tontonの終わりなき旅

本の感想、ときどきライブレポ。

『玻璃の天』北村薫

玻璃の天 (文春文庫)

玻璃の天 (文春文庫)


昭和初期の帝都を舞台に、令嬢と女性運転手が不思議に挑むベッキーさんシリーズ第二弾。犬猿の仲の両家手打ちの場で起きた絵画消失の謎を解く「幻の橋」、手紙の暗号を手がかりに、失踪した友人を探す「想夫恋」、ステンドグラスの天窓から墜落した思想家の死の真相を探る「玻璃の天」の三篇を収録。

『街の灯』に続く「ベッキーさん」シリーズ第2作目。
先日直木賞を受賞した『鷺と雪』は、同じシリーズの完結編である3作目にあたります。


舞台は昭和8〜9年の東京。
まだ一応の平和はあるものの、少しずつ言論統制の空気が漂い始め、きな臭くなり始めた時代を描いています。
主人公の花村英子は女子学習院で皇族華族のお姫様方と机を並べる、上流階級のお嬢様。
女がひとりで自由に外を出歩くなど許されない身分と時代にあって、現代の女子高校生と比べればずいぶん不自由なように思えますが、彼女は持ち前の好奇心と旺盛な知識欲で生き生きと楽しい女学生生活を送っています。
世間知らずでそれゆえに大胆不敵なところもありますが、良家の子女としての知性や品格も兼ね備えていて、軍人に対してもはっきり自分の考えを述べるような凛とした強さもあって、なかなか好感の持てるお嬢様です。
そしてもう一人の主役と言えるのが、英子の専属運転手である別宮(べっく)みつ子。
英子が「ベッキーさん」と呼んで慕う彼女は、単なる運転手にとどまらない頼もしいお目付け役です。
武術や射撃の心得があり、文学や外国語など幅広い学問に精通し、すらりとした美形。
女性が車を運転すること自体がほとんどなかった時代に運転手という職業に就いているところからして、ただものではありません。
英子が持ちかけた謎を、その豊富な知識で見事に解き明かす、名探偵でもあります。
そんな才媛でありながら自分の立場をよくわきまえていて、けっしてでしゃばったりすることのない日本人らしい謙虚さもあって、英子でなくてもこの人には憧れずにはいられません。


登場人物も魅力的ですが、謎解きも魅力的。
北村さんの作品は北村さんの文学への愛が感じられるのがいいですね。
本作でも「枕草子」やウェブスターなど、古今東西のさまざまな名作が登場しました。
その中でもひとつハッとさせられたのが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」について。
作中で「姉に『死にたまふことなかれ』などと歌われた弟はたまらない」というセリフに目からうろこが落ちる思いでした。
よく考えれば確かにその通りで、戦場へ向かう男性は「お国のために立派に命を捨ててまいります」と言わなければならない時代。
「死にたくない」と言うことも、「死なないで」と言われることも許されないのです。
本当に弟の身を案じているのなら、「君死にたまふことなかれ」などという歌は発表すべきではなかった。
もちろんこの場合の「弟」はこの作品中でも触れられている通り日本男子全体を指すのでしょうけれど、弟を微妙な立場に追い込むかもしれないと分かっていてそれでも発表せずにいられなかった与謝野晶子の気持ちを思うと、この歌を今まで単なる反戦の歌としか捉えていなかった自分が恥ずかしくなりました。
北村さんの文学への深い造詣に裏打ちされたこのようなエピソードや当時の時代背景を絡めた謎解きは、他のミステリ作品では読めない独特の味わいがあってよいと思います。


今作は特にベッキーさんの素性にも関わる謎が登場するのでさらに惹きつけられました。
謎解きによって明らかになったベッキーさんのつらい過去。
振り返っても起こってしまったことはもう元には戻らないのだから、ただ前を向いて歩んでいく…。
でも、この作品を読んでいる私たちは、前へと歩んでいったその先に、どんな出来事が待ち構えているのかを知っています。
今はまだ、青春真っ只中の英子お嬢様の目には美しく映っている帝都・東京。
完結編ではその美しい街が破壊への道を歩んでいくさまが描かれるのでしょうか。
それを思うと切なくなりますが、それでも完結編が楽しみです。
☆4つ。