明智光秀とチマキとツマキ

明智光秀と粽のエピソード。『閑際筆記』(国文研)から読み取った(誤字等あるかも)。

日州光秀既ニ織田公ヲ弑メ。桃花坊ニ在ス。洛人献粽ヲ。光秀菰葉ヲ不脱シテ啖之。一ノ人望見之曰。斯人大君ノ器ナシ。何ヲ以テ天ノ下を有也(タモタンヤト)。不日ニシテ寇至。

本能寺の変の後、京の人が光秀に粽を献じた。光秀は包みの葉を取らずに食べた。それを見た人が「この人は大君の器ではない。何をもって天下を保つことができるだろうかと。それから日を経ずして光秀は討たれた。という意味だろうか。『閑際筆記』は1715年成立。これが史実か創作か、あるいは元になった史実または伝説があって後に話が変化したものか。それはわからない。


なぜ粽の包みを取らずに食べると、器が小さい人間とみなされることになるのか?


「援軍が来ない事にイライラしていたから」という解説がある。
明智光秀と粽・悪い話 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
明智光秀と粽 | とらやの和菓子|株式会社 虎屋


また江戸時代後期に成立した『大閤真顕記』にもこのエピソードがあるらしいのだが原文未確認。「明智家逸話集」というページに

「光秀さまも心遅れしてこんな風になった」
とか
「将軍になると粽は葉を解かずに食べるものだ」
とか様々に言い合った。このことは後年になって、
明智に似合ず名将とも思えないうろたえた振舞だ」
と、謗る者が居る。

明智家逸話集
とある。しかしこれは後世の解釈だと思われ、人々が光秀を批判した理由が『閑際筆記』と同じなのかはわからない。


粽そのものに特別な意味がるのかもしれない。ウィキペディアによると

昔は菖蒲の葉も用いたようである。

ちまき - Wikipedia
とある。「菖蒲」は「勝負」に通じるだろうと思われ。これは単なる思いつきだけど、何かそんな感じの民俗学的な意味があるのかもしれない。光秀の時代に粽の皮が何であったのかはわからない。笹の葉って食べようと思えば食べられるものなの?そりゃ無理すれば食べられるだろうけど。そもそも俺は粽を食べたことが(多分)無いのでよくわからない。


それはともかく、俺が最も気になっているのは「チマキ」である。粽は通常「チマキ」と呼ぶが「ツマキ」と呼ぶ地域があるらしい。理由は「チ」は「血」に通じるからとされている。10年ほど前に検索したときにはそれに言及したページがたくさんあったと記憶してるが、今検索したらあまりない。何でだろう?でも興味深い記事が見つかった。

名張では、今でも「信長を殺してくれた明智光秀を崇拝しており、彼を『明智様』と呼んでいる」とか「五月の節句に食べるちまきを『つまき』と発音する。これは『ち』という言葉が、血に通じることから忌み嫌われるからである」などと、言い伝えられているそうです。

おまけの話。(焦土と化した伊賀) - 『今日の散歩道』
伊賀攻めに関係して光秀と粽の話が出てくるのが面白い。


で、明智光秀に関してちょっと知識がある人なら気づくんじゃないかと思うけれど、光秀の妻は「妻木氏」である。また『多聞院日記』に光秀の妹の「御ツマキ」が死んだという記事がある。


そんなわけで、光秀とチマキとツマキの関係はずっと前から気になってたんだけれど、ちょっと苦しいかなとも思うので今までボツネタにしてた。最近ツイッターで「御ツマキ」が話題になってたので、思い出して書いておくかと思った次第。