アマテラスを祀った神社と津波被害(その2)

昨日の件だけれどこの論文に対する批判は半分当たってて半分的外れなのではないかと思う。


一般論で言えば祭神の変化は確かにあるだろう。俺の知ってるケースだと近世・近代にな延喜式内社に比定されて祭神が変化するというのがある。比定そのものが怪しいケースもあるし、たとえそれが正しくても近世においては別の全く関係ない神が祀られている場合があり、論文の主旨からすれば(本来の祭神とされている)現在の祭神で考察すれば問題があるだろう。しかし、この論文の場合は「スサノオを祀った神社」「熊野系神社」「八幡系神社」「稲荷系神社」「アマテラスを祀った神社」であり、近世からの変化はほぼ無いのではなかろうか?(祭神が変化するといってもスサノオがアマテラスになったり稲荷が八幡になったりするということは一般に考えにくい)。なお論文によれば祭神については「文献資料から祭神の特定が困難なものに関しては、神社名から代表的な祭神を推察した」とあるが、これもこの件に関しては妥当だと思う。


この論文で問題だと思われるのは「スサノオを祀った神社」。リストに17社あり、八坂神社4社、八雲神社8社、須賀神社3社および御崎神社・八重垣神社が各一社となっている。「スサノオを祀った神社」というけれども牛頭天王を祭神とした神社が神仏分離令によりスサノオとなった可能性が高いと思われる。ただし御崎神社は「日本武村、大綿津見とともにスサノオを合祀している」とあり系統が違うかもしれない。


もちろん、牛頭天王スサノオは同一視されているから「スサノオを祀った神社」でも問題はないとは一応いえる。論文にも

スサノオは、古代に大陸から伝わった疫病の神である牛頭天王と同一視されている

とある。そこまではいい。


だが、その牛頭天王と同一視されたスサノオと、記紀神話におけるスサノオを同一視するのは大いに問題があるのではないか?もちろん同一視されたのにはそれだけの理由があったのだろうが、その理由は諸説あって確かなことはわからない。何をもって同一視されたのかわからないのに記紀神話と結びつけるのは危険であろう。


ましてや、その記紀神話について

スサノオ古事記ヤマタノオロチを退治した神として知られている。ヤマタノオロチは、出雲の国を流れる斐伊川をイメージしたものであり、この斐伊川をおさえることとは、つまりスサノオが治水に関する神徳をもつということである

などというのは、そういう説がかなり流布していることは承知しているけれども確実なことではない。個人的には大いに疑わしいと思う。さらに

スサノオ祇園の神であり、京都の八坂神社における祇園祭は、貞観年間に流行した疫病を鎮めるために始まった。これらのことから、スサノオスサノオは水による直接的な被害だけでなく、その後に発生しうる伝染病についてもかかわる神だと考えることができる

というのは、祇園会の始まりが貞観年間に流行した疫病であることは確かだろうが、疫病は水害時にだけ発生するものではなく、論文執筆者のこじつけのように思われる。なお

864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。

祇園祭 - Wikipedia
とあるように、御霊会は地震津波とも関連するから、元々は疫病だけでなく災害全般に関わっていたのではないかと思う。このことからスサノオ地震や火山と結びつけようとする考え方もある(俺は同意しないけど)。


とにかく牛頭天王牛頭天王祇園信仰)として考えるべきで。したがってその立地についても牛頭天王祇園信仰)で考える必要があるのではないかと思う。


つくば市における集落と神社類型の相関性(米澤充)」という論文によると、つくば市の八坂神社のある集落は80%が「街村」(宿場町や城下町等)であり、人の往来が多く疫病予防が住民の最大の関心事だからだろうと推測している。またその立地は道路の突き当りにあるものが多いという。理由は書いてないが推測するに村への疫病の侵入を阻止するために入口付近に立地しているのではないだろうか?


もちろんこれはつくば市の例であって、東北ではまた異なっているかもしれない。ウィキペディアを見ると牛頭天王は「悪疫退散・水難鎮護の神」と書いてある。「水難鎮護」というのは俺は無知なので知らなかったけれど、この場合の「水難」とはどういうものなのだろうか?

『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』(略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)第1巻牛頭天王縁起に詳細な説話が記され[16]、『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では牛頭天王は武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇とも表記され、八大竜王の一、沙掲羅竜王の娘の頗梨采女を妃として八王子を生んだという。その姿かたちは頭に牛の角を持ち、夜叉のようであるが、こころは人間に似ていると考えられた。

牛頭天王 - Wikipedia
とあり、竜王に関わるものではないかと思われる。


なお「断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究(是澤紀子)」PDFという論文によると、京都の八坂神社は境内直近に断層を有しているという。