長宗我部元親書状(斎藤利三宛)修正版

(ウハ書)
「利三     長宮
  まいる御旅所  」


  尚々、頼辰へ不残申
  達候上者、不及内状候へ共
  心底之通粗如此候、
  不可過御計申候


 追而令啓候、我等身上
 儀、始終御肝煎生々世々
 御恩慮迄候、中々是非
 不及筆墨候


 一 今度御請、兎角于今致
   延引候段更非他事候、進物
   無了簡付而遅怠、既早
   時節都合相延候条、此上者
   不及是非候歟、但来秋調法
   を以申上、可相叶儀も可有之哉と
   致其覚悟候


一  一宮を始、ゑひす山城、畑山城
   うしきの内仁宇、南方不残
   明退申候、応 御朱印、如此
   次第を以、先御披露可有、如何
   候哉、是にても御披露難成、
   頼辰も被仰候条、弥無残所
   存候、所詮時剋到来迄候歟、
   併多年抽粉骨、毛頭無真
   意処、不慮成下候ハん事
   不及了簡候


一  此上にも 上意無御別儀段
   堅固候者、御礼者可申上候、如何候共
   海部、太西両城之儀者相抱候ハて
   不叶候、是ハ阿讃競望候ためニハ
   一向ニあらす候、たゝ当国の門に
   此両城ハ抱候ハて不叶候、爰ニ
   御成敗候ヘハとて無了簡候
   

一  東州奉属平均之砌、 御馬・
  貴所以御帰陣同心候


一  何事も々々々頼辰可被仰談候、
   御分別肝要候、万慶期後
  音候、恐々謹言


   五月廿一日 元親(花押)


 利三御宿所


後半部分かなり間違えてた…

誰の「帰陣」なのか?

一  東州奉属平均之砌、 御馬・
   貴所以御帰陣同心候

の部分だけれど、「平均の砌」と「御馬」の間に空白部分があるらしい。原史料でも確かに空白がある(ように感じられる)。


これはたとえば江戸時代の史料で「東照宮」と書くときに前に空白があるのと同じことなんだろう。なぜ空白があるのかということを俺はちゃんとした解説を見たことがないので想像で言えば、相手が高貴な場合にそうするのだと思われる。


だとすると、この「御馬」は貴人を指すと思われ。ということは織田信長になるんだろう。斎藤利三はもちろん明智光秀のことでもないと思われ。あと考えられるのは近衛前久だろうがどうなんだろうか。


しかしこれを展覧会の解説にあるように「信長が帰陣したら」と解釈すると、信長はちょうど1月前の天正10年4月21日には安土城に帰陣しているので不思議だというのはTmさんご指摘の通り。