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こんにちは。福島県郡山市の小学校教諭の「坂内智之」です。「学び続ける子どもたち」を合い言葉に「織り重ねる学び」の授業を作っていきます。授業の様子や子どもの様子、教育についての考えなどを書き込みたいと思います。 連絡・問い合わせ・お願いメールは manabiaiとgmail.comを@でつないでください。

2017-07-31

子どものトラブルには首を突っ込まない

何度か書いたけどもう一度。

僕は1年生であろうとも子どものトラブルには余程のことがない限り組を突っ込みません。(余程というのは怪我をして医療機関にかかるなどすぐに保護者に連絡しなければならないようなことね)

どうしているかというと「そんなの自分たちで解決して」と話し合うことを促します。これは1学期1年生を担任してできたことですから、幼児でもできることですね。少なくとも年中くらいならできるんじゃないかしら。

基本的に教師は子どものトラブルに首を突っ込まないようがいい。どうしてかというと、首を突っ込んだ結果、本当の意味で解決しないばかりか、下手すると子どもは「先生はちゃんと話を聞いてくれなくて◯◯ちゃんの言い分ばかり聞いて叱られた」と、そんなことを言うわけです。子どもは相手が悪いと思っているわけですから、自分の不満がすっきりしない限り、本当の意味で解決していないのです。教師がどんなに大岡裁きをしたつもりでも、実は解決などしていないのです。

解決するというのは、相手の言い分も受け入れるということです。ですから話し合いが必要なのです。僕は当事者が「納得した」というまで話し合わせます。話し合うことは2点「なぜそうなったのか」「これからどうするか」です。こうしたことをすれば全てトラブルがなくなるわけではありませんが、どんどんクラスのトラブルは減っていきます。

なぜそうなるのでしょう?相手と対話することで、相手から見た自分を知ることになります。これがメタ認知の力を高めることになり、多少の問題が起こってもそれを柔らかく受け止めることができるようになるからなのではないかと僕は見ています。

特別支援教育 その2

しばらく続きを書いていませんでした。第2弾。

◯閉じ込められる子ども

特別支援教育は「その子どもの特性に合った教育を特別に行う」ためのものです。知的な問題で授業についていけない子ども、情緒の問題で教室環境にうまく適応できない子どもについて、通常学級を離れ、落ち着いた少人数教育の中で授業を行うというものです。しかし、現状の多くの学校ではその子どもの特性に合わせた教育を行うためのものではなく、通常学級から引き離すことが大きな目的になっているように思えます。特別支援学校ではない通常の公立学校では、本来ならば交流の時間を基盤とし、どうしても個別に指導しなければならないことを特別支援教室の中で行うべきです。ところが、多くの子どもは1日の殆どの時間を特別支援教室の中で過ごします。

これは以前書いたように、小学校では低学年から「学力がとてつもなく低い」「クラスの中で周りの子どもとのトラブルが絶えない」などの理由から教室から離れた子どもだからです。授業についてこられない、周りの子とトラブルを起こす子どもととらえられているのですから、例え交流しても「お客さん扱い」になっていきます。日程の調整も特別支援の先生が通常学級の先生にお伺いを立てるというような、謙った関係になってしまうのが一般的です。特別支援の教師はこうした「気を使った交流」にとても疲れてしまうものです。

ですから、特別支援の子どもは学校内でトラブルなく、そして誰にも迷惑をかけないで生活することが一番の目標になっていくのです。公立学校における特別支援の子どもは「閉じ込められていく」のです。そもそも「交流」という言葉自体が、特別支援の子どもの状況(立場)を表しているのだと思います。

2017-07-23

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その4(最終)

この話は教師も、教材会社もとても耳が痛い問題だと思います。でも、日本が経済的に成熟した今、これからの日本は社会的精神的な成熟を迎えていかなければなりません。こんなテストをやっても何一つ子どもの成長には役立たないと思うのが僕の考えです。

僕はテストの平均点は50点位でよいのではないかと考えます。それは決して発展的な問題を出すというのではなく、「丁寧な良質の問題」を多くするということです。例えば算数では、線分図に書き表すとか、問題文の内容を表す図をかくとか。国語であるなら、登場人物の心の揺れ動きを読み取るような設問です。

そしてテストは成績を付けるためのものではなく、分からないことをあぶり出し、再度学び直すためのものであるべきです。ですから「分からなかったこと」を楽しむ子どもに育てていくのが正解です。いちいちテストが良かったとか悪かったとか、平均何点とか、そんなのどうでもいいことです。分からなかったら分かるように学び直せばいいのですから。

こうした子どもの学びに合わせたテストを作っても今は全く売れません。でもこうしたテストを求めるようになるくらい、教師自身が学力を上げることが大事なのです。

ちなみに僕が担任時代は、この単元テストは全て「知識理解」だけの成績としていました。だってカリマネの技術があるので、成績なんていくらでもつけられるわけです。そして成績は学校で僕が圧倒的に厳しいのです。だって「ちゃんとつけている」からね。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その3

もう一つの側面、教材会社から見てみます。教材会社は「売れる」ことが正義です。教師のニーズを汲み取り、それはそれは丁寧に、そして分かりやすく、効率よく(例えば算数の図形採点用の透明シートなど)作成しています。まさに痒いところ全てに手が届くような。ですから、教材会社は子どもの学力をどう伸ばすか、どう学力を測るべきかいう視点はなく、あくまで採用する教師サイドのニーズに答えることこそが正義なのです。ですから各教材会社の取り柄は内容なのではなく「キャラクター」勝負になってしまっているのです。ぶっちゃけていうならば、どこの教材会社のテストを採用してもほとんど内容は同じなのです。ですから「おまけ(答案やプレテスト)」に力を入れることになるわけです。

また、これからの学習に応じたテストを作成できる人材もいないのだと思います。では、今のテストに変えてどんなテストを作成すれば良いか、そのビジョンを描ける人材はそうはいません。さらに、もし授業の内容に合わせ、子どもの学力を正確に図ろうとするテストを作れたとしてどうなるでしょうか? 恐らく全く売れないことでしょうね。「そんなめんどくさいテストなんて使いたくない」これが教師の本音ですから。教材会社もそれが分かっているから、何十年もテストの内容が変わらないままなのです。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その2

小学校のタブー(この問題は多くの教師が口をつぐんでいるのだけど)に切り込みます。

この問題には教師側の問題、そして教材会社側の問題と2つの側面があります。まずは教師側の問題点から。

教師はテストで多くの子どもが高得点を取らせることを最大の目標としています。学級の中で0点や20点、30点が連発することを特に嫌います。ですから、普通にやれば1/3の子どもが100点をとれることをよしとします。平均点は「誰がやっても」85点程度になるようにしたいわけです。ここで「誰がやっても」というのがとても大事で「授業の良し悪しに影響されない」こと、つまり授業のそのものに影響を受けないものこそが良いテストなわけです。ですから以前、授業に入る前に国語のテストを受けさせたことがあります。結果は平均点が85点。これまでと何も変わりありませんでした。

また、教師によって丸つけが容易であることも大切です。6年生のテストでも先に述べたようなテストですから、子どもの内容をよく読みとる必要がありません。画像認識のレベルで採点ができるわけです。小学校教師は、学級担任制ですから、4教科もあると学期ごとに30枚以上のテストを採点することになります。40人学級だと1200枚ものテストを(これは中学校の1200枚とはわけが違います)裁かなければならないのです。そうなると丸つけ作業は膨大になりますから、簡単な方がいいのです。

「風はどうどうとふきました」

Q「風はどうふきましたか?」

A「どうどう(とふきました)」

こんな問題が出てくるのも「丸のつけやすさ」という理由も含まれるのです。

このように教師自らが実は授業の質などどうでもいいと実は考えているわけです。「そんなことはない!」そう否定する人もいらっしゃると思いますが、もし本当に授業の質を本当に大事にする人であれば、教材会社の単元テストなんてほとんど参考にせず、成績に反映していないはずです。

実際に1学期は1年生の担任をしながら、初任者の理科の授業も担当していたのですが、忙しくて授業の質が低かったにも関わらず、逆にテストの成績はよいわけです。なぜ授業の質が低いほどテストの成績は上がるのか、その意味を考えてみてください。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その1

僕は小学校の学力を押し下げている最大の原因は何かと言われたら「単元テスト」だと僕は答えます。

例えば国語のテスト

「・・・風がどうどうふきました・・・」

Q風はどうふきましたか?

A「どうどうふきました」

このレベルの問いは1年生だけではなく、6年生の国語のテストでも同じレベルなのです。つまり国語でその物語を深く学ぼうと学ばないだろうとテストには何にも反映されません。また上記のような問題は文脈を読み取ることなしに応えられるようになっているわけです。

また、理科のテストでは

Q春の木のようすを2つ選んで丸をつけましょう

A アとエ

4つの選択肢から2つ選ぶわけですから、デタラメにやっても確立は1/2となるわけです。理科の多くの設問はこうした確立1/2の問題で組み上がっています。つまり、4年生の理科を1年生がやっても、答え方が分かっていたらば内容なんて家計なく平均50点とれるということです。

全ての教材会社のテストを見並べても、似たようなもので差は殆どありません。なぜ教材会社はこのようなどうしようもないテストを作ってしまい、そして我々小学校教師はこんな質の低い単元テストを使ってしまうのでしょうか。(続く

2017-05-20

特別支援教育

近ごろfacebookばかりでブログが疎かになっていましたが、久しぶりに書きます。

今の僕の「裏の仕事」は、特別支援教育関連です。なぜ僕が特別支援教育に着目するのかというと学校の諸問題はこの特別支援教育(学級)に集約されるからです。この「闇」を明らかにすることが学校の抱える、そして教師の抱える問題を浮き上がらせることでしょう。複数回に渡ってこの闇を掘り起こしていきます。

◯増える特別支援学級

 特別支援学級は20年ほど前には大規模校(1000人ほど)で情緒と知的のどちらかがあるくらいなものでした。しかし、今では300人程度の学校でも複数の特別支援学級が設立されていることは別に珍しくありません。専門家からすれば「ようやく社会に認知され、子どもの特性に合わせて教育がされる時代になった」と思うことでしょう。しかし、実際にはその必要とされる子どもの人数を大幅に上回るようなペースで全国で特別支援学級が増えてきています。中には「いつも」自分の学級の2割程度の子どもが特別支援学級適だと言う教師もおります。なぜか特別にその教師のクラスにはそうした子どもが集まるわけです。この割合で言うならば100人中20人は障害を抱える子どもで通常学級では支えきれないということになります。本当にそうでしょうか。これは極端にしても、例えばよく言われる「5%」として(つまりクラスで1〜2人程度)も1000人規模の学校だと50人程度が特別支援学級の方がよいとされるわけです。確かにどのクラスにも1〜2人程度は「いろいろ問題が多いなぁ」と思う子どもは確かにいますよね。全国的に特別支援学級が増えているのはこうした「いろいろと問題が多いなぁ」と思う子どもがどんどん特別支援学級に移動していることを表しているわけです。

 しかし、本当にその子どもの社会的な不適応だけが理由でしょうか?僕はそうは思っていません。近年特別支援学級数が加速しているのは、2つの教師を取り巻く変化が複合的に絡んでいると僕は考えています。それは全国学力状況調査(学力テスト)と人事評価制度です。近年、全国学力状況調査に合わせて学力テストが強化されています。また、それは学級ごとに教師の能力として管理職に評価されます。特に小学校の場合は国語・算数はほぼ担任が受け持っているのですから、子どもの成績=教師の能力となるわけです。そうなるとどうでしょう? 発達障害に寄って授業をかき回され、さらに成績が低い子どもが学級にいることで、担任は自分の統率能力が低いのではないかと思われることを意識的、無意識的に感じ取ることでしょう。学力一つとっても例えば学力が極めて低く、特別支援学級が検討されるような偏差値が20程度の子どもであれば、その子1人でクラス全体の平均値は1〜2ポイント落ちることになります。「そんな小さな数字で?」と笑うかもしれませんが、クラスの平均値が「49.3」と「50.3」ではまるで学級の印象が違うことを理解できるでしょうか?

 近年の特別支援学級の増加はこうした学力テストの強化と人事評価の絡みによって、本来ならば教室から追い出されることなく過ごせるはずの子どもが、追い出されることによって増加しているのではないかという懸念を持っています。間違いなく増加の一端を担っているのは間違いないと思います。そしてこの傾向はどんどん加速していくことでしょう。これからも全国的に特別支援学級はどんどん増加し、近い将来現状の2倍近くになるのではないかと僕は予想します。

2016-09-27

教師が学ぶべきこと(ある方にじっくりと話したこと)

「あなたは学んでいますか?」

今は全国でたくさんの講座やセミナーが開催されています。子どもの学び方から、学級づくり、教育理論から、目指すべき教育の方向性などなど、とても多様です。そうしたところで学ぶことはとても大事なこと。

でもね。あなたは自分の足元を大事にしていますか?毎日の授業。次期学習指導要領では、学び方「も」重視しているけど、それは何を学ぶのか分かっていることが前提だね。

書写。僕の知っている書写の得意な先生は、自宅で夜な夜な写経し、自分の書写の力を高めていました。

理科。理科は僕の専門だけど、どんな実験か道具も薬品も分かっているけど、夜中まで実際に自分が実験して結果を確かめてきたことも。

教科書を徹底して読む、学習指導要領を読む、教科教育について徹底的に話し合うこと、そうしたことを抜きに、子どもとのつながりがとか、教育とは?なんて話をしても、実践しても空回りしていくのは目に見えている。

僕は「見せる授業」はうまい。周りを納得させられない授業をやっても僕の意見は通らない。だから失敗しないだけの積み重ねをしてきた。そこには教材研究という確たる基盤がある。だから学び合いの授業をやっても崩れないし崩さない。協同学習は下手すると教材研究しなくても、授業が成り立つように見える。しかし、それはいずれ協同学習のゆらぎを大きくし、子どもの学びを途絶えさせる。教師が学ぶべきことは、常に両輪。教育論も教材研究も。どちらかだけでは授業は成り立たないのです。

「周りが認めてくれない」

では、あなたは周りが認めてくれるような結果を叩き出しているのでしょうか?

僕は校内授業でも、市内の授業でも「これは酷いな」と思われるような授業はしない。ときには僕に批判的な人もいる。そうした人がいるからこそ、納得させるだけの授業を見せる。

それは管理職にも。僕が学校である程度好き勝手させてもらえるのは僕の実績があるから。「坂内には任せられない」そう思われるようならそれは僕の力が足りないということ。

僕の朝の仕事はお茶を入れて配ること。爽やかに、にこやかに。自分のことだけでなく、相手のことも大事にすること。「分かってくれない」「認めてくれない」と言う前に、認めてもらえるだけのことをしっかりとやる。「さすが!」と思われるようなことをする。

一つのことでもよいから、誰が見ても(それは子どもや保護者からも)「この先生はすごい!」そんなものがなければ、話なんてちゃんと聞いてもらえるわけないし、ましてや「認めてもらえる」わけなんてないのですよ。まずは認めてもらえるような仕事をしましょう。

2016-09-25

カリキュラム・マネジメント講座

カリ・マネの本を出版するとすぐにHさんが声をかけてくださり、昨日地元郡山市で最初の講座を行うことができました。実は僕は自分の基盤となっている県内の先生方や郡山市の先生方に「いち早くカリ・マネの技術を伝えたい」という思いがありましたので、県内で行えることがとてもうれしかったのです(まあ、それでもわざわざ県外からも多くの方がいらっしゃったわけで、それはそれで遠くからいらっしゃったことに感謝しております)

講座は僕の下手な話でも参加者は熱心に聞いてくださり、また多くの質問も投げかけてくださいました。(そうした質問はとても大事で、このカリ・マネの話をしたときに、一体どのようなところに疑問や理解不足が起こるのか、次の講座に役立ちますものね)講座ではそうした参加者の質問丁寧に答えながら進めていきました。

そして、講座後半の「カリ・マネづくり」では、自校の先生方もそうであったように、カリキュラムをマネジメントすることのおもしろさを感じてもらえたんじゃないかと思います。この考え方を持っていることで、教科観は大きく深みが増すことになります。特に小学校の先生は、これまでのように「毎時ごとに教科を変えて授業する」という苦しさから開放され、大きな枠組みの中でゆったりとした連続の流れの中で授業を行うことができるようになります。一方、中高等学校の先生は、これまでの教科という縦系統から教科をまたぐという横系統の新たな学びの視点が生まれていくことになります(中高等学校については11月の講座でもう少し詳細にまとめてみようかと思います)

話は変わって。

講座の後の飲み会はとても楽しく、やっぱり熱心な若い先生方と会話を交わすことってステキですね。自分ももっと若い時代にこうしたおもしろい場に居合わせたら、もっと自分が変わっていたのではないかと思えます。また、上越教育大学の阿部先生もわざわざ来てくださりうれしかったです。実は同じ県内の実践家として活躍していた安倍さんが上教大で教職につくことになり、県内の発信力の低下を心配しておりましたが、これまでも、そして昨日も、福島県内に細かく足を運ばれ、こうして参加してくださることに頭が下がります。まあ、飲み会はこうして賑やかに、そして深く深く話が進んだわけですが、久しぶりに講座を自分自身でも楽しめた1日でした。集まってくださった先生方、講座を企画してくださったHさんに感謝感謝です!