■中絶の自由を認める際の「権利」とは

人権論の再構築 (講座 人権論の再定位)

人権論の再構築 (講座 人権論の再定位)

井上達夫編著『人権論の再構築 人権論の再定位5』法律文化社、2010年

井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 2010年に刊行された本ですが、研究会でご恵存いただいて、しばらく実家に置き忘れていました。いま改めて読んでみました。とても刺激的です。
 第二章、山根純佳著「人権は誰の権利か 女性の人権と公私の再編」について。
 家庭を「非政治的領域」と位置づける「公私二元論」では、家庭内暴力などの問題をたんに「私的」な問題とみなしてしまい、女性を解放するという関心に照らしてみると、問題を孕んでいます。
 公民的な生き方を称揚する「政治」理論ではなく、私的領域における「正義」の要求をかかげるリベラリズムこそ、家庭という私的領域における男女間の権利平等を問題にしうる、ということになるでしょう。
 この私的領域における権利平等、あるいは女性の権利において社会的に問題となるのは、例えば「中絶の自由」です。中絶の自由は、胎児に対する女性の権利ではなく、「家父長制」に対する女性の権利である、というフェミニズムの主張は、どこまで妥当性をもっているでしょうか。
 ドゥウォーキンは、この問題に取り組んでいます。人が子供に投資しようとする行動は、「生命の神聖さ」、あるいは本来的価値を大切にするがゆえの行動であり、ある種の宗教的信念であると考えられる。そのような宗教的信念に基づく中絶は、プライバシーの権利によって擁護できる、とドゥウォーキンは考えます。
 しかし山根論文は、こうしたドゥウォーキンの主張が、中絶を認めるにしても、結局のところ、望まない妊娠をした際の責任(心理的負担)を、すべて女性に負わせてしまう点で、望ましくない、と主張しています。
 中絶は、女性の権利というよりも、「男性と女性の権利」+「それにともなう責任の平等」でなければならない、ということになるでしょう。
 そうすると女性の「人権」というものは、たんなるプライバシーに関する女性の権利という一面的な考え方を超えて、再規定していかねばならない。男性にも妊娠させた責任をしっかりと負わせなければならない。ただし、そのためにプライベートな生活を社会がよく監視すればよい、ということにはならないでしょう。本論文では、実践的には、ジェンダー間の平等を、広く社会的に支援していくことが望ましい、と主張されています。
 なるほど、です。では、望まない妊娠や、中絶に対する男女間の心理的負担を、実質的に平等にするところまでもっていくには、どんな社会的支援が可能でしょうか。いろいろと考えさせられました。