『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その1

ついでだから信長暗殺未遂事件について検証してみる。


史実(通説)によれば

1541(天文10年)金森長近(18)が織田家に仕官?
1551(天文20年)織田信秀
1555(天文24年)清須織田氏滅亡
1556(弘治2年)斎藤道三戦死
1559(永禄2年)信長上洛 
1560(永禄3年)桶狭間の戦い
1561(永禄4年)斎藤義龍急死
1562(永禄5年)徳川家康と同盟
1565(永禄8年)足利義輝暗殺

信長上洛時に美濃は斎藤義龍が支配、三河の主は松平信康(家康)だけど駿府の人質で今川義元が実質支配。


信長公記』によれば丹羽兵藏は三河人と偽っている。ただしこの時点では「刺客」一行が美濃人だと知っていたという記述はない。ましてや「刺客」だとは知ってるはずもない。

都へ罷り上り候ところ、人体と覚しき衆、首々五、六人、上下三十人計り上洛候。志那の渡りにて、彼の衆乗り候舟に、同船仕り候。

「人体(じんてい)」とは「人品のよいこと」という意味だから、上級武士が5〜6人いる集団に対して正体を隠したということだろう。それに対して彼らが気を許したのは三河人が尾張の信長を敵視していると考えたのだと思われ。


ただし『信長公記』では桶狭間の戦いは天文21年(1552)のこととしているので、この世界では今川義元は既に死んでいる。信長上洛を何年のこととしているのかは不明。斎藤道三戦死の記事は上洛の記事の後にある。史実と突き合わせれば時系列が無茶苦茶である。


ここで問題になるのが、信長を暗殺しようとしたのは誰なのか?ということ。史実では信長上洛の1559年には道三は死んでるので義龍に違いない。しかし『信長公記』の世界では道三は生きているのかもしれない。時系列は無茶苦茶だけれど書いてあることは史実に忠実なのだとしたら暗殺の首謀者は義龍で問題ないけれど、首謀者が道三の設定で創られた話の可能性もなくはない。


続けて『信長公記』には

何くの者ぞと尋ねられ、三川の国の者にて候。尾張の国を罷り通り候とて、有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候と申し候へば、上総かいそうも程あるまじく候と申し候。

とある。「有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候」というのが俺には解読困難。先にも紹介した現代語訳によれば

船中彼らは「貴殿、生まれはいずくぞ」と聞いてきた。丹羽が「三河の者にござる。尾張を通ってまいった」と答えると、一行はつっと視線を下に落とし、沈黙した。さらに「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」というと、一人が「上総めは甲斐性無しよ」と言い捨てた。

信長公記首巻中
と訳されているけれども、「生まれ」を聞かれたのではないと思うし「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」でいいのだろうか?「有随なる様体」とはどういう意味だろうか?俺は自信ないけれど「有随なる様体」とは「丹羽兵藏が集団の後についていくような格好になっている」という意味ではないかと思う。すなわち「私は三河国の者で尾張を通過してきて、今はあなた達の後ろについてきているような格好になってしまって、気まずいので同じ船に乗ることにしました」という意味ではないだろうか?同じ船に乗れば会話できるので、怪しい者ではないと自己紹介し、これから一緒についていっても気まずくないということではないか?(間違い)。


その思惑通りに、三河人だということがわかったので相手は気を許した。そして相手は「上総かいそうも程あるまじく候」という話をした。で、「上総かいそう」とは何かということなんだけれど「かいそう」は果たして「甲斐性」なのか?検索すると南條範夫織田信長』では「信長めの異相」となっている。「上総が異相」と読んだのだろう。「いそう」が「異相」かはともかく『上総が「いそう」』と読むのが正しいように思われる。俺は「威相」ではないかと思う。

八相の一つ。威厳の相。態度が堂々としていて、頼もしい印象を与える人が持っている相のこと。

威相(いそう)とは - コトバンク


長くなったので続く