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June 12(Tue), 2018

[] 05:21

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台風は外れて、この街では雲ひとつない快晴だけれど、風は少しばかり強い。

カーテンが大きく揺れて、夏の空気が部屋を満たす。

夏の匂いは不思議とワクワクする匂い。


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昨年末に板橋区立美術館で開かれていた企画展「世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦」が東海地方にも巡回してくれたので観に行ってきた。告知も大規模にしてないから危うく見逃すところだった。


タラブックスは南インド・チェンナイを拠点とする小さな出版社。本当に小さくて社員数は15人。印刷・製本までの職人を含めても40人くらいの組織。この出版社を世界的に有名にしたのは『夜の木』に代表されるようなシルクスクリーン印刷によるハンドメイド本だという。

僕たちが普段目にする印刷物のほとんどは、巨大な輪転機を使って印刷工場で刷られたもので、新聞や書籍や雑誌みたいな、短時間で大量生産出来る印刷物だと思う。それに対してタラブックスのビジュアルブックや絵本は、版画のような仕組みで刷られるシルクスクリーン印刷で、職人が1ページずつ手刷りをしてそれを針と糸で綴じるという、恐ろしくアナログ手法で作られる。企画展の中で上映されていた「絵本『世界のはじまり』ができるまで」というビデオを見る限り、タラブックスは出版社や印刷工場というよりは家内工業の作業場といったイメージ。もしくは工房。それもあって、タラブックスで作られたハンドメイド本は単なる「本」という枠組みを通り越してひとつの「工芸品」という呼び方が相応しく感じる。

さらに、タラブックスを特別な出版社たらしめている点はシルクスクリーンによるハンドメイドというその手法だけでなくて(実際、ハンドメイド本は全体の2割くらいなんどそう)、そこで描かれる内容やデザインにもある。インドの様々な民族画家を取り上げたり、土着の民話を題材にした作品や、図工の先生と作った美術教育の本、斬新な仕掛け絵本などなど。時代の流れのあえて逆を行こうとするような、そんな着想がタラブックスの魅力になっている。これは電子メディアが氾濫する現代に一石を投じるような、カウンターとしての立ち位置かもしれない。

僕たちが今まで目にしていた印刷作品は今や電子メディアに取って代わられ、視覚情報として瞬時に入ってきてはすぐに流れ消えていく。それが今の時代なんだと思う。ネットニュースやSNSタイムラインみたいなもので、その瞬間だけ意味をなして後腐れがない。物を持たない生活に憧れる人が増えているのも、もしかしたらその流れなのかもしれない。それに比べると、タラブックスの作品は「物」であることを重視する。触れられることに意味がる。「歴史」や「土着性」に重きを置く。それは流れては消えていく現代の「作品」とは全く別の「作品」で、だからこそ、その意味を考えさせられる。その大切さを実感させられる。

最近、電子メディアについて考えることが多いから、とても興味深くて楽しい企画展だった。行けて良かった。


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企画展では実際にタラブックスの出版物も販売していたから、タラブックスの代表作である『The Night Life of Trees』と、絵が可愛かった『I LIKE CATS』の2作品を買った。

家に帰ってからビニール袋を剥がすと、今までに嗅いだことのない匂いがした。これがインクの匂いなのか、はたまた行ったことのない遥かインドの匂いなのかは分からないけれど、僕の知らない特別な匂い。触ると、これも普通のオフセット印刷なんかとは違う特別な感触がした。

当たり前だけれど、嗅げるし触れるというのは良い。とても良いと思う。

これは本に限った話じゃなくて、好きな物、それに好きな人だって、嗅げるし触れるに越したことはない。出来ることなら五感全部で感じたい。好きってそういう事なんだと思う。

とすると、もしかして、ひとつの感覚でしか受け取れないものを好きになるのって、実は難しい事なのかもしれない。なんて、ふと思ってしまう。


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鰻 2018/06/20 10:41 タラブックスを存じ上げませんでしたので、「絵本『世界のはじまり』ができるまでを拝見し、その工程に驚くとともに感銘を受けました。

今まで嗅いだことのない匂いには、なかなか出会えないですよね。
五感のひとつひとつを意識して丁寧に感じたいなあとつくづく思いました。

tomotomtomotom 2018/06/21 04:20 やっぱり触れられたり匂えたりできるものって良いですよね。特に絵本なんかは。
小さい頃に読んだ絵本の思い出が、タブレットで得た視覚情報だけじゃ寂しいですから。
触ったり匂ったり、あるいは母親の声で聞いたりした、その全てが絵本の思い出になるんですよね。きっと。

だからタラブックスみたいな出版社は今の時代には意味があるし、今後も長く続いて欲しいなと思います。

June 01(Fri), 2018

[] 22:25

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雑記 とりとめもなく


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同年代の数人で飲み会。会話の中でふと発した「30歳を過ぎると自分にとっての本当の幸せについて考えちゃうよね」なんて台詞に、みんなで深く頷き合う。

「本当の幸せ」だなんて、まるで『銀河鉄道の夜』のジョバンニみたいだ。少年のジョバンニですら考えてるんだから、きっと30歳と言わず40歳になっても50歳になっても、僕たちはいつだってその時の「本当の幸せ」について考えてるのかもしれない。今だけじゃない。何時だってきっと、みんなそれを考えながら生きてる。

だから僕たちは、いくつになっても銀河鉄道症候群から抜け出せない。『銀河鉄道の夜』が世代を問わず名作と認知されてるのって、そういった理由なのかな、なんて考えているうちに、ふと気がつくと会話は別の話題に。

グラスの水滴を指でなぞりながら、みんなの話に耳を傾ける。 銀河鉄道が降りて来るには少し早い、初夏の夜が更けていく。


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最近、故・高畑勲監督のアニメ版『じゃりン子チエ』を観てる。名前くらいは聞いたことあったけれど、ちゃんと見るのは初めて。

舞台は1980年前後の大阪西成。主人公のチエは小学五年生で、母は家を出て行ってしまい、父は闇賭博に明け暮れる毎日。家業はホルモン焼き屋で、働かない父親の代わりに学校が終わったあとのチエが夜遅くまで切り盛りして生計を立てている。そのお陰で学業は疎かになってしまって、同級生からはアホだと罵られる日々を過ごす。

と、設定だけ書くと悲惨すぎる。目も当てられない。でもそれが大阪特有の人情とギャグで緩和されて、なんとも言えない絶妙なバランスを保ってる。不思議な作品。

「楽」はあっても「哀」を全面に押し出すことのないこの感じって、後の『平成狸合戦ぽんぽこ』に繋がっていく演出なのかもしれない。『ぽんぽこ』を観た時に感じたイタリアネオリアリズムの影響がここにも見え隠れする。悲しさを排除した、市井の人々への客観性とでも言うのか。その感じが説教臭くなくて、観てて気持ちがいい。


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国鉄総裁下山定則轢死体で発見された、国鉄三大ミステリーとして名高い「下山事件」の関連本を2冊並行して読んでいる。面白い。

ただ、戦後すぐの日本についての知識が自分には乏しすぎて、知らない人名、事件名が出るたびにWikipediaで調べているからページが全然進まない。

GHQ統治下の日本のドロドロ感がすごい。

下山事件完全版―最後の証言 (祥伝社文庫 し 8-3)

下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)


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Phum Viphurit / Lover Boy

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US、UK以外の音楽を楽しむポイントである、その土地との’混血感’が限りなく薄い。それを「つまらない」と捉えるか「聴きやすい」と捉えるかは人それぞれだろうけれど、僕は「聴きやすい」に一票。良い意味で近年のインディーポップマナーに忠実で、部屋のBGMとして流しておくには、これからの季節にピッタリなサウンド。タイの若干22歳のSSW、プム・ヴィプリット。アルファベット表記だと読みにくくて仕方ない。

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鰻 2018/06/02 08:46 はじめまして。
少し前から拝読しております、鰻と申します。

『じゃりン子チエ』、観たくなりました。
「悲しさを排除した、市井の人々への客観性」という表現、素敵ですね。
私自身、大人になってそういうものに救われてきたことが多々あるように思います。

tomotomtomotom 2018/06/03 06:19 はじめまして。コメントありがとうございます。
こんな更新頻度の低いブログにコメントして頂いて恐縮です。

『じゃりン子チエ』は子供向けアニメなのに闇賭博やヤクザが出てきて、今の感覚で見ると衝撃なんですが(笑
それが当時の西成のリアルなのかなと思えて面白いです。それに単純にギャグアニメとしても笑えますし。おすすめです。

May 19(Sat), 2018

[] 03:15

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いつの頃からか祭りが好きになった。

それも地域に根差したような古い祭りが。花火大会や露店が中心のイベント的な祭りではなくて、その地域の人たちにとって「ハレとケ」でいうハレ(=非日常)であることが感じられるような祭りが。

昔は祭りなんて別段好きでもなくて、むしろ人が集まるような場所は毛嫌いしていたのになぁ。


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少し前の話になるけれど、愛知県知多半島亀崎で毎年ゴールデンウィーク時期に行なわれる潮干祭に行ってきた。

この祭りのことを知ったのは2年ほど前。自転車知多半島のお遍路参りをしていた時に町中に貼ってある潮干祭のポスターを見たのがきっかけだ。亀崎の町並みは古く趣きがあって、海沿いには人工的に造られたであろう小さな浜辺。その光景にどことなく違和感を覚えた記憶がある。その数日後だっただろうか、NHKで放送されている『新日本風土記』で偶然にも潮干祭が取り上げられていて、それを観て以来いつか行ってみたいと思っていた。


この潮干祭には珍しい特徴がある。それは山車だ。山車が町を練り歩いた後、なんと海へ入水する。江戸時代に作られた5台の山車が男達に曳かれて海へ入っていくこの「海浜曳き下ろし」は、全国的に観てもとても珍しい儀式なんだそう。しかも、山車が古いものだから海に入ると壊れてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしてしまい、それがまたスリリングで見応えがある。僕はこの祭の存在を知らなかったけれど、国の重要無形民俗文化財にも指定されているし、ユネスコ無形文化遺産への登録も決まっているから、そこそこ有名なお祭りなのかもしれない。なんで知らなかったんだろう。

それにしても、この祭で感心するのは、山車を曳く男衆のその数の多さだ。高齢化過疎化で全国的に祭の人出不足が懸念されている昨今、この小さな海辺の町でこれだけの参加者がいることには驚かされる。なにせ、山車を曳くのは誰でも良い訳じゃない。山車は全部で5台。地縁で定められた「組」がそれぞれの山車を受けもち、さらに山車を曳くことはその血縁しか許されないという。そして今の時代では珍しく女人禁制もしっかり守られている。そういった古くからの慣例がしっかりと厳守された上での、この参加者の多さだ。誰でも参加できるわけでもないのに、この多さ。いや、というよりも古くからの「しきたり」が守られいるが故の多さなのかもしれない。きっとこの祭の「しきたり」が持つ結束力のお陰で、若者もこの地から離れることが少ないだろうし、外へ出ていった者も祭時期にはちゃんと帰省して参加するんだろう。素晴らしい。今更ながら祭祀の持つ意味を考えさせられる。



多くの日本人の中には「仏教」と「神道」という二つの宗教観が根づいている。この二つの違いについて、その目的の面でよく言われるのが仏教は「個人の魂の救済」を目的としていて、一方で神道は「コミュニティ共同体の保持」を目的としているということ。

亀崎潮干祭を見ていると、神道としての祭祀がしっかりと機能していることがわかる。

そもそも潮干祭りは「室町時代の応仁・文明年間の頃に亀崎に来着した武家らの発案により、荷車に笹を立て幕を張ったものを神官の指示によって曳き回したのが起源とされている」(wikipedia)という、その目的もよく分からないような祭りだけれど(失礼)、この祭の本質はそこじゃない。血縁や地縁のつながりを重視する祭を行う行為そのものが、コミュ二ティを守る=神道の目的を果たしているんだと思う。祭のお陰で血縁や地縁の結束力を強め、結果としてそれは亀崎の土地、コミュニティを守ることにも繋がる。

これは祭の後に調べて知ったことだけれど、この潮干祭が行われる神前神社東海地方では数少ない「子供の神様」を祀る神社なんだそうだ。そのことからも、この土地の人達がいかにコミュニティを大事にしているかが伺える。



祭祀を観ていると「神に祈る」ということの本質が見えてくる気がする。こんな事を言ってしまったら怒られるのかもしれないけれど、神様に祈ったところで現実的に神様が何か行動を起こしてくれることはない。祈ることの目的は「祈る」という行為がもたらす二次的な何かで、それが祈りの本質だ。

これはわりと昔から考えていることで、いわゆる”宗教的”な感覚を持っていない僕にとって「祈る」ということは「理想の未来を想像する」ことと同義だったりする。理想の未来を想像することで現実的に行うべきことの筋道が立てられる。神様という理想を引っ掛ける為のハンガーがあると、型崩れせずに全体像が見える。それが祈りの本質。

あるいは、祈ることなんて気休めでしかない、というならば「気を休めること」が祈りの本質なのかもしれない。

そして亀崎潮干祭りにおいては、血縁地縁を大事にした祭祀を行うこと、その行為がコミュニティを守ることに繋がる。

祈りや祭祀には、それを行う当事者すら意識していないレベルで理屈っぽい意味があるんだと思う。


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知多半島の東の付け根、地図で見るとかなり奥まで切れ込んだ場所にある亀崎は、浜辺から一望する限り目の前にある水辺が海のようには全然見えない。川だ。ちょっと大きめの川。それでも風が吹くと、その中に薄っすらと潮の香りが混ざっていて、ここが海辺であることを思い出させる。

潮の香りで一足早く夏がやって来た気分になる。 5月の晴れた日。 夏はもう、すぐそこまで来てる。

April 26(Thu), 2018

[] 02:04

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植物園に行ってからクシャミが止まらない。

どの花粉に反応したのか犯人が気になるところだけれど、それを突き止めるにはあまりにも容疑者が多い。花粉症患者的に植物園は治安が悪すぎる。



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こんな夢を見た。

どういう訳だか自分はモンスターに追われている。モンスターは黒く筋肉質で身長が2.5mくらいで(このサイズが妙にリアルだ)翼が生えていた。戦おうなんて気はさらさら起きなくて、とりあえず自宅に逃げ込むのだけれど、モンスターは窓ガラスを割って家に侵入しようとする。このまま家にいては殺されてしまうと判断して、ベランダから裏の家の屋根伝いに逃げるものの、いかんせん自分は靴を履いてない。必死に逃げようとしても小石を踏むたびに激痛が走って思うように走れない。最悪だ、捕まるのはもう時間の問題だ、と泣きベソをかきながら逃げる。 そんな夢だった。

どんな心理状態だとこんな悪夢を見るのか夢診断したいけれど、きっとそこにポジティブな答えはない。だからとりあえず、スニーカーが欲しかったからなぁ、なんて自分で判断して納得している。それ、間違ってないか?

夏っぽいスニーカーが欲しい。



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インターネット配信サービスの進歩で聴ける作品、観れる作品が身の回りに溢れていてむしろ困る。

音楽はApple Musicで聴き放題だし、映画や動画はNetflixYouTubeで見放題だ。さらにラジオradikoでエリアフリータイムフリーで聴くことが出来る。現状で自分は読み物に関しての定額制サービスに登録はしていないけれど、これもきっと時間の問題だと思う。そのうち自分が求めるメディア作品の全てがPC、スマホから手軽にアクセス出来るようになる。その手軽さでは作品と触れ合えることの有り難みは無いに等しい。なんだか寂しい。

基本的には時代の変化には順応していきたいと思ってるし、そもそも各定額制サービスに加入している身分でこんなことを言うのもどうかと思うけれど、この現状はメディア作品の在り方、受け取り方として健全であるとは到底思えない。何の根拠確証もないけれど、そのうちに何かが崩れそうな気がして怖い。

なんてボヤいていたら、オジさんだと言われてしまうんだろうなぁ。



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前野健太 / サクラ

サクラ

サクラ

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年々、良い ‘うた’ を聴きたい、という欲が強くなる。

April 10(Tue), 2018

[] 16:21

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目が覚めると最近にしては珍しく肌寒い朝。反射的にストーブのスイッチに手を伸ばす。灯油ストーブの匂いがゆっくりと部屋を満たしていく。気まぐれな春。冬の残り香。

桜も散ってしまって、きっとこの寒気が過ぎ去ったら春本番なのかもしれないけれど、どうだろう。四月はそんなことを何度か繰り返す。気を抜いていると、また冷たい朝がやって来るかもしれない。季節のグラデーションはいつだって複雑だ。

身支度をして外出。陽射しが暖かい。花粉も多そう。メガネにしてこれば良かったと思いつつ、ポケットの中を手で探りながら、そこに目薬を確認して一安心。電車に少しゆられて、初めて訪れる小さなギャラリーへ。

廃虚の写真展。変わる廃虚展2018。廃墟は嫌いではないけれど、好きと言ってしまうと似非メンヘラ感が出る気がするのは考えすぎだろうか。それもあって廃墟が好きとはあまり言わないようにしている。廃墟を観て廻りたい気もあるけれど、それもちょっとなぁ。やっぱり似非メンヘラ感(なんだそれ)が出る気がする。でも、実際に廃墟展へ来場している人を観察してみるとわりと普通の人たちだった。やっぱり考えすぎなのか。廃墟、行ってみたいなぁ。

なんて事をぼんやり思いながら廃墟の写真を眺めていると、ふと、以前廃墟へ行ったことがある事を思い出した。大きなボウリング場の廃墟だ。もう10年以上前の話。先日、旧友とご飯を食べている時にちょうどその話になったんだ。


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高校からの知人とご飯を食べている時に、たしかホラー映画の話をした流れだったか、僕が幽霊を全く怖がらないという話になった。

「ほら、昔ボウリング場の廃墟にみんなで行った時だってお前、全く怖がってなかったじゃん。」と言われて記憶を遡ってみると、確かにそうだ。僕たちは学生の頃にボーリング場の廃墟へ行った。時間を持て余した夏の夜のこと。ボーリング場は肝試しには十分すぎるくらい暗くて大きかったけれど、あの時、確かに僕は全く怖がっていなかった。恐怖よりも興味が先行していた。

深夜の廃墟なんてB級ホラーで幽霊が現れる定番シチュエーションだ。でも廃墟に得体の知れない魅力を感じていた僕には、幽霊が出るか出ないかなんて関係が無かった。真っ暗なボウリング場を、怖がる知人を尻目にズンズンと進んでいた。崩れそうな木造ならまだしも、そこまで古いわけでもない鉄筋コンクリートボウリング場。多少足元が見えなくても危険はないし、それに僕は幽霊を信じていない。そもそも廃虚と幽霊が僕には結びつかない。怖がる要素なんて何もない。それよりも廃墟を歩くのが楽しい。そんな気持ちでボウリング場の廃虚を歩いていた。それが知人には驚きだったらしい。

いや、こっちからしたらそんなにビビってる知人の方が驚きなんだけど。成人した男子だぞ。


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深夜の廃墟とはいえ、当然幽霊が出るわけでも何かしらのハプニングが起こるわけでもなく終わった深夜の肝試し。でもこの話には後日談がある。

僕らが肝試しをしたすぐ後にこの廃墟は取り壊されることになるんだけれど、その理由が恐かった。解体される旨は新聞にも掲載されていて、読んでみるとそこは大きく「アスベスト」の文字。そう、そのボウリング場の廃墟は人体に有害なアスベストが剥き出しになっていて、近隣へ飛散している可能性もあるという危険な廃墟だった。だから解体作業も慎重を極めて行わないと〜みたいな事が新聞には書いてあたと思うけれど、そんなことより心配なのは自身の健康状態だ。有害なアスベストを吸い込んじゃってはいないだろうか。物怖じせずズンズンと廃墟を闊歩していた事を今更ながら後悔した。幽霊なんかよりよっぽど怖いじゃないか。


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結局、幽霊みたいに実体のないものより、生きている人間が行った事の方ががよっぽど怖い。

これは廃墟の魅力について割と神髄を得ている話かもしれない。例えば10年前の僕達みたいに、「幽霊がいる」かもしれないと考える人はきっと廃墟好きじゃない。それよりも「生きた人間がいた」ことに魅力を感じる人が本当の廃墟好きなんだと思う。廃墟はファンタジーではない。写真展でもファンタジーの世界に飛び込んだような廃墟写真がいくつかあったけれど、僕が惹かれるのは派手さはないものの生々しくてリアルな廃墟写真だ。

かつて、そこに人が居たというリアル。それが伝わる廃墟写真はすごく魅力的だった。