100回生きて死ね

ふとチキンゾンビてな言葉が浮かんでしまった。複数じゃないの。単数なの。なるほど、うまいこと言ったもんだな。そゆよなもんに近いのかもしれない。ヤツは『所詮チキンでゾンビなんだろうお前らは、』って言いたかったんでしょうか。たしかにチキンでゾンビなんですけども僕は。

ちょっと調べてみたんだけど、ブルース・ナウマン の「100生きて死ね」てな作品、和訳が秀逸過ぎると思うんですが。英語の場合、どのように表記されるんだろうか。直島に展示されてあったあれを見たとき、がつんと打たれてしまった。贅沢だし。当時はその言葉と作品のエキセントリックさのみに感化されていたところがあったんだけど、なんだか今は、あの全てが妙に染みてしまう。
杉本博司を知ったのも直島だったし、そう考えると直島旅行は本当にもう意味があり過ぎたなぁ。

話戻って、今の自分だと100回生きて死ねというよりも、100回死んで生きろ、ってなほうが正論に聞こえてしまうのは、とても打算的で、どこまでいっても空想にしかなり得ない裏付けなんだと思っているからなんでしょう。そこには未来があるようで、無い。だから、『100回生きて死ね』なんでしょうね。なんだかとても分かり易い。

なんだかんだ分からないものが多すぎるのだが、銘打った造形物を見ると納得してしまうことがある。なんでか知らないけれど、それは写真じゃないほうが多かったりする。そういったものに共通するのが、少し悔しいんだけど、言語化されて浮き出たイメージだったりする(最終的に)。映像や絵とかではない、まったく別な概念的?なもの。(写真からそれを拾うことが僕には難しいみたい。体現しようなんて考えているけれど)。あ、纏まらなくなりそう。

てか写真

所謂事実から始まって、そこをもとに自分の意志を追加して作り上げるもの。
所謂事実のみを忠実に再現し、記録と記憶をなるべく近くに居させるもの。
所謂事実。五感を通して得た情報が全て平等ならば全てが全て所謂事実に依拠している。
忠実に再現、とはいえそこに個人の想いが混在し得ないとは言い難い。が、情報として成り立っている向きもある。あれとこれとは別よ、と言い放ってしまいたいけれど、どうにもそれを明確に分け隔てる要素が無いような気もする。なんだか全てに応えようとして生み出されたものは逆に全てから空転してしまって、すごく面白い写真になるんじゃないかなぁなんて、弱く思ったり。好きじゃないんだけど。好き嫌い激し過ぎるんだけど。なんかあんだって。なんかがまだあんだって。絶対。

伝われ!というよりも伝わる。ほうが良い。伝われ!なんて言うんだったら、むしろいっさいがっさい足下からすくいあげてやりたい。気が付いたらここにいた、みたいな。そんなんやりたい。