tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『涙』乃南アサ

涙 上巻   新潮文庫 の 9-15

涙 上巻 新潮文庫 の 9-15


涙 下巻   新潮文庫 の 9-16

涙 下巻 新潮文庫 の 9-16


「ごめん。もう、会えない」。
東京オリンピック開会式の前日、婚約者で刑事の奥田勝から、電話でそう告げられた萄子は愕然とする。
まもなく、奥田の先輩刑事の娘が惨殺され、奥田が失踪していたことも判明。
挙式直前の萄子はどん底に突き落とされた。
いったい婚約者の失踪と事件がどう関わっているのか。
間違いであって欲しい…。
真実を知るため、萄子はひとりで彼の行方を追った。

乃南アサさんの『涙』上・下巻を読了しました。
とあるメルマガに「絶対泣ける本」として紹介されていたのですが、涙が止まらないというほどのものでもありませんでした。
ですが、近年読んだ本の中では一二を争う緊迫した展開。
そして、全編に漂うやりきれなさが痛かったです。
この作品はとにかく登場人物の心理描写が巧みで、個々の人物の同じ気持ちに幾度となくさせられるのです。


婚約者に失踪された藤島萄子。
彼女が抱く、姿を消した婚約者・奥田勝に対する苛立ちや思慕。
実際に勝に会って、真実を彼の口から聞かなければ納得できないという萄子の思いはとてもリアルに伝わってきます。
私自身も、もし萄子と同じ立場におかれたら、きっと彼女と同じ言動を取るだろうと思います。


一方で、一人娘ののぶ子を勝に殺されたのではないかという疑惑を抱き、警察を辞めて個人的に犯人を裁こうとする、勝のかつての上司・韮山
娘を殺された無念と怒りが、事件を調べるにつれて明らかになる思いがけない娘の真実の姿を知っての戸惑いと落胆に変わっていく部分は、非常に読み応えがあって、またなんともいえないやるせない気持ちにさせられました。


そして最後についに勝の口から語られる真実。
勝が味わった屈辱と恐怖と憎悪が痛いほどに伝わってきて、また私は萄子と同じ気持ちになりました。
自分の身に起こった恐ろしい出来事ゆえに萄子から去るしかなかった勝の気持ちもよく分かるし、どんなに愛しても結ばれないと悟った萄子の慟哭も、どちらも分かるだけにとても辛い気持ちにさせられます。


この作品のすばらしいところは、まさにこの登場人物の描写が作り物っぽくなく、きれい事ばかりのドラマではなくリアルなものになっているところだと思います。
お涙ちょうだいモノの感動のドラマによくあるような、登場人物の悲しみや怒りや失望などといった、人々の同情を誘うような部分ばかりを書くのではなく、人間の汚い部分や嫌な部分にもきちんと目をそむけずに正面から向き合っています。
たとえば萄子のお嬢様ゆえの世間知らずさや嫌味なところは鼻につきます。
婚約者に去られた萄子の気持ちも十分に理解していながら、勝を犯人として追うと萄子の目の前で宣言する韮山の残酷さ。
そして正義感が強すぎるあまりに融通の利かない勝が、中途半端に自分の無事を萄子に伝えるのはあまりに身勝手ともいえます。


ミステリ風の展開ではありますが、そこに書かれているのは壮大で奥の深い人間ドラマでした。
これからの秋の夜長の読書にぴったりの長編。
「涙」は出ないかもしれませんが、心にじんわりとした感動が広がることは間違いありません。