認知症が始まった。

「おい、お金を出して来てくれんか?」
父からキャッシュカードと暗証番号が告げられ、銀行に向かったのが半年前の事だった。

気安く請け負い、銀行の自動払い戻し機に暗証番号を入れると
「このキャッシュカードは使えません。詳しくは窓口へ。」と出てくる。
番号の入力ミスかと思い再び入れたが、再度同じメッセージが…

窓口に向かい仔細を聞くと、暗証番号を3回以上間違うと払い出しできなくなり、再度本人と通帳を持って窓口で再手続きが必要だという。
郵便局のキャッシュカードも預かっていたので、そちらで払い出そうとすると再び同じように払い出しができない。

帰宅して父に通帳のありかを問うと、どこへやったかわからないという。
慌てて家の中のありそうな場所を調べたがどこにもない。
えらいことになってきた。盗まれたのかなあ…
その時はそんな風に思っていたのだが…


認知症の父を介助し始めて、気づいた事をこれから書き記します。
父への介助の記録として書き続けようと思います。

薬局薬剤師の果たすべきこと。

12月10日の日本経済新聞:経済教室欄に、慶応大学の駒村康平教授が「診療報酬改定の論点〜薬局薬剤師の役割見直せ」と題する記事を書かれている。
診療報酬は、財務省の決める配分比率を受け、細かな中身を中医協で決めていく。
これまで医科・歯科・調剤(薬局)の配分比率は1:1:0.3を保持し、今回の改定でも日本薬剤師会ではこの比率を守るよう、厚労省に申し入れている。
教授は、この前例踏襲的で意味のない改訂をやめ、まずは薬局薬剤師が持つ機能を果たしてみせよと論じているのである。
現在薬局の70%が門前にある。足腰の機能が衰えた高齢者や障害者を思えば、それ自体が悪いとは私自身は思わないが、大病院前に並ぶ薬局の乱立や、医療テナント・医療モールと称する中にあって、集注率を下げ、処方箋を枚数を稼ぐ薬局が、かかりつけ薬局とは思えない。
教授は、地域の中にあって、患者の家に眠る残薬を処理したり、他科受診により起こるポリファーマシー(多剤処方)によって相互作用・副作用が生じ、その結果起こる有害作用を止められるのは、医師ではなく薬剤師だと語る。薬物動態や薬物効果から多剤処方を整理して減薬を試み、適切な薬物療法を実現するのは可能だと論じているのである。
これを現実に行えば、現時点では収益は下がるだろうし、時には医師との摩擦も生じるだろう。
しかし、本来薬剤師が果たさなければならないのは、多くの調剤を行って稼ぐ利益率の高い対物業務ではなく、手間がかかって利益率が低くても行う対人サービスである。
医療とはそういうものであり、そこが明確にできれば、患者家族がその薬局・薬剤師を選ぶのである。
変革の中にこそチャンスもある。経済は時に本質を語りかける。

「悪の凡庸さ」と思考する力


 「全体の利益を個人の利益より優先する」だけではなく、個人の私生活なども積極的または強制的に全体に従属させる。
 ウィキペディアによると、政治学上で「全体主義」を定義するとこうなり、個人主義の対義語となる。
 個人に従属すべき情報も、時に国家に対して提供しなければならない。それが何のためかも知らされず、秘密法という名のもとに施行される現実。


 かつて、アウシュビッツユダヤ人を送り続けたナチのアイヒマンが戦後逃亡していたが、イスラエル軍に捕らえられ、裁判を受けた。多くの人の命を、ただユダヤ人というだけで迫害した現実。
 ユダヤ人の政治哲学者にして、「全体主義の起源」を著したハンナ・アレントは、この裁判を傍聴し記事を書いた。
 「アイヒマンは”自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ。”」と。
 

 考えることを拒絶し、ただ上からの指示をきちんとこなすだけ。
 世界最大の悪は、何も考えない平凡な人間が行う悪であり、これをアーレントは「悪の凡庸さ」と名付けた。


 思考とは、「自分自身との静かな対話」だと多くの哲学者が述べている。
 その対話を捨て、考える事を捨ててしまえば、どんな悪行でも行うことは可能になってしまう。
 考える事で人間は強くなり、モラルの判断ができるようになる。


 秘密法に限らず、目の前のあることも、組織という全体主義の中で善悪が問われる場合がある。
 考えず、何もしなければそのまま悪がのさばる現実。
 「凡庸な悪」など、今どこでも転がっているのだ。

 しかし、考え抜くこと、そこから一歩踏み出すことで破滅にいたらぬこともできる。
 個人主義という言葉の中にある、考える自由を使い続けることこそが、我々の大事な能力なのだと思う。
 

美しい国

 私が住む西宮市の東端には、南北に流れる武庫川がある。
 先日、ボーイスカウト活動をしている知人がやってきて、やおら話し始めた。

 「この頃ね、武庫川に住む魚が減って来たわあ。4種類ぐらいしかおらへん。」
 「へえ、そうなんですか。それって、あの川床の浚渫事業の関係?」
 「いや、川の源流。」
 「え、別に何にも開発してないよ。」
 「違うねん。六甲の山並みにある神戸や尼崎の住宅開発で伐採してるやろ。あれが広葉樹のとこばっかりやねん。森の針葉樹とのバランスが変わり、山が保水する力が無くなって来て、川の流れも変わって生態系が変わってきてん。
 宅地や工事の専門家が個々に動いても仕方がない事。自然は多くの事象のバランスにある。自然を守るには、それぞれの専門家が、お互いの意見を聞きながら発言して、よりよい道を探らないといかんねん。
 でもなあ、こうして壊れた自然を戻すには10年はかかるやろなあ。」

 失われてゆく自然。消えゆく作物。
 我々が取り戻すべき自然を描いた映画がある。
 「よみがえりのレシピ」(http://y-recipe.net/
 美しい国を表す里山の風景。取り戻すには多くの人の力の輪が必要となる。

 かつて安倍首相が著わした「美しい国」。
 (いまは「新しい国」という名前に変わって出版されているが、中味は少し変わっているだけですが…)
 そこでは”正しい事を行う為に、闘う政治家であらねば”という記述がある。
 しかし、”政権を取ったからには自由に行う”と言わんばかりの強行採決が”闘う政治家”を表すのだろうか。

 自分自身が唱えた”美しさ”を支えるには、多くの意見を聞こうとする姿勢と、意見を集約する寛容さが必要で、少数意見を排除する姿勢が必要なのではない。多くの人の力の輪が必要なのだ。

 形容詞だらけ、美辞麗句だらけの演説を作る前に、美しさの根底にあるものを理解しない姿勢であり続けるなら、美しさを語る資格などない。

店頭でしかわからない事・・・ネット販売について

 「あれ、ちょっと太りました?」
 ある日の朝、店頭にやって来た女性の顔が、ひと月前より確かに丸くなっている。
 「わかる?体重計に乗るとね、やっぱり太ってるのよ。でもね、食べる量は変わらないのよ。運動だっておんなじぐらい動くし。でね、夕方になると、ちょっとはましになるのよ。」
 その応えが気になって、今度はこう聞いてみた。

 「ねえ、ちょっと足首見せてくれる?」
 「いいわよ。」
 ズボンの裾をあげて見せてくれた靴下は、深く脹脛に食い込んでいる。
 明らかに浮腫んでいる。

 「前からこんなに靴下が食い込んでいたの?」
 「いえ、最近急になったのよ。」
 「お薬手帳見せてくれる?」

 受け取った手帳、最近の記載の中に気になる薬があった。
 「この薬はどうしたの?」
 「足が痛くてね。先生のそう申し上げたらこの薬が追加されたのよ。」
 「この薬を飲んでから浮腫みだしたんじゃない?」
 「そういえばそうかもしれない。ああ、そうだわ。」

 前から飲んでいる薬とこの薬、併用によって浮腫みが生じる事が多発している事が報告されている。
 
 「あのね、先生の所に行って、新しく出された薬を飲み始めてから、靴下がこんなに食い込み始めた事を話してみて。」
 「わかった。」

 数日後、街で呼びとめる声がした。あの女性だ。
「あのね、あの後すぐ先生の所に行って、お話ししたの。そしたら、前に出された薬は止めましょうって。やっぱり浮腫みだったみたいね。」

 薬局の店頭で患者さんと向き合う。
 そこで、たとえ処方箋に誤りがなくても、五感と会話を交わす事で、処方薬による副作用や相互作用を発見することがある。
 たとえ小さな薬禍でも、その一つを阻止する事が薬剤師の責務である。

 私も以前は経済学部あがりの経営者だった。
 しかし、改めて薬学部を卒業して薬剤師になって、”いのちを守る”その仕事の重要性に気付いた。
 東大教育学部卒のケンコーコムの社長にはわからない事、店頭で真摯に患者と向き合わない経営者にはわからない事がある。

 
 

 右向け右

 学生時代、朝礼や体育祭の整列の時に良く聞いた「右向け右、前へならえ。」。
 社会人になってからは、とんと聞きなれぬ言葉になった。
 ただ、その言葉から思いつく姿は、テレビのニュースでよく見る。
 国家主席を前に行進する軍隊。高くあげられる足に、揃った列。
 誰もが同じ方向に歩む姿に、今となってはなぜか”うすら寒さ”を覚えるのは私だけだろうか。

 特定秘密保護法案、かつては多くの意見が交わされたであろう自民党内でも、誰もが黙して語らず、まるで”右向け右”だ。
 文化の熟度は、人の考え方の多様性と、それを尊重する姿勢にある。
 右を向かない人にとっては、この国は息苦しい。いじめの土壌もそこにある。
 左もあっていいというだけで、どれだけ人は自由となり、心が豊かになるだろう。

 医療用医薬品のネット販売がなぜいけない。
 ケンコーなんたらの社長が田原総一郎氏にこう言ったそうだ。
 「だって医師が処方箋を書いているんですよ。」
 医師が処方箋を書けば、絶対的に正しいだろうか。
 人はミスはしないのだろうか。

 "医療におけるヒエラルキーのトップにある医師は常に正しい。"
 ものを考えず、”右向け右”を実践するかのようなかの社長の発言に、ため息をつくのは私だけだろうか。

一般医薬品ネット販売解禁・・・第三の矢

2013年6月5日夕刻、安倍首相が経済政策「アベノミクス」の中核に位置づける成長戦略、いわゆる第3の矢を放った。

この成長戦略の主旨は、規制緩和を推し進めることで民間活力を高め、国民総所得を高め、生活を豊かにするところにある。
医療においては、再生医療の市場を拡大し、医療機器の認証を迅速化、国外への輸出を高め、健康食品の機能性表示を可能とする仕組みを作り、一般医薬品のネット販売を原則全面解禁するとある。

確かに、再生医療を国としてバックアップし、医療機器を積極的に海外に輸出すれば、市場は拡大し企業の利益は増えるだろう。
しかし、一般医薬品のネット販売を解禁することが市場を拡大することになるのだろうか。
画期的新薬の出ない一般医薬品市場において、それは限られたパイの奪い合い、企業間の売り上げの移行でしかなく、成長戦略に寄与するものではない。第3の矢などにはなりえないのである。

そもそも、医薬品は売り上げを増やすべき商品なのだろうか。
本来人が健康であれば、医薬品などは必要がない。
「薬は飲みたくないのだけれど…」と話す市民は山ほどいる。
それでも仕方ないから、薬を飲まなければならない。
つまり、必要ない状態なら売らない、そうして人を健康にし、信頼を得るのが薬剤師の任務なのである。

経済人が、商売の販路拡大のために医薬品を扱わせろというのとは、販売における立ち位置が真逆であり、医薬品のリスクをワンクリックによって国民に放り出す姿勢には、医療人として納得できないのである。