後藤又兵衛の首(その3)

前の記事で

金万平右衛門が首を討ったというのは新出史料にそう書いてあるのではなくて、既出史料と総合して判断するとそう考えられる

と書いたんだけれども、よく考えたらどうもそうではなさそうだ。岡山県立博物館の見解ではこの新史料にそう書いてあると解釈しているように思えてきた。というのも
■後藤又兵衛新史料 - 津々堂のたわごと日録
という記事の解釈がまさにそのようなものだからだ。

 一、後藤又兵衛討死之時従
   秀頼公拝領之脇指[行光]、是ニ而
   又兵衛首ヲ討、 秀頼公御前ニ而
   如此討死仕次第申上候へとて
   長四郎と申児姓二脇指相渡
   被申候、長四郎脇指請取候へとも
   又兵衛印ヲあげ候義ハ不罷成
   脇差斗 秀頼公江差上ケ申事

 ・後藤又兵衛が討ち死にした際、秀頼公から拝領した脇指行光(わきざしゆきみつ)で、又兵衛の首を討ったこと。
  秀頼公の前で又兵衛の討ち死にの様子を報告した際、長四郎という小姓に脇指を渡しました。又兵衛の印を差し上げることはできなかったこと。

と解釈している。つまり、

後藤又兵衛討死之時従 秀頼公拝領之脇指[行光]、是ニ而又兵衛首ヲ討

で一区切りをつけているわけだ。それにより(金万平右衛門が)秀頼拝領の脇差行光で又兵衛の首を討ったと解釈できなくもない。そして平右衛門が秀頼に又兵衛討死の様子を報告する際に秀頼の小姓の長四郎へ脇差を渡したところ、長四郎は脇差を受け取ったけれども、又兵衛の首を差し上げることは叶わず、秀頼へは脇差だけを差し上げることとなった。ということか。


なるほど、そう解釈すれば各紙の報道に納得がいく。


だがこのような解釈は妥当かといえば疑問ではある。これはさすがに本郷氏の

 一、後藤又兵衛は討ち死に際して、「秀頼公より頂戴した行光の脇差し、これで私の首を討ち、秀頼公の御前にて『又兵衛はこれこれこのように討ち死いたしました』と申し上げてくれ」と言った。長四郎という小姓に脇差しを渡し、言われたのだ。長四郎は脇差しを受け取ったのだが、又兵衛の首を切ることはできなかった。脇差しだけを秀頼公へ差し上げたのだった。

【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか?(1/3ページ) - 産経ニュース
の方に遥かに分があるように思われる。


ただし、岡山県立博物館がこのように解釈し、報道機関にそう説明し、そのように記事が書かれたのだとしたら、毎日新聞

書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。

とあるので、岡山県立博物館と福田千鶴氏の意見は割れていたことになる。意見が割れたまま発表したということだろうか?


なんか過去の歴史的事件よりも現在起きていることの方が謎である。