害者が加害者を告発することの困難を思えば明らかでしょう。いみじくも貴戸さんが『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の中で論じているように、調査する側とされる側の間には圧倒的な権力の非対称性が存在します。そういう中で、弱い者が異議を申し立てるのは容易ではないと考えるべきでしょう。そうである以上、被調査者がどのタイミングで抗議するか、誰と一緒に抗議するかによって、その声の正当性が損ねられることがあってはならないはずです。

これがたとえば外務官僚の生態をフィールドワークしたのであれば被調査者を多少傷つけることは問題ないでしょう。しかし今回は不登校経験者という圧倒的な弱者を対象にした調査です。当人の了解を一度とったから免責されるということはなく、調査者はいつでも告発に耳を傾ける用意をしておかなければならないと思います*2

以上のような点で、『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は「罪深き書」であると言えます。しかし、この本がもたらした「苦しみ」は取り消しようがないことを認めた上で、それでもなお、書かれなければならない本であったと思います。それは、第2の点に関わります。

about-hさんは、貴戸さんの本が「本当に東京シューレを批判していたのだろうか?」と問うています。僕は、この本は、東京シューレを肯定すると同時に、その思想を根本的に揺さぶるものであると思います。

「見解」は否定していますが、東京シューレの奥地圭子さんやシューレ出身者は、「明るい不登校の物語」を語ってきました。これは、私たちが、「暗い不登校」を隠蔽(いんぺい)したということではありません。現にdenebさんも指摘するように、東京シューレはひきこもりの人と共に歩む実践を行っています。むしろ「暗い過去」は、「明るい不登校の物語」の必須の構成要素です。ひきこもり・暴力・病気などの「暗い過去」から明るく元気になり、立派な社会人になるというハッピーエンドに向かうというのがこの物語の筋書きだからです。これについては、「登校拒否解放の(不)可能性」(前編, 中編, 後編)で論じました。

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』が明らかにしたのは、そのような物語からこぼれ落ちていく現実があるということでした。この物語に従えば、ひきこもりなどの「暗い」人は「明るい」社会人になることを目指すべきであることになります。しかし貴戸さんは、いわば「いつまでも明るくならない」人々がいることを示しました。

これに対して「見解」は、貴戸さんの本が「不登校経験者を「不登校エリート」とそうでない不登校、「明るい不登校」と明るくない不登校などと分断している」と非難しています。しかしこれはおかしな話だと思います。貴戸さんがやったのは、明るい不登校と暗い不登校の差異をつくりだすことではありません。そうではなくて、そもそも以前から存在していたが、不登校を肯定する言説の中では抑圧されていた差異を、貴戸さんは見えるようにしたのです*3

この「差異」に注目すると、問題はさらに複雑になります。さっき僕は、不登校経験者が圧倒的な弱者であると書きました。しかし実は、その弱者内部にもさらなる権力関係があるわけです。そのような中で「明るい不登校経験者」が不登校を「代表」して語ることは、必要でもあり、なおかつ罪深き暴力でもあります。about-hさんは「ひきこもり経験者が不登校業界に対して持ってる「いらだち」」を指摘しています。それは「代表」する言説が必然的にもってしまう暴力への反感でしょう。

今回抗議している二人の被調査者のうち、須永祐慈さんは、明るい不登校エリートの一人です。彼はこれまでに本を書いたり(『僕らしく君らしく自分色―登校拒否・私たちの選択』)、マスコミの取材に応じたり、集会で話したりして「明るい不登校の物語」を語ってきました。彼はいわば知識人として活動してきた「弱者の中の強者」であるのです。須永さんは、彼が「代表」して語ることによって「語られた」者たちからの告発に応える責任があると言えるでしょう。

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ) (よりみちパン!セ)』に書かれていることですが、貴戸さんは不登校経験者として、これまでの不登校肯定言説に救われると同時に、違和感を持ちながら成長してきた人です。『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は、そのような立場からの、「代表の暴力」に対する異議申し立てであると思います*4。この点について僕は、貴戸さんを支持します。「見解」は貴戸さんの本が東京シューレの立場をねじ曲げた上で否定していると主張していますが、僕はそうは思いません。だから、二人の被調査者に関する記述以外の部分については、修正要求に応じる必要はないと思います。

きしさんいわく、

いやだからといって開き直って人様がよかれと暮らしてるところに土足で入っていって調査させろコラというわけにもいかん。やはり現場で頑張っておられる活動家の方々はもっとも重要な存在である。われわれ調査者は、結局はどんな問題にも直接の役に立たない寄生者なのだし、これは当事者出身の研究者もとうぜん含まれると思う。まず守るべきは現場の「仁義」である。

http://sociologbook.net/log/200504.html#eid59

しかし貴戸さんが問おうとしたのは、まさにそのような「現場の「仁義」」なのではないでしょうか? 当事者出身の研究者が内在的に運動を批判しようとするときに、運動の秩序に介入することこそが目指されるべきなのではないでしょうか?

もちろんだからと言ってなんでもやっていいことにはなりません。今回実際に二人の人が被害を訴えているわけで、この事実は本当に重いと思います。

しかし元明るい不登校エリートで、その後「明るい不登校の物語」に違和感を覚えるようになった者の一人として、今回の本はやはり書かれるべきであったと思います。

。。。なんかしり切れとんぼで全然まとまっていませんがこのへんで。あ、最後に言っときますが僕は貴戸さんもシューレも奥地さんも須永さんも大好きですじゃ・゜・(ノД`)・゜・ 。

*1:これは抗議文から読み取れます。

*2:なお、同じような危うさは東京シューレ主宰者の奥地圭子さんも抱えています。彼女はこれまで、著書の中で僕を含む複数のシューレ出身者のことを本人に無断で書いてきました。僕自身は決して傷つくことはありませんでしたが。

*3:なお、貴戸さんがこのような「負の側面」を示すことは、たとえば斉藤環さんのようなブルジョワ精神科医が東京シューレを中傷することとは全く意味が異なります。斉藤さんは、ひきこもりを克服すべきとする体制側の立場から語る(役割を演じている)のに対し、貴戸さんはあくまでも不登校を肯定しようという抵抗言説内部からの批判を試みています。

*4:と、いうふうに僕は読んだ、ということです。