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日記なんで。

2016-09-15 結局僕は報われたい このエントリーを含むブックマーク

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お花畑@カナダ

 会社を辞めて博士課程に戻ってから1年半が経とうとしている。そろそろ「元会社員」というアイデンティティも薄れてきて、単なる一人の博士課程の学生としての実感のほうが大きくなってきた感じがある。これまでの僕は何かと「会社員時代の自分」の「今の自分」を比較し、「会社を辞めてどうだったか」ということばかり考えてきた。それだけ、会社を辞めるというのが悩み抜いた末の選択だったから、考え事も多かったということだ。最近になってようやくそれが気にならなくなってきた。良くも悪くも、会社を辞めた直後の生意気さが薄れてきた。そしてそれと同時に、アカデミアの中での自分の未熟さを痛感するようになった。

 学会のトップを走る研究者達は思った以上に途方もないレベルで戦っている。それに比べると僕なんて本当に何の実績もない末端のゴミくずだ。(それが実感できただけでも、僕は研究に戻ってきてすごくよかったと思う。やっぱり世の中は僕が思っていたほどショボいわけがなかったことに、安心した。尊敬すべき人間がこの世にはたくさんいる。)だから今の僕がやるべきことは、とにかく研究で実績を上げて、ゴミくずを脱却し、天空で戦っているトップ研究者たちに仲間入りすることだ。それは本当に、思っていたよりもはるかに、とてつもなく大変なことだ。それをやるのに、会社員だったかどうかは関係ない。だからもう僕は、会社員を辞めて研究に戻ってきたこと自体に価値を感じようとしなくなった。

 そしてそう思うようになったことで、僕はフラットに「自分は何をやりたいんだろう?」ということを考えられるようになってきた。「会社に比べて研究がどうだ」という話ではなく「そもそもなぜ僕は研究がやりたいのか」という話。僕は性格的に研究者に向いていることは間違いないのだけど、今の研究テーマに特段こだわりがあるわけではなく(そもそも一生同じネタで研究できる幸運を期待すべきでない)、全く別のテーマに取り組むとしても、研究者という仕事を僕は楽しめそうな気がする。でも、それがなぜなのか、きちんと説明できないでいた。

 で、色々と考えたのだけど、あらゆる考えを集約した結果、結局僕が求めているのは、

どれだけ頑張っても損をしない環境

なのだと思うに至った。研究者という職業は「論文」という極めて属人的で客観的な指標によって、そのパフォーマンスを評価される。やればやるだけ成果が出るし、どれだけやっても「やりすぎだ」とは言われない。好きなだけとことんやればいい。この「頑張りが全て論文として形になる」という単純システムが、僕が研究者という職業にあこがれを感じる理由になっているのだと思う。僕は、研究者論文業績リストを眺めるのが大好きだ。声の大きさや政治力にモノを言わせるだけでは達成しえない、その人が本当に人生を賭けて成し遂げてきた仕事が、静かにリスト化されている。本当に美しい。

 僕はこれまでにも散々「命懸けで働きたい」ということを書いてきたように、常に自分の出せる実力の上限で働きたいし、そのパフォーマンスで評価をされたいと思っている。以前働いていた会社は、はっきり言うと(違うという人もいるかもしれないが少なくとも僕はそう感じた)、率先して一生懸命仕事をすると損をする仕組みになっていた。「いかにこだわるか」でなく「いかに手を抜くか」を考えることが推奨されているのでは思うことすらあった。様々な愚痴はあるけれど、結局僕が耐えられなかったのはそこに集約されるのかもしれない。もちろんそれに耐えて戦い続けて、会社の力を利用して大きな功績を上げる人間もいた。だけど僕は、そんな苦労をするのなら、一人でもいいからすぐに結果がでる世界で働きたいと思った。「一生懸命やっても大丈夫」という環境で心置きなく自分の本気を出して、それで褒められたり、ボコボコにされたりしたかった。逆に言えば、その条件さえ達成できていれば、僕の選択は必ずしも研究者でなくてもいいのではと思う。

 僕の論文業績リストはまだスカスカだ。今こんなに頑張っているのに、トップ研究者からみればゴミ以下の業績しかない。そして一生懸命アウトプットを出すことでしか、ゴミを脱却する方法はない。この論文リストを拡充していく人生。とてもかっこいい。

2016-08-20 なぜ前を向くのか このエントリーを含むブックマーク

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祈願@立木山寺


 「楽観的な人は人生上手くいく」というのはよく言われる。確かに、楽観的で根拠のない自信を持ち続けられるというのはとても強い。自信があるから、色んな人をどんどん巻き込み人脈を広げられるし、自信があるから、失敗を恐れずに色々な可能性を模索できる。もちろんそうやって、闇雲に人脈を広げたり、リスキーな挑戦をすることで、失敗することもある。そういう失敗をあげつらって、楽観的人間が嫌いな人間は叩く。だけど、楽観的人間の本当のすごさは、そうやって失敗して叩かれても、そこから短時間で立ち直り、前向きになれるところだと思う。楽観的人間の根拠のない自信というのは、思考のかなりコアな部分に存在する自律的な存在だ。だから簡単には消えないし消せない。そして、そういう自信を持ち続けられる楽観的人間のほうが、自信が無くて人見知りで失敗を恐れて挑戦をしない人間よりも、結果として多くの成功と失敗を積み重ねられて、経験豊かな人間になれて、より社会的な地位の高い、よりバランスの取れた思考ができる、より幸せな人間になれるのだと思う。どのみち、自信というものは常に根拠のないものだ。だったら、無いよりあったほうがいい。悲観的よりは楽観的なほうが良い。それは、多分正しいことだ。

 さて、自分の話。この話に当てはめると、僕は楽観的だと思われることが多い。たしかに僕はこれまでの人生で、高い目標に躊躇なく努力を注ぎ込んでうまくいったことが多いほうで、それができたのは「自分ならできるはずだ」という気持ちがどこかにあったからこそだと思う。安定した会社員を辞めて不安定な研究の道で夢を追いかける選択をしたのも、心の底のどこかで、勝算が無ければできない。そう思えばたしかに僕は「根拠のない自信に満ち溢れた人間」に見えるのかもしれない。

 だけど、どう考えても、僕の心の根本にあるのは「楽観」ではない。僕はむしろ、楽観的人間の考え方があまり好きではない。今はそうは思わないけど、かつては楽観的人間を、お気楽な考え方で上手く世渡りをしているだけの、周囲の苦労や苦悩に鈍感で、世の中の理不尽さや不確実性に興味のない、浅い人間だと見下していたこともあった。僕の心の根本にあって、僕を動かすエネルギー源になっているのは「楽観」ではなくて「悲観」だ。僕は常に最悪を考えて生きている。最悪を考えれば考えるほど、不安になって、もっと色んなことをしっかり見て考えたい、後悔のしようが無いほどあらゆる選択肢を慎重に吟味し、少しでもベストだと思う道を選びたいと思うようになる。下を見すぎて、前を向くことでしか安心ができない。だから、根拠のない前向きの自信にも見えるエネルギーが湧いてくるのだと思う。

 世の中はどんどん変わる。自分もどんどん変わる。ずっと同じわけない。そんな不確実な世界で、少しでもたくさん考えて、少しでも将来苦しい目に合わないと思われる選択をすることで安心したい。もし、どうしてもいつか味わうことになる苦しみがあるのであれば、少しでも早いうちに味わって安心しておきたい。そのために決断をし、行動する。未来が楽しみだから決断をするのではなく、未来が怖いから決断をする。決断をしないのはもっと怖い。決断できる選択肢が無くなるのはもっともっと怖い。だから僕は常に、未来の選択肢を最大化する選択肢を選択し続けてきた。選択肢は多ければ多いほうがいいと信じ続けてきた。選択肢は放っておくと勝手に減っていく。だから、多くの選択肢を維持し続けることはコストがかかる。でもそのコストは、未来の不確実性への不安を和らげるのに払う保険料みたいなものだと思う。選択肢の多さは、不確実な未来に対する保険だ。僕は会社を辞めた。それは「このまま会社にいて選択肢が減っていって、不確実な未来を生き残れるのか」という不安に耐えられなくなったからだ。安定した身分にしがみつくしかなくなって「嵐なんかくるわけない」と信じ続け、ある日突然船ごと沈むのが怖かった。それよりは、若くて体力があるうちに、一人で大海に泳ぎ出して波にもまれることで、少しでも嵐を生き残る準備が進められるのではと思った。それで、給料と正社員の身分を捨てた。それは保険料だ。高い保険料だ。もしかすると嵐はずっと来ないかもしれない。来なかったら馬鹿にされるだろう。でも僕は、嵐はみんなが思っているよりも簡単に起こるものだと思っていて、保険料(と自分が思っているもの)を払って安心を買うしか方法が無かった。

 未来は本当に不確実だ。税金研究者ができる時代がいつまで続くだろうか。高齢化社会が破たんする日はいつくるのだろうか。次の大災害大地震だろうか、ミサイルだろうか。世界は、日本はいつまで平和なのだろうか。機械が人間の代わりになって判断しまくる日はいつくるのだろうか。僕は自分が生きている間に、世界がグチャグチャなことになっても楽しく冷静でいられるように、これからも最悪を想定し続け、選択肢を増やし続ける努力をする(保険料を払い続ける)ことでしか、自分の心の安定を保つことができない。今の僕は、選択肢を最大化するための選択をしてきた結果、大きな自由を手にしている。博士課程の学生というのは、本当に自由なのだ。何を考えても、何をしてもいいし、しがらみもない。全ては自分の行動あるのみだ。楽しい。だけど、ただ楽しんでいるわけにはいかない。楽しみながらも、この自由を使って、できるだけ色んなことを考えて、色んな人に会って、色んなことをやって、将来の選択肢をさらに拡大して安心しなければならない。今やっている研究は楽しいし、将来できるところまで研究をやりたいと思っている。だけど、一生研究できるなんて全然思っていない。10年後には、とんでもないところで、とんでも無い仕事をしているかもしれない。20年後なんてもっと分からない。まったく分からない。人間は3年もあれば全然違う仕事でも適応できる。それは自分で経験した。それくらい、未来は不確実で、人生は長い。でも選択肢は放っておくと減っていく。だから選択肢を減らさないために、頑張り続けるしかない。それは、根拠の無い自信に基づく楽観的行動ではなく、将来辛い目に遭いたくないから保険料を払っているだけだ。

 ちなみにこの文章は、明日からの海外出張(時差13時間)の時差ボケで苦しむのが怖くて、日本にいる間に現地時間に適応し、時差ボケの苦しみを先取りする取り組みの一環で夜更かししている時間に意識朦朧の中で書いた。辛いこと、苦しいことは先取りして安心するに限る。

大学生大学生 2016/08/26 22:03 ブログを拝見して、本当に自分の頭で人生をよく考えているな、という印象を受けます。理学をやっている大学4年生ですが、最近自分の将来について悩むことが多くなり、悩んでいるだけで前に進めない自分が腹立たしく思います。主さんのように常に自分の頭で考え続け、自分の人生を実りあるものにしていけるようにしたいものです。

2016-08-05 歳をとると小脳で生きる時間が増える このエントリーを含むブックマーク

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超撥水@ハスの葉

 気づいたら朝起きていて、気づいたら朝食を食べていて、気づいたらトイレでスマホを触っていて、気づいたらお尻をふいていて、気づいたら水を流していて、気づいたら着替えていて、気づいたら寝癖を直していて、気づいたら靴を履いて、気づいたら家を出ている。職場についてからは、それなりに頭を使って仕事をしているつもりだけど、気づいたら昼食を食べ始めていたり、気づいたら喉が渇いてコーヒーを入れていたりすることがよくある。そして家に帰って、気づいたら夕食を作って食べていて、気づいたらシャワーを浴びていて、気づいたら布団の中でYoutubeを見ながら眠りについている。

 幼稚園の頃は、着替えたりトイレに行ったり靴を履くのですら大脳をフル稼働させるべき大仕事だったはずだし、小学生の頃は、毎食「いただきます」といいながら意識的食事を開始していた。一人暮らしを始めた当初は、毎朝支度を抜かりなく済ませ、毎晩夕食を作って食べるために一生懸命頭を使っていたし、スマホが出てきた当初は、トイレで携帯をいじったり、布団の中でYoutubeを見るという行為自体がイレギュラーで緊張を伴う行為だった。だけど、今、ふと気づいたときに、それらを無意識的に済ませてしまっている自分に気が付くことがある。こういう状態を僕は「小脳で行動している状態」と呼んでいる。実際には小脳だけを使っているわけではないと思うのだけど、「大脳使ってない」という感覚が分かりやすいから、そう呼んでいる。

 歳をとればとるほど、日常の様々な行動がルーチン化してきて、小脳で行動する時間が増えてくるように思う。もう、食事もトイレも靴や服の脱ぎ履きも、何千回もやっているのだからしょうがない。生きてきた時間が長くなればなるほど、そうやって頭を使わない、作業みたいな時間が増えてくるのだと思う。

 それで、本当に小脳で完璧にこなせるのであれば、単純に大脳の負担が減るだけなので、いいのかもしれない。だけど実際はそんなことなくて、しっかりと頭を使って考えない分、少なからずエラーも起こりうる。例えば先日、気づいたら箸を左右で違うセットのままご飯を食べ終えてしまっていたし、もっと怖い話では、車の運転しているときに、青信号を無意識的に通過していて、直後に「今信号本当に青だったっけ?」みたいに考え直すことがあったりもした。一歩間違えば重大な結果を招きかねない、免許取得直後にあれだけ緊張していた運転ですら、小脳化されてしまっていたという事実に、僕は大きな恐怖と反省を感じた。

 今僕は20代後半だけど、今ですらこうなのに、50歳とか60歳とか、このまま歳をかさねていくと、一体どうなってしまうのかと想像すると、とても恐ろしい。そのうち、人の相談にのったり、誰かと話して何かを決めたりといった行為すら、小脳テリトリーになってしまいそうだと容易に想像できる。今どれだけ大脳をフル稼働させて一生懸命にやっていることでも、20年とか30年とかのレベルでやりつづけたら、きっと小脳に任せるようになる日が来るのだろう。そしてその延長線上に、老害とか痴呆と呼ばれる状態があるのではないかということも、僕は想像してしまう。だから僕は、歳をとっても色んなことが適当にならずに大脳を使い続けられている人は、本当に努力してきたエネルギッシュなすごい人だと思うし、できることなら自分もそういう歳の取り方をしたいと思う。

 こういうことを考えるようになって、僕はできるだけ、身の回りの無意識的な出来事について、改めて深く考え、意識するように努力をはじめた。電車やバスに乗っているときは、小脳スマホのニュースをチェックしそうになるところを大脳で抑えつけて、周りの人の様子や景色を観察して、できるだけ変化や考察を感じるとるように意識する。スーパーで買い物をするときは、小脳で定番の具材を揃えようとする前に、何か新しい具材を試す余地がないか、売り場を見回してみる。食事をするときも、小脳が給油のごとく食物を口に運ぶのを抑えつけて、いただきますを言って、味わいながら1品ずつ食べてみる。もっとしょうもないところだと、できるだけ電卓を使わずに暗算で計算する、とか、できるだけGoogle Mapを使わずに目的地に到達する、とか。そうやって、あえて大脳が疲れることをやってみないと、放っておくとどんどん小脳に生活を侵食されてしまうような恐怖を感じる。変化の激しい環境に身を置いたり、アウトドアやスポーツといった不確実性の高い趣味を続けることも、小脳支配を遅らせるために効果的な気がしている。

 いずれにしても「大脳 VS 小脳」という二項対立のもと、小脳支配される恐怖におののくことは、色んな事を改めて見つめなおし、一生懸命になろうという気持ちにさせてくれる、なかなか便利なアイデアだと思う。

2016-07-12 ネガティブとポジティブのシナジー このエントリーを含むブックマーク

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2羽のコンコルド

 人間の性格をベクトルで表したとき、ベクトルの向きを変えるのがネガティブな感情であり、ベクトルの長さを伸ばすのがポジティブな感情だと思う。だから、人が一番変わるのは、現状を否定されて足止めされて打ちひしがれているところに、かすかな光が見えてきた時なのだと思う。良い教育者とは、そうやって自然に他人を導くことができる人だと僕は思う。大人だろうと、子供だろうと、他人を動かしたい・変えたいのであれば、頭ごなしに説得したり叱りつけたりするんじゃなくて、外堀を埋めて自己嫌悪に落とし込んだあと、ちょっと褒めて前向きにさせてあげればいいのだと思っている。

 さて、お金が無い現状を嘆くフェーズも一巡して、現実を受け入れはじめていたところで、思うように進んでいなかった論文の筆が進みだして、まさに今、ネガティブとポジティブが組み合わさって新しいフェーズに進みだした気がしてきたところだ。こういう気持ちを新たにした。

莫大な金銭的機会損失と引き換えに、これだけの自由を手に入れた。だとすれば、これだけの自由がなければ絶対に到達できないレベルの仕事をしなければならない

 老後に趣味ででもできそうなレベルの研究や、ちょっと金と時間を積めば誰でもできるレベルの研究ではダメだ。人生を捧げるのに、その程度の研究で終わるわけにはいかない。付け焼刃ではない、命懸けレベルでやらなければ到達しえない領域というのは、どのような仕事にも、必ず存在すると思う。給料を人と比べて将来を心配するヒマなんかあるんだったら、自分のやっていることが、将来本当にそういうレベルの仕事に発展しうるのか、平凡な研究に終わってしまわないか、ということのほうが、よっぽど心配事であるべきだ。

 ギアが変わった。小さい頃から、僕が成長するのは、いつも激しい自己嫌悪に襲われた後だ。これは定期的なイベントだったのだ。

2016-07-03 自己嫌悪ループから抜け出すための文章 このエントリーを含むブックマーク

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アジサイの森@三室戸寺

 論文書きや申請書書きが山積していて、のんびりしているヒマは無いのだけど、どうにもこうにも、腹が立って悔しくて、仕事に手がつかないので、長文を殴り書く。

 退職して学振で研究の世界に戻ってきて1年3か月が過ぎた。仕事は順調だ。復帰後初となる論文も納得いくレベルのジャーナルに通せたし、さらなる大作となる予定の次の論文を、分野のトップジャーナルに通すべく、日々実験と論文執筆に勤しんでいる。さらにその先、今の研究を発展させ、新たな研究領域を切り拓いていけるかもしれない手ごたえもつかめてきた。少なくとも、5,6年先くらいまでは、やるべきことが明確になっている。土日は遊びたくてしょうがなかった会社員時代とは違って、土日も仕事を前に進めたくてしょうがない。趣味や旅行に遊びに誘ってくれる人がいるおかげで休日を作れているけど、無ければ365日働き続けていると思う。それほど、人生と仕事が一体化していて、楽しい状態だ。

 じゃあ何が悔しくて腹が立つのか。単刀直入に言えば、お金の話だ。正確に言えば、お金の話をしてしまう自分に悔しくて腹が立っている。僕がお金の話をすると「またか」と思われそうだ。今の職場では、僕は周りの大学院生に比べて、公私において、何かとお金の話を好むキャラとなっている。それは、僕が会社員経験を経て、お金の力を十分に知ってきたからというのもあるし、基礎研究と言えど今時はスピードと技術がモノを言う、お金を上手く使った人間が成功する世界になってきていると感じているからというのもある。

 だけどそれ以上に、僕がお金の話をしてしまったり、それで悩んでしまったりする圧倒的な理由は、「会社員の仕事ぶり・生活ぶりを知ってしまっていて、どうしてもそれと比較してしまう」というのがある。僕はこの話をするときは色々予防線を張ってからにするのだけど、ここではその必要は無いと判断して、単刀直入に言う。「レベルの低い仕事で給料を安定してたくさんもらえる」というのが、僕の中での会社員像になってしまっているのだ。一方でアカデミアでは「レベルの高い仕事をしている人間が信じられないくらい低い給料で働いている」のを日常的に見ることができる。もちろん、自分の観測範囲の話を安易に一般化すべきでないというのは分かっている。だけど少なくとも「僕はその両極端の事例を見てしまった」という点において、また、自分自身「身分不相応な高い給料をもらう立場から、仕事不相応な低い給料をもらう立場まで経験した」と感じているという点において、その二つを比較して、悪態をつく権利くらいはあるのではないか、と思ってしまうのだ。

 こんなことを言うと「会社員馬鹿にすんな」という声が聞こえてきそうなので、3つ言い訳をしておきたい(やっぱり予防線を張る)。一つは、僕は会社員個人に対してそのような感覚を持っている訳ではなく、会社のシステムに対してそう思っているということだ。かつての自分も、多くの友人も、自分の親だって会社員だし、会社員個人に対しては何の否定的感情もない。新卒採用終身雇用年功序列も、理不尽な点は多々あれど、会社だけでなく、社会の安定に貢献する素晴らしい制度であり、多くの人たちがそれによって幸せに生きられているということはよく理解している。ただ、今の自分の環境と比較してしまう対象として、かつて自分が所属し、目の当たりにしてきた、一般的な(大企業の)会社員という生き方を想像してしまうというだけだ。

 もう一つは、「レベルが低い」というのは僕の偏った視点からの評価でしかないということだ。ここで僕が言うレベルとは「こだわりが込められている」「知識・技術がすごすぎて鳥肌が立つ」というような抽象的かつ精神的な指標であって、「売上」という絶対的な指標で動いている一般的に会社員からすると「不要なこだわり」だと思われているモノたちだ。だから多くの会社員にとって理想の「誰がやっても楽にたくさん稼げる仕事」も、僕からすれば、誰でもできてしまう、こだわりの感じられないレベルの低い仕事になってしまう。600%の努力を割くのなら、10個の60%で効率よく稼ぐよりも、6個の100%で人に鳥肌を立てさせたい、とか考えてしまう。まぁ、こんなんだから会社が合わなくて辞めたんすけどね。なので、「レベルが低い」という刺激的な言い方をしたけれど、それは上述のような、会社ではむしろ仕事ができないとされる人間が考えるような、非効率で精神論的な観点からの意見でしかない。それに僕は会社員生活を通じて、お金を稼ぐことの大変な面も、「稼ぐ」という行為が持つ説得力の強さもそれなりに見てきたつもりで、「稼いでない奴が何を偉そうに、自分で稼いでみろよ」といわれると、自分みたいな基礎研究者は黙るしかないことも分かっているつもりだ。

 そして最後の言い訳は、だからこそ、こういう事を考えてしまう自分自身を、僕は全く正当化していなくて、むしろ自己嫌悪を感じているということだ。会社員は「需要に応えてお金を貰う」という価値基準に忠実に仕事をこなし、正当に稼ぎ、正当に給料を得ていて、それにより経済が周っている。そしてそれによって、自分のような基礎科学研究者が食わせてもらえるだけの社会的な余裕が生み出されている。それについて僕は何一つ否定する権利はないし、感謝しなければならない。にも関わらず、その仕事を「レベルが低い仕事で安定して給料もらいすぎ」と評し、見下したり、比べたりしてしまう自分。とても浅ましくてみじめだ。そんなことは、良く分かっている。

 だけどそれでも比べてしまう。年収240万社会保険無し副業禁止という学振DCの待遇。悔しいけど、どうしても他人比べてしまい、差を感じずにはいられないときがあるのだ。会社を辞めて給料は半分以下に減った。けど別に僕は今の給料を2倍にしてほしいと言っているわけではない。アカデミアは自分では稼げないから、民間より給料が低いのはしょうがないと思う。直接稼いでいる人のほうがたくさんもらえるのは当たり前だ。でもだからといって、そんなに冷や飯を食わされることをやっているのだろうか。基礎研究が、50年先の未来に当たり前になっているものを研究しているかもしれないことは、周期表、重力、電気、遺伝子が発見された当時、何の役に立つか理解されなかったことを考えても想像できるだろう。もし自分の研究への投資意義を説明する機会を頂けるのであれば、僕はどこへ呼ばれたって行って説明対話する意欲も自信もある。決して遊びのつもりでやっているわけではないし、雇用の保証が無いなか、文字通り命を懸けてやっている。だからせめて、お金のストレスで研究やライフプランに支障が出ないくらいの給料、例えば300万円台前半(20代後半の平均年収)くらいは頂きたい、と思うことはやはり贅沢なのだろうか。休日に研究関連の仕事のお手伝いをやっても、副業禁止規定で給料を受け取れない。そうでなくても、奨学金の返済や、逆公私混同の自腹出張などの研究に絡む出費も多い。毎月ギリギリの家計なので、いつ病気したり、車が壊れたりして、生活が回らなくなるのかも分からない。休日に民間に勤める友人に誘われても、同じようにお金を使って遊ぶことができない。お金が無いから結婚できない人が増えているというけど、最近僕もその気持ちはとても分かる。そして今、税金や保険の支払いなどの出費が立て続けにきて、海外出張の立替もしているせいで、完全に資金が底をついて、会社員時代に長期資産として溜めておいたお金に手を付けなければならなくなった。証券会社に入れておいたお金を引き出すときに、何とも悔しく情けない気持ちになって、「僕がやっていることはそんなに価値が無いことなのだろうか」と自問した。会社にいたときはあんなに楽に沢山稼げていたのに。そしてまだあと1年半以上、どれだけ成果を出しても、今の給料は変わらない。ふと「自分の選択はやっぱりアホだったのだろうか」と、考えないようにしていたことが頭の中に浮かんでくる。

 そしてこうして頭の中で思考が一巡した後、自分を棚に上げて、給料を他人と比較してあーだこーだ言っている自分に再び自己嫌悪する。何百年ものあいだ、金持ちの道楽でしかなかった基礎研究で、給料を貰えるという時代・環境に生まれた時点で、人類史上最高の運の良さに恵まれているのに、僕は何を嘆いているんだ。もっと苦しい経済状況の人たちがたくさんいるなか、毎日十分寝られて、月に額面20万円ももらえるだけで、とても贅沢ではないか。今一流の科学者だって、学生時代は同じように貧乏だったはずだ。僕より業績があるのに給料が低い研究者だっていくらでもいる。会社辞めて起業して成功した人だって、最初の数年は貧乏だったに違いない。自営業の人達だって、研究者以上に命を懸けで仕事をしているはずだ。自分ごときが、この程度の業績で、なにを偉そうなことを言っているのだ。

 そうやって考えて、納得したつもりになりかけたところで、冷静になり、再び、他人との比較でしか自分を動機付けられない自分に自己嫌悪を抱く。自分より楽に生きている人をみて嫉妬し、自分より報われてない人を見て納得する。浅ましい。そしてこうして、悔しさと自己嫌悪との間を行き来し、研究に手がつかない自分に、さらにどうしようも無い自己嫌悪が襲う。何をくだらないことに悩んでいるのだ。やりたい研究が順調に進んでいて、死なないくらいのお金をもらっているのだから、それだけで贅沢すぎるではないか。人と比べようとすることが間違っているのだ。

 だけど、両極端の世界を経験してしまって、知ってしまった以上、もう、比較をせずに生きるというのはとても難しいのだ。最近思うのは、僕は会社員時代の自分の苦労を過小評価しはじめているのかもしれないということだ。お金のことばかり考えすぎて、「楽に稼げるつまらない会社員」と「給料低いが充実している研究者」という2項対立のなかで、後者を選択した自分の姿に納得することに必死になっているのではないか。本当に浅ましくて考えるのも嫌になる。考えないようにしたい。でも、お金が無いフェーズにさしかかると、どうしても不安になって、比較してしまって、考えてしまって、仕事に手がつかなって、苦しい気持ちになる。だから今、これを書いてスッキリしようとしている。

 今思えば、会社員時代だって、僕は年功序列終身雇用の恩恵に与る働かないオジサマ達と給料を比較して悪態をつく若手社員の一人だった。今の自分から見れば、そんな僕も、新卒採用という、未経験の人間に高給を支払う超絶優遇制度の恩恵に与っているだけの同じ穴のムジナだ。僕は、どこに行っても人と比べてしまう浅ましい人間だということだ。だから、人と比べても何も生まれないし、ろくなことがないということを理性で理解して、感情を抑えつけるしかない。たとえ過去に運よく2倍以上の給料を貰っていた時代があったとしても、それは僕の実力ではないし、たとえ自分よりも明らかにレベルの低い人が給料をたくさんもらっていることを知っていたとしても、それは何の関係もない。今僕がこの給料でしか働けないのは、今の僕に実績が無いからに他ならず、自分の手でこの状況を打開できないのであれば、何のせいにもできない。だから、ちょっと、出費が重なったタイミングで懐が苦しくなって、深く考えすぎただけだということにする。そして、自分の研究で世間が鳥肌を立てる日を夢見ながら、研究で人並みに給料が頂ける日を期待しながら、引き続き頑張ることにする。さて、今度こそ抜け出した。仕事に戻ろう。

ktkrktkr 2016/07/04 07:30 http://kocho-3.hatenablog.com/entry/2015/08/27/045608
出家者の悩み。世の中から広く喜捨を募るのも、一つの手かと。寄付文化があるアメリカでは、ドクターの待遇が良い。日本人の文化の問題のような…

tomotsaantomotsaan 2016/07/04 08:29 仏教と科学が似ている・・・面白い話ですね。本読んでみようと思います。そもそも、基礎研究を税金でサポートするという試み自体、まだ歴史浅いですし、本来科学とは宗教みたいなものなのかもしれませんね。研究費の足しにするために一般向けの科学本を書いているような研究者もいますし、自分もまだまだできることはありそうです。

文化的な意味でいうと、総じて「情報・技術・サービスを正当な対価を払わず得ようとする」文化が、基礎科学の待遇の低さ含め、日本の色々な問題の根本にある気がしますね。

ktkrktkr 2016/07/04 21:36 科学は、論理という神を持つ宗教でしょう。でも、今の日本人は、お金と場の空気、という別の神を信仰している。宗教である以上、それを信じることで、その人の生活が豊かにならなければならない。お金や場の空気は多くの人が理解して利用できるが、科学を含めた情報・技術・サービスは万人が理解して使いこなせるものではない。単純に、信者が少ないのではないかと。仏教の禅も、万人が理解できるものでは無いと思っている。

tomotsaantomotsaan 2016/07/04 22:34 相変わらずフィロソファーで面白いですね。
むしろ僕は、日本人はお金を神にしきれていないところが、良いところでもあり、悪いところでもあるような気がしますね。お金が絶対神になれば、あらゆるものが有料になって、値上げして、デフレも脱出できるはずです。その代わり、日本人的なサービス精神は失われてしまいそうですが。
僕は科学者ですが、論理神だけではなく、感情神や拝金神もバランスよく崇拝する多神教をとなえることで、信者の拡大を図りたいと思います。

casper.netcasper.net 2016/07/06 10:36 先日はコメントを返していただきありがとうございました.
私もDC取得こそしたものの,同様に経済面に関しては厳しいです.
(税金,年金,健康保険ががががが・・・・)

ですが,働きながら社会人ドクターとして研究活動をした際の機会費用を考えるとおつりがくると考えております.

私は工学分野なので周りに社会人ドクターが多いのですが,皆さん二足のわらじは余裕持てず,研究のアイデアが纏まらないとおっしゃっていました.(そういう優秀な方々は抱える仕事の量・責任も大きいはずですし...)

>自分より楽に生きている人をみて嫉妬し
でもその方より「俺のほうが"楽しい"人生を送れている」という自信は持てますよね.私は持てます(笑)

tomotsaantomotsaan 2016/07/06 20:00 コメントありがとうございます。社会人ドクターを見てなお、そう思えるのは良いですね。
私は周りに社会人ドクターがいないので頭の中での会社員像がどんどん都合のよいように塗り替えられていっているような気がします笑