tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『半落ち』横山秀夫

半落ち

半落ち


請われて妻を殺した警察官は、死を覚悟していた。
全面的に容疑を認めているが、犯行後2日間の空白については口を割らない「半落ち」状態。
男が命より大切に守ろうとするものとは何なのか。
感涙の犯罪ミステリー。

今年の正月のこと。
正月休みで単身赴任先から家に戻っていた父と、こんな会話をしました。
父「横山秀夫の本持ってないか?松本清張の再来って言われてるらしいなあ」
私「うん、私も読みたいんやけどハードカバーは高いしかさばるし買ってへん」
そしてそれから1ヶ月が経った頃、珍しく父からメールが。
「『半落ち』買いました。今度持って帰ります」
そして先週の土・日に帰ってきた父から本を受け取り、一気に読みました。


横山秀夫さんと言えば、今一番注目されている作家かもしれませんね。
その彼の代表作『半落ち』を読んで、評判は伊達じゃないなと思いました。
だらだらと長い文章がなく、改行も頻繁で読みやすいです。
感情を抑えた簡潔な文が、逆にこちらの想像力を刺激します。
6人の立場の違う人物に、それぞれの観点から事件を見せる手法も面白いと思いました。
ただ贅沢を言えば、この6人をもうちょっと追求して細かいところまで書いて欲しいような気もしましたけど。
各人の個人的な事情がほんの少しずつ語られているのですが、ここを膨らませればもっと読みどころの多い作品になりそうです。
…それじゃ宮部みゆき作品になっちゃうか。
「脇役でさえ、一人一人を細かく描写する」宮部作品に慣れてしまっている身には、少々物足りなさも感じました。


それでもこの作品は感動的です。
5つ目の章の最後と、最終章の最後はウルウル来てしまいました。
アルツハイマー病の妻を扼殺した警察官が、決して何をしていたのか口を割ろうとしない「空白の2日間」の謎をめぐる物語ですが、真相は昨今の殺伐とした世の中では貴重とも言える「人間らしさ」を思い出させてくれるものです。
作中、検察官の佐瀬に対してある被疑者が問いかける「あなたは誰のために生きているのですか」という言葉は、まるで自分に問いかけられたような気がして胸が痛かったです。
私は誰のために生きているのだろう?
あなたはすぐに答えることができますか?
人間として、誰のために、何のために生きていくのか。
この作品は痛いほどにこの問いを読者に向かって投げかけるのです。


また、組織と個人の対立の構図もよく書けていると思います。
個人の感情や意思といったものは、組織の中では埋没してしまうものです。
警察官との個人的な取引に乗った新聞記者が、会社という組織の一員としての弱さを露呈し、結果として取引相手の警察官を裏切る行為をしてしまうのも、この社会に生きる人なら誰も責めることはできないのではないでしょうか。
かなりリアリティがあり、読み甲斐がありました。


ところで、『半落ち』といって思い出すのは例の直木賞落選問題です。
私はこの作品を読んで、「このミス」1位は伊達じゃないと思いましたし、最後まで疑問に思う箇所もなく読みました。
この作品が直木賞の選から漏れた理由はネタばれになってしまうので詳しくは語れないのですが、要するに選考委員会(いや、某選考委員一人だけでしょうか?)が言ったのは「オチの部分が実際にはありえないことであり、ミステリーとして成立しない」ということらしいです。
「オチの部分が実際にはありえない」??
妻を殺した警察官は、確かに○○○○を望んだために、ああいう道を選びました。
しかし、「望んだ」だけなのです。
実際にそれが実行されるとは作品中にはどこにも書かれていません。
犯人の心の中だけのものであって、現実には実行されていないものを否定しても仕方がありません。
プロ野球選手になりたいと言う幼い子どもに「お前は運動神経がよくないから絶対無理だ」と無情に告げて夢を閉ざさせてしまうようなものです。
また、「実際にはありえないこと」が全て認められないと言うのなら、ほとんどのミステリは成立しないということになってしまいます。
フィクションは「実際にはありえないこと」を可能にするからフィクションなのではないのでしょうか?
現実の世界と何一つ変わりのない小説なんて、読んでいて面白いのでしょうか。
やっぱり直木賞選考委員の論点はどこかずれているな、と感じました。