脳出血の妊婦の死

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081027-OYT1T00610.htm?from=nwla
なんとも痛ましい事件である。とはいえ医療現場にあってはこれは事件といえないことなのかもしれない。墨東病院の医師は人手不足の中でも赤ちゃんの命を救ったといういうような意見も実はあるのだ。たぶん医師や看護師たちからはそんな本音の意見もあるのだろう。とある掲示板の中でおそらく医師らしき人がこんなことを書いてもいる。
http://news.goo.ne.jp/hatake/20081023/kiji2591.html
医師不足なのはわかる。その中で医師たち、特に勤務医が過酷な労働を強いられているという実体もある。医師たちが医療ミスとして訴えられたりすることのない、リスクの少ない専門医を志望するということもあるらしい。産婦人科はもとより内科や外科よりも眼科とかそういう方面を希望するのが最近の傾向なのだという話も聞いたことがある。
難しい問題はあるのだが、とにかく医師を増やす施策を試みるべきだと思う。現実の医師不足の解決策にはならないだろうけど、とにかく医大、医学部の増やす。医師はある意味では技術者、職人なのだから、簡単な診断ができてそこそこ適当な処方箋が出せる医師を増やす。これからの50年、100年を考えたらそういう方向が一番なのかなとも思う。
いくら医学部の定員を増やし、医師資格をゆるゆるにしても、みんなリスクの少ない科目にいってしまうというなら、医師資格を与える段階で一定の年月自由に専門科目にいくことを制限してしまえばいい。例えば内科医、外科医、産婦人科医を志望する学生の学費を免除し、医師資格取得後は最低10年間は勤務医として救急医療に従事させるとか。職業選択の自由、それなら自分で学費なんとかしなさい。
後はアジアや第三世界から人材を広く受け入れるとか、そういうことはできないのだろうか。無償で第三世界から医学生を受け入れて医師資格をとらせる。その代わりに10年間、日本国内で救急医療に従事させる。年期奉公明けには無事自国に帰国してみたいなことは難しいのだろうか。
もちろんそのコストは我々国民一人ひとりが負担することになる。でもそれこそ石を投げれば医師に当たる(しゃれじゃないぞ)くらいの状況が出現するなら、消費税20%くらいになっても納得できるのだけど。医師のダンピングとでもいうのかな、誰でも希望すれば医者になれるくらいに門戸広げれば、いろいろな意味で状況が代わるような気もするのだが。
それはそれとしてだ、今回の妊婦の脳出血の件、本当に痛ましい。残されたご主人や赤ちゃんのことを思うと、本当に居た堪れない気分になる。ただし出産時の脳出血は確率的には数%かもしれないが、個人的にはかなり多いのではという思いもある。まず第一出産という行為はそれだけ大変なことだと思うし、あれだけいきむのだから脳の血管だってぶち切れても当然ではと、まあ素人アンド男性の立場でも思うわけだ。
もう一つ私はそういう患者さんを身近で見ている。妻が入院していた国立身体障害者リハビリセンター病院で、私は2人の患者さんと出会っている。二人とも三十代の奥さんで出産時の脳出血で下半身不随になってしまったと妻から聞いた。妻がこの病院に入院していたわずか六ヶ月の間で2名のそういう患者さんと出会うのである。確率的には数%でも確実にそういう症例は存在するのだ。
お二人とも脳・血管の疾患の患者さん特有の表情の少ない方たちだった。ほとんど笑うのを見たことがない。でもそれは単なる病気による無表情のせいだけでなく、彼女たちの深い絶望のためでもあったのではと思う部分もある。彼女たちは今後リハビリを頑張っても基本的には車椅子生活である。その中で育児をおこなっていくかなくてはならない。いやそれは出来るだろうか、一人の患者さんは妻と同じように片麻痺だったがほとんど歩くことができなかった。もう一人の方完全に下半身が付随だった。
二人とも三ヶ月ほど国リハで過ごされた。一人の方は別の病院に転院された。もう一人はこれ以上入院が長引くと気が狂いそうになると主張して無理矢理退院されたが、ご主人とは同居せず、実家で静養されるとのことだった。
病気は個々であり一人ひとり千差万別である。でもどの患者さんも確実にいえるのは、みな等しく不幸であるということ。彼女たちからすれば私の妻はまだいいほうなのかもしれないとも思う。とにもかくにも六ヶ月の入院の後は自宅で生活ができているのだから。もちろん重度の片麻痺ではある。それでも短い移動は自立している。病状の重い軽いとかを、病気による不幸の度合いを比較してもせんないことではあると思う。それでも妻は結果としてまだましなほうなのかもしれない。
脳出血で亡くなった奥さんの救急医療がうまくいき、もし助かったとしても、たぶん相当の後遺症が残ったかもしれない。良くて片麻痺や半身不随、へたすれば一生寝たきりになることだってあるのだ。確率的な可能性、あるいは蓋然性の問題である。新たな不幸が、絶望が、覆いかぶさってきていたのかもしれない。ただ生きてさえいればと軽々しく口にするのも憚れるような絶望もあるのである。
人間の生にまつわる蓋然性の問題は難しい。一概に医療ですべてを解決できるわけではない。どんなに完璧な医療処置をとっても、人は亡くなるときは亡くなるのだ。ただ家族からすれば最善を尽くしてもらいたいと、ただそれだけを思うわけだ。だから担当医師がいない、ベッドがないといった理由で門前払いをされて時間を要したうえでの死を受け入れることはなかなかに難しいのだろうとは思う。
誰が悪いという問題ではないのかもしれない。責任の所在や悪者探しとは別のこととして、それでも救急医療が充実され、そこに従事する医師や看護師が潤沢に存在するような社会を望みたいと思う。そのための高コストは甘んじて受け入れたいとも思う。