ROCK or LIVE - ロックお笑い部 - vol.3 【Base Ball Bear×ダウ90000】レポ

楽しいライブだったので、ちょっとレポでも。

 

 


最初はダウ90000のコントから「不思議な夜」。おお~、という感じ。
Base Ball Bear待ってましたという気持ちもあるので、ダウ90000の登場に少し肩透かしな感じも、そういうのが観たかった感じがあったので歓迎でした。
中島さんのマイクがハウリング気味でドキドキしました。
ライブハウスなので声張ってやるのかもと思いましたが、マイク使ってたんで、その影響かもしれません。
ネタ自体は8人がシチュエーションに絡んでくる構成で、ベタな笑いもありつつ、多人数が活かされている仕組み、サブカルネタなどを散りばめていて、かなり新鮮に観られました。
サブカルも狙った感じではなく、ネタのテーマの1つ、普段使いの会話のように入れられていたので変に考え込まずにリラックスできました。
ネタの終わりで、Base Ball Bearが登場。なるほどと思いつつ、なんの曲からだ? と。
頭の中では「そんなに好きじゃなかった」をリクエストしました。
かかった曲は「不思議な夜」。
そりゃそっちだよなと。解釈そっちが正しいよなと思っていたら、「short hair」を挟んで「そんなに好きじゃなかった」へ。
おお~と思いました。
そこからは漫才へ。
ここら辺、余韻を急にお笑いシフトに変更しなくちゃいけなくてちょいと大変でした。
さっきまで鳴り響いていたバンドの音で耳も遠くなっていたので。
ただ、ネタ自体も本ネタとアドリブが半々くらいの前説みたいなネタで、(知らない人に対して)やさし~ってなりましたね。
それと同時に達者な人達なんだな~とも。
ここで盛り上がったのは、園田さんの失恋の話。
これは直近のYouTubeラジオで知っていたので結構楽しめました。
どこかのタイミングで開場が盛り上がり、園田さんが「あんたら悪魔かよ」(人の子かよ、みたいなニュアンス)と声高にツッコんでいて笑いを取っていたのですが、その様に新鮮さがありました。
お客さんに対する「悪魔かよ」「人の子かよ」みたいな言葉遣いは特段珍しいものではないですが、それが失恋に使われているのが新しくて。「恋愛」や「失恋」を揶揄されることに心から叫ぶ真っ直ぐさというか、そういう言葉を使う生真面目さというか。意外にお笑い芸人ではそうはならないのでは、と思ったり。常識のある一般性みたいなものがダウ90000が支持されている点でもあるよなと。
妙に深く考えてしまいました。そこから再びBase Ball Bearパートなので、ここで「そんなに好きじゃなかった」を被せてくれ! と思いましたが、そんなことはなく(それでいい)。


夕日、刺さる部屋(新曲)→Endless Etude→THE CUTの流れも良かったですね。
ここら辺は流石に束で聴かせる上手さがありました。
Endless Etudeの照明も妖しさ満点。THE CUTはポケモンショックみたいな照明の使い方でちょっと笑ってしまいましたが。
ダウ90000のメンバーはどんな感じで聴いていたんでしょうか。忙しくて聴けなかったとは思いますが。

終わりで飯原さんことMC徳島のラップパートはこれまた盛り上がりました。
コント→歌→コント→歌も良いのですが、それの繰り返しで終わるのも寂しいのでトークありのコーナーがあって良かったです。
ここでは司会の小出祐介がラップパートを解説して湧かせたり、(歌い終わったばかりで司会をするのは大変そうでしたが)楽しいやり取りでした。
ここでも双方のメンバーが相性良さそうで微笑ましかったですね。
ラップを丁寧に褒めてあげる小出先生が優しかったです。

そこからコントパート。
このコントは人物描写も巧みでおもしろかったです。
男女が持っている価値観への見方というか、数ある男女の関係性への屈折したものの見方というか、そこの価値観と視点の切り方で鮮やかに笑わせる。その上、分かりやすくもあり、ベタのおもしろさ(じゃんけんのくだり・それでいて今っぽいあるあるでもある)があり、よくできてるな~、と。
捻くれた価値観と、恋愛ネタということで、Base Ball Bearにも通ずる部分があるなと思いました。
報われない男がいることもBase Ball Bearらしく、これは次どんな曲が来るのか? ネタのおもしろさも相まってワクワクしました。
個人的な瞬間の予想では「BOYS MAY CRY」でしたが、関根史織チャップマンスティックを携えての「kodoku no synthesizer」。
これには、おお、という驚きがありました。
そして、ある演出が加えられ、それはライブならではのものでした。
この流れなら「Tabibito In The Dark」が合うんじゃないかと思ったら、まさかの「Tabibito In The Dark」。
だとすると「yoakemae」? でも、そこまで『新呼吸』の曲が続くかな、と思っていると、次の曲は「changes」。
最近のBase Ball Bearのライブは曲の流れを予想するのが楽しいですが、この日は妙に解釈一致したりして、そこも面白かったです。DJ的な選曲をコントから予想するのが楽しかったんですね。
アンコールはダウ90000歌唱の「耳をかして」。
拙さはあるものの、その拙さがパッションを感じさせ、非常にエモーショナルな締めくくりとなりました。

~感想~

ダウ90000はネタもきちんとしていたし、以外に達者な感じもあって、その辺りは思ったよりもビックリみたいな感じでした。
でも、そこまで玄人かと呼ばれると、そうではなく。
失恋でもの凄い落ち込んでいる人がいたりとか。アンコール間際で小出祐介のフリに園田さんと道上さんが話し始めるんですが、早口で捲し立てて話し始める(ファンの前でそのくだりが何度もあったんでしょうが、初見には捲し立てているようで聞き取りづらくもある)。でもその様が「そうなるよな~」というか、微笑ましく観られるというか。親しみやすさがあるんでしょうね。
もしかしたら同世代のファンも多いかもしれないけど、意外に(小出祐介含む)年上の人の方が応援しやすいのかもなあと思ったり。
「サークル感」と言われることも多いだろうけど、どちらかというと「スクール感」という言葉の方がしっくりきました。
決して自分たちのノリだけでやっていないというか。あくまで誰しもが楽しめるくらいのポピュラリティーはあるような気がしました。
例えば同級生コンビなども、そういった「スクール感」があったりもしますが、ダウ90000が「サークル感」と読み違えられるのは出自と人数の関係なのかなと。
あとは男女でいるかどうか、とか。
そう考えていくと、ダウ90000を観ていて昔のBase Ball Bearを思い出したりもしました。
SCHOOL OF LOCKに出ていた頃。特にベボベLOCKSとかやっていた頃です。
男女でワイワイやっていて、笑い合う中に放課後の残り香がする。みたいな。
Base Ball Bearの場合は、年齢を重ねていく過程で、歌う歌詞や奏でる音が変わっていき、そして「スクール感」も減っていきました。
湯浅将平もいなくなってしまいましたしね。
(ただメンバーは、元々仲良かったから組んだバンドではない、ということも言っています)
じゃあ、スクール感がゼロになったかと言われれば、そうではなくて。いつでも滲み出ていて、そこが良いんですよね。だから今でもスクール感を感じる瞬間はありますし。
ダウ90000とBase Ball Bearの共通点はそういうところにも表れているなあということを感じていました。
想像以上に親和性があり、そして、良いライブでした。
またやってほしいですね。

新たな地平を行く、Base Ball Bear『DIARY KEY』感想

個人的には、はじめから期待値が高いアルバムではありました。
「期待値が高い」と言うには理由があって、それはコロナ禍という状況がBase Ball Bearのソングライターである小出祐介の作る歌詞の「性質」に合っていると思ったからです。
小出祐介の歌詞の「性質」というのは解釈を含めて千差万別あると思いますが、本人も自ら発言している通り、1つの通底する価値観があります。
それは、(追いかけている人間なら誰もがよく知る)「気持ちいいけど気持ち悪い」というものです。
「4D界隈」の歌詞にはそのまま登場してきて、「アンビバレントダンサー」などの歌詞ではニュアンスがそのまま出てきていると思います。

曖昧な感情や、相反する感情、どこか明るいけど暗いみたいなことを歌ってきたのがBase Ball Bearの詞世界の特徴の1つだと思っていて。
それは今の「コロナ禍」において誰もが直面するような感情だろうと。
Base Ball Bearその他含めた)バンド1つとっても、コロナが流行り始めた当時はライブの中止が相次ぎました。ようやく落ち着いてライブができるような状況になっても、以前のように声を出して密集することはできません。
久しぶりにライブができる/行ける高揚感と、今まで通りにできない寂しさ。そういった感情を同居させたのが小出祐介の歌詞世界にも繋がるのでは、と思っていました。
(本人は最近「詞」ではなく「詩」になるように書いていると言ってますが)小出祐介が今の時代にどんな歌詞を作るのか。詩への注目度が高まっていました。


また、シングルとして発売した「ドライブ」がアルバムのラストを飾ること。
この既発曲がアルバムのラストを飾ることは今までのBase Ball Bearの歴史においては初めてのことです。
しかも「ドライブ」はコロナで疲弊する人に寄り添うような曲でいて、アルバムのタイトルは『DIARY KEY』。これもまた、日常を切り取ったようなタイトルです。
Base Ball Bearというバンドを長く追っている人ほど、発売日までソワソワしていたと思います。どうしたって作品の期待値が上がってしまうので(笑)。
とはいうものの、このアルバムはどこを切り口に語っていくのかは難しいです。

もちろん、シンプルなギターロック。ロックバンド然としたアルバムではあるのですが、聴き込むほどに、メロディーや歌詞が前作『C3』の地続きにある印象をあまり受けません。どちらかといえば、急に出てきた突然変異的なアルバムの感じもします。
それについてはコロナの影響でアルバムツアーを回れなかったということが大きいようで、小出祐介はインタビューでそのようなことについてよく言及していました。
アルバムツアーの経験や実感したことを踏まえて次回作を作っていく。それができなかったのだと。


歌詞の面から話を進めていくと、前作の『C3』はバンド自身やツアーを回っていく中で浮かんだ風景が描写されていることが多かったです。
2016年に3人体制になってから音色を増やした『光源』を経て、C3ではギター、ドラム、ベースという3人だけで鳴らす音にこだわりました。そして、3人のサウンドにこだわった結果が「ポラリス」や「EIGHT BEAT詩」、「Grape Juice」といった「バンド自身」を歌う歌詞に多く表れたのだと思います。
今作の『DIARY KEY』では、そういった「バンド自身」を歌う曲はほぼありません(解釈にもよりますが字面として)。
丁寧に日常を切り取った曲が大幅に増えました。そういった日常性の溢れる歌詞を聴いて、2011年に発売した『新呼吸』を思い出したりもしました。
が、『新呼吸』と違うのはストーリー性を求めていないところでしょうか。
今作『DIARY KEY』の歌詞について、小出祐介はインタビューでこう答えていました。

 

自分的に、歌詞表現がどこまで行けるか?というのは、ここ1,2年ずっと考えていたことで。逆に前作は、それでつまづいたんですよ。内容はいいけど、歌詞を書くのがすごく苦しかった。どんどん自分の首を絞まっていってる気がしていて、それは何だろうな?と思ったら、「僕と君の物語」に縛られていたせいだと思った。だから今回、僕と君はほとんど出て来ないです。ここは言うしかない、というところでしか言ってない。でも「僕と君」を言わないことによって、圧倒的に書きやすくなった。歌詞の設定の説明に文字数を使わなくてよくなったんですよね。言葉の節々から背景を想像させるような書き方をしていったら、これがずっとやってみたかったことだったんだと気が付いたんです。

Base Ball Bearと語る、"実験バンド"の最新到達点『DIARY KEY』 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

 

丁寧に日常を切り取るという点では『新呼吸』に通じますが(もちろん『新呼吸』は日常だけではありませんが)、『DIARY KEY』で「ストーリー性」を省いたのは英断だったように思います。
ここについては、「コロナ禍」ということもあり、ストーリー性が無いほうが歌詞を受け取りやすくなった面もあると思います。そもそもの「生活様式」が変わったので。
今まで通りの「君と僕」の物語にしても、設定に文章を割いていても、やはり「物語そのものを受け入れられるのか」という問題が出てくるでしょうし。人それぞれの悩みや苦しみが生まれる時代に、ストーリー性のある歌詞や背中を押すような歌詞を歌っても、受け取ることは難しかったかもしれません。
例えば、「Henshin」はコロナ禍の日常を歌った曲ですが、散文的に語られるので、物語的ではなく、詩的にその日常を感じることができます。
「プールサイダー」も「キラキラへ飛び込め」と歌ってはいるものの、それはプールの水面のことを言っているようにも聴こえますし、次に来る歌詞が「楽しもうよ今を」なので、今の時代のことを歌っているようにも捉えられる。「キラキラ」に対して色んな含みを持たせて抽象化している。得意技でもあるダブルミーニングにはなっていますが、物語性がない/君と僕の話でないことで、色んな思いを散りばめながら聴けるのが良いなと思いました。
さらに付け加えるなら、背中を押すような前向きな曲も減っていて。
この辺りは、小出祐介含めたバンドのタームなのかもしれません。まあ、元々悩んでいる人に対して「それでいい」という言葉をかけていたので当然の帰結なのかもしれませんが。
小出祐介は各種のインタビューで「一番言わなきゃいけないこと以外は全部言っているアルバム」と『DIARY KEY』を評していますが、そこにリスナーの解釈を委ねています。
個人的には、小出祐介がよく言っている「歌詞は一枚絵であることが理想」という言葉を思い出します。『DIARY KEY』は「アルバムそのものが一枚絵」になっているような印象があるので。
「一番言わなきゃいけないこと以外は全部言ってる」「それを「言わない」というのがテーマのアルバム」ということですが、このアルバムは常に「死」のイメージが漂っているアルバムでもあるんですね。
死が漂っている一枚絵を見ているようなイメージ。そして、その一枚絵を見ている自分は生きている。そこに生を感じるという。この作品にはそんなイメージがあります。
インタビューでは、インタビュアーの「閉塞感からの脱出」というテーマに対して、それを言わないことがテーマと言っていますが、ここの「言わない」ことが、やはり『新呼吸』との違いとしてあるのだなと。

そして、そのくらいの温度感が心地よくもあります。

 

サウンドの面でも前作より変化があったと思います。
前作『C3』では、チャップマンスティックやラップ曲(今作にもありますが)でサウンド面の多様さを獲得していました。
ただ、それはギミック的に作られた部分が多く、今作はそうしたギミックに頼らずサウンドの多様さを感じることができます。
耳を引くのはギターの音色でしょうか。
これは抽象的な言い方になるかもしれませんが、「ジャカジャカ」と鳴るギターの音が少なくなり、「テレテレ/ピロピロ」と鳴るギターの音が増えた印象があります。
「DIARY KEY」や「海へ」が顕著でしょうか。
リードギターっぽい音がする」と言っていた人がいましたが、そういうことなのかもしれません*1
『DIARY KEY』が発売してすぐに行われた感想を読むスペースで、(おそらく音色の話だとは思いますが)「昔っぽい」という感想を小出祐介が意外そうに話していました。その感想がどこから来たのかは分かりませんが、やはりギターサウンドの違いが「昔っぽい」に結びついたのかなと推察します。
少し前の話になりますが、『LIVE IN LIVE(夏)』で披露した「Good bye」。ギターの音が4人時代と同じ音で「おや?」と思ったことがあって、よくよく聴いてみると、曲のテーマリフを小出祐介が1人で弾いているんですね。
だからなのか、4人時代の曲を3人で弾いているのにCDと比べて遜色ないんです。
3人時代の初めはついつい4人時代と比べて音が少ないなと思うことが多かったり、テーマリフみたいなものが少なくて物足りなかったりもしたのですが、段々と時間を経て4人時代のアレンジも馴れてきたような感触があり(それでも音数少ないなと思うことはありますがそれはもうしょうがない部分なので)、3人での音作りの変換が馴染んできた部分があったのかなと。

そして、そういった3人でのライブにおける変換を経ていって「テレテレ/ピロピロとしたギターサウンド」「昔っぽいサウンド」が今作っている音に還って表れたのかな、と。
昔のギターサウンド湯浅将平が作っていて(小出祐介のアイデアもあったでしょうが)、今のギターサウンド小出祐介が作っています。
当時の「青春の通過音」のようなギターサウンドは当時だけのものでしょうし、同じことをやらないのがこのバンドの特徴なので、それを求めてもいないのですが、湯浅将平の影のようなものは少し払拭できたのかなと思いました。と、同時にギターサウンドに色々な可能性が出てきたので嬉しくもありました。
ふと、もし『C3』で物足りなかったところがあったとしたら、それはギターの音色に関わるところだったのかもなと思ったりもしますが、『C3』は基礎編だったのでああいう作りになったんだろうなとも。
小出祐介は今作の音作りに関して「ニューウェーブ」と評していますが、元々、4人時代も含めてそういう資質を持った人たちが集まりだったのかもしれません。

 

ギターの音色に拘っているのには理由があります。
それは、ロックバンドのサウンドにおいて、アレンジ権を持つのはギターの音色だと思うからです。
というか、そのことを思い知らされるアルバムにもなりました。個人的にですが(笑)。
小出祐介は常々「ギターは上物に過ぎない」ということを言っています。究極はベースとドラムだけで成り立つと。

でもそれは、逆に言えば、ギターの音色こそ、ロックバンドのアレンジを支えているということにも繋がると思うんです。
もちろん、同期を入れたりすれば別です。キーボードが入ればキーボードがアレンジになり、ストリングスが入ればストリングスがアレンジに、ブラスが入ればブラスがアレンジになりますが、今のBase Ball Bearはそういった路線を取っていません。
やはりこれからも3人で音作りをしていくなら、ギターの音色は大切になっていくのかなと思います。

 

アルバムに対して色々言いたいことはあるのですが、長くなってきたので短くまとめます。

・シングル級のキャッチ―な曲を待ち望んではいましたが、それは「プールサイダー」で少し満足したこと。でもこれからポップでキャッチ―な曲(しかも3人だけの演奏で)も聴いてみたい。

・「_touch」が凄くよくて。特に気だるげに歌う小出祐介の歌声が今までにない感じがして、そこからの開放的なサビ。関根史織の「ホーリーロンリーマウンテン」ばりの聖女のようなコーラスワークも痺れて、新境地だなと興奮した。

・「生活PRISM feat. valknee」の「実は2021 まだ一度もないし 3021 信じられるかい? 気が付いたらディストピア 昔の動画 こんな近かったんだ 僕ら」という歌詞が凄いなと思って。ちゃんと今の時代を縦軸で捉えていて、縦軸で捉えているからこそ、この作品に広がりを生んでいて、この歌詞があるのとないのでは結構印象が違ったんじゃないかということ。

・「海へ」のシンプルなメロディーと、歌詞の凄さに驚いた話。

 

長くなってしまいましたがまとめとして。

本来、この記事は発売してすぐに書きたかったのですが、ここまでずれ込んだ結果、小出祐介の言葉を補完するような感じになってしまいました。

その言葉を引用して締めたいなと思います。

 

今は「近々、ギターが勝つ時代が来る」と思ってるんですよ。“どれだけギターの音がカッコいいか選手権”じゃないけど、ギターロックの時代がまた来るんじゃないかなと。この前、アジカン後藤正文さんと話したときに「最近はキッズのモードでパワーポップをやってる」みたいなことを言っていて。僕らも同じで、今はキッズでありたいという気持ちが強いんです。ドラムがバカスカ鳴ってて、ギターもドガーン!みたいな(笑)。「ギターロックって伝統芸能だな」と思うこともあるけど、絶対にこれが一番カッコいい。伝統芸能のよさをみんなが思い知ればいいなと思ってます。

小出祐介(Base Ball Bear)のルーツをたどる | アーティストの音楽履歴書 第41回 - 音楽ナタリー

 

『C3』は「これからどこに行くか楽しみなアルバム」でしたが、『DIARY KEY』は「これからはどこへでも行けるアルバム」だったような気がします。

自作も楽しみにしながら、Base Ball Bearの活動を追いかけたいと思います。

*1:あるいはオクターブ奏法と言っていた人もいたりと

M-1グランプリ2020を観て思う「興味を持たせる」ということ

録画で観ました。ネタだけ観ました。VTRや審査員のコメントは飛ばしました。

それくらいのモチベーションしか無かったのですが、見たら見たで色々と思うわけです。

準決勝も観ていませんし、ネタなんてキングオブコント以来です。それぞれのコンビが普段どんなものやっているかも分かってません。ただバラエティーは局地的に見るので人となりは知っているつもりです。

そういったことを前提にした方が以降の文章は読みやすいのかなと思います。

 

 

1.インディアス

しゃべくり漫才で始まりました。相変わらず田渕さんは縦横無尽にボケて喋って、「無茶するなあ」という感じでした。

これだけぐちゃぐちゃにするなら「コント漫才で良かったのに」って思いました。しゃべくり漫才でやる必要があるのかなと。

ネタの導入部分「昔、ヤンキーだった」、知ってる人でも知らない人でも「ん?」と思わせる引きがあるのに、そこからわけもなく引っ掻き回すから段々と興味を失っていく。もちろん、「しゃべくり漫才「なのに」そこからはみ出していく」笑いはあるとは思いますが、「そもそもしゃべくり漫才できてないじゃん」みたいな。そんな印象でした。

点数が高かったのでビックリしましたが。

 

2.東京ホテイソン

最初の笑いまで時間がかかるタイプの漫才でした。度胸が凄いなと。そこから笑いが持続せずに話がコロコロ転がります。真ん中ぐらいの転がり方はまだ分かるんですが、後半は「なんの話をしてるんだろう?」という感じでした。ワンパターンになることを嫌ったり、後半盛り上げようみたいな意思は伝わりましたが、お客さんが付いて来なかった印象があります。難しかったですね。

お客さんは「なぞかけ」を観たい。でも、その一番強い笑いは最初の部分。だから、話を転がしていくんですが、そこは特に興味はない。そんな感じでした。構造的な問題なのかもしれません。

 

3.ニューヨーク

「ラジオのフリートークにツッコミで茶々入れる」みたいなネタだなあと思いました。

一人がほとんど喋り、もう一人が適度にツッコむ。ただ、話がぶつ切りになるんですよね。興味のない話が続くのに話自体もぶつ切りになるのがしんどかったかなと。

ニューヨークさんは価値観で笑わせようとするタイプだと思っていて。だからこそ、そういう部分はキングオブコントの方が映えるし、コント漫才の方が良いと思っていたので、そういう意味では良い感じに裏切られた部分でもあります。

「時効なんで、時効なんで」とらしくフッておいて、「ウンチ食べたことあるんです」はバカバカしくて好きでした。

 

4.見取り図

大御所芸人になってマネージャーが付いたら、というネタ。スッとコントに入って、あとはボケに振り回されるという流れ。

ここまでの4組を観ていて、「掛け合わないなあ」と思いました。しゃべくり的な漫才が占めるのに、お互いがお互いのことを向いて喋らない。見取り図さんもボケが変なことしてツッコミが引っ張られてるだけ。

二人が会話をして、その中にボケ(変なこと)があるから漫才になるのに、一人が変なことをしてそれに意見してるだけ。反省(というフリ)もない、どんどんテンポで誤魔化して続けていく。こういう形のネタが多くないか? そう思いました。

 

5.おいでやすこが

「これもか」と思いました。また一方がボケ続けるだけか、と。

このネタは特にそういった部分が強く、まあそこを強みにしてるので、仕方ないとは思いますが、(年末のネタ番組にありそうな)ユニットコンビみたいなネタだなと思いました。実際そうなんですが。

おいでやす小田さんのテクニックでどうにかなってるなあと。

 

6.マヂカルラブリー

高給フレンチのマナーが心配というネタ。心配な人に色々と教えて、じゃあシミュレーションしてみよっかなという流れからドアをぶち壊してきた時は「最高!」と思いました。

フリも長いくらいには長い。だけどボケは一発目で爆笑を決める。すごいな、と。

ようやく漫才らしい漫才を観たなと思いました。ちゃんと掛け合いをしてるなと。

 

7.オズワルド

名前を変えたいというネタの導入から「興味ないなあ」という感じ。そしてボケは(話の流れとか関係なく)個性的。本筋とは関係ないところでテクニカルに笑いを取っていく。ずっと変な話をしていて、ただその変な話に現実味を持たせる作りでもない。笑いは起きるんですが、本筋の話がきちんと進まないのでネタ自体への興味も薄れていく。乗れませんでしたね。

ただ、テンションをヒートアップさせる感じは去年からの変化なのかなと。

 

8.アキナ

和牛さんみたいな丁寧なネタだなと思いました。二段構えで、必ず笑いを起こせるポイントも設計してある。ただ、お客さんが付いて行かなかった感じがありますね。

なんでなんでしょうか? 個人的には「実感が持てなかったんじゃないか」と。中年とも言い切れない落ち着きのある二人が、好きな女子に対してあれこれ言い合うというネタそのものが。「好きなん?」の後になにを言ってるかも聞きづらかったです。「絶対ない」って言ってたんですね。

 

9.錦鯉

うーん、またか……。みたいな。なんでこんな「スッと始まる」「一方的にボケ続ける」そういうネタが多いんだろう? と。

トータルテンボスさんの「忍びねえな」「かまわんよ」ってすごい発明だったんじゃないのかと思い始めました。あそこで二人の関係性がちらりと見えるわけです。そこら辺の関係性が見えずに始まるからややこしく見えるのかなあと。「コンビだから関係性あるでしょ」っていう話ではないと思うんです。そこはネタの中で見せるべきだと思うわけです。

自分たちの世界だけで楽しくやってるねって感じです。このネタだけの話ではないですが。

 

10.ウエストランド

なにか爆発が起きる気がしました。今までのネタの形とか、掛け合いで笑いを起こす感じを期待してて。なので、今までと同じ形なのにはビックリしました。そこを変えていたから決勝まで進出したのかと思っていたので。ちょっと難しそうでした。

そもそも「価値観」や「思想」で人を笑わせるのって難しいと思うんですよね。ニューヨークさんの話じゃないですが、そういったことをコントの物語として暗に伝えるならまだしも、しゃべくり漫才だと余計に難しくなります。

だって、「俺は違うと思うな」とか「この人、変な人」って思われたら終わりなわけですから。

でも、そういうのも全て出してやるんだという気概とか、滾っている井口さんをM-1で見せつけたのは良かったんじゃないかと思います。

 

最終決戦1.見取り図

なんか変なネタでした。「ここで笑いを取りたい」から、「こういう話の展開にしてる」みたいな作為的に見えるネタで、急に動きに対して例えツッコミが入ったり、なんか散漫なんですよね。ボケの組み立ても一つひとつがバラバラで纏まってない。別に纏まらなくても良いんですが、いろんな場所で笑いを取ると、「笑いを取りたいがための会話の流れ」にしか見えなくなってしまう。なにに集中して観たらいいのか分からない。だから大喜利大会みたいなのが始まる。

見取り図さんは往々にして(M-1では)そういうネタの傾向にありますが、作家さんとか入ってるのかなと。ボケ一つひとつはおもしろいけどバラバラで纏まっていないので、もっと一枚絵として呑み込みやすいネタの方が良いと思うんですが。

 

最終決戦2.マヂカルラブリー

フリも少なめにすぐ本ネタに入っていく感じは、ファーストラウンドを踏襲したおかげだったんでしょうか。とても見やすかったです。野田さんの演技もバカバカしさも必死さも凄かったです。優勝だなと思いました。

放送後に「あれが漫才なのか」みたいなことを言ってる人がいてビックリしましたが。

村上さんが心配して叫んでるのに、野田さんが心配以上の動きを繰り返すなんて、どう考えても漫才です。

お互いの熱量がぶつかるから、一人では生まれない、ありえない笑いのエネルギーが生まれるわけです。お互いの熱量をぶつけることなく一方的に熱量をぶつけるネタのなんと多いことか。それらのネタの方がよほど漫才からかけ離れた自己完結のピンネタだと思いますが。

 

最終決戦3.おいでやすこが

ユニットコンビの限界というか。もうこれ以上はこのフォーマットにはないな、という感じでした。頭のおかしい人、でも一応は自覚的だよという構成は取っていますが、そこから人間味が出るというわけでもなく、ただ頭のおかしい人への疑問を潰してるだけ。だから結局は頭のおかしい人のままで終わっていくという。ここら辺が(この形では)限界かなと思いました。

 

 

ネタやコンビについてあれこれ言いましたが、おそらく準決勝を審査してる審査員に問題があるのかなと。おそらく、大衆性のあるコンビは切って、オリジナリティ、個性の強いコンビを選んでいった結果、「漫才できてる?」みたいなネタが決勝に集合したのかなと思います。

まあ、別にそれでも良いわけですが、普段ネタ番組を観ない視聴者はどう思ったのかはちょっと気になりました。(裏番組関係なく)視聴率大丈夫? みたいな。

漫才は自由で、それはそれで正しいかと思いますが、あまりにも観客の方向を向かずに作られてるネタは、お笑いファンやコアが理解できる作家には受け入れやすいでしょうが、一般の視聴者は離れるだけだと思います。大衆的にコアな漫才を作るから難しいわけで。そういう意味では、ちょっとコアな向きが多かったかなと。入口が狭いネタが多い印象を受けました。

(一方的にボケて一方的にツッコむ形は)霜降りさんの影響なんでしょうか? でも、あそこまで潔いならともかくとして、中途半端に会話したり中途半端にずっと喋ってるなら、どちらかに寄せて分かりやすく作るべきなんじゃないのかなと。

「導入は導入として作るけど、あとは自分たちが面白いと思うボケだけで作るぜ」みたいな本筋から関係ないところでやたらとボケたがる傾向も多かったような。

ブラマヨさんだって、吉田さんの話自体は興味のない話かもしれませんが、それに小杉さんが真剣に熱量を持って聞くから、見ている人間も(二人の話への興味が)引っ張られるわけで。そういう掛け合い、関わり合いが薄いネタが多かったような気がします。

(ストーリーのあるコント漫才ならともかく)しゃべくり漫才なんだから、もうちょっとお互いのことを向いて喋ろうぜ。そして、ツッコまれたら、それは無視するんじゃなくて、ちゃんとフリにしようぜってことを言いたいだけなのかもしれません。

だって二人が喋っているから興味を持って観ているわけで。「おもしろければいい」と言われたらそうなのかもしれませんが、そこは自由に作る前の土壌の部分なんだからきちんとすべきだし、方向性を決めるならその方向性に則って作るべきだと思います。

(もしかしたらブラマヨさん的なしゃべくり漫才イデオロギー霜降りさん的な大喜利漫才のイデオロギーがごちゃまぜになっていたコンビが多かったのかもしれません)。

 

ジャルジャルさんだって、「漫才なのか?」みたいなことは言われてましたが、あれだって関係性があった上でのきちんとした「(ジャルジャルさん流の)漫才」ということは分かるはずです。それはやっぱり一方通行でなく、お互いがお互いに向いてるからおもしろいのであって、一方通行のような漫才が溢れていたのは、やっぱりちょっと見づらかったです(しつこいですが)。

まあ、でも、それは自分だけなのかもしれないという可能性は残しつつ……。

いつもふざけてる野田さんが涙をこらえてる姿にはグッときました。なにはともあれおつかれさまでした。

 

千鳥 解題

タイトルは適当です。

なんとなく観ていて思ったことを書きます。

 

千鳥のお二人を最初に観た時、「お笑いサイボーグ」みたいだな、と思いました。

お互いが服を選んで買う企画だったと思いますが、2人でとにかくツッコみまくる。2人でとにかく例えまくる。「なんかすごいな」と思うと同時に、ちょっと人間離れしていてサイボーグみたいだなと。そう思ったことが最初の印象でした。

単純に考えれば「実力がある」で話は終わるんですが、それ以外のなにかがあるような気がしました。

 

お二人を見続けていって改めて思ったことは、「お笑いサイボーグ」ではなく、より正確に言えば、お二人とも共通する部分で「お笑いリテラシーが高い」ということです。

なにを持って「お笑いリテラシーが高い」のかというと難しいところですが、つまり「どれだけ細かく笑いにできるか」みたいな感じに捉えてもらえればいいかなと。

千鳥のお二人は番組内で「(ボケが)弱いな」とか「(話が)長いな」とか、「オチてない」みたいなことを言って笑いを取ります。

今までも、そういった笑いの形はあったとは思いますが、それをより細かくやっている印象があります。そして、それがそのまま「お笑いリテラシーが高いな」と感じることに繋がるんです。

芸人やタレントがなにかをしてスベった時に、今までなら「スベってるな」とツッコんだり、なにか例えを用いてその状況を好転させたと思うんですが、千鳥の二人は「おもんない」と、その人自身を痛快に斬ってしまうところが新鮮だなと思いました。そして、ウケなかった理由を探すんです。仔細に。それが新しい感覚だなと思います。

ちょっと拡大解釈すると、今のテレビはYouTubeとよく比較されたりします。YouTuberの方々は動画を細かく編集したりしてますが、千鳥のお二人の細かく笑いを取る形は、そういったYouTube的な時代にも耐えうる存在なのかなとも。コンプライアンスの壁を越えつつ笑いが提供できているのは、やはり「お笑いリテラシーの高さ」故なのかなとも。ちょっと言い過ぎているかもしれませんが。

 

そういった千鳥お二人のバラエティーを観ていると、テレビでお笑い(バラエティー)が観られるようになった時代から今まで積み重ねて作られた「お笑いの方法論」の上で二人が遊んでいるような印象を受けます。

(漫才にしろ、コントにしろ、バラエティーにしろ)お笑いそのものが語られる時代になって久しいですが、千鳥二人の振る舞いも、そういった「時代」を感じさせるものかなと。

千鳥以下の世代の芸人は、そういった(千鳥の振る舞いの)イデオロギーの影響下にあるような気もします。千鳥は千鳥でダウンタウンの影響を受けているようですが、やっていることは少し違ってくるのかなという気もします。

千鳥お二人の場合は、時にバカバカしく、時にくだらないおもしろさに行くときがあります。その辺りは尊敬する志村さんや野生爆弾のくっきーさんの影響なのかなと思ったりもしますが、審議は分かりません。

千鳥お二人の「くだらなさ」は、「くだらない」で終わることなく、持ち前の「お笑いのリテラシーの高さ」で、「くだらなさ」をしっかりと「笑えるもの」に昇華する辺りが凄いなと。あとは、ちゃんとした笑える「くだらない」を出すのも凄いです。

「切れ味のあるお笑い」から「くだらないお笑い」までどちらにも振り切れることが、コンビとしての強さみたいなものにも繋がっていると感じます。

二人がどうやってそういったものを身に着けたのか、あるいは元々持っていたのか。

大阪時代から追いかけてる人は分かると思いますが、東京の番組で初めてそのおもしろさを知った人間としては分からない部分があります。そして、千鳥お二人も東京の番組にアジャストするのは時間が掛かった印象もあります。

自由度の高いロケ番組をきっかけにして今のポジションを獲得したと思いますが、そういった過程のなかで研がれた要素に上に挙げたことがあったのかなと。

テクニカルな部分も勿論ですが、すべてのどんな状況でも「笑い」を目指しているのが視聴者やお笑いファンから信頼を得ている要因になっているのかなと。

 

今のテレビバラエティーは飽和状態に入っていて、玉石混交しています。

千鳥のお二人は、『相席食堂』のような中途半端なタレントを切っていくような「切れ味のあるお笑い」スタイルの番組。『テレビ千鳥』のような深夜帯の「くだらないお笑い」スタイルの番組。色々な媒体で色々な番組を持っています

しかし、今のバラエティーの中心にある多く多くの番組には教養や大人なタレントとしての立ち回りを求められます。そういったバラエティーに対して、二人はどう魅力を出していくのか。というのは気になる部分ではあります。

ただ、千鳥お二人の場合は、今のバラエティーのスタイルにこだわる必要もないのかもしれません。

二人の「笑い」だけを追求する精神と、それを成り立たせることのできる「お笑いリテラシー」があれば、今のバラエティーに新しい風を吹かすことができると思います。そして、さらに多くの人に知られる存在になることができるんじゃないのかなとも思ってしまいます。

千鳥のお二人がテレビのど真ん中で大回しできるお笑い芸人になれることを切に願っております。

 

アンダラ九州シリーズレポに手直しを加えた話

以前からなぜかこのブログ内でアクセス数が高いこの記事。

なぜだろうと考えてみると、多分、この記事を読みに来る方というのは、「あの時になにが起きていたのか」というのを知りたい人がほとんどじゃないのかなと。そう思いました。

ただ、久しぶりに読んでみると、読みにくい部分が多くて驚きました。

こちら側も「九州シリーズでこういうことが起きていた」というのを知ってもらうために書いたので、読みに来てもらう人が多いのは嬉しいです。だけれど、あまりにも読みにくい、情報が少ないと、それはそれで物足りないだろうなと。

そう思ったので少し手直しを加えました。それでも時間を空けながら修正したので結果的にどうなったかは分かりません。また直すかもしれませんし。結果的に読みやすくなってればいいなあと思います。

 

当時を思い返しても「壮絶」だったなとは思います。毎公演毎公演、必ずといっていいほど重たい場面がありました。それを会場全体が受け止めて、どこか希望を探して終わる構成でした。
メンバーもそれぞれに色々な思いを抱えていたでしょうが、観に来ていたファンがメンバー以上に「アンダー」という曲や、アンダーメンバーを取り巻く状況、そしてそこに対して希望を探す難しさを感じていたように思います。
失望や絶望ではありませんが、「なんでこうなってしまったんだろう」という暗澹たる思いは抱えていたはずです。
今、読み返すと、卒業メンバーが増えたというのもあるでしょうが、後ろ髪を引く内容だなと、思わなくもないです。
希望を持って次の道に進むメンバーもいるので、あまりこういうものを残すのもどうかとは思いますが、ただ残す大切さもあると思うので書いたんでしょうね。

 

この時期は「もっとやりようがあったんじゃないのか?」と思うことは多かったです。

「アンダー」という曲にも、センターを選んだ人選にも。その二つの相互関係にも。これがベストでもベターでもないはずだ。そういう思いはあった気がします。
今はグループが肥大化・複雑化していく中で、グループそのものに期待することは少なくなっていきました。個人個人で頑張っていこう、という周期に入ったのかなと思います。

「箱推し」という言葉は今の乃木坂にはちょっと合わない気がします。ここまで「期別」がフィーチャーされるグループもないと思うので。

 

乃木坂の写真集が発売されるたびに、その内容を巡ってネットでは議論が巻き起こります。*1

際どい露出の写真などが公開されると、「肌を多く見せることを軽々しく捉えないでほしい」「一人の人間が水着になったりすることをよく考えてほしい」といったことが槍玉に上がります。

そこでいつも思い浮かぶのが、九州シリーズやアンダーメンバー、そして初期の乃木坂のことなんです。(初期の乃木坂は、特に『16人のプリンシパル』のことです)

『16人のプリンシパル』では過酷な現場に対して疲弊するメンバーが多く出ました。その結果、舞台そのものに対して拒否反応(トラウマ)を植え付けられるメンバーが出ることになってしました。

『アンダーメンバー』を観ていると、初期では明るく楽しそうに活動していたのに、アンダーの活動が長く、認められない時期が続いていった結果、自信をどんどん失くしていったようなメンバーを見かけることもありました。

『九州シリーズ』は言わずもがなだと思います。ただ、『16人のプリンシパル』が初期の大きな出来事として語られますが、『九州シリーズ』は5年も活動してきた結果としての出来事です。それはしっかりと検証しなければいけないような気もします。検証ってなんだよって話ですが。

 

乃木坂の舞台へのアプローチが称賛されるたびに、『16人のプリンシパル』を思い出します。明るく元気なメンバーや活動的なメンバーが称えられるたびに、加入当初よりも消極的になっていったメンバーを思い出します。

今ある輝きや明るさを大切にしたいとは思いつつ、不幸自慢のようにもなりますが、やはり過去起きた事実は忘れてはいけないんだろうなと思ってしまいます。

アイドルをアイドルとして、そのまま享受して賛美することが難しくなってしまったんですね。

アイドルではありますが、等しく同じ人間であると。とどのつまり、自分は綺麗なアイドルを絶賛して崇めるようなことはできない性格なんだろうと思います。

 

2017年の九州シリーズのことをこうやって書くのも、読みに来る人がいることも、未だに中元日芽香の存在を消化できていないのかもしれません。(消化する必要もないのですが)

そして、こうやってなにかを彼女に背負わせることも酷だなと同時に思います。もう次の道に進んでいるわけですから。(ただ、やはりどうしても、「なにかできたのではないか」とも思ってしまいます)

 

乃木坂のライブだけでも色々なライブを観てきました。しかし、折にふれて思いだす光景の一つに『アンダーライブ九州シリーズ』というのは確かに存在するんです。

*1:Twitter上での議論なので、議論の体を成している状態ではありませんが

Base Ball Bearがたどり着いた『C3』という基礎編

 

  『Chapter3』という意味合いが強いらしい。

 

 4人組ロックバンドとしてのメジャーアルバム1作を飾った『C』、ギターロックバンドとしての矜持を見せた『C2』、そして新たに3人体制となってから初のフルアルバム『C3』。
 バンドの歴史を辿らなくても、『C3』を聴くことはできる。しかも、一聴すると今までと違いはないように聴けたりもする。が、やはり小さくも大きくも違いはあるように思う。そして、その違いを知っている方が色んな聞こえ方がするんじゃないかと。
 簡単に言えば、Base Ball Bearの歴史を少し辿ってみようという試みだ。
 バンドの歴史を語るとしても色々な角度から語ることができるが、今回はサウンド面から語っていきたいと思う。そこを掘り下げることが今回のアルバムの話に結び付くはずだからだ。

 

 Base Ball Bearは2001年に結成、2016年の15周年を迎えるまでは4人組のロックバンドとして歩みを進めてきた。
 当時はギターが2人、ベースが1人、ドラムが1人の4人体制。2016年に起きたことはギターを務めていた湯浅将平の脱退だった。では、湯浅将平がいた頃のBase Ball Bearとはどんなバンドだったか?

 

 ギターの湯浅将平がいた時代のBase Ball Bearを一言で言うならば「青春ギターロックバンド」と言ってもいいようなバンドだった。(個々の解釈はあるだろうが、大まかに言えばこうだろう)
 作詞作曲を担う小出祐介が生み出す詞世界と曲世界、そこに彩りを加える湯浅のギターが持ち味のバンドだった。

 ギターのフレーズをどちらが考えているかは分からない。が、4人時代の持ち味を支えていたのは間違いなく湯浅将平のギターだったろう。
 湯浅はどんな風にバンドに彩りを加えていたか。湯浅脱退時にサポートギターとして入っていたフルカワユタカに言わせれば、「感覚でやっていた」のが彼のセンスだったという。

 

 

フルカワ:湯浅はメロディのオクターブ奏法でやっていて、それがいいメロディだったりして、ベボベの曲の色付けになるんです。昔の甘酸っぱい通過音みたいなテンションを、あいつはナチュラルにやっていたんです。
フルカワユタカ×Base Ball Bear・小出祐介 いわくつきの出会いからサポートでの共演、互いの音楽観まで語り尽くす

 


 インディーズ時代やメジャー初期は、その時代にしか出せない甘酸っぱい感じや爽やかな感じをギターが彩っている。
 初期衝動のような時期を抜けて、Base Ball Bear玉井健二氏と出会う。以降、玉井健二氏はプロデューサーとして長く関わっていくことになる。
 「名前のない感覚」という衝動に突き動かされていた小出祐介にとっては大きな出会いだった。

 


小出 自分の中に渦巻いてるものがあって、それをがむしゃらにアウトプットしていた。その一方ですごく理性的に切り取っていた感じもあって。で、2ndアルバム(「十七歳」/ 2007年12月リリース)のタイミングでプロデューサーの玉井健二さんと出会って。玉井さんと僕の関係性って、プロデューサーとプロデュースされる人というよりは、師匠と弟子に近いものだと思うんですね。
(中略)
玉井さんと初めて会ったときに、玉井さんが僕に言ってくれたのは「君は名前のない感覚に突き動かされている。でも、それはすごくいい感覚だよ」みたいなことで。「言葉や音の選び方において、自分ではコントロールできない渦巻いている何かがあるにもかかわらず、それをうまく理性的に切り取って形にしている」と。「それができているから、こういう手法もあるし、こういう切り取り方もある。その技巧的な部分を磨けば、より曲が広がっていくから。それを僕が教えてあげる」っていう関係性だったんです。(Base Ball Bear「バンドBのベスト」&「PERFECT BLUE」インタビュー

 


 玉井氏からJポップ的な引き出しや音楽的な広がりを薫陶された彼らは2ndアルバム『十七歳』3rdアルバム『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』でポップ路線に少し傾く。
 同時期、Base Ball Bearは映画主題歌やCMソング、アニメのOPというタイアップ作品を次々に発売して人気を拡大させ、ついには日本武道館の地に立つことにまで成長する。
 しかし、その積み重ねた自信は2010年の日本武道館公演で脆くも崩れることになる。
 日本武道館での公演を小出は後にこう回想する。

 

 

小出:僕らも初の武道館公演が2010年の正月にあったんですけど、そこで一度挫折したんですよ。学生時代からの地続きでずっとやってきて、大きくはないけどたぶん波には乗っていたんだと思うんです。それが、ライブの手応えが良くなくて目が醒めたというか、「俺、武道館で何やってんだろ」みたいな感じになっちゃって。それから、ライブのやり方がわからなくなるほどナーバスになって。その後、2011年の震災とツアーが重なってストイックになりすぎた結果、メンバーの仲がぐちゃぐちゃになって、空中分解寸前までいったんですけど、なんとか4人で踏ん張って、作品を作って、自分たちの苦悩ごと開放していくような方向に向かった結果、危機を脱することができたんです。

フルカワユタカ×Base Ball Bear・小出祐介 いわくつきの出会いからサポートでの共演、互いの音楽観まで語り尽くす

 

 


 2010年の年始に行った武道館公演で「目が醒めた」小出祐介は、自分たちの音楽に向き合うことを決める。その年の9月、Base Ball Bearは3.5枚目と称したアルバム『CYPRESS GIRLS』と『DETECTIVE BOYS』を2枚同時発売する。
 このアルバムには公開プリプロダクションという意味合いがあり、初のセルフプロデュースをすることで「今の自分たち」を作品として世に送り出した。
 そして迎えた2011年。バンドは結成10周年を迎える年だった。「10th Anniversary」をかがげて全国を回るはずが、東日本大震災の影響で公演の一部を見合わせ、中止となる会場も出た。音楽をやる意義を見出すのも難しい状況で、とにかく真面目にやらなくてはいけない空気感はバンドをどんどんストイックな状況へ向かわせ、アルバムの制作も重なり、メンバーはぶつかった。それが先述したインタビューの内容である。

 

 バンドは苦しい状況をを乗り越えて4thアルバム『新呼吸』を発売する。ここからギターロックバンドとしてのBase Ball Bearはまた一つ変化していく。
 2012年、2013年。シングル『PERFECT BLUE』を除けば、ミニアルバム『初恋』と『THE CUT』はコラボを主とした作品になった。これは自分たちの幅を広げるためでもあったはずだ。広げた音楽の幅をアルバムとして結実させた5thアルバム『二十九歳』は73分もの大作となった。
 『新呼吸』を発売した2011年から『二十九歳』を発売した2014年までの過程でフロントマンの小出祐介が考えていたのは自分たちのギターロックバンドとしての在り方だった。
 巷のギターロックシーンではフェス向けの楽曲に溢れていて、ある種それがテンプレート化されている。そして、ギターロックはある程度まで行けば結局はうるさくなるしかないのでは? 小出祐介は度々雑誌のインタビューや対談でギターロックの在り方を語っていた。

 

 様々な思惑で制作された『二十九歳』。サウンド面で言えば、ギターロックをやり切るということがコンセプトとしてあった。ギターロックを考え抜いたバンドが作った16曲には様々なオマージュが散りばめられた。そして、歌詞の面で言えば「普通」ということをテーマにして、とにかくコンセプト色の強いアルバムになった。
 同時期、Base Ball Bearはバンドとしてリズム隊が強さを持ち始める。特にベース関根史織の急成長にはメンバーも驚いたという。
 『二十九歳』の1年後にリリースされた6thアルバム『C2』は、結果的にBase Ball Bearの4人で制作した最後のアルバムになった。

 

 『C2』は重厚な作品だ。今までにはなかったファンクな感じ、ブラックミュージックのノリを加えたというアルバムは、今までの経験値に裏打ちされた充実の一作。今まで武器でもあり強みでもあったギターサウンドは(今までよりは)主張が抑えられ、カッティングが多くなり、4人全体のグルーヴワークで聴かせる曲が増えていった。
 制作時のエピソードとしてギター湯浅将平の不調が小出祐介の口から語られている。Base Ball Bearというバンドは基本的にすべてのアレンジを各メンバーに委ねられていることが多いが、湯浅将平のギターのアレンジが上手くいかないことが多かったという。それもあってか『C2』の表記の編曲欄にはBase Ball Bearではなく小出祐介単体の名前が表記されている。

 

 バンド充実の作品、『C2』を発売した3か月後。2016年のBase Ball Bearは「結成15周年」「メジャーデビュー10周年」という2つの周年イヤーを迎えていた。今後の方針を含めた話し合いをする予定だったスタジオ。そこに湯浅将平は現れなかった。連絡を取ろうとするスタッフやメンバーだったが、一向に連絡が取れることはなかった。
 後日、第三者を通じて湯浅と連絡を取ることができたが、本人からは今後バンドとして活動していくことができないという旨が伝えられ、事務所は「脱退」という形をとることになった。
 高校生の文化祭を機に結成したBase Ball Bear。15年という歴史を積み重ねたバンドから、湯浅はなにも言わずにいなくなってしまった。
 バンドは岐路に立たされる。残されたメンバーが出した答えは、「Base Ball Bearを続ける」ということだった。4人で回るはずだったツアーにはサポートメンバーとしてフルカワユタカが入り、バンドを活動休止することなく全国を回った。

 

 元々口下手だった湯浅がどんな理由で脱退をしたのかは分からない。
 メンバーの空気感が嫌になったのか。ギターや音楽に対しての情熱が失われたのか。自分のギターが必要ないと思ったのか。将来に対しての不安が生まれたのか。
 理由は枚挙にいとまないが、真実というものは分からない。湯浅将平というギタリストが脱退した。その事実しか残るものはない。

 

 スリーピースバンドになったBase Ball Bearは2017年に7thアルバムとなる『光源』を発売する。初めて3人で作った作品の制作を小出祐介は当時のインタビューでこう話している。

 

 

今回の作品をレコーディングするとき、圧倒的に最優先したのは、僕ら3人が心の底から「楽しい!」「新鮮!」って思えることをやろうってことで。それだけでアルバム1枚突っ走ったような作品なんですよ。とにかく今の自分たちが本当に欲しているもの、フレッシュに感じるものを作りたかった。1曲目の「すべては君のせいで」とかまさにそうで、サウンドのフレッシュさを目指すとかじゃなくて、演奏している僕らがもっともフレッシュにできる曲、「このコード進行、ウケる!」とか「このソロ、ウケる!」とか「なにこの音色(笑)」とか、そういう感覚を一番大切にしていて。音楽を作りながら、僕らが超笑っているような感じ。

Base Ball Bear「光源」インタビュー

 

 

 

小出 まず最初に街スタ(街中にある一般的なスタジオ)に入って3人で曲を作ると。それぞれが曲を持ち帰ってフレーズを決めてデータを送り合う。僕が制作ソフトを使って全体を組み立てる。そこからまた街スタに入って見直しをして、フルサイズを作り切る。そのあとデモもフルサイズにする。この段階でもうシンセなども入れてある。次は、レコーディングスタジオでそれぞれのパートの音を生音に差し替えて、歌もちゃんと録って、最終的なデモができる。そして、本番のレコーディングに入るんですが、前に録った最終デモのデータを使いながら録っていけるんですよね。つまり曲の全貌を把握しながら本番を録れるので、僕らもエンジニアさんもイメージがブレないわけです。そんな感じで、最初の曲作りから最後のレコーディングまで、まるで油絵を描いていくようだったんです。ちょっとずつ色を塗り固めていくみたいな。

Base Ball Bearがたどり着いた“2周目の青春”。3人体制で送り出すNEWフルアルバム『光源』を語る!

 

 

 

 「とにかくフレッシュに」「あえて外部の音も導入する」。3人になって体質変化が起きたことで『光源』は今まで以上に新鮮味のあるアルバムになった。サウンド面で言えば、全8曲中5曲にプログラミングが入っている。しかし、電子音まみれというわけでもない。バンド側のオーダーとしては「ちょっと古い感じ」「錆びついた感じ」といったこだわりもあり、スパイス程度に入れるにとどまった。アレンジは全て小出祐介が担当し、サブプロデューサー(役職上はCo-Produced)として玉井健二氏が入る編成になった。
 歌詞面で言えば、リアルタイムで感じていることを歌にするのではなく、「二度目の青春」をテーマにして過去を回想するような形で綴られているものが多くなった。
1曲目の「すべては君のせいで」ではキラキラとしたシンセサイザーが要所要所に入っていて、進化したBase Ball Bearの新たな青春像を示した。

 

 しかし、この路線はこの一作で区切りをつける。
 スリーピースバンドとしての道を歩むことに決めたBase Ball Bearは、ソリッドなギターロック、ギターポップを追及するために外部の音色を入れることをやめた。
 そして、2つのツアーを経た2020年。2年ぶりに発売したBase Ball Bearにとって8枚目のアルバム『C3』は、バンドが武器も鎧も脱ぎ捨てて、身のままで作り出したアルバムとなった。

 


プリミティブの意味を知る、Base Ball Bear『C3』感想

 

『C3』を聴いてはじめに思ったのは「プリミティブとはこういうことか」ということです。
小出祐介がことあるごとにインタビューで言っていたような印象がある「プリミティブ」という言葉、素材や素質といった意味らしいんですが、それはそのままこのアルバムを象徴しているなと思いました。
青春を感じさせていた湯浅将平のギターの音色はそこになく、プロデューサーとして関わっていた玉井さんもそこにはいない。本当に素のまま。プリミティブというのはこういうことかと。
一聴するとなにも変わっていないようにも思えます。鳴っているのは、ギターの音、ベースの音、ドラムの音、それだけなので。ただ、「ここまで変わったか」とも思えるんです。それが不思議と面白いなと。
今のBase Ball Bearに武器という武器はないのかもしれません。ただ、今のBase Ball Bearはどこまでも行けるのかもしれないと感じました。(スタンダード性だけなら世界にもいけるのかなあ、なんて)
最近はバンドサウンド+αが求められていて、そこにどんなアレンジが加えられるかが今風な音楽だと思います。ブラス、ストリングス、ピアノ、シンセ。でもそういうのじゃないんだなと。(なんならそれは『光源』でやってる)
「自分たちはバンドサウンドがやりたいんじゃなくて、ロックバンドでありたいんだ」と。そんなことを言っているようなアルバムだと思いました。
関根さんや堀之内さんが作曲に関わっているのも特徴で、そういったバンドの主体性が歌詞にも反映してるところは少し興味深く。ただ、今歌いたいことを歌っているというのは変わらずに、小出祐介小出祐介なんだなと。
Base Ball Bearは体系的に聴くのが一番だと思っていて。(基本的にどのアーティストもそうだとは思いますが)今後もっと広く知られるためにどうしていくかは、今現在の問題ではなく永遠に続く問題だとは思いますが、そこのところはずっと気になっていた部分でした。
(なんとなく書きはじめたら収拾つかなくなった)上にあるBase Ball Bearの自分的史観は、今気になったリスナーが「Base Ball Bear」というバンドの歴史を知る手助けになってくれればいいなあと思いながら書いてました。そうして歴史を知ればより『C3』や他のアルバムも色んな感覚で聴けると思うので。
散々書き続けてきた『C3』はスリーピースバンドになったBase Ball Bearにとって基礎編であり、今後はまた色々とその時々で変化していくのでしょう。
それを楽しみに待っていたいと思います。

2019年の川崎フロンターレを印象だけで総括してみる

Jリーグの2020年シーズンがもうすぐ始まろうとしています。

「三連覇」という目標を掲げましたが、結果的はリーグ戦4位。

ルヴァンカップの頂に立つことはできましたが、2020年はてさてどうなることやら……といったところでしょうか。

色々あった2019年シーズンですが、今回は「戦略的・戦術的」とか「サポーター的」とかそういうことではなく、あくまで諸々の印象を文章にしていこうかなと。

 

といっても、フロンターレのなにが問題でなにが問題じゃなかったのか。そこの辺りを見極めるのは簡単じゃないような気がします。

複雑なので、どの角度から話を進めるかは迷うところですが、まず1シーズンを通して試合中に思ったこと「3バックとの相性の悪さ」からいきましょう。

 

【3バックとの相性の悪さ】

フロンターレのサッカーは『和式』と括られることが多く、今季はマリノスヴィッセルといった『洋式』と括られるクラブとの試合で印象の強い負け方を重ねました。

マリノスヴィッセルが洋式かは置いておいて)その負け方により、「和式フロンターレが洋式に弱い」というようなイメージを持たれていますが、個人的には「洋式」ではなく、「3バック」との相性が悪いと思うんですね。

だから、マリノスヴィッセルだけではなく、トリニータコンサドーレとの試合も良くなかった印象を持っています。勝ちはしたけど自分たちのやり方でやれていたのか? という意味ですね。

逆に言えば、首位決戦と謳われたFC東京戦なんかはベストゲームと言えるくらいの勝ち方でしたが、相手のフォーメーションはフラットな4-4-2でした。

これはデータから見て数字でも証明できるかもしれませんが、勝ってる試合もあるので微妙なデータになるはずです。

 

フロンターレのボール非保持のフォーメーションは4-4-2です。基本的には前の2枚が気持ちでボールへ突撃して、なんとかGKまでボールを戻させてゴールキックがラインを越えて自分たちのボールになる。または横に広げられたところをSHが刈り取る。そんなボール奪取のイメージがあります。ただ、これは相手のセンターバックが2枚で、ボランチも降りてこないときに限られてます。

相手が3バックで3枚でボールを運んでいるときは、自分たちは前に2枚しかいません。どちらのSHがいくかも曖昧なまま、どんどんボールを運ばれて、あわや失点。みたいなシーンは多かったような気がします。

だから今季のフロンターレを一言で表すなら、「配置でミスって、効率悪く攻めて、効率良く攻められる。そして、そのまま失点して、カウンターを受け続ける。質でなんとか出来ればいいけど、質も落ちてるのでボールは安定して回らない。選手を替えてもグダグダは続いて、最後はお決まりファイヤーフォーメーション。」

みたいな感じでした。まあ、一言ではありませんが。

そもそも優勝した2017年、2018年のフロンターレの特徴は「ショートカウンターによる得点機会の増加」と「困ったときはボール保持かセットプレー」であって。先制して逃げ切ることが最大の勝ちパターンだったと思います。

ボールを保持して綺麗に回すパスサッカーでの得点なんて、ほとんどはおまけみたいなもので、ほとんどはショートカウンターや困ったときの谷口彰吾(セットプレー)みたいな印象はあります。

だから、ショートカウンターをするためのボールをどこで奪うのかが整理されていない以上は、そりゃあ点も取れないなと。同じ勝ち方は3年も続かないんだなあ、と思いながら観ていました。

いつもの自分たちのサッカーを繰り出せない上に怪我人増加でスタメンを定着できず、感覚的に攻撃を繋げることもできませんでした。ただ、あくまでもそこは副産物的な要素で、いつもの勝ちパターンではなかった気もしています。

 

【誰を中心としたチームにするのか ~フロンターレ物語~】

大島僚太がチームの中心だ」「家長は機能してるのか」「ダミアンをもっとスタメンで使うべきだ」「悠はベンチスタートでいいんじゃないか」

色々な論調が生まれた2019年シーズンでした。まあ、すべてを纏めるとそれらの選手をオーガナイズできなかった監督に問題が……。みたいな話になるのでアレですが。

ここで言いたいのはピッチレベルでのチーム視点でも、サポーターが応援し続けているクラブ視点でも含めた話だとは思いますが、「誰がチームの中心になるのか?」という点です。

フロンターレを追いかけていると、結構この部分の問題が大きいんです。ピッチ内での影響力と、ピッチ外の影響力をどう見るか、みたいなことなんですが。

中村憲剛小林悠。この2人はまず影響力が高いです。憲剛はもちろんフロンターレの物語そのものみたいなところはありますし、悠はリーグ頂点まで引っ張ってくれた勝負強いキャプテンという印象もあります。そこに家長昭博まで加わってくると、「もう、多すぎるよ」って感じですね。

等々力へ行くと感じるのは、憲剛や悠の人気の強さです。2人への信頼度は高く、ベンチから途中で出場しようとするものなら「よ、待ってました」と言わんばかりの歓声が生まれます。同じような活躍をした選手がいたとしても、優勝に貢献した選手への信頼度はそれらの選手とは一線を画しているような気すらします。

彼らのスポーツ選手としての物語はフロンターレの物語と重なっている部分が多く、フロンターレの物語は今後も続きますが、彼らの物語がまだ最終章に入っていない。「世代交代」と言えばやや乱暴ですが、そういった、見続けてきた応援し続けてきたから来る問題は解消が容易ではないなと思ってしまいますね。

憲剛は自分の子供が自分が選手だと認識できるまでは続けたいと言っています。悠のその辺りは分かりませんが、2020年も得点王を狙いに行きたいと言っています。

フロンターレを優勝させる」という物語がずっと続いていました。10年くらいなんだかんだで続いていたと思います。それが2017年の初優勝で一区切りつくことができました。そして、その物語が終わったことで、次の物語が新しくスタートするわけですが、優勝への物語を導いてくれた選手が次の物語にどれだけ加担できるんだろうかと。

憲剛や悠を挙げたのは、彼らがフロンターレサポーターにとって影響力が強いというのもそうですが、彼らは前線の選手だからこそ、彼らのプレーそのものが得点や勝ち点に直結するからです。

そして、2人とも選手としてのパフォーマンスは下り坂を迎えようしている気がします。

ただ、じゃあとっとと放出したほうがいいのかと言われれば、生え抜きに甘いクラブ的にも、最初からずっと応援してきたサポーター的にも、心情は「フロンターレで最後を飾ってほしい」という願いが強いと思います。

長々と書いていて結論は出ないんですが(笑)、今までにはなかった「優勝した後の世界線」にいるんだなと実感するところでもあります。「選手との幸福な別れ方」ってなんなんだろう……そんなことを考えてしまいます。

ここは監督だけではなく、クラブやサポーターも共に考えなければいけばい部分なのかなと。

 

【鬼木フロンターレ

監督が叩かれることが多かった2019年シーズン。じゃあ鬼木さんのサッカーってどういうものなんだろう? と考える事も多かったです。

結局、今も「風間サッカー」の延長線上にいることは確かだと思います。鬼木さんは風間さんのサッカーの「整理」をしただけ、という言い方もできるはずです。撤退守備できないから即時奪回守備みたいな価値観は植え込みましたが、鬼木さんの目指すサッカーがそれだ! と胸を張って答えることもできません。鬼木さんの志向するサッカーはどんなものなのか?

2020シーズンを戦っていくにあたって新しいコーチが2人加わりましたが、ここの部分は要注目だなと思いました。鬼木さんの人心掌握や整える感じを、2人のコーチが戦術的な役回りでサポートすれば、2019年のような停滞感は薄まるのではないかという期待を持つこともできます。

 

個人的に今のフロンターレのサッカーは2017年から変わっている部分はほとんどなく、その鎧が年々、相手の対策も踏まえて削がれていってるような印象があります。

フォーメーションが変わらずに、メンバーがどんどん変わっていけば、自ずと勝ち点が増えないのも当然なのかなと。(だからいい加減、4-2-3-1以外も観たくなります)

2020シーズンがどうなるかは分かりませんが、引き続き見守っていきたいなと思います。