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2015-07-14

菩提心院日覚書状について(その3)

検索したところ村岡幹生教授の論文は『中京大学文学会論叢』(第1号 2015)に掲載されていたのであった。

中京大学文学会論叢1号〜 of 中京大学文学部

しかもネットで公開されている。

JAIRO | 織田信秀岡崎攻落考証


というわけで、論文を元にして考察してみようと思う。まずは年次比定について。


論文の順番とは逆になるけれど、

京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる■■候、本禅にも負物過分ニ候、

これを村岡教授は、巴々氏の指摘と同様に天正16年6月17日日蓮宗諸寺と山門延暦寺の和睦のこととしている。「日吉御祭礼料」として百貫文を納めることで和睦が成立し、これが「過分に代物を仕候而、これほとにも成たる」と符号し「疑う余地がない」としている。


確かに辻褄があっているようにみえる。しかし「疑う余地がない」と言えるのか俺は疑問。というのも「当宗の事、入らく次第の事にて候」と書いてあり、既に書いたようにこれは1542年(天文11年)に後奈良天皇法華宗帰洛の綸旨に対応しているように見えるからである。


天皇綸旨を下した背景には延暦寺の了解があったと考えられるのではないだろうか?ソースはウィキペディアだけれども、早くも天文11年中に洛中法華21ヶ寺のうち、本隆寺頂妙寺・妙傳寺・妙蓮寺妙満寺が再建されたという。延暦寺の了解無しに綸旨が下されたとして延暦寺が納得するだろうか?再建を阻止するための行動を起こすのではなかろうか?


ゆえに、天文16年に最終的な和睦が成立したとしても、それ以前にも和談があったと考えられるのではないだろうか?それともその可能性はないのだろうか?この点図書館に行って調べてみたいと思うけれど、少し先になる予定。


※ なお、本能寺天文16 - 17年、本圀寺は天文16年、妙顕寺妙覚寺天文17年に再建されたらしく、その理由がこれらの寺の帰洛を綸旨が下されたにもかかわらず延暦寺が了承しなかったという可能性がある。したがって「当宗の事、入らく次第の事にて候」が天文16年の出来事を記している可能性も十分にある。ただし「疑う余地がない」とまで言えるのかは保留。


※陣門流の本禅寺はどういう理由かわからないけれど天文9年に再建されている。したがって楞厳坊の入洛は綸旨や「和談」と関係なく不都合なことはなかったと思われる。



次に論文ではこっちが先に書いてあるけれど

爰許なりハ、和談已後如形進退相続分にて候、無威勢沙汰限にて候、所帯先以無相違意にて候、

について。これを村岡教授は

ここもと(すなわち日覚を招いた城尾城主斎藤氏)の様子は、和談がなって以後そのまま城主としての立場にお変わりはないものの、威勢の衰えようは言語道断です。(斎藤氏の)所領はとりあえず保証されているといった心持ちです。

と解釈し、ここでいう「和談」とは「天文越中大乱」の「和談」のことであり、日覚の文書の成立は天文14年以降のこととしている。


これが正しければ天文11年説は成り立たない。しかしながらこの解釈が果たして正しいのかといえば俺は疑問に思う。


書状では、この前に「楞厳ハたち返りにて候、かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、」「目出度これにて留まいらせ候」といった自身や弟子達のことが書いてある、次に書くべきなのは城主のことではなくて、寺のことではなかろか?すなわち「爰許(ここもと)」とは城主斎藤氏ではなくて菩提心院のことではないかと俺は思う。そして「和談」とは「天文越中大乱」の和談のことではなくて、先に書いてある「京都ハ山門と和談」のことではないだろうか?


そう考えた上で

爰許なりハ、和談已後如形進退相続分にて候、無威勢沙汰限にて候、所帯先以無相違意にて候、

を訳せば「菩提心院は当宗と山門の和談の後も変わるところはありません。威勢が無いのは(元々で)言うまでもありません。信者は増えもせず減りもせずとにもかくにも変わらない感じです」といった意味ではないだろうか?いや何度もいうけど古文に自信があるわけではないけど。


というわけで、天文16年の可能性はあるけれども、天文11年がありえないということはないだろうというのが現在の俺の考え。


もっと詳しく天文法華の乱の収束状況について調べる必要があろう。

巴々巴々 2015/07/15 00:11 鮟鱇様
 おかげさまで読みたかった村岡教授の論文を読ませていただくことが出来ました。感謝いたします。それとともに自分が記事の感想の所で書いておいた論旨の予想のいくつかが当たっていたり、村岡教授の主張に反して愛知県史が氏康文書の該当箇所を「無相談」の判読で掲載したことに悔しさをにじませていたりしたことなどでニヤニヤがまだ止まりません。しかし、自ら提起された氏康文書の偽書の疑いを撤回されるとは思っていませんでした。その潔さに敬意を表するとともに、新たに学べたこともたくさんありました。氏の論文で歴史論争がさらに活発に行われることに期待いたします。
 延暦寺は細川政元の時に焼討ちにあって往時の力を失ってます。天文法華の乱で勝てたのは六角氏が味方に付いたためで、洛中法華が追い出された後も、跡地を占拠するどころか法華宗徒の町衆が復帰の為に土地を買得してゆくことを止める事すらできていないのですね。そんな話が先に紹介した本に載っています。ご参考となればと思います。

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