Hatena::ブログ(Diary)

橋本努 HASHIMOTO-TSUTOMU このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-06-24 ■環境にやさしい人はカロリーオーバーしない このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


ティーヴン・レヴィット/スティーヴン・ダブナー『ヤバすぎる経済学東洋経済新報社

 アメリカ環境保護派、クリス・グードルは、著書『炭素を抑えて暮らすには』のなかで、次のようなことを書いている。

 「グードル氏の計算では、1.5マイル歩いて消費したカロリーをコップ一杯の牛乳で補充すると、その牛乳にかかわる温暖ガス(農場から排出されるメタン配達トラックが排出する炭素化合物)の排出量は、歩いたのと同じ距離を典型的な車で走って排出される温暖化ガスの量と、だいたい同じだ。二人で同じ距離を移動するなら、車で行くほうが間違いなく環境にやさしい。」

 (以上は、ジョン・ティアニーが『ニューヨークタイムズ』紙でやっているブログに載せた文章)

 この計算は説得的でしょうか。

 車で移動しても、その前後の一時間で、コップ一杯の牛乳を飲むことはありますよね。人は水分を補給して生きているわけですからね。牛乳ではなくて、マイボトルに水を入れて水を飲めば、やはり車で移動するよりも歩いて移動する方が、環境にやさしいのではないでしょうか。

 結局、環境にやさしい生き方というものが、一日当たり、どれだけのカロリーを摂取すべきか、という問題にいきつくのであれば、カロリーオーバーは環境にやさしい生き方ではない、ということになりますね。

 そういう問題なのでしょうか。むしろ本質は車の排気ガスの問題ではないのでしょうか。

2016-06-23 ■訒小平のレトリック このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


エズラ・ヴォーゲル『訒小平』聞き手=橋爪大三郎講談社現代新書

橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 毛沢東による文化大革命というのは、巨大化した官僚制度に抗して、ロマン主義的な共産主義の理想を実現するための運動だった、と理解することができます。

 すでに1950年代になると、毛沢東は事務的な仕事から退いて、官僚制を指導せず、雲の上にいる存在になっていた。だから毛沢東は、ロマン主義的な思想をもつことができた。国民党にはそれができなかったけれども、毛沢東は、ロマン主義理念によって、人民の犠牲的な献身を引き出すことができたのですね。

 でも、そうはいっても、実務的な事柄にたけた人がいなければ文化大革命も成功しません。毛沢東はそのような事情を理解して、一部の実務グループ(「業務組」という)を認めていました。

 興味深いのは、毛沢東に後継者と思われていた訒小平が、いかにして改革開放路線を成功させることができたのか、ということ。

 訒小平によれば、毛沢東の根本的な考え方は、新しいことを実験してみようという精神にあるという。だから改革開放政策を大胆にしても、そうしたやり方に、毛沢東は反対しないと思うよ、と発言することができた。

 訒小平は長年、毛沢東と一緒に暮らしていたので、そうした言い方が、説得力を持ったというのですね。こうしたレトリックに、訒小平政治家としての力量を認めることができるのでしょう。

2016-06-22 ■残業からの自由を求めるマルクス主義 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

自由のジレンマを解く (PHP新書)

自由のジレンマを解く (PHP新書)

松尾匡自由のジレンマを解く』PHP新書

松尾匡さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 現代にマルクスを活かして思想的なスタンスをとろうとすれば、どうなるのか。それが結局のところ、本書の立場では、新自由主義新保守主義批判して、リバタリアニズムリベラリズムにいきつくというのですね。パラドキシカルだと感じましたが、私もマルクスを活かすリバタリアニズムマルクスを活かすリベラリズムというものの思想的可能性を、考えていきたいと思っています。

 ハイエクのいう自由は、強制がないことです。では誰もがいやいやながら、自主的に残業するような社会は自由なのでしょうか。ハイエクであれば、そうした残業は、政府の矯正がないわけだから、自由だ、というでしょう。

 しかし人々の行動パタンには複数の均衡があって、もしかすると人々が自主的に残業することをやめて、もっと自由を感じることができるような社会もまた、社会秩序の均衡点の一つであるかもしれませんね。

 こういう場合に、残業がない社会へと移行させるための政府介入は、自由のための政府介入であって、正当化できるというわけですね。

 すると問題は、そのような別の均衡点の魅力を、どのようにして人々に説くかですね。

 例えば中学校で、一週間に50時間を超えて生徒を学校の活動(課外活動を含む)に拘束するようなケースは、部活動の顧問に対して責任を問うことができるようにして、これを法律で取り締まることができるようにするとか。

 こうした工夫によって、私たちはもっと自由になることができるかもしれませんね。ハイエクであれば、そうした法律はまず自治体ごとに制定可能にして、法の自生的な確立を促すかもしれませんね。自治体ごとの判断に任せるような社会は、ハイエク的な新自由主義と両立しますね。

 自由の問題は、この場合、立法過程の規範理念に行きつくように思います。

2016-06-20 ■女性と経済学の関係 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

栗田啓子/松野尾裕/生垣琴絵『日本における女性と経済学』北海道大学出版会

栗田啓子さま、松野尾裕さま、生垣琴絵さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 日本におけるフェミニズムの研究は、1980年代にピークを迎えたものの、驚くべきことに、経済学史の分野においてはほとんど研究されず、今日に至っていたのですね。日本の女性は、どのように経済学に出会い、また女性はどのように社会と関わっていったのか。経済学は女性を解放したのか、しなかったのか。本書は、日本における女性と経済学の関係を、学説史や社会史の観点からはじめて明らかにしたものであり、その出版の意義はきわめて大きいと思います。

 本書のテーマは二つあります。

 一つは、女性のための経済学教育が、どんな女性像を理想としていたのか。

 もう一つは、女性の経済学者がどのように活躍したのか。

 1910年代黎明期に、一部の急進的な女学生たちは、「日本の社会の深部に組み込まれた抑圧・差別・暴力の諸相を白日の下に示し、それらの構造を解明すること」を経済学に求めました。

 他の女学生たちは、「新しい良妻賢母」の担い手になること、具体的には、家政のみならず社会(消費者団体?)事業に参加するような主体になることを、経済学に求めました。「主婦」というカテゴリーが誕生するのもこの時期ですね。

 第7章は、竹中恵美子氏本人による、自身の研究と女性労働運動、またその制度化の歴史を振り返るもので、たいへん興味深いです。男女がケア労働を平等に担いながら共に働くという理想に向けてのさまざまな理念と制度構想が述べられています。とりわけ、「男女ともに『ケアする権利』が保障される『時間確保型社会化』の方法」が、現代において到達した一つの理念とされています。

2016-06-18 ■リバタリアニズムと伝染病 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


入門・医療倫理III: 公衆衛生倫理

入門・医療倫理III: 公衆衛生倫理

赤林朗/児玉聡編『入門・医療倫理? 公衆衛生倫理勁草書房

赤林朗さま、児玉聡さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 公衆衛生の問題は、イデオロギー試金石でもあります。本書では総論と各論のあいだに「政治哲学的基礎」の解説が置かれていて、そこでイデオロギーについての諸学説の検討がなされています。とても興味深く読みました。

 医師医学史家のトーマス・マキューン(MacKeown)は、イングランドウェールズのデータを用いて、結核インフルエンザなどの感染症について研究しました。

 それによると、19-20世紀に感染症による死亡率が減った要因は、食生活や栄養状態の向上や衛生状態の改善にありました。ワクチンが効果を発揮するようになったのは1935年以降であります。

 この事実に照らして考えると、リバタリアニズムは、かなりの譲歩を強いられるでしょう。リバタリアンな人々でも、結核インフルエンザなどの脅威から身を守るために、政府に対して何らかの政策を求めるでしょう。政府は人々の「所有権」を保証しなければならないという観点から、所有権の中核にある身体を、他者の危害から守る必要があるからです。

 しかしそのために政府がなすべきことは、福祉国家政策と一致します。つまり人々の生活水準の向上を計るための諸政策が必要であり、これは財の再配分を提唱する福祉国家の政策と重なります。

 伝染病などから人々の生命=財産権を守るべきであるとすれば、リバタリアニズム福祉国家の政策はある程度まで一致する。福祉国家リバタリアニズムの思想によって、ある程度まで正当化できますね。

 ここからさらに、例えば受動喫煙による健康被害(場合によっては死)を最小化するために、リバタリアニズムはその論理の延長で、政府介入を認めることもできるでしょう。

 問題はリスクに対する感覚ですね。リバタリアンは、リスクに対して最も楽観的な人というわけではありません。リバタリアンは自立を重んじますが、自立した人がリスクに楽観的になるとは限りません。するとリスクがわずかでも、その因果関係が特定できるのであれば、リバタリアン観点からも、禁煙ゾーンの設定やたばこに対する高率の課税などの、さまざまな政府介入を正当化できることになるでしょう。ただしリバタリアンは、政府が肥大化するリスクについては、悲観的かつ敏感でしょう。

2016-06-17

■戦後直後の文部省の平和認識

19:18 | ■戦後直後の文部省の平和認識を含むブックマーク ■戦後直後の文部省の平和認識のブックマークコメント

西田亮介編・文部省著『民主主義 1948-1953 中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』幻冬舎新書

西田亮介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 戦後直後の文部省が「民主主義」というものをどのように考えていたのか、興味深く読みました。

 憲法九条をめぐって、文部省には次のような認識がありました。

 諸国が主権を放棄して、人類全体を一つの政治社会に統一すべきであるという見解があります。そのような「世界国家」の思想は、古くから提唱されてきたものです。

しかし、

 「地球上のすべての国々がほんとうの民主主義に徹底し、お互いの間に円満な協力の関係を維持していくように努力するならば、ことさらに世界国家を作らないで、今までどおりの国際社会のままですすむとしても、世界の平和は維持され、人類全体の福祉を一歩一歩と高めていくことができるであろう。その意味で、形の上での世界国家の建設よりも、真の民主主義の精神を全世界に広める方が、世界平和のための先決問題であるというべきであろう。」(241)

 このように文部省は主張しました。

 けれども戦後の日本はこれまで、民主主義の精神を全世界に広めるという努力を、どれだけしたのでしょうか。いずれにせよ平和を築くために、他国に対して、民主主義の精神を広めるような介入をするというのは、強い要求になりますね。

 またもし戦争が始まった場合、日本はどうすべきなのかについて、文部省は次のように考えました。

 「ますます大きくなりつつある戦争の規模を考えたならば、なまなかな(中途半端な)武力を備えたところで、国を守るために何の役にも立たないことが分かる。・・・だから、日本としては、あくまでも世界を維持していこうと決意している国々の協力に信頼し、全力をあげて経済の再興と文化の建設とに努めていくにしくはない。」(243)と。

 この文章は、「世界を維持していこうと決意しているアメリカの武力の協力を信頼して、日本は経済の再興と文化の建設に努力する」という具合に解釈できますね。いざとなったらアメリカが守ってくれるという信頼のもとに、憲法九条が正統化されているように読めます。

 この辺の認識が問われています。大いに議論すべきでしょう。

2016-06-16 ■日本人の栄養摂取量が減っている このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


松尾匡『この経済政策民主主義を救う』大月書店

松尾匡さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 最近では欧州左派も、金融緩和政策を支持しているということで、日本ではアベノミクス批判する際の左派観点が、揺らいでいますね。

アベノミクスよりもさらに貨幣供給量を増大してかまわないという主張が、もし野党の政策提案になるとすれば、経済政策は、いまの与党野党もほとんど同じようなものになる可能性が高いと思いました。

 この他、本書で紹介されている興味深いデータとして、1995年から2012年にかけて、20歳代の栄養摂取量が約2050キロカロリーから約1850キロカロリーへと減少しているという事実があります。

 これは20代のデータですから、高齢化による日本人のエネルギー摂取量の全般的な低下とは意味が違います。日本の若者たちは、エネルギーの摂取量をだんだん減らしてきているのですね。

 その原因は、若者たち雇用不安定化して、失業率が高まっていることと関係しているのではないか、ということですが、でも調べてみると、7歳から14歳のエネルギー摂取量も減っています。子どもたちの栄養摂取量が減るという背景には、20代の失業率の増加とは別の要因があるようにも見えます。

 どうも日本人が全般的にエネルギー摂取量を減らしている。こうした時代のトレンドを、どこまで下部構造で説明できるのでしょうか。興味深い問題です。

2016-06-13 ■SFの時間レトリック このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


浅見克彦『時間SFの文法』青弓社

浅見克彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 精神が攪乱したり旋回したりするような時間の感覚は、実際にそのようなことを経験していない場合に、どのようにして想像できるのかといえば、それは代理となる経験によって間接的に想像力を働かすことによってです。ではどのような代理経験が参考になるのかといえば、それは例えば、のたうち回るような身体の感覚といったものでしょう。

 あるいは、「溶けるような時間」というものは、どのように感じられるのでしょう。代理となるのは、酩酊(めいてい)に陥った身体の感覚ですね。あるいは回転木馬に乗っている感覚とか。

 いずれにせよSFでは、ありえないような時間の感覚を想像してもらう場合に、人々がこれまで経験したことのある出来事を参照しながら、そこから想像的な跳躍を起こしてもらうための工夫が必要になります。

 けれどもその工夫が難しい。想像の跳躍がうまくいくかどうかはリスクがあって、小説家の力量は、そのリスクを埋めるようなレトリックをいかに見つけるのか、というところにあるわけですね。

2016-06-09 ■地域コミュニタリアンは反グローバリストか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

サミット・プロテスト―グローバル化時代の社会運動

サミット・プロテスト―グローバル化時代の社会運動

野宮大志郎・西城戸誠編『サミットプロテスト グローバル化時代の社会運動』新泉社

富永京子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 2008年に札幌で開催されたG8サミットに対する対抗運動で、「キャンプ札幌実行委員会」の食事提供に参加した人に対するインタビューは面白いです。

 その人によると、なるべく地産地消を実践するために、ワイン北海道の「道民還元」と書かれたワインを仕入れたところ、そのラベルには「サミット応援します」というシンボルマークがついていたというのですね。

 反G8のために集まっているその集会で、サミット応援するワインを飲むのは、いかがなものか。その人はキャンプ参加者たちにあまり気付かれないうちに、そのマークを塗りつぶした、とのことです。

 「地産地消」とか「道民還元」といった、いわば「コミュニティ重視」の商品を売っている会社でも、G8やグローバリズムには賛成している。このリアリティを、どのように考えるかですね。地域コミュニタリアンは必ずしも反グローバリストではないわけです。

2016-06-08 ■「論語」解釈の誤解について このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

論語の力

論語の力

緑川浩司『論語の力』財界21

松岡幹夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 対談集になっています。

 「死とは何でしょうか」という門人の問いに対して、孔子は「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と答えました。

 この一節は有名で、一般には次のように訳されます。「生のことが分からないのに、死のことが分かるはずない」と。この訳文から、私たちは孔子が、「死については考えない」「死について考えても無意味」と言っているのではないか、と解釈してきました。

 しかしこうした一般に広まっている解釈は誤解であり、孔子霊魂や死について、強烈な関心を持っていた、というのが加地氏の解釈なのですね。

 加地訳では次のようになります。

 「もしまだ在世の親(生)の意味・意義についてちゃんと理解できないでいるならば、どうして御霊(みたま、死)の意味・意義についてちゃんと理解することができようか」と。

 孔子は、死について、これを生の意義との関連で理解すべきである、と考えていたようですね。