もっと!とんたんの学び合い帳 Twitter

こんにちは。福島県郡山市の小学校教諭の「坂内智之」です。「学び続ける子どもたち」を合い言葉に「織り重ねる学び」の授業を作っていきます。授業の様子や子どもの様子、教育についての考えなどを書き込みたいと思います。 連絡・問い合わせ・お願いメールは manabiaiとgmail.comを@でつないでください。

2016-09-27

教師が学ぶべきこと(ある方にじっくりと話したこと)

「あなたは学んでいますか?」

今は全国でたくさんの講座やセミナーが開催されています。子どもの学び方から、学級づくり、教育理論から、目指すべき教育の方向性などなど、とても多様です。そうしたところで学ぶことはとても大事なこと。

でもね。あなたは自分の足元を大事にしていますか?毎日の授業。次期学習指導要領では、学び方「も」重視しているけど、それは何を学ぶのか分かっていることが前提だね。

書写。僕の知っている書写の得意な先生は、自宅で夜な夜な写経し、自分の書写の力を高めていました。

理科。理科は僕の専門だけど、どんな実験か道具も薬品も分かっているけど、夜中まで実際に自分が実験して結果を確かめてきたことも。

教科書を徹底して読む、学習指導要領を読む、教科教育について徹底的に話し合うこと、そうしたことを抜きに、子どもとのつながりがとか、教育とは?なんて話をしても、実践しても空回りしていくのは目に見えている。

僕は「見せる授業」はうまい。周りを納得させられない授業をやっても僕の意見は通らない。だから失敗しないだけの積み重ねをしてきた。そこには教材研究という確たる基盤がある。だから学び合いの授業をやっても崩れないし崩さない。協同学習は下手すると教材研究しなくても、授業が成り立つように見える。しかし、それはいずれ協同学習のゆらぎを大きくし、子どもの学びを途絶えさせる。教師が学ぶべきことは、常に両輪。教育論も教材研究も。どちらかだけでは授業は成り立たないのです。

「周りが認めてくれない」

では、あなたは周りが認めてくれるような結果を叩き出しているのでしょうか?

僕は校内授業でも、市内の授業でも「これは酷いな」と思われるような授業はしない。ときには僕に批判的な人もいる。そうした人がいるからこそ、納得させるだけの授業を見せる。

それは管理職にも。僕が学校である程度好き勝手させてもらえるのは僕の実績があるから。「坂内には任せられない」そう思われるようならそれは僕の力が足りないということ。

僕の朝の仕事はお茶を入れて配ること。爽やかに、にこやかに。自分のことだけでなく、相手のことも大事にすること。「分かってくれない」「認めてくれない」と言う前に、認めてもらえるだけのことをしっかりとやる。「さすが!」と思われるようなことをする。

一つのことでもよいから、誰が見ても(それは子どもや保護者からも)「この先生はすごい!」そんなものがなければ、話なんてちゃんと聞いてもらえるわけないし、ましてや「認めてもらえる」わけなんてないのですよ。まずは認めてもらえるような仕事をしましょう。

2016-09-25

カリキュラム・マネジメント講座

カリ・マネの本を出版するとすぐにHさんが声をかけてくださり、昨日地元郡山市で最初の講座を行うことができました。実は僕は自分の基盤となっている県内の先生方や郡山市の先生方に「いち早くカリ・マネの技術を伝えたい」という思いがありましたので、県内で行えることがとてもうれしかったのです(まあ、それでもわざわざ県外からも多くの方がいらっしゃったわけで、それはそれで遠くからいらっしゃったことに感謝しております)

講座は僕の下手な話でも参加者は熱心に聞いてくださり、また多くの質問も投げかけてくださいました。(そうした質問はとても大事で、このカリ・マネの話をしたときに、一体どのようなところに疑問や理解不足が起こるのか、次の講座に役立ちますものね)講座ではそうした参加者の質問丁寧に答えながら進めていきました。

そして、講座後半の「カリ・マネづくり」では、自校の先生方もそうであったように、カリキュラムマネジメントすることのおもしろさを感じてもらえたんじゃないかと思います。この考え方を持っていることで、教科観は大きく深みが増すことになります。特に小学校の先生は、これまでのように「毎時ごとに教科を変えて授業する」という苦しさから開放され、大きな枠組みの中でゆったりとした連続の流れの中で授業を行うことができるようになります。一方、中高等学校の先生は、これまでの教科という縦系統から教科をまたぐという横系統の新たな学びの視点が生まれていくことになります(中高等学校については11月の講座でもう少し詳細にまとめてみようかと思います)

話は変わって。

講座の後の飲み会はとても楽しく、やっぱり熱心な若い先生方と会話を交わすことってステキですね。自分ももっと若い時代にこうしたおもしろい場に居合わせたら、もっと自分が変わっていたのではないかと思えます。また、上越教育大学の阿部先生もわざわざ来てくださりうれしかったです。実は同じ県内の実践家として活躍していた安倍さんが上教大で教職につくことになり、県内の発信力の低下を心配しておりましたが、これまでも、そして昨日も、福島県内に細かく足を運ばれ、こうして参加してくださることに頭が下がります。まあ、飲み会はこうして賑やかに、そして深く深く話が進んだわけですが、久しぶりに講座を自分自身でも楽しめた1日でした。集まってくださった先生方、講座を企画してくださったHさんに感謝感謝です!

2016-08-23 『学び合い』について

昨年、今年と2年『学び合い』フォーラムに参加させていただきました。この5年ほど距離をおいていた僕も、多くの方々にお会いでき、またそうした方々が素晴らしい活躍をしていることに嬉しく思いました。

ここで改めて『学び合い』について僕の思うところを綴ります。僕が『学び合い』から距離を置いたのは「責任の重圧に耐えられない」ということです。『学び合い』がどんどん広がるに連れ、理論どおり授業が進まないという事例が多くなってきます。まあ、これはどの実践(例えばかつての法則化のように)でも起こって当然のことですから、仕方ないことなのです。しかし、法則化の授業がなぜ衰退していったのか(その理由を向山さんはきっと分かっていなかったのだと思うけど)と同じように、『学び合い』の授業がなぜうまく行かないのかをきちんと理論立てて説明し、広げていかなければ、いずれ法則化と同じように批判が広がり、いずれその実践は消えていくことになります。

そして、最も大きな問題は『学び合い』の授業で学級が崩壊し、または友達関係が酷くなり、仲間を恨み、教師を恨む子ども、担任の『学び合い』をやめて欲しいと願う保護者、そんな教室を見て全力で止めさせようとする管理職が少なからず、いるという現実です。この状態に「一人も見捨てない」という言葉がどれだけの価値を持つというのでしょうか。理想に酔いしれているとこうした現実が見えにくくなりますし、そしてそれは、次第にその教師個人の問題だと切り離され「しかたがない」とそれこそ「見捨てられて」いくことになるのです。想像してみてください。この10年ほどで『学び合い』を始めて、一体どれだけの教師が実践をやめたでしょうか?

「そんなに『学び合い』批判したいのなら、グループから出て行って欲しい」という書き込みもあり、僕の役割はないのだなと距離を置くことにしましたが、上に書いたような思いもあり、昨年は「『学び合い』はなぜうまくいかないのか」というテーマで、フォーラムの分科会を開きました(実践がうまく行っているような人ばかりが集まってしまたのだけど(笑))

みゆき会では、高橋さんの課題設定の話、古田さんの「任せる」「委ねる」の話を始め、クリティカルシンキングをずっと続けてきました。今の『学び合い』に必要なのは、こうしたクリティカルシンキングなのです。なぜうまくいかないのか、なぜうまくいくのか、なぜ長期的に持続するのか、そのレベルの対話が必要なのです。理論や実践の素晴らしさだけでなく、つねに批判的視点を持つこと、これが実践者の正しい姿ではないでしょうか?

なぜこんなことを書きたくなったのかって? 
やっぱり木村素子さんの影響ですね(笑)

2016-07-26

学びのカリキュラム・マネジメント

これまでの「予告」は拙著「学びのカリキュラムマネジメント」の内容に合わせて問いかけたものでした。

私たちは新しい実践というと、これまでなかったものを新しく作り出す、取り入れるようなイメージを持っていることが多いように思います。しかし、新しい道具はすぐに廃れ、また次の新しい道具を探しだすことになっていきます。子どもの学びとはそうした流行に中にはないのです。

僕らが提唱する「学びのカリキュラムマネジメント」は、何一つ新しい道具はありません。これまでのものを再構成するだけのものです。しかし、そんな簡単な答えがカリキュラムに矛盾なく、そして子どもの効力として発揮されるまでに20年も要してしまいました。教育というのは本当に難しいものです。

そんな本書ですが、本に書かれているのは僕らの実践の数百分の1にすぎません。本当はもっともっと子どもの書いたものをお見せしたいところですが、それは構成上制限があるので、代表的な一部分を掲載しました。機会があればまた紹介したいと思います。

最後に。この本を買われた方はぜひ、僕らの実践を踏み台にし、どんどん実践を広げて欲しいのです。中には僕らの想像を大きく超えるようなカリキュラム構成を考えだす人も出てくることでしょう。そんなことを僕らは楽しみにしています。また、わからないことがあれば、Facebookのメッセージを通して僕らにどんどん問いかけてみてください。高橋さんや古田さんは僕以上に情熱的で人格者ですから、丁寧に質問にこたえてくれることと思います。

 

なおFacebookで繋がるにはお作法として、必ずメッセージを添えて申請くださるようお願い致します。

2016-07-16

予告第7弾

僕が中学2年生の理科の授業も受け持った時、生徒が「理科が分からない」という障壁を見つけました。それは小学校の算数と強く関連している内容です。小学校の算数でも多くの苦手意識を持っているのですから、関連する中学校の理科で躓くのは当然なことと言えます。

しかし、中学校の先生方は自分の教科が垂直にはどのように関連してきているかは知っていても、水平方向の関連性を感じ取る力は、小学校の教師よりも低いのものなのです。

しかし、中学校の教師も、これからはより一層、教科を水平方向の関連させていく力が求められていきます。アクティブ・ラーニングとはこうした教材感の上に乗るものだからです。もし、中学校の教師が「教科」という枠を取り払い、カリキュラムを融合的に行えたとしたら・・・

それこそが、これからの日本の教科教育の新しい概念となっていくことでしょう。ぼくらみゆき会は、そうした未来を予測し、実践しているのです。

予告第6弾

みなさんは「カリキュラムマネジメント」という言葉を知っていますでしょうか? 現場の多くの教師は、まだこの言葉を知らないと思います。

「カリ・マネ」には、3つの意味合いがあります。

1つ目はPDCAサイクルによるカリキュラムの適切な評価と推進。

2つ目は地域・人材・モノなどを学校カリキュラムに組み込むこと

そして、3つ目が、教科横断的な学習構成です。

みゆき会が数年前から取り組んできた、インタラクティブカリキュラムというのは、まさにこの3番目の内容になります。ですから、僕らみゆき会では、僕らの実践を文科省に合わせ、「カリキュラムマネジメント」と呼ぶことにしました。

では、僕らの実践するカリキュラムマネジメントといわゆる横断的なカリキュラム構成とは一体何が違うのでしょうか?

それは一言で言うならは「機会」なのです。

予告第5弾

車好きで僕の年代の方なら「よろしくメカドック」という漫画をご存知かと思います。1980年台に少年ジャンプに掲載されたチューニングショップの風見準の物語です。0−400などが有名になったのはこの漫画の役割が大きいかと思います。

この漫画の最終章では、新規の自動車メーカー「三戸」で開発中の「MITO NEO」のさらなる開発を兼ねたレースが展開されます。主人公とライバルの那智、そしてコンピュータ好きの新たなライバル五十嵐が競い合います。五十嵐はさらなる速さを求め、ターボチャージャースーパーチャージャーを装備し、風見と那智を追いかけます。しかし、追いつくどころかどんどん引き離されていきます。一体どんなチューニングをしたのかと、三戸の社長が風見と那智仕様書を読んで驚きます。全く過給器はつけておらず、ジオメトリーホイールベースの再構成だけでした。数々のチューニングによってレースをしてきた二人が、最終的に選んだ究極方法は、「追加」ではなく「再構成」だったのです。

僕らみゆき会の授業は、まさに風見、那智と同じ戦略です。授業に新たなものを追加しなくても「再構成」だけで圧倒的な力を生み出します。学習の仕組みを理解できれば、各教科・各教科書の持っているポテンシャルを数倍に引き上げることができます。これまで、ぼくらはこの仕組みを「インタラクティブカリキュラム」という造語を使っていました。そして今、時代に合わせて文科省が使い始めた「カリキュラムマネジメント」という言葉の乗っかることにしました。僕らの学習に対する答えはとても簡単です。探し求めてた答えは眉間のあたりにあったのです。

これが僕の教師として2つ目の大きなブレイクスルーでした。

予告第4弾

算数の教科担任制をやってみてびっくりしたのは、可能な限り毎日のように算数の授業をやっているのにも関わらず、3月までの時数が不足気味になったことです。

中学校の教師には信じられないかもしれませんが、小学校の教師は時数がどんぶり勘定なのです。運動会の練習の時間が足りないから明日の4時間目も追加で練習するとか、卒業式の呼びかけが下手だから、明日は2時間練習するなどなど。また、思い入れのある教科や単元にはどんどん時間を投入して、他の教科の時数が削られるなんていうこともあります。

こうしてどんどん授業の時数は削られていきます。そのあおりを最も受けるのが「道徳」や「総合的な学習」や「特別活動」なのです。もちろん他の教科も例外ではなく、授業の時数が削られることで授業の内容はやせ細っていきます。

まあ、こうしたことは小学校の実情としてしかたないことでもあります。なぜなら小学生という年齢層からして「初めて」ということが学校にはふんだんにあり、予想外に時間がかかってしまうものなのです。しかし、だからといってこのままでよいとも思えません。行事は山のように押し寄せてきます。

みゆき会の授業実践は、授業時数にとても余裕が生まれます。余裕が生まれるからこそ、とことん追求できるのです。

しかし「質、量を求めても時数には余裕がある」こんなこと本当に可能なのでしょうか?

予告第3弾

教育書の多くは教師側から見た子どもの世界です。では子どもは一体どのように授業を見ているのでしょう。みゆき会では、震災時にこども未来会議を開き、子ども教師や親(保護者)に何を求めたいか、どのように学びたいのか話し合いました。

僕らの実践は常に「子どもの側」を意識しています。これを即時フィードバックしていくことで、授業を安定的に運営していくことができるのです。子どもは何に戸惑っているのか、そんな戸惑いにどんな手を差し伸べられるのか。僕らはそれらを「教師という人としての能力」にすべて依存させるのではなく、システムとして緩やかに誘導していくことを考えてきました。そうしたシステムの先にこそ協同的な学びがフィットするのです。つまり協同的な学びとは、それに対応したカリキュラムがあってこそ、本領を発揮できるのです。しかし、多くのカリキュラム教師側の視点から放たれるものばかりです。また、「授業」という同じ時間を共有しても、ベテラン教師と新米教師では授業の見方が異なりますし、学習の上位と下位の子どもでは別の時間が流れているのです。

若い教師からも子どもの側からも「学びの先が見える」そんなカリキュラムが今求められているのです。

予告第2弾

震災前、僕の授業を参観に来たある大学教授に徹底的な批判を受けました。最初は僕もムキになって反論していたのですが、彼が「『ではどうそ!』で子どもが学ぶようにならば教師なんていらない。そこらのおっちゃんでもいいはずだ。」という話を聞いて「ああ、この方は授業の本質的なことはよく知らないのだな」と思って、そこで反論するのが馬鹿らしくなってやめました。

その一方で学びの共同体『学び合い』に対する批判には「ごもっとも」と思うところが多々あったことも事実です。中でも授業の課題は共同学習における研究が最も弱いところです。これは学びの共同体でも同じです。学びの共同体の研究校時代、僕と同僚(今でも尊敬しているすごい実践家ですが)とで授業公開の3分前まで「本時のめあて」を悩んでいたことがあります。共同学習では学習のめあてが授業の「肝」となります。そして、共同学習をする者なら誰でもその難しさを実感していることでしょう。また『学び合い』における「教科書の〜ページのことが分かる」という課題は、確かに20代前半の教師の実力なら良いかもしれませんが、30代以上の教師が示すレベルではありません。

では共同学習を進めていく上で、我々はこの「学習課題」をどのように設定していけばよいのでしょうか? みゆき会の授業実践は、共同学習が目指していくべき一つの道筋を照らしていくこととなるでしょう。僕らの授業に一つ一つの課題はありません。より大きな視野と成長を見越した授業を「連続的に」行っているからなのです。

予告第1弾

さて「究極の授業」とはなんでしょう?

僕の考える究極は「教科の解体」です。そもそも教科というのは教える側に立った者が教えやすくするためにカテゴリー分けをしたものにすぎません。ではどんな授業が理想なのか、僕はこのことについて20年以上ずっと考え、練り上げてきました。僕みたいな飽きっぽいイノベーターが20年以上も考えているのは、それだけ奥が深いということです。膨大なファクターをどのように統合してシステムとして流せばいいか? そしてその効力とは? こうしたことをずっとずっと考えてきたわけです。こうしたことが「矛盾なく」システムとして統合できるようになったのはここ4〜5年ほどです。そしてブレイクスルーの答えはいつも額の上にあるものです。その仕組みが分かれば、授業は変わります。そして子どもの力は圧倒的な飛躍を見せます。その一端が「書く力」です。「みゆき会」のクラスの子どもは日本トップレベルです。しかも、学習指導要領にも、どこの学校の教育課程にも矛盾しない授業です。しかもたっぷりと勉強できる時間があります。でもこんな魔法のようなこと、本当に可能なのでしょうか?