100億年後宇宙が滅びるとしても、私は限られた人生をセミのように精一杯鳴き続けるのみ

100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。

この手の「生命と宇宙の有限性」の問題に関しては大学生の頃に大いに悩んだ。そして今も悶々と悩む時期こそ過ぎたとはいえ、ずっと考え続けている。この問題は、世界の最も根本的な問題であり、死という逃れられない摂理への絶望から、人々は宗教を通して天国や極楽浄土を造り上げたり、哲学を通して生きる意味を考えたりしてきた。

この問題を乗り越える方法を考える際は、まず「生命」と「宇宙」を分けて考える必要がある。「生命の有限性」を克服するためには主に二つの方法がある。1つは、「終わりがあるからこそ人生は輝きを増す」と考えること。人生に終わりがあるからこそ、人は限られた人生を精一杯生きようとするという考え方。代表的な例としては、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』第2部の笠原メイの話が挙げられる。「私は思うんだけれど、自分がいつかは死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな」(文庫版P.162)2つ目は、自分の死後残された関係者(遺族など)の人生を想定すること。たとえ人生が有限でも、人生において何らかの功績を残すことができれば、それは自分の死後もこの世界に存在すると考えること。このように考えれば、人は絶望の末のニヒリズムに陥ることなく「生命の有限性」を克服することができる。

では次に「宇宙の有限性」はどのように乗り越えればいいのであろうか。自分の死後も人類は存続するとしても、最終的に地球やあるいは宇宙が消滅してしまえば人類も必ず絶滅する。(無論、地球や宇宙の消滅のはるか以前に人類は絶滅するだろうが。)そうであるならば、人生に意味(時間的に他と連関を持つこと)はないのでないか。この問題を乗り越えるためには、基本的には、「世界とは私自信の認識であり、自分が死んだ後の世界は自分にとっては存在しないのも同じだ」という独我論を取るか、あるいは哲学者中島義道の『ぐれる』(新潮新書)のように全てを知り絶望した上でそれでも自殺するのも嫌だから「ぐれて」生きるかのどちらかしかない。

とはいえ、私にとってはこのどちらも納得がいかないのだ。確かに自分が死んだ後の世界は自分にとっては存在しないも同然なので、そこに意味を考えても仕方がないのかもしれないが、それでも私たちは自分の死後にも世界は確かに存在するということを確信している。それに一度しかない人生を「ぐれて」生きるというのも、どうもしっくりこない。思春期にぐれるのは仕方がないとしても大人になっても老人になってもずっとぐれているというのは、それはそれで格好いいかもしれないが、人間の本来の姿として想定することはできないと思う。

私は、人間というものは、人間である以前に「生物」なのだと考えている。生物というのはその字の通り「生き生き」と生きるべきだと思う。「死」を想定できるのは生物の中でも人間だけだと言われているが、だからといって「死」に絶望してぐれて生きるというのは生物としての本義に逆らっているのではないかと思う。だからこそ、知恵を持ってしまった人間は、生命の有限性も宇宙の有限性も全てを見据えた上で、それでも自ら命を絶ったり、ぐれたりすることなく、限られた人生を生き生きと精一杯に生きる強さを持つべきなのだと思う。例えて言えば真夏のセミのように。もしセミが「どうせ地上で生きられるのは1週間だけだし」と言って精一杯鳴くことを止めてしまったら、もはやセミではなくなってしまうだろう。たとえ人生にいずれ終わりが来るのだとしても、そしてその後に残る世界にすら終わりが来るのだとしても、私たち人間は全てを見据えた上でセミのように精一杯に鳴き続けるのみなのだ。