漢方は疑似科学なのか(2)

昨日書いた「漢方は疑似科学なのか」という記事に批判を頂いた。
主語のサイズと陰謀論:Chromeplated Rat


批判は大歓迎だ。ちなみに俺は(過疎ブログなので批判も賛同も滅多にないけれど)、自分が書いたものにどのような批判がなされるであろうかを予想しながら書いている。だけど、ちょっとこれは意表を突かれた。


ブログ主のpooh氏はこの記述にひっかかりを覚えたみたいだ。

すなわち優先順位で言えば科学としてはホメオパシーの方が遥かに重大な問題だということになり、その理由は現代科学の体系が揺るがされるということであり、そのことが被害の有る無しなどよりも深刻だってことではないだろうか。

俺の書き方が悪かったのだろうかとも思うので、ここで何を言いたかったかを改めて書けば、「科学と疑似科学を区別するための要素に被害の有無は含まれない」ということであります。あるいは「被害の大小によって疑似科学の度合いを判定するわけではない」ということであります。


一方、被害防止を目的とする場合には、被害の有無や大小が問題になると思うわけで、たとえ万人がそれを疑似科学だと認定したとしても、健康被害がない無害なものなら、あえて被害防止の観点から批判する必要はないでしょう(金銭被害などの他の被害の話は別として)。また、それがグレーゾーンにあるからといっても、被害が発生しているのならば批判の対象になるでしょう。


ホメオパシーは正真正銘の疑似科学だけれども、工夫次第で無害化できる可能性はあると思います(「被害」の範囲をどこまでも拡大することもできるだろうけれど)。しかし、もちろん無害化したからといっても疑似科学であることに変わりはないわけで、科学はそれを批判するでしょうし、批判するべきであるとも思います。だけれど、被害防止の観点からすれば疑似科学であろうと無害化すればOKなはずです。


一方、漢方だって、やり方次第では被害が甚大になる可能性はあるわけです。現在、漢方がそれほど問題になっていないのは、それがグレーゾーンだからではなくて、社会に受け入れられるために無害化する努力を重ねてきたという要因があるのではないかと思うわけです。


このように「科学」の観点からの擬似科学批判と、被害防止の観点からの疑似科学批判は完全に一致するものではないと思うのに、それが区別されずにごっちゃになっているところがあるのではないかというのが俺の書いた趣旨であります。それに対する批判ならあるだろうと予想していたけれど、予想外の批判だったので、ちょっと驚いたという次第。

漢方は疑似科学なのか(3)

恥かきついで:Chromeplated Rat

何か議論が噛み合いませんね。どこから説明すればいいのかわからないので順不同で。


まず疑似科学批判の議論において、例示せよという意見を頻繁に見かけるんだけれど、俺は経験上、それをすると(当事者との勝ち負けを争う)生産性の低い議論に巻き込まれる恐れが大いにあると思っているので好みません。そう感じている人または、そういうところもあるかもしれないと見つめ直す人を主にターゲットにしています。ただし、今回の件についていえば、対象者はそういう面倒な人じゃないと思っているので、ちゃんと最初の記事に明示したつもりです。


次に俺は「専門職としての科学者」のみを眼中に入れているわけじゃなくて、素人も眼中に入っています。そもそもネット界では匿名の書き手が多いわけで専門職なのか素人なのか見分けがつかないことは珍しくありませんしね。ちなみに俺は素人ですけどね。


次に俺は「科学の観点から」と書いていますけれど「専門職としての科学者の観点から」とは書いてませんよね。価値判断は科学の外にあるというのが俺の認識ですし、そのことに異論は無いと思うんですけどね。

これは「科学」の話だけれど、「科学」の内部に収まる話ではなくなる。

って書いてあるし。俺は「科学」以外の要素が入っているものは「科学」と区別して論じるべきだと思っていますけれど、そこに認識の違いがあるんですかね。


次にこれは前の記事で本質的に関係ないから書かなかったけれど、「砂糖玉に効果があるのだとしたら現代の科学全体が見直しを迫られるであろう」というのは、元となる物質が1分子も含まれていないものが元の物質の性質を保存しているのなら、現代科学が見直しを迫られるということであるけれども、日常生活がそれで支障をきたすかといえば、そんなことはないと思いますね。なぜなら現代の科学は役に立っているのだから、それが科学的に間違っていることが判明したとしても、別段困らないからです。そもそも風呂に入るのが危険かどうかは科学に頼らなくても経験上わかっていることですしね。ニュートン力学は日常では有効ですし。


次に「科学にとってより深刻なのはどちらか」についてだけれど、医学は生命の維持が目的であるから被害の有無が関係ないとは言えないわけです。ただし、なぜ生命を維持しなければならないかという価値判断に関わることは科学の外にあるわけで、医学とは生命の維持という目的を達成するための学問であるというのが俺の認識です。社会的責務としての「被害を防がなければならない」などという感情が必要なのは「医学に従事する者」であり、学問としての医学で「被害を防がなければならない」のは、それが医学という科学の目的であるからに過ぎないと思うわけです(悪い意味ではなく)。そう考えたとき、科学全体を揺るがすホメオパシー理論と、そうではないと思われる漢方とでは、どちらが深刻な問題かといえば、それはホメオパシーだろうと思うわけです。上に書いたように、俺は「科学」以外の要素が入っているものは「科学」と区別して論じるべきだと思っていますし、科学界もそういう認識が主流だろうと思っていますから。


あと、

"「科学」の観点からの擬似科学批判と、被害防止の観点からの疑似科学批判は完全に一致するものではない"のは確かだけど、だからと云って分離して論じることができるものか、と云うとそう云うものでもなくて、それはなぜかと云うと、結局のところぼくらの生活は科学と云うメソッドへの信頼のうえに成り立っているからで(まぁこのへんでも書いたようなことではあるけれど)。

というのはちょっと俺にはわかりませんね。分離して論じることはできると思いますけどね。それに、「科学」の観点からの擬似科学批判ではホメオパシーが有害であろうと無害であろうと、それが科学であるということを否定しなければならないけれど、被害防止の観点からの批判というのはそういうものではないと思うわけで、極端な話「ホメオパシーに効果があると思うのなら勝手にそう思ってくれても構わないが使用するのはまかりならん」ということで規制して被害を防ぐという方法もあるんだし、両者は分離して論じなければならないものではないかと思うんですけどね。