Hatena::ブログ(Diary)

橋本努 HASHIMOTO-TSUTOMU このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-05-30 ■アメリカ人の幸福度は急落している このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


ダニエルコーエン経済は、人類を幸せにできるのか?』林昌宏訳、作品社

林昌宏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 アメリカの幸福度指数の推移は特異で、過去50年間で急落したというのですね。1956年から2006年までのあいだに、「とても幸福だ」と思う人の割合は三分の一も低下していると。

 どうも社会が成熟すると、人々は謙遜して、「あまり幸福でもない」とへりくだるようになるのでしょうか。

 それとも人々は、世界の状況を知るようになると、自分の幸福を相対化する視点を得るようになるのでしょうか。

 あるいは、経済成長率が安定的に推移する場合には、経済が急激に成長する社会と比べて、幸せを感じにくくなるのでしょうか。

 1950年代所得水準に戻れば、アメリカ人は「とても幸せ」になるというわけではないでしょう。

 本書にはまた、ブレイが論じる「幸福の10か条」が再掲されています。

 しかし、「自分が天才でないことを悲観するな」とかいった教訓は、人々を幸せにするのでしょうか。

 幸福は、パラドクスに満ちています。人々がそれぞれ、「自分が幸せになるように」という指針で生きようとすると、その意図せざる結果として、他者、とくに将来世代の人々を不幸にしてしまうかもしれません。

 例えば幸せになるためには、ガツガツと働かないことが必要である、とミニマリストたちは啓もうします。しかしすべての人がミニマリストになったら、経済は収縮し、次世代の人たちは私たちの世代よりも、総じて幸せになれないかもしれませんね。そういうパラドクスがあるとすれば、私たちは「とても幸せ」を目指して生きるべきではないし、またそれは、経済の目標にもすべきではないでしょう。倫理の問題をそれのみで考えるのではなく、経済倫理の問題として考える視点も必要、と思いました。

2016-05-27

■オーストリア学派とロビンズ

20:40 | ■オーストリア学派とロビンズを含むブックマーク ■オーストリア学派とロビンズのブックマークコメント

ライオネル・ロビンズ『経済学の本質と意義』小峯敦・大槻忠史訳、京都大学学術出版会

小峯敦さま、大槻忠史さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 私は大学の学部生のころに、間宮陽介先生の研究室を訪ねたことがあります。その時に間宮先生から、とにかくこのロビンズの本を読め、と言われて読んだことを思いだしました。そのときに私は、本書の詳細なレジュメを作りました。この本が新たな訳で読めるようになったことを、心から喜びたいと思います。

 「訳者解説」を興味深く読みました。

 本訳書は第二版に基づくものですが、初版と第二版の大きな違いは、次の点にあるのですね。

 初版では、ロビンズはミーゼスの方法論に大きな影響を受けて、オーストリア学派の思考方法をイギリスに紹介します。ロビンズはオリジナルな経済学者というよりも、オーストリア学派の知見をうまり整理して紹介するのが上手な秀才型の経済学者でした。

 第二版ではしかし、ロビンズはオーストリア学派の方法論から少し離れます。LSEの同僚であるヒックスとアレンが「価値論再考」を1934年に発表すると、無差別曲線やスルツキー分解など、需要理論に関する演繹的な数理が導入され始めます。すると合理性の定義は、目的と手段の主観的な適合化ではなく、「推移性」などの論理的操作として客観的な表現を与えられます。逆に言えば、合理性の定義は、主体の目的-手段の捉え方から遊離していくことになります。

 ロビンズはとくに、本書の第四章の大部分と第五章第一節を書き換えることで、LSEにおける新たな客観主義の流れに沿って、経済学の方法論をまとめ直したのですね。

 実際、ミーゼスはこの書き換えに対して不満を表明したというのは、興味深い事実です。

2016-05-26

■経済学はベルマークの意義を理解できないのか

20:49 | ■経済学はベルマークの意義を理解できないのかを含むブックマーク ■経済学はベルマークの意義を理解できないのかのブックマークコメント

なんだ、そうなのか! 経済入門

なんだ、そうなのか! 経済入門

塚崎公義『なんだ、そうなのか!経済入門』日本経済新聞社

塚崎公義さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 小学校で「ベルマーク」を集める習慣は、経済学的には理解できない、というのですね。

子どもたちが集めたベルマークを保護者が分別して台紙に貼って集計する。するとベルマークの会社が学校に商品をくれるようですが、そうであれば、「保護者がコンビニでアルバイトをして、アルバイト代を学校に納める」ほうが、はるかに効率的であると。ベルマークを集めるというのは非効率的で、経済的ではないのだと。

 「もっとも、ベルマークには小学生に「コツコツ作業する」ことの大切さを教えるという教育効果があるのかもしれませんが……。」

 これは別の意味で教訓的です。

 思うに経済学というのは、小学生がコツコツ作業するという能力を身につけることが、どこまで子供たちの「人的資本」を形成するのか、そしてまた、それが将来の経済発展に貢献するようになるのかについて、理解を示さない学問なのでしょう。

 言い換えれば、経済学というのは、はっきりと貨幣計算できる短期的な目先の利益しか考えず、あいまいで長期的な利益については、たとえそれが経済的な利益であっても、考慮に入れない学問であるとの印象をもちました。

 こういう経済学の態度を批判するところに、経済思想の意義があります。

2016-05-25 ■2000万円くらいの預金が必要 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

『老後破産しないためのお金の教科書』東洋経済新報社

塚崎公義さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 60歳で定年退職して、65歳までは、夫婦ともに働いて生活費を稼ぐとして、65歳から70歳までは退職金を食いつぶして生活するとしましょう。

 その場合、65歳から70歳までの5年間の生活費として、1500万円くらい必要です。70歳から年金に頼るとして、そして90歳まで生きるとしましょう。

 90歳以降の生活、あるいは葬式のために、500万円を残しておくとしましょう。

 すると60歳の時点で、だいたい2000万円の預金があればよい、というわけですね。

2016-05-23 ■私はリンゴを食べる、ゆえに土壌もいっしょに食べる このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


ドネラ・H・メドウズ『システム思考をはじめてみよう』枝廣淳子訳、英知出版

枝廣淳子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

「この新鮮なリンゴ、朝露がついて冷たくサクサクしているこのリンゴは、私が食べるまでは 私ではありません。私がこのリンゴを食べるとき、リンゴを育てた土壌も 食べることになります。私が水を飲むとき、地球の水が 私になります。息を吸い込むたびに、私は 私でないものをとりいれ、私にします。そして、息を吐くたびに、私ではないものの中に 私を出すのです。」70頁。

 この考え方は、所有についての小生の考え方とほとんど一致します。読んでビックリしました。

所有について考えてみると、例えば私が、私の血を海に流し入れたとき、はたして海は、私の所有物になるのでしょうか。法律では「所有物にならない」とされますが、なぜそうなのか、はっきりしません。

 論理的に筋が通った一つの考え方は、海も水も空気も土壌も、すべて私たちの身体の拡張であって、共有されているという発想です。

さらに、次のように考えることもできます。私が吐いた空気の一部を吸っているあなたは、すでに私のモノであり、私はあなたの吐いた空気を吸っているのだからすでにあなたのモノである、と。

 人々のあいだの境界線や共同性を、たんに感覚的に理解するだけでなく、こうして物理的に考えてみることは、所有関係を規範理論的に検討し、また正統化するための重要な手続きであるかもしれません。

呼吸によって私の体内に取り込んだ空気は、はたして私のものなのか。私のものであって、誰のものでもない、という発想は成り立たない。すると同じ論理でもって、私の体を流れている水分も、私のものではないことになる。このような発想を続けていくと、所有の共同性が、新たな次元で見えてきます。

2016-05-19 ■後ろからつかんでくる思想 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

大井赤亥/大園誠/神子島健/和田悠編『戦後思想の再審判』法律文化社

執筆者の皆さま、そして編集者の上田哲平さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「人間の思想というのは大変弱いものでね、思想で一つにくくったらあぶないと思うんですよ。抽象的な理論とか綱領でくくったりしたらいけないのでね。人間はうしろからつかまれることが多いんですよ。思想というのは前に向いていてね、自分が見えるからだの前半部しかみえないけれど、人間大きな変わり方をする時は、うしろから掴まれたということが多いわけですよね、神の手か自分の無意識かも知れないが。だから、自分のよくわからないところで試みをしていってね、それが思想の起動力となる。思想と不思想の間の交流を断ってはいけない、という感じですね。それによって人間ははじめて状況に適応していける、と思うわけですよ。」『鶴見俊輔著作集第五巻、時論・エッセイ』より。

 思想が「前を向いている」というのは、近代という時代がそうさせたようにも思います。近代を相対化しようとすると、思想もまた、後ろを向くことになる。フーコーのような思想家が近代を相対化できたのは、その思考方法が、後ろ向きだったからではないでしょうか。

 フーコーを読んでも、私たちがこの社会やこの状況に、どのように適応していったらよいのかという答えは見つからない。けれどもフーコーを通して、私たちは自分の後ろがみえるようになります。私たちは、得体のしれないモノに掴まれていることを、後ろ向きの思想を通じて、理解するようになります。

 ただ、前が見えないときに、そして思想が後ろ向きの時には、思想と不思想のあいだの交流は、まったく正反対の関係をもたなければならないのではないでしょうか。そのようなことを考えてみました。

2016-05-18 ■仁愛に基づく経済社会の理想とは このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ローベルト・シュペーマン『幸福と仁愛』宮本久雄/山脇直司訳、東京大学出版会

山脇直司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 仁愛とは、自己の「気遣い」を超えて、他者のうちに究極の目的を発見し、それが自己にとって現実的なものになる、ということです(89-90)。

 打算的な人間は、感謝できない。これに対して仁愛を理解した人間は、感謝することができる。しかもこの仁愛によって、私たちは世界全体を認識することができる。仁愛は、世界を新たな光の下に、顕わにすることができます。

 ただ「世界全体を認識する」といっても、私たちは、仁愛の観点からのみ世界を認識しているのではなくて、自分自身の観点からも世界を認識している。仁愛というのは、自分が体験していることを、「真の体験」に引き上げるために、人々の間に「愛の秩序」を創設する運動を含んだものです(120)。

 この点で、人間を「ピュシス」(自然的存在)として捉えることは、適切でしょう。

 ただ問題は、この先です。

 私たちが自身の身近な関心を超えて、仁愛の手を差し伸べるべき他者とは、どんな存在なのでしょうか。その他者は、人格として私たちと相同なのでしょうか。あるいはその他者は、人権を持ったものとして、公平に遇するべき存在なのでしょうか。

 シュペーマンは、他者が「生物学的種的連帯感」に基づく存在であると考え、遺伝子操作を施したような人工的存在は、この連帯感から外れるとみます。これは、政治的な人格の次元ではなく、生物学的な次元に、問題を絞り込んでいるということでしょうか。

 政治思想の次元に関心を寄せると、「仁愛による徳治」に対比される思想は、リベラリズムになるでしょう。

 また仁愛の可能性は、経済思想の次元にもあります。世界平和に向けての思想資源、あるいは福祉国家のウェルビイング政策を正当化する理念としても、存立します。その場合の仁愛は、「ピュシス論」からどのような方向に向かうべきなのか。この本からは読み取れませんが、この問いは重要であり、私も引き受けたいと思います。

2016-05-16 ■キリスト教は信条倫理なのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


教養としての聖書 (光文社新書)

教養としての聖書 (光文社新書)

橋爪大三郎『教養としての聖書光文社新書

橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 ドイツルター派は、ナチスに協力的だった。だから後で深刻に反省することになった、というのは教訓的ですね。

 キリスト教一神教)の教えでは、神が命じたとおりに人間関係を構築しなければならない。それはどういうことかというと、人はみな、地上の権威に服従しなければならない。というのも権威はすべて、神によって立てられたものとみなされるからです。権威に逆らうと、神の裁きを受ける。だから税金関税を納めて、負債を返却しなければならない・・・。

 この場合の「地上の権威」とは、例えばローマ教皇であり、あるいはヒトラー政権であったりします。ヒトラー政権であっても、キリスト教は、「命令を拒否してもよいが反抗してはならない」と教えるのですね。

 「敵が飢えているなら食べさせなさい。渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、燃える石炭を彼の頭の上に積み上げることになるからである」(箴言25章より)。

 つまり「地上の権威」が敵であるとして、その敵に対して善を施すと、悪を打ち負かすことができる。このような思考が、キリスト教の基本的なロジックなのですね。自分自身で報復しないで、裁きは神に任せよ、と。

 これはウェーバー用語法では、信条倫理ということになるでしょうか。

 ただ正確に言えば、たんなる信条倫理ではなく、ある命法に従って、結果として「燃える石炭を、敵の頭の上に積み上げる」ことを狙っているわけですから、そのような効果が薄い場合には、キリスト教も地上の権威に対してどのように従うかについて、戦略的な思考を働かせることになるのでしょう。

2016-05-13 ■政府が好戦的民意を作り出す可能性 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


メディアと自民党 (角川新書)

メディアと自民党 (角川新書)

西田亮介『メディア自民党角川新書

西田亮介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 もし電通自民党が密接な協力関係を築いたら、自民党は、マスメディアの権力を利用できるようになる。すると政治は、世論によって審判を受けるのではなく、反対に、政治が世論を操作することができるようになる。

 そうなると国家は、プロパガンダでもって好戦的な民意を形成していくことができる。そうした危険な可能性があるので、私たちは政府与党)とメディアの関係を、しっかりと観察していかなければなりません。

 でも本書での取材では、ある企業の担当者は、電通自民党が、「フタをあけてみれば、ぜんぜんつながらなかった」と述べているのですね。

 ただこの人の発言から、一般的な結論を引き出すことはできないでしょう。自民党広告代理店は、あからさまな提携はできないでしょうが、私たちはもっと疑っていいのではないかと思いました。ある意味で疑うことが、世論操作免疫をつけるための、市民としての美徳なのですから。

2016-05-12 ■イランとの友好関係が最優先 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

あぶない一神教 (小学館新書)

あぶない一神教 (小学館新書)

橋爪大三郎佐藤優『あぶない一神教小学館新書

橋爪大三郎さま、佐藤優さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 敵国イスラム国の敵は味方。だからアメリカイランが手を結ぼうとするのですね。ただ、アメリカイランの核開発を認めてしまうと、現在、パキスタン内にある核兵器は、サウジアラビアに移されることになるでしょう。専門家ならだれもが知る秘密協定があって、パキスタン核兵器サウジのもの。パキスタンではそもそも、サウジアラビアがスポンサーになって核兵器を作ってきたからです。

 イランが核を持てば、サウジアラビアだけでなく、カタールオマーンも核を保有することになるでしょう。

 問題は、カタールサウジアラビアが、「イスラム国」に資金を提供しているという側面です。カタールサウジアラビアと「イスラム国」の関係は、日本の戦前の旧陸軍右翼過激派のような関係ともいえます。

 もし、サウジアラビア政権が崩壊して国ごと「イスラム国」に乗っ取られるという事態になれば、イスラム国は、核兵器を使うことに躊躇しないでしょう。

 これが起こりうる最悪のシナリオです。

 だからアメリカはまず、イランと友好関係を結んで、イランが核を保有しないように手を尽くす必要があります。これこそ現在、平和のための最優先の外交であるかもしれません。