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こんにちは。福島県郡山市の小学校教諭の「坂内智之」です。「学び続ける子どもたち」を合い言葉に「織り重ねる学び」の授業を作っていきます。授業の様子や子どもの様子、教育についての考えなどを書き込みたいと思います。 連絡・問い合わせ・お願いメールは manabiaiとgmail.comを@でつないでください。

2015-02-05

理数って?

教育界は多くの方がいわゆる文系の方で占められていて、大抵が文系よりの視点で書かれています。一方、いわゆる理系という方は、「ITすごいぜ!」か「こんな授業・実験で興味が持てる!」という方向性に向かう方が多いような気がします。もちろん、これらはこれらでとても大事なことで、そのこと自体は否定はしません。でも「どうして算数を勉強しなければならないの?」「どうして理科を勉強しなければならないの?」こう聞かれた時に、あなたはどう答えるでしょうか? 将来の仕事のため? 日本の経済活動の発展のため? 受験のため? お金の管理のため?

 

理数の教育はいつも「何か実用的なもののため」と捉えられがちですが、こうした実用的なことのためではありません。実際に理数の学習内容が直接、仕事に結びつく人はごく限られています。ですから多くの人にとっては「なぜ勉強しなければならないの?」そんな話になるのです。

 

理数は思考のプロセスの整理と効率化のためのものです。いわゆる筋道をつけて考える力を養うための学習です。

 

例えば、台形の面積を求める学習があります。人の一生で台形の面積を求める必要性なんでほとんどないことでしょう。そうなると「なぜ台形の面積を求める勉強なんてしなければならないんだ?」となります。でも授業では、台形の求積は3つの視点からアプローチしてきます。答えを求めるには、さまざまなアプローチがあるのです。なおかつ、そのなかでどれが最も分かりやすく、楽に求めることができるか、算数はそこを考えていく学習なのです。

 

これは人が生きていくために、多くの選択が迫れられることがあります。今日のおかずは唐揚げにしようか、それとも焼き魚にしようか、実はそんな一見何の関わりのないように見える選択でも、実は理数の授業のプロセスが関わります。

 

唐揚げにしようか、それとも焼き魚にしようか、それを選ぶ際には、さまざまなことを考えます。昨日の夕飯のおかずから、カロリーや栄養素、家族の好み、他のおかずとのマッチングなどなど。実はここに自分で合理的な答えをもとめるために、理数の教育は効いてきます。

 

我々は大小さまざまな選択を迫られます。今晩のおかずのことから、政治、世界平和まで。こうした選択に理数教育は大事な学習なのです。理数は決して「実用」なのではなくて、人の思考プロセスに直接関わっていく大事な学習なんです。

2014-12-02

授業参観

今日は授業参観でした。

以前勤務していたある小学校では授業参観前に簡単な授業の流れを作り、それを管理職にチェックしてもらう必要がありました。また、その指導案は、全員保護者に印刷して配布してました。そのチェックで2度ほど「却下」された授業案があります。一つは「禁煙教育」で「喫煙する保護者がいる前でわざわざやるそれをやる必要性がどこにあるのか?」という指摘で、急遽授業を変えました。もう一つは「発表する授業」についてです。今日はこのことを。

 

授業参観日だと子どもの「学習の発表をする」授業をよく見かけます。上記のように僕はその授業を当時のある教頭に止められました。なぜでしょう?その教頭の話を聞いて「なるほど」と考え、特別な機会ではない限り、僕は「発表の授業」をやらなくなりました。

 

授業というのは、その時間で子どもがどう成長したかということで、その中で子どもの問いも、戸惑いも、ひらめきも、話し合いもない授業にどんな意味がある? 子どもの成長を見せることが授業参観の意味なんだから、普通のしっかりとした授業をしなさい。

 

そんな趣旨のことをご指導頂きました(実際にはとてもお厳しい口調でしたけどね)

 

今日の授業でも、ごく普通に社会科の授業をやりました。なんの装飾もありません。授業の準備もプロジェクター設置の3分です。それでも「現在の日本の貿易が抱える課題」という中学生レベルの課題に子どもたちがしっかりと取り組んでいました。

 

2014-11-10

「教育する」とは何か?

私たち教師は、退職するまで「教育する」ということの意味を考え続けていかなければならない職業です。それが使命なのです。

 

例えば「宿泊学習をする」という時に、そこでどんな子どもの成長をめざすのか考えていくことが一番大事なのです。その軸がぶれなければ、子どもはちゃんと育ちます。一方「うまくいく」ことを優先するのであれば、班編成に口出ししたり、子どもの行動にたくさんの制限をかけることになります。我々が子どもに対しての危険回避能力さえ高ければ、子どもの行動にいちいち制限をかける必要などないのです。

 

学校の中で漫然と行われる各種行事や活動のひとつひとつの意味を私たちはもう一度見直していく必要があります。「当たり前」であることに「隠れた悪」は存在するのです。その連続の中に子どもの成長などないです。

 

運動会何のため? 学習発表会は何のため? 児童会活動は何のため? 鼓笛隊は何のため?

朝のボランティアは何のため? お掃除は何のため? そして授業(学習)は何のため?

 

こうしたことのひとうひとつの意味を考え、そして子どもたちをそこでどう成長させようか考えていくことこそが、教師の仕事なのです。

 

ところが多くの学校はこうした様々な行事や活動が漫然と行われ、形骸化しています。クラブ活動でプラモデルを作らせていたり、鼓笛隊のメンバーを教師がテストして決めたり、運動会の計画を教師だけで立てたり、児童会活動が学校の雑用の仕事の代替になっていたり。

 

僕はこれを「学校の静かな死」と言います。それはゆっくりゆっくり、そしてそれはあたかも当たり前のように、じわじわと侵食し、やせ細られていきます。

2014-11-08

インフレーション

ヒットした映画は、しばしシリーズ化されます。◯◯◯2と◯◯◯3といかいうように。そして、どんどん過激になっていきます。例えばアイアンマン3なんて、アーマードスーツが10体以上でてきて、最後には大合戦です。このように「どんどん派手に、過激に、そして大量に」作られていきます。しかし、ヒットした映画でシリーズ化され、うまくいった例はほとありません。(僕はターミネーター2くらいしかないんじゃないかと思うけど)

 

教育界も実はどんどんインフレーション化しています。教師の多忙化というけど、実は事務処理とか、文書処理の量が問題ではないのです。このインフレーション化が実は最も教師を多忙化させているのです。でもここには「有能な教師とは何か?」という価値観がもろもろ絡んでくるから厄介です。

 

一昔前なら、子どもが1年間学校に休まないで来たからといって、特に何もしませんでしたし、せいぜい、修了式の日に「1日も休まなかったね。えらかったね!」くらいだったと思います。それが、1年間休まないで来たことで、「皆勤賞」の賞状が配られるようになり、今では学期ごとに皆勤賞が配られます。実は「この先」には子どもだけではなく、保護者も見据えています。

 

また校外活動、例えば町探検などに出かけた時も探検したお店ごとに立派な子どものメッセージ集を「訪問したお店すべて」に作成して配っています。おそらく、訪問したと同じくらいの時間がこのお礼メッセージに費やされています。本来の勉強はそっちのけでね。このように学校の教育活動の一つ一つがすべて地域や保護者に向けられるようになり、教育活動の肥大化、つまりインフレーション化が起こっています。そのための準備、対応に教師は追われているのです。

 

これは、中学校であればまさに部活動対応になります。子どもを素晴らしい結果に導くため、土日も、放課後遅くまで指導してくれる教師が求められていきます。

 

そしてこのインフレーション化は学びそのものを弱体化していきます。インフレーションしても活動時間には限りがありますから、薄くなるだけなのです。

 

厄介なのは、優秀な教師とは何か?という見方です。インフレーション=教師のがんばり(優秀さ)と思われているから、どんどん余剰なサービス体制だけがクローズアップされていきます。子どもを成長されることに直結しないようなことまで丁寧に時間をかけるようになったことが、教師の多忙化の主な原因なのです。

2014-10-09

何のため?

最近ブログを書けなかったのは、行事が錯綜していて勤務時間が大幅に長くなっていたためです。

その中でも宿泊学習は最も時間のかかる学校行事でした。今回、宿泊学習を実施して改めて教師として考えなければならないことがたくさんありましたので、ここで整理しておきたいと思います。特に若い先生はよく読んでおくべきです。

 

トラブルを起こさないということ

ある場所で中学2年生くらいの集団が200名ほど集まっていました。多くの観光客がいる中で、「いいか分かっているよな、万引きはするんじぁねーぞ!分かってるか!」と中学教師が怒鳴っていました。「本当に馬鹿な教師だよな」と思いながら通り過ぎたのですが、おそらく日常的にトラブルが多いのでしょうね。

僕はこれまで何度か宿泊学習をしてきましたが、ほとんどトラブルはありません。(もちろん、細かなものはあるけどね) 宿泊学習や修学旅行でトラブルが起こるのは、基本的に教師の問題です。トラブルとは起こるべくして起こるのです。

学校行事というのは、教師が育てたい成長と子どもの意識をどれだけ一致させられるかにかかっています。トラブルが起こるというのはいつか理由があって、子ども同士の関係性の弱さだったり、子どもたち自身がトラブルを回避出来るように育てていなかったりすることにあります。児童や生徒の姿は、実は教師自身の姿のです。僕が見ていた上記の中学生は、体験活動でもふざけた態度で行い、その横にいる教師もそれを放っておきます。そのふざけてできた作品を写真に収めています。その結果が「おまえら、万引きすんじゃねえぞ!」なのです。そうした学校は、グループも男女別です。男女が一緒になると「ろくなことをしない」と考えているからです。観光地の市内では男女別の小学生グループもいました。よほど信用できないのでしょうね。でもその信用でない集団を作っているのは教師自身であることには気がついてないのです。信用されない児童や生徒を作っているのです。

 

学校がやるという意義を考えるということ

最近は自然の家がとても丁寧です。でもそれを僕は決して良いとは思っていません。コンフォートなら家族旅行でいいのです。学校が施設や旅行代理店にお任せする意味って何でしょう?教師が責任を負わないで楽をするだけの話です。最近は何をやっても「アンケート」がついてきますから、それだけ丁寧に(これは意地の悪い言い方をすればどれだけ教師を楽にさせてくれたか)対応してくれたかを評価されるのです。評価されるためには、本来ならその参加校の教師がやるべきことまでやってあげなければなりません。でも、これって子どもにも、教師にも、その成長につながらないのです。以前であれば、教師が宿泊学習をうまく進行出来るように経師自身が研修をしかっりと積んできたものが、今ではそれほどスキルを要求されません。

また、学校の集団でするというのは「非日常」なのです。ですから通常では体験出来ないようなことを体験させる(もう少し詳しく言うならばあえて壁をつくりそれをのりこえさせるような)のが学校の行事なのです。

どこを評価するのか

2日目。野外炊飯では施設の問題もあり、15分ほど予定が遅れました。僕はそれを「チーム力が低いから」と子どもたちに話しました。段取り、心配り、周りを見る力、自分を見つめる力、こうしたことがきちんとできてないから時間が遅れます。僕はそこを指摘します。怒らないでね。でもその子どもたちは3日目の市内巡りでは、16班のどこも到着時刻に遅れることなく、きちんと5分前には集合できました。おかげで、学校到着が20分ほど早くなりました。こうした行事では大抵時間に遅れるのが常です。でも子どもたちは、時間を守って行動出来ました。こうした成長を教師が見取ってあげて、子どもたちにフィードバックしてあげることこそが教師の役割で、それが子どもの心の成長を促します。最後の挨拶で、僕は子どもたちとこうした成長に「みんなの拍手で終わろうよ」と言葉をかけ、柔らかな拍手で締めくくらせました。これこそが教師の役割なんです。叱ってもいいんです。でもその先に子どもの成長を見据えているかどうかなんです。

 

実はまだあるんだけど、今日はここまで!