石谷家文書の解読(その5)

石谷文書』より
天正6年か)11月24日付斎藤利三石谷頼辰宛て中島重房・忠秀書状

 尚々、愛宕よりの使僧
 下国之砌、御文書頂
 戴仕候、忝候、毎事得其意候


摂州表悖乱之由風聞
付而、以書状被得御意候、尤此比
条々、以使者雖可被致言上候、
海上弥猥、殊更紀州此方
之儀、互守疵様躰候故、当
時飛脚等往還も無了簡
之間、先此仁被相頼被申入候、
万般直に被得御内意候間、
不可過御助言候、

ここに「不可過御助言候」とある。素人の俺が読むのだから間違ってるかもしれないけれども、まず斎藤利三石谷頼辰方から手紙が来た。それは愛宕山の使僧が土佐に下国した際に託されたものと思われる。その返事。


摂州表が道に外れた行いをしているとの風聞について、書状によって御意を得ました。使者を派遣して言上したいと思いますが、海上が乱れ、特に紀州根来衆と我々は互いに「守疵」の様態なので、飛脚の往還も許されないので、まずはこの「仁」に頼み申し入れました。すべては直接に内意を得たいと思いますので「不可過御助言候」。という意味だろう。


「仁」というのが誰なのか不明だが、下国した愛宕山の使僧のことと考えるのが自然と思われる。愛宕山といえば明智光秀愛宕百韻を連想させ、光秀・利三・頼辰および土佐と愛宕山の関係が気になるが、それはとりあえず置いとく。


この当時、土佐と上方にいる利三・頼辰との交信が困難だったことが推測される。しかし愛宕山の使僧は往来できているのであり、この辺の事情は興味深い。


元親方は直接に内意を得たいと考えているが、それが困難な状態なのでとりあえず「仁」に書状を託した。しかし行く行くは使者を派遣しようと考えている。


で、問題は

万般直に被得御内意候間、
不可過御助言候、

で、これがどういう意味かといえば、「不可過御斗(計)候」が「よろしくお計らい下さい」なら、これも「よろしく御助言下さい」ということになるだろう。その可能性も無いとは言えないけど、どうもしっくりこない。


それよりも、書状を「仁(愛宕山の僧)」に託したけれども、後で直接聞くから「仁」には助言無用という意味ではないかと俺は思う。すなわち「不可過御助言候」は「誤って仁に助言をしないで下さい」という意味であろうと思う。あくまで僧は飛脚の役割で、直接訪問できないから応急措置として託したということだと思う。断然その方がすっきりする。


なお、だとすれば、そのように言っておかないと愛宕山の僧に助言してしまう可能性があるということで、それはつまり愛宕山の僧が再び土佐に赴くことが土佐と利三達の間で共通認識になっているということであり、この僧は土佐と利三達の連絡係となっていたということになるだろう。ただし、そのような役割があったにも関わらず、少なくとも土佐側からは信用されていなかったということも窺われるように思われるのである。