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Ideology Japan(英語ブログ)
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2005-09-11

フェミニストはいかに「知る」のか 第一回 フェミニスト経験主義という戦略


学校に行けなくなった当時の僕にとって、「知」とは縁遠いものでした。もちろん、すでに80年代には、登校拒否についての科学的言説は巷にあふれていました。心理学者を初めとして医者、教育学者、そしてやや遅れて社会学者たちが僕らのことを研究対象にしていました。当初それは僕にとってよそよそしいものでしかありませんでした。学校に行けなくなってからしばらくたって、学校に行かなくてもいいじゃんと思えるようになってからは、僕は彼(女)らのことを批判的に見るようになりました。そして、既存の「専門家」に教えを請うのではなく、学校に行かないとはどういうことなのか、それと社会はどうつながるのか、ということを自ら知りたいと思うようになりました。「知」にアクセスしたい、「知」を発信したいという欲望が生まれました。しかし僕が興味を引きつけられたような学問は、そのほとんどが学校エリートによって生産されたものでした。疑問が生まれました。もっと多くのことを知りたい。しかし「知る」とはどういうことか。それは、学校エリートの文化に屈服していく作業なのではないか。

そのような不安を抱えながら社会学の勉強をしている時に、僕は学問としてのフェミニズムに出会いました。上野千鶴子さんはこう言っています。「解放の思想には解放の理論が必要だ」。このフレーズには興奮しました。それは、既存の「知」を批判しつつ、新たな、自分たち自身の「知」を作ってゆくのだという宣言でした。

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

ではフェミニストにとって「知る」とはどういうことか? 6年ほど前にイギリスに留学していた時、このことをテーマに少し勉強をしてエッセイ(レポート)を書きました。その日本語訳を、数回に分けて連載していきます。なお、以前書いた「調査する者とされる者の終わらない関係」(第1回第2回第3回)と一部内容が重複します。


私たちは、女性と男性の地位が平等ではない社会に生きています。自らを解放するためには、女性はこの社会を変える必要があります。そしてそのために彼女たちは、何が問題であるのか、何がそれを引き起こしているのか、どうやったら変えることができるのかを「知る」必要があります。もちろん、これは「知」だけで問題を解決できるということではありません。現実に社会的な効果をもつためには、それは行動を伴う必要があます。それでも、「知」は社会変化にとって不可欠です。というのも、行動を開始するには何をなすべきかを「知る」必要があるからです。しかし、「知」は女性たちに自動的に与えられるものではありません。私たちの社会が家父長主義的(男性が女性を抑圧するようなあり方)であるという事実は、「知」の領域もまた男性支配から自由ではないということを意味します。とすれば、フェミニストにとって、「知」それ自体が問題として現われます。この連載では、このことにフェミニストがどのように対処してきたのかを紹介していきます。第一回では、男性中心主義的な既存の研究にフェミニスト経験主義の担い手たちがどのように反駁したのかを見ます。第二回では、「フェミニストの視点」(フェミニスト・スタンドポイント)理論のよりラディカルな認識論を紹介します。最後に第三回では、ブラック・フェミニストの思想を参考にしながら、「フェミニストの視点」理論を発展させることを試みます。


フェミニスト経験主義

シールが指摘したように、「社会的・政治的理論は、その大部分が、男性によって、男性のために、男性について書かれて」*1きました。従来の研究者による業績は「男性の関心[を反映し]、男性の活動や欲望を扱い、女性に関わる、あるいは女性にとって関心のある問題からは切り離され*2たものでした。女性は、従来の学問言説の領域から構造的に排除されていたわけです。

女性が伝統的に社会理論から排除されてきたとしたら、それはなぜなのでしょうか? なぜ社会理論は、女性の関心を無視したりゆがめたりしてきたのでしょうか? 伝統的な「知」の様式のどこに問題があるのでしょうか? こうした問いに対するフェミニストの回答は、決して一様なものではありません。様々なフェミニストが、様々な答えを出してきました。その中の一つは、リベラル・フェミニストが依拠する「フェミニスト経験主義」の立場からのものです。

彼女たちにとって、従来の(男性)理論家たちによってなされた主張は、単に経験的に誤ったものです。たとえば、女性は男性から暴力をほとんど経験しないという見解は、新しい調査が行われれば、誤りであることが証明されるでしょう*3。女性の賃金が男性よりも低いのは能力が劣っているからだというのは端的に間違っています*4。このように、フェミニスト経験主義者たちは、社会理論における誤った性差別主義的な主張を指摘し、正していこうとします。

Theorizing Patriarchy

Theorizing Patriarchy

彼女たちは、この種の経験的な「エラー」は、社会科学の深刻な構造的欠陥ではなく、単に個々の研究者が抱いている男性中心主義的な偏見によって引き起こされたにすぎないと考えます。ハーディングは、フェミニスト経験主義者の主張をこのようにまとめます:

[フェミニストの]研究者が異議を唱える性差別主義的で男性中心主義的な主張は、単に「(質的に)悪い学問」の結果にすぎない。そのような主張は、社会的な偏見や先入観によってもたらされる。そしてそのような偏見は、迷信や無知、誤った教育による敵対的な態度や間違った信念によってつくりだされたものである*5

Whose Science?: Whose Knowledge?:  Thinking from Women’s Lives

Whose Science?: Whose Knowledge?: Thinking from Women's Lives

このように、フェミニスト経験主義者は学問自体を問題にするのではなく、「悪い学問」を追及し、「良い学問」を実践しようとします。ある意味において、彼女たちは「父言説」、つまり伝統的な経験主義を、それ自体の武器を用いて批判するとハーディングは指摘します。その武器とは「客観性」です。客観性は、伝統的な定義では、研究者に「偏見や先入観から自由」であることを要求します*6。客観性を重視する人々は「研究対象を、研究主体から厳密に切り離されたものとして、『そこにある』ものとして」扱います。それは、「研究者の視線をあて、観察し、厳密に自然で距離をおいた言葉で記述することができる」*7とされます。もしこの立場に立てば、性差別主義的な研究成果をあげる男性研究者は、十分に客観的でないという点において、つまり、研究対象から男性としての経験や信念を切り離しそこなっているという点において、批判されえます。女性への彼らの偏見が対象をゆがめており、彼らは客観性の基準を満たしていないと言うことができるでしょう。

Thinking Sociologically

Thinking Sociologically

ハーディングによれば、従来の研究は様々な段階で偏見の影響を受けます。たとえば、研究者がトピックを選ぶ時、研究を設計する時、データを収集し分析する時です。とすると、フェミニスト経験主義者のよりよい「知」を生み出す戦略は、客観性を復元することを目的として、社会調査からそのような性差別主義的な偏見を除去することになります。彼女たちは、「学問探求の既存の方法論的規範をより厳密に守ることによって」*8それを果たそうとします。このように、彼女たちの方法は、フェミニスト的な目標を目指すものであるとは言え、特にフェミニスト的であるわけではありません。彼女たちは、学問研究の既存の原則をラディカルに変更しようとするのではなく、社会的偏見の余地をなくすため、それをより厳密に適用しようとするのです。

この意味において、フェミニスト経験主義は原理的に保守的なものであると言えます。ハーディングの言葉で言えば、「それは知的にまた政治的に権力をもってきた学問探求の理解を保存し、維持し、救出する」*9ものです。一見、これは深刻な欠点であるように見えます。というのも、フェミニズムそれ自体は決して保守的なものではないからです。フェミニズムの目的は、社会を変えることであって、家父長主義的な現状を維持することではありません。しかし、ハーディングは言います。フェミニスト経験主義の保守主義はその弱点であるだけではなく強みでもあると。保守的であることによって、フェミニスト経験主義は、よりラディカルなフェミニスト認識論ならば退けてしまうような従来の理論家の抵抗からフェミニストの研究を保護します。フェミニスト経験主義は「学問の規範それ自体ではなく、学問的方法の不完全な実践」*10を批判するものなので、従来の原則の多くは無傷のままです。そのぶん、従来からの研究者はあまり脅威を感じず、フェミニストの研究が学問のメインストリームに入っていくことを邪魔しようとはしません。

さらにハーディングによれば、保守的なものでありながら、フェミニスト経験主義はラディカルな可能性を秘めています。それは伝統的な経験主義の原則に従うものでありながら、「父言説を超える」*11面をもっています。というのも、フェミニスト経験主義は、「『発見の文脈』は、社会的な偏見を除去するために、『正当化の文脈』とまさに同じくらい重要である」*12ということを明らかにするからです。これはどういうことでしょうか? 伝統的な経験主義は、研究者のアイデンティティーは研究とは関係がないと主張します。経験主義の枠組みでは:

研究者が白人であろうが黒人であろうが中国人であろうがイギリス人であろうが、社会的出自が裕福だろうが貧しかろうが、研究成果の説明する力や客観性などには違いをもたらさないと考えられている。しかしフェミニスト経験主義は、グループとしての女性(あるいは、男女を問わずフェミニスト)は、グループとしての男性(非フェミニスト)よりも、男性中心主義の偏見に侵されていない主張をする可能性が高いと主張する*13

Feminism and Methodology: Social Science Issues

Feminism and Methodology: Social Science Issues

男性中心主義的な偏見は経験主義的な方法を用いる者全てによって自動的に除去できるわけではありません。そのような偏見を最初に指摘したのはフェミニスト女性たちでした。女性運動が登場して初めて、学問の世界の住人は男性的な偏見の存在とそれを取り除く必要に気づいたのです。誤った性差別主義的な主張を正すためには、女性の視点が学問言説に取り入れられなければなりませんでした。フェミニスト経験主義は、保守的な装いで学問の世界に潜入し、伝統的な経験主義の基礎を掘り崩していったと言えるでしょう。それは、いわば「トロイの木馬」であったのです。次回は、フェミニストの視点をより前面に打ち出す立場を紹介します。

*1:Thiele, B. (1994) 'Vanishing Acts in Social and Political Thought: Tricks of the Trade' in McDowell, L. and Pringle, R., eds., Defining Women, (Cambridge: Polity Press), p. 26.

*2:ibid.

*3:Walby, S. (1990) Theorizing Patriarchy, (Oxford: Blackwell), p. 16.

*4:ibid.

*5:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 111.

*6:Abercrombie, N. et al. (1984) The Penguin Dictionary of Sociology, (London: Penguin Books), p. 146.

*7:Bauman, Z. (1990) Thinking Sociologically, (Oxford: Basil Blackwell), p. 219.

*8:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 111.

*9:ibid. p. 113.

*10:ibid.

*11:ibid. p.115.

*12:ibid. p. 116.

*13:Harding, S. (1987) ‘Introduction: Is There a Feminist Method?’ and ‘Conclusion: Epistemological Questions’, in her, ed., Feminism and Methodology: Social Science Issues, (Milton Keynes: Open University Press), p. 183.

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