Hatena::ブログ(Diary)

日記なんで。

2016-10-20 生意気の前提化 このエントリーを含むブックマーク

f:id:tomotsaan:20161015173456j:image

満月瀬田川

 僕は生意気な若者にやさしい。生意気な若者が好きだ。応援したくなる。それは、自分自身も生意気であったからだ。大したことないことを大したことのように取り上げることで自分の存在価値を確認しようとする、あの生意気な感じだ。考えるだに、あの若々しい生意気さは、悔しいしダサい。でも、今タイムマシンで過去の自分に戻れたとしても、僕はやっぱり生意気に振る舞うことしかできないだろう。あの時点の自分は、あの時点でできることを精一杯やっていて、あれ以上うまくやることなんてできそうになかったからだ。それは過去だけの話ではない。今の自分だってそうだ。今、過去の自分を振り返って「ああ大したことないことにこだわって生意気だったなぁ」と思っている自分自身、常に数か月後の自分自身に「ああ生意気だったなぁ」と思われている。今の自分にとって大したことでも、時間が経って慣れてくると、大したことなくなっていくのは、まぁ当たりまえのことだ。だからいつまで経っても、僕は将来の自分から見ると生意気な人間のままということになる。そういうどうしようもない経験を繰り返して学んだのは「だったら意識的に生意気になろう」という逆転の発想だ。「必死にやっているつもりが後から見れば生意気だった」というのは悔しいしダサい。だったら「将来の自分から見れば今の自分が生意気なのは分かってる、でもやるんすよ」という前提化メソッドでメタに立つことでプライドが傷つくのを防ぐと同時に、根拠の無い全能感を躊躇なく引き出して機動力を高めるほうが、健康的に自分の可能性を最大化できるのではないだろうか。ああ、なんて生意気なことを言っているのだろう。

2016-09-15 結局僕は報われたい このエントリーを含むブックマーク

f:id:tomotsaan:20160824132255j:image

お花畑@カナダ

 会社を辞めて博士課程に戻ってから1年半が経とうとしている。そろそろ「元会社員」というアイデンティティも薄れてきて、単なる一人の博士課程の学生としての実感のほうが大きくなってきた感じがある。これまでの僕は何かと「会社員時代の自分」の「今の自分」を比較し、「会社を辞めてどうだったか」ということばかり考えてきた。それだけ、会社を辞めるというのが悩み抜いた末の選択だったから、考え事も多かったということだ。最近になってようやくそれが気にならなくなってきた。良くも悪くも、会社を辞めた直後の生意気さが薄れてきた。そしてそれと同時に、アカデミアの中での自分の未熟さを痛感するようになった。

 学会のトップを走る研究者達は思った以上に途方もないレベルで戦っている。それに比べると僕なんて本当に何の実績もない末端のゴミくずだ。(それが実感できただけでも、僕は研究に戻ってきてすごくよかったと思う。やっぱり世の中は僕が思っていたほどショボいわけがなかったことに、安心した。尊敬すべき人間がこの世にはたくさんいる。)だから今の僕がやるべきことは、とにかく研究で実績を上げて、ゴミくずを脱却し、天空で戦っているトップ研究者たちに仲間入りすることだ。それは本当に、思っていたよりもはるかに、とてつもなく大変なことだ。それをやるのに、会社員だったかどうかは関係ない。だからもう僕は、会社員を辞めて研究に戻ってきたこと自体に価値を感じようとしなくなった。

 そしてそう思うようになったことで、僕はフラットに「自分は何をやりたいんだろう?」ということを考えられるようになってきた。「会社に比べて研究がどうだ」という話ではなく「そもそもなぜ僕は研究がやりたいのか」という話。僕は性格的に研究者に向いていることは間違いないのだけど、今の研究テーマに特段こだわりがあるわけではなく(そもそも一生同じネタで研究できる幸運を期待すべきでない)、全く別のテーマに取り組むとしても、研究者という仕事を僕は楽しめそうな気がする。でも、それがなぜなのか、きちんと説明できないでいた。

 で、色々と考えたのだけど、あらゆる考えを集約した結果、結局僕が求めているのは、

どれだけ頑張っても損をしない環境

なのだと思うに至った。研究者という職業は「論文」という極めて属人的で客観的な指標によって、そのパフォーマンスを評価される。やればやるだけ成果が出るし、どれだけやっても「やりすぎだ」とは言われない。好きなだけとことんやればいい。この「頑張りが全て論文として形になる」という単純システムが、僕が研究者という職業にあこがれを感じる理由になっているのだと思う。僕は、研究者論文業績リストを眺めるのが大好きだ。声の大きさや政治力にモノを言わせるだけでは達成しえない、その人が本当に人生を賭けて成し遂げてきた仕事が、静かにリスト化されている。本当に美しい。

 僕はこれまでにも散々「命懸けで働きたい」ということを書いてきたように、常に自分の出せる実力の上限で働きたいし、そのパフォーマンスで評価をされたいと思っている。以前働いていた会社は、はっきり言うと(違うという人もいるかもしれないが少なくとも僕はそう感じた)、率先して一生懸命仕事をすると損をする仕組みになっていた。「いかにこだわるか」でなく「いかに手を抜くか」を考えることが推奨されているのでは思うことすらあった。様々な愚痴はあるけれど、結局僕が耐えられなかったのはそこに集約されるのかもしれない。もちろんそれに耐えて戦い続けて、会社の力を利用して大きな功績を上げる人間もいた。だけど僕は、そんな苦労をするのなら、一人でもいいからすぐに結果がでる世界で働きたいと思った。「一生懸命やっても大丈夫」という環境で心置きなく自分の本気を出して、それで褒められたり、ボコボコにされたりしたかった。逆に言えば、その条件さえ達成できていれば、僕の選択は必ずしも研究者でなくてもいいのではと思う。

 僕の論文業績リストはまだスカスカだ。今こんなに頑張っているのに、トップ研究者からみればゴミ以下の業績しかない。そして一生懸命アウトプットを出すことでしか、ゴミを脱却する方法はない。この論文リストを拡充していく人生。とてもかっこいい。

2016-08-20 なぜ前を向くのか このエントリーを含むブックマーク

f:id:tomotsaan:20160505103959j:image

祈願@立木山寺


 「楽観的な人は人生上手くいく」というのはよく言われる。確かに、楽観的で根拠のない自信を持ち続けられるというのはとても強い。自信があるから、色んな人をどんどん巻き込み人脈を広げられるし、自信があるから、失敗を恐れずに色々な可能性を模索できる。もちろんそうやって、闇雲に人脈を広げたり、リスキーな挑戦をすることで、失敗することもある。そういう失敗をあげつらって、楽観的人間が嫌いな人間は叩く。だけど、楽観的人間の本当のすごさは、そうやって失敗して叩かれても、そこから短時間で立ち直り、前向きになれるところだと思う。楽観的人間の根拠のない自信というのは、思考のかなりコアな部分に存在する自律的な存在だ。だから簡単には消えないし消せない。そして、そういう自信を持ち続けられる楽観的人間のほうが、自信が無くて人見知りで失敗を恐れて挑戦をしない人間よりも、結果として多くの成功と失敗を積み重ねられて、経験豊かな人間になれて、より社会的な地位の高い、よりバランスの取れた思考ができる、より幸せな人間になれるのだと思う。どのみち、自信というものは常に根拠のないものだ。だったら、無いよりあったほうがいい。悲観的よりは楽観的なほうが良い。それは、多分正しいことだ。

 さて、自分の話。この話に当てはめると、僕は楽観的だと思われることが多い。たしかに僕はこれまでの人生で、高い目標に躊躇なく努力を注ぎ込んでうまくいったことが多いほうで、それができたのは「自分ならできるはずだ」という気持ちがどこかにあったからこそだと思う。安定した会社員を辞めて不安定な研究の道で夢を追いかける選択をしたのも、心の底のどこかで、勝算が無ければできない。そう思えばたしかに僕は「根拠のない自信に満ち溢れた人間」に見えるのかもしれない。

 だけど、どう考えても、僕の心の根本にあるのは「楽観」ではない。僕はむしろ、楽観的人間の考え方があまり好きではない。今はそうは思わないけど、かつては楽観的人間を、お気楽な考え方で上手く世渡りをしているだけの、周囲の苦労や苦悩に鈍感で、世の中の理不尽さや不確実性に興味のない、浅い人間だと見下していたこともあった。僕の心の根本にあって、僕を動かすエネルギー源になっているのは「楽観」ではなくて「悲観」だ。僕は常に最悪を考えて生きている。最悪を考えれば考えるほど、不安になって、もっと色んなことをしっかり見て考えたい、後悔のしようが無いほどあらゆる選択肢を慎重に吟味し、少しでもベストだと思う道を選びたいと思うようになる。下を見すぎて、前を向くことでしか安心ができない。だから、根拠のない前向きの自信にも見えるエネルギーが湧いてくるのだと思う。

 世の中はどんどん変わる。自分もどんどん変わる。ずっと同じわけない。そんな不確実な世界で、少しでもたくさん考えて、少しでも将来苦しい目に合わないと思われる選択をすることで安心したい。もし、どうしてもいつか味わうことになる苦しみがあるのであれば、少しでも早いうちに味わって安心しておきたい。そのために決断をし、行動する。未来が楽しみだから決断をするのではなく、未来が怖いから決断をする。決断をしないのはもっと怖い。決断できる選択肢が無くなるのはもっともっと怖い。だから僕は常に、未来の選択肢を最大化する選択肢を選択し続けてきた。選択肢は多ければ多いほうがいいと信じ続けてきた。選択肢は放っておくと勝手に減っていく。だから、多くの選択肢を維持し続けることはコストがかかる。でもそのコストは、未来の不確実性への不安を和らげるのに払う保険料みたいなものだと思う。選択肢の多さは、不確実な未来に対する保険だ。僕は会社を辞めた。それは「このまま会社にいて選択肢が減っていって、不確実な未来を生き残れるのか」という不安に耐えられなくなったからだ。安定した身分にしがみつくしかなくなって「嵐なんかくるわけない」と信じ続け、ある日突然船ごと沈むのが怖かった。それよりは、若くて体力があるうちに、一人で大海に泳ぎ出して波にもまれることで、少しでも嵐を生き残る準備が進められるのではと思った。それで、給料と正社員の身分を捨てた。それは保険料だ。高い保険料だ。もしかすると嵐はずっと来ないかもしれない。来なかったら馬鹿にされるだろう。でも僕は、嵐はみんなが思っているよりも簡単に起こるものだと思っていて、保険料(と自分が思っているもの)を払って安心を買うしか方法が無かった。

 未来は本当に不確実だ。税金研究者ができる時代がいつまで続くだろうか。高齢化社会が破たんする日はいつくるのだろうか。次の大災害大地震だろうか、ミサイルだろうか。世界は、日本はいつまで平和なのだろうか。機械が人間の代わりになって判断しまくる日はいつくるのだろうか。僕は自分が生きている間に、世界がグチャグチャなことになっても楽しく冷静でいられるように、これからも最悪を想定し続け、選択肢を増やし続ける努力をする(保険料を払い続ける)ことでしか、自分の心の安定を保つことができない。今の僕は、選択肢を最大化するための選択をしてきた結果、大きな自由を手にしている。博士課程の学生というのは、本当に自由なのだ。何を考えても、何をしてもいいし、しがらみもない。全ては自分の行動あるのみだ。楽しい。だけど、ただ楽しんでいるわけにはいかない。楽しみながらも、この自由を使って、できるだけ色んなことを考えて、色んな人に会って、色んなことをやって、将来の選択肢をさらに拡大して安心しなければならない。今やっている研究は楽しいし、将来できるところまで研究をやりたいと思っている。だけど、一生研究できるなんて全然思っていない。10年後には、とんでもないところで、とんでも無い仕事をしているかもしれない。20年後なんてもっと分からない。まったく分からない。人間は3年もあれば全然違う仕事でも適応できる。それは自分で経験した。それくらい、未来は不確実で、人生は長い。でも選択肢は放っておくと減っていく。だから選択肢を減らさないために、頑張り続けるしかない。それは、根拠の無い自信に基づく楽観的行動ではなく、将来辛い目に遭いたくないから保険料を払っているだけだ。

 ちなみにこの文章は、明日からの海外出張(時差13時間)の時差ボケで苦しむのが怖くて、日本にいる間に現地時間に適応し、時差ボケの苦しみを先取りする取り組みの一環で夜更かししている時間に意識朦朧の中で書いた。辛いこと、苦しいことは先取りして安心するに限る。

大学生大学生 2016/08/26 22:03 ブログを拝見して、本当に自分の頭で人生をよく考えているな、という印象を受けます。理学をやっている大学4年生ですが、最近自分の将来について悩むことが多くなり、悩んでいるだけで前に進めない自分が腹立たしく思います。主さんのように常に自分の頭で考え続け、自分の人生を実りあるものにしていけるようにしたいものです。

2016-08-05 歳をとると小脳で生きる時間が増える このエントリーを含むブックマーク

f:id:tomotsaan:20160625101113j:image

超撥水@ハスの葉

 気づいたら朝起きていて、気づいたら朝食を食べていて、気づいたらトイレでスマホを触っていて、気づいたらお尻をふいていて、気づいたら水を流していて、気づいたら着替えていて、気づいたら寝癖を直していて、気づいたら靴を履いて、気づいたら家を出ている。職場についてからは、それなりに頭を使って仕事をしているつもりだけど、気づいたら昼食を食べ始めていたり、気づいたら喉が渇いてコーヒーを入れていたりすることがよくある。そして家に帰って、気づいたら夕食を作って食べていて、気づいたらシャワーを浴びていて、気づいたら布団の中でYoutubeを見ながら眠りについている。

 幼稚園の頃は、着替えたりトイレに行ったり靴を履くのですら大脳をフル稼働させるべき大仕事だったはずだし、小学生の頃は、毎食「いただきます」といいながら意識的食事を開始していた。一人暮らしを始めた当初は、毎朝支度を抜かりなく済ませ、毎晩夕食を作って食べるために一生懸命頭を使っていたし、スマホが出てきた当初は、トイレで携帯をいじったり、布団の中でYoutubeを見るという行為自体がイレギュラーで緊張を伴う行為だった。だけど、今、ふと気づいたときに、それらを無意識的に済ませてしまっている自分に気が付くことがある。こういう状態を僕は「小脳で行動している状態」と呼んでいる。実際には小脳だけを使っているわけではないと思うのだけど、「大脳使ってない」という感覚が分かりやすいから、そう呼んでいる。

 歳をとればとるほど、日常の様々な行動がルーチン化してきて、小脳で行動する時間が増えてくるように思う。もう、食事もトイレも靴や服の脱ぎ履きも、何千回もやっているのだからしょうがない。生きてきた時間が長くなればなるほど、そうやって頭を使わない、作業みたいな時間が増えてくるのだと思う。

 それで、本当に小脳で完璧にこなせるのであれば、単純に大脳の負担が減るだけなので、いいのかもしれない。だけど実際はそんなことなくて、しっかりと頭を使って考えない分、少なからずエラーも起こりうる。例えば先日、気づいたら箸を左右で違うセットのままご飯を食べ終えてしまっていたし、もっと怖い話では、車の運転しているときに、青信号を無意識的に通過していて、直後に「今信号本当に青だったっけ?」みたいに考え直すことがあったりもした。一歩間違えば重大な結果を招きかねない、免許取得直後にあれだけ緊張していた運転ですら、小脳化されてしまっていたという事実に、僕は大きな恐怖と反省を感じた。

 今僕は20代後半だけど、今ですらこうなのに、50歳とか60歳とか、このまま歳をかさねていくと、一体どうなってしまうのかと想像すると、とても恐ろしい。そのうち、人の相談にのったり、誰かと話して何かを決めたりといった行為すら、小脳テリトリーになってしまいそうだと容易に想像できる。今どれだけ大脳をフル稼働させて一生懸命にやっていることでも、20年とか30年とかのレベルでやりつづけたら、きっと小脳に任せるようになる日が来るのだろう。そしてその延長線上に、老害とか痴呆と呼ばれる状態があるのではないかということも、僕は想像してしまう。だから僕は、歳をとっても色んなことが適当にならずに大脳を使い続けられている人は、本当に努力してきたエネルギッシュなすごい人だと思うし、できることなら自分もそういう歳の取り方をしたいと思う。

 こういうことを考えるようになって、僕はできるだけ、身の回りの無意識的な出来事について、改めて深く考え、意識するように努力をはじめた。電車やバスに乗っているときは、小脳スマホのニュースをチェックしそうになるところを大脳で抑えつけて、周りの人の様子や景色を観察して、できるだけ変化や考察を感じるとるように意識する。スーパーで買い物をするときは、小脳で定番の具材を揃えようとする前に、何か新しい具材を試す余地がないか、売り場を見回してみる。食事をするときも、小脳が給油のごとく食物を口に運ぶのを抑えつけて、いただきますを言って、味わいながら1品ずつ食べてみる。もっとしょうもないところだと、できるだけ電卓を使わずに暗算で計算する、とか、できるだけGoogle Mapを使わずに目的地に到達する、とか。そうやって、あえて大脳が疲れることをやってみないと、放っておくとどんどん小脳に生活を侵食されてしまうような恐怖を感じる。変化の激しい環境に身を置いたり、アウトドアやスポーツといった不確実性の高い趣味を続けることも、小脳支配を遅らせるために効果的な気がしている。

 いずれにしても「大脳 VS 小脳」という二項対立のもと、小脳支配される恐怖におののくことは、色んな事を改めて見つめなおし、一生懸命になろうという気持ちにさせてくれる、なかなか便利なアイデアだと思う。

2016-07-12 ネガティブとポジティブのシナジー このエントリーを含むブックマーク

f:id:tomotsaan:20160415174110j:image

2羽のコンコルド

 人間の性格をベクトルで表したとき、ベクトルの向きを変えるのがネガティブな感情であり、ベクトルの長さを伸ばすのがポジティブな感情だと思う。だから、人が一番変わるのは、現状を否定されて足止めされて打ちひしがれているところに、かすかな光が見えてきた時なのだと思う。良い教育者とは、そうやって自然に他人を導くことができる人だと僕は思う。大人だろうと、子供だろうと、他人を動かしたい・変えたいのであれば、頭ごなしに説得したり叱りつけたりするんじゃなくて、外堀を埋めて自己嫌悪に落とし込んだあと、ちょっと褒めて前向きにさせてあげればいいのだと思っている。

 さて、お金が無い現状を嘆くフェーズも一巡して、現実を受け入れはじめていたところで、思うように進んでいなかった論文の筆が進みだして、まさに今、ネガティブとポジティブが組み合わさって新しいフェーズに進みだした気がしてきたところだ。こういう気持ちを新たにした。

莫大な金銭的機会損失と引き換えに、これだけの自由を手に入れた。だとすれば、これだけの自由がなければ絶対に到達できないレベルの仕事をしなければならない

 老後に趣味ででもできそうなレベルの研究や、ちょっと金と時間を積めば誰でもできるレベルの研究ではダメだ。人生を捧げるのに、その程度の研究で終わるわけにはいかない。付け焼刃ではない、命懸けレベルでやらなければ到達しえない領域というのは、どのような仕事にも、必ず存在すると思う。給料を人と比べて将来を心配するヒマなんかあるんだったら、自分のやっていることが、将来本当にそういうレベルの仕事に発展しうるのか、平凡な研究に終わってしまわないか、ということのほうが、よっぽど心配事であるべきだ。

 ギアが変わった。小さい頃から、僕が成長するのは、いつも激しい自己嫌悪に襲われた後だ。これは定期的なイベントだったのだ。