これからの子育て

 数日早いが、まぁいいだろう。自分にしては珍しく仕上げを行ったものなので、嬉しくなってしまった。字数を削るのに苦労した。


 タイトル「前半は知的反論があり得ない話、後半は・・・」
   
 「末は博士か大臣か」と言われたのは昔のことで、双方とも今はすでに尊敬など集め得ないが、おれたちひょうきん族に代表される団塊世代の文化は皇室以外のほとんどすべての権威と既得権を馬鹿にすることで新鮮さを増し、花開いた大衆文化だった。

 その団塊文化を担った親たちが子供に最も見せたい番組は「プロジェクトX」で見せたくない番組は「バカ殿様」なんだそうだが、見せたくない理由は「ありそうもないことが起こるから」なんだそうだ。どちらもなかなか起こらないことが起こった話なのは同じなのにね。世界史的に見ても希有に恵まれた時代に人生の大半を生きたこの世代は統計で見る限り「努力が実る」とも「フェアプレーがスタンドプレーに勝る」とも考えているらしい。東大入学者の90%の家庭所得が1000万円以上になったのは91年のことで、どうみてもこの現実を実現したのは団塊世代なのに皮肉なものである。

 統計はまたこうも語っている。子育ての目的は「子供が幸せに生きてくれること」であり「そのためにあなたは子供に何を準備して欲しいですか?」と質問したなら、多くの親は「普通に学校に行って、うまくすれば大学を卒業して、うまくすれば高級資格を取って、豊かな所得を得て、幸せになって欲しい」と答える。

 実は所得と幸せはほとんど関係がないのだが、あえてこの切り口で読み解いてみると、難易度とその報酬として資格の頂点にあるものは、医師国家試験、司法試験、弁理士試験、公認会計士試験、国家公務員Ⅰ種である。このうち今の20代前半世代に40歳で1000万円の給与が平均的に予測されるのは、弁理士ぐらいのものだ。労働環境の悪化から土日ですら家族と過ごす時間もなく必死で働いて、40歳で1000万円にやっと到達できる可能性があるものの、その後の給与の伸びは限定的で、あるいは手取りベースでは増えないことがほとんどである。この中で資格として最も有効なのは弁理士で、これは「海外に出れば」食いはぐれがない可能性は高い。しかし、国家Ⅰ種の同期落ち後は天下りが前提であり、それが規制されると失業ということになる。20年以内に天下りが決定的に規制される可能性をどのぐらいと考えるだろうか。ちなみに医者の初任給は七十年代から変化していない。

 (以下の段落一部訂正)話を高学歴に移すと、2000年以降の日本では毎年1万人の博士が誕生している。しかし、博士資格を要件とする求人は3000人ほどで、毎年7000人の博士が職にあぶれていることになる。あぶれた人は下にスライドするから、修士以下での学歴による就職難は言わずもがなである・・・というのは冗談としても、高卒大卒の学歴間では高卒要件以上の就職口を大卒が荒らすということは起こっているし、逆の事例では今年1月、学歴を低く偽ってバスの運転手になっていた高学歴者が二人、詐称がばれて懲戒免職になったのは記憶に新しい。

 「所得と学歴、資格」ですらこれだけ不安定で相関が低くなっているのだ。「幸福と学歴、資格」との相関などほとんどあり得ない。

 最後に、以前は逃げ場として存在し得た結婚という選択肢だが、2003年にはついに離婚成立数が結婚成立数の3分の1を上回った。家族社会学の分野では2003年時点で20歳の人の生涯離婚経験率は30%程度になるであろうと予測されている。

さてしかし、それでも子供がそれないの学歴を積み、普通に職を得て、幸せな結婚をして普通に子供を育てて欲しいという昔ながらのお決まりの夢を見る親は後を絶たない。なぜか。「その親たちには情報の収集、評価、分析力がほとんどないから」である。その親たちの子供を思う心根までを疑う必要はないと思うが、心根と能力とはハナシが別なのだから仕方がない。

 このように、これまでは長期的な生活の安定と無関係ではなかった資格、学歴、結婚などでは、これからの生活の安定は見えなくなっている(場合によっては逆効果になる)反面、別の切り口からは明快な答えが読みとれる。

 どのような学歴、資格、立場、出発点であろうとも、「成功を収めている人間が確実に持っているのは、先入観や過去に囚われない情報の収集、評価、分析力」なのである。このことは子育てを行っている者として非常に興味深い。なぜならこれらの能力は本来的な意味の教養と同義であるし、それは家庭文化によってこそ最も身に付くものだからだ。

 とまぁ、ここまでの大半(結論以外)は最近話題の本「希望格差社会山田昌弘・パラサイトシングルという言葉を作った人)」にベースを置いた一般的で新鮮味のない話である。この会報の中ではこれでも十分なのかもしれないが、実は筆者が本当に書きたかったのはこんな些末で一般的で知的反論があり得ない話ではない。

 なんと、この本の中では今の親世代と今の子供世代の間で努力が報われる度合いが大きく異なり、それで希望を抱けない人が増えると言っているのだ。しかし、考えてもらいたい。多くの場合、幸福とは「現実を理想に近づけたときと、理想を現実に近づけたとき」に感じられるはずだが、親世代は努力によって前者ばかりを実現してきたわけではない。楽な仕事にはつけなかった、お金持ちにもなれなかった、老後の心配をしなければならなくなったなど、数多くの不満と不安を抱えており、数多くの後者の作業も行っているのである。この文章に書いたようなことを明確に語れないまでも、親世代のそうした努力の結果と人生の現実を見て、同じ様な人生を歩まないようにする自己防衛がニート(全員ではないにせよ。認識するとせざるとに関わらず)に働いているのは否めない。親が持っている天秤の片方には幸福が、もう片方にはその代価(努力など)が載っているのだろうが、要は今の若者世代にはその天秤が釣り合うようには見えないのである。だから片方の追求する幸福を軽くして、もう片方(努力など)も軽くすることで釣り合いをとっている面もかなりあるように思う。

 さて、ではもはや釣り合う天秤はないのかというとそれは違う。営々と積み重ねてきた努力も、結果的には収入不安や老後不安などを醸成してしまった結論が出た以上、未来の安定や幸福のために生きるのではなく、今の生活をしっかり感じて生きることで徐々に未来が開けていくのだ。「笑う門には福来たる(希望を持つ者のところには希望が寄ってくる)」のである。努力による幸福にはすでに保証が全くない。しかし、天秤の片方に希望を載せても、その対価はゼロなのだ。筆者などは全く労働が出来なくて死にかかった時期にも、生き残れれば40歳で引退することに疑いはなかった。

 恐怖は危険とは違い想像上の産物でしかない。人が想像できない恐怖を感じられない以上、希望もまた想像できる者にしか得られないのである。「若い頃の苦労は買ってでもせよ」というのは「自分にないモノ」ではなく「自分にあるモノ」を数えられるようになるからである。あるモノを数えれば感謝が生まれる。だから一生を幸せに生きられる。「努力は実る」と純真に感じられるほど若い頃から恵まれている世代には良くわからない話かもしれないが、恵まれない時代を生きる子供と幸せな時を過ごすために必要なことは、モノの数え方ではないだろうか。誰もが明日をも知れぬ命なのだ。今ある家族の命と、日々のご飯と、今の暮らしに満足し感謝してみてはいかがだろうか。希望はそこから生まれてくるし、それはタダなのである。

東京工業製品取引所

 午前中からガソリンのシステムがおかしくなって止まった。そのまま終日停止。しかも、原因であるらしいとの理由から、明日以降しばらくは逆指値注文2種類が使えなくなるんだそうである。ひでー話だ。

 他方、方々で言われていることだが、ライブドアはやられちゃったんじゃないかという感じがする。ここで一回退場して、もう一度よみがえってこれたなら、彼も本物だ。ソフトバンクなども後ろに控えているようだから、そこまで落ち込んだりしないのかな。

どうでしょう?

 右翼の一部に「左翼関連とソフバンと外資北朝鮮関連が金だしあってメディア乗っ取りだ」とか叫んでる人も居るけど、現状のメディアがどれほど記者クラブ制の支配下にあり、その後ろには右翼本体じゃなくて別の何かが控えてることなんてどうでもいいらしい。頭悪い奴らだ。単純で御しやすいか。

 僕の起業企画のひとつには、東洋版アルジャジーラの創設というのもあるけれど、こういうのって右翼は賛成してくれるんだろうか。もっと上が乗っ取られてるからダメか?明治維新政府が達成しようとしたことの土台は、もうほとんどこの国には残っていないなぁ・・・。

 9条があれば満足する宗教と、皇室と靖国があれば満足する宗教はどっちもどうしょうもないから、別の宗教を作るしかないんかね。北一輝とか、大本教とか?旧くて新しい話なのかもしれん。