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日記なんで。

2011-01-20 安心社会から信頼社会へ このエントリーを含むブックマーク

 この夏モンゴルに行ったとき、人も車も、そして警察官も信号無視をしている世界だったので、信号を守ることの意味が無くなってしまっていた。僕はこれと同じことが日本で起こりつつある気がしている。要するに、信号を律儀に守っていれば確実に目的地にたどりつけていたのが、今や赤信号でも状況を判断して道路を渡る人達のほうが素早く目的を達成し、成功できてしまう世の中になってしまったということだ。

無思考にルールを守ってさえいれば幸せに暮らせた生活が、国際化と自由化によって成り立たなくなっていくことに皆怯えている

というのが、昨今の日本の閉塞感の根本原因だと僕は思う。電車が時間通りに来るとか、接客サービスが神がかっているとか、電気製品や車が壊れにくいとかっていう日本の特長は、

ネガティブチェックを繰り返し、洗練された世界を作り、その中でみんなハッピーに暮らす

という精神の賜物であり、確かにそれ自体は賞賛されるべき文化だ。

だが、国際化、自由化、スピード化の現代において、洗練された世界を維持するコストが物凄く高くなってしまった。激烈に変化する現代世界では守るべきルールが存在しないため、「穴を見つけてそれを埋めることで幸せになれる」というシステムを構築するのは難しくなるからだ。


さて、先日読んだ本が今の僕の考えとマッチしていたので紹介してみる。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

タイトルにもあるように、この本の主張は、安心社会と信頼社会という二つの社会を定義して対比していく内容だ。筆者は社会心理学者で、本全体が一冊の論文のような構成になっていて、具体的な検証結果も豊富だったので、心理学アレルギーの僕でも割と納得しながら読めた。

全体の主張をまとめると以下のような感じだ。

f:id:tomotsaan:20110120153408j:image

安心社会と信頼社会の一番の違いは、不確実性への対処方法だ。ここでいう不確実性とは、中古車屋でダメな車を買わされるかもしれない、といった「相手が自分を騙そうとしているかもしれない」という不確実性のことを指す。んで、両者の不確実性への対処法の違い、これを一言で言えば

安心社会は不確実性を取り去る、信頼社会は不確実性と向き合う

となると思う。先ほどの中古車の例でいくと、安心社会では保証のある車を選んだり(ルール)、行きつけの中古車屋に行ったり(人脈)することによって、不確実性そのものをその場から取り除く(安心)を選択する。一方で、信頼社会では、ルールも人脈も頼りにせず、それぞれの中古車屋が客観的に信頼できるのかどうかを、利用可能な情報の中で判断していく。

 面白いのは、どちらの判断が合理的かは、「赤の他人をどれくらい信頼できる社会か」によって変わってくるということだ。つまり、「人を見たら泥棒と思え」な社会では、安心社会のほうが合理的だが、「渡る世間に鬼はなし」な社会では、ルールや人脈に縛られる不自由が不利に働く場合が増えてきて、信頼社会が合理的になってくるということだ。これは言い換えると、信頼社会では基本的に、「赤の他人を信用している」人の割合が高く、安心社会では「人を見たら泥棒と思う」人の割合が高いということだ。

 本のタイトルにもあるが、安心社会とは、日本的「ルールを守っておけば幸せに生きていける社会」のことだ。つまり、日本は「人を見たら泥棒と思え」な社会であり「赤の他人を信頼できない⇔ルールを作って安心したい」という考え方がある、ということだ。これは、本で紹介されている筆者らの実験によっても確かめられている。

 このように他人を信頼しない安心社会では、ルールや人脈に担保された「安心のとりまき」の中に入れない限り、非常に生きづらい。一方で、信頼社会では、保証された安心を手に入れることはできないが、その分、「基本的に他人を信頼している」ため、ぶっ飛んだ人間がそれだけの理由で疎外されることもないし、新たな人脈の形成が無用なしがらみによって阻害されることもない。

 そして筆者もまた、(本のタイトルにあるように)日本の安心社会は崩壊し、今後は信頼社会に移行していくことが必要だと考えている。そしてそのためには、情報の共有と透明化によって、不確実性を軽減し、「安心しなくても信頼できる」社会を作っていくことが必要だと説いている。というのも、不確実性というのは究極的には「情報格差」に基づいているからだ。例えば中古車の例の場合、車屋は車の真の状態を知っているが客は知らない。情報の共有、透明性は、今後日本が直面する大きな課題になるだろう。

 最後に、これにさらに僕の意見を付け加えるとするならば、

「答えのある考え方」を学校で叩き込むのはそろそろ真剣に辞めたほうが良い

と思う。信頼社会の時代が来ているというのに、未だに安心社会型の人間を量産している教育は、害悪でしかないし、安心社会にしがみつく老害どもの、「使いやすい人間を量産する」ための最後のあがきすらみえる。穴を見つけてそれを埋める方法でなく、何もない場所に何かを建てる方法を教えろ。ルールを守ることじゃなくて、ルールを超える方法を教えろ。安心する方法じゃなくて信頼する方法を教えろ。世の中の答えの無さに気がつくのに23年もかかるなんて、自分も日本の教育もホントに終わってると思う。

RR 2011/01/22 02:29 >信頼社会が合理的になってくるということだ。これは言い換えると、信頼社会では基本的に、「赤の他人を信用している」人の割合が高く、安心社会では「人を見たら泥棒と思う」人の割合が高いということだ。
逆だと思うけど?赤の他人の定義にもよるけど
安心社会だと、ルールを守っている(と思われる)赤の他人を信頼している。
信頼社会は
>一方で、信頼社会では、ルールも人脈も頼りにせず、それぞれの中古車屋が客観的に信頼できるのかどうかを、利用可能な情報の中で判断していく。
からすると、個々人の意見を信用せずに多くの情報を集めて、「自分」が判断するってことだから、個人である赤の他人は全く信用してないよね?

tomotsaantomotsaan 2011/01/22 09:44 それは因果が逆で、この本の考え方では

安心社会---他人を信頼していないからルールを作る
信頼社会---他人を信頼しているので自分で判断できる

このような理解です。安心社会で信頼しているのは人ではなくてルールだということです。
「赤の他人」の定義など詳しいことは本を読んでみてください。