シンプル

以前のこんな話
http://d.hatena.ne.jp/tontan2/20120105/p1
の続き
 
何か自分の授業をよいものにしようとするときに多くの教師は「新しさ」を求めます。しかし、そのほとんどがいずれ廃れていきます。なぜでしょうか?
 
それは学習指導要領・教育課程に対して「無理」があるからです。つまり満杯のコップにはそれ以上の水は入らないと言うことです。例えば、学級活動。年間にどれだけの時数があるでしょうか? 指導的内容・係活動、行事との関連を考えると年間に教師の采配でできる「特別な」活動は、2〜3時間しかないはずです。同様に教科の学習にしても何か新しいものを入れようとしてもやるべきことが膨大にあり、それらと矛盾しないで継続していくことが難しいのです。何かを入れると何かが溢れるのです。
 
ですから、最初は「おもしろい」とか「すごい」とか、「子どもが変わった」なんて喜ぶのですが、いずれ他のクラスや自校の学習の流れ、そして教育課程との矛盾に耐えきれずにやらなくなっていきます。そんなことたくさんありませんでしたか?
 
我々(古田さんね)は「そぎ落とす」ことをずっと続けてきました。その結果、授業を左右するのはテクニックの集合体では無くて、教師という人なのだという真理にたどり着きました。だから教師自身が子どもと一緒に学び続けていくこと事態が子どもの学びを持続させることができるのだと理解しています。つまり知的で学ぶことに貪欲な教師でないかぎり、子どもも学び続けることなんてないのです。
 
それが分かると授業はとてもシンプルでよいことが分かります。ですから今革新的に展開しているクロスカリキュラム化と書く活動も、言葉と子どもの姿、結果をみるとものすごく難しいもののように思えるかもしれませんが、実はとてもシンプルであり、教育課程の何にも矛盾しない授業です。
 
とはいえ「そぎ落とす」というのは酸いも甘いも知っているからこそそぎ落とせるものであり、若い先生が最初から「そぎ落としました!」って言っても、「最初から何もなかったんじゃないの?」って思えちゃいます。
ですから20代の先生なんてたくさんの勘違いをしながら、いろいろとやってみるとよいと思います。でも30代になってもそのテクニックの集合体にいつまでも頼っているような教師は、40代になってもうまくいかないことでしょう。そうやって悩んでいるうちに教師人生が終わってしまいますよね。
 
よろしくメカドック」のように、最終的には新しい過給器に頼ること無く、本来の車の持つポテンシャルを十分に引き出すことが結果的に無理なく、そして圧倒的な結果を引っ張り出すのだと私は思います。ですから究極の授業は「シンプル」なのです。