2003年 生活クラブ生活協同組合運動の実践と展望

生活クラブ生活協同組合運動の実践と展望
ワーカーズコレクティブの試みの20年後の検証―
横浜国立大学環境情報学府博士過程前期2年 榊原裕美

この論文は、生活クラブ生協の運動の興隆と日本が性別分業社会として戦後社会があったことの関係性を照射し、批判的に捕らえ返すという視点で、ジェンダー格差の激しさの裏返しとしての生協運動から脱して、21世紀型ジェンダー公正な循環型社会へ担い手となる生活クラブ生協運動の展望をワーカーズ・コレクティブに見出だすための論証である。
 そのために、ワーカーズ・コレクティブの草創期である1980年代の社会的背景として、主にフェミニズムをめぐる、あるいはフェミニズムの視点での時代状況を描く中で、その到達点と限界をあげたい。20年を経た現在のワーカーズ・コレクティブの実例を見る中で、現時点からの可能性や課題を考察したいと思う。その際、筆者が、生活クラブ生協の職員として生きた期間がこのテーマと重なり、この論証自身が自分自身の人生の格闘とも交差するという手法の特異さが、この論文の一つの大きな特徴である。

第1章 ワーカーズ・コレクティブの草創期
はじめに     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1.生活クラブ生協の80年代    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
2.女性の時代としての80年代 
1)エコロジー運動の中のフェミニズム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
2)主婦モデルとは何か―専業主婦モデルから兼業主婦モデルへ ・・・・・・・・15
3) 兼業主婦モデルへの適合としてのワーカーズ・コレクティブ  ・・・・・・・23
4)社縁社会から総撤退論の検証  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
5)職員のワーカーズ・コレクティブ化の可能性    ・・・・・・・・・・・・35

第2章 ワーカーズ・コレクティブの現在
1.成功するワーカーズ・コレクティブの事例
 1)配送ワーカーズ・コレクティブ 轍 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
 2)あみ 住まいの相談室      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
 3)託児室すくすく        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
 4)福祉ワーカーズ・コレクティブ「想」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
 5)印刷ワーカーズ・コレクティブパピエ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・81

2.ワーカーズ・コレクティブの課題と可能性・・・・・・・・・・・・・・・・・・92

はじめに―

生活クラブ生協についての研究としては早稲田大学佐藤慶幸氏の、3部の研究書1)がある。この中で私の所属した生活クラブ生協神奈川について、詳細な調査を元にした丹念な考察がされている。
 生活クラブ生協の活動を現代社会における新しいアソシエーションのあり方として注目し、その実践を詳述した労作だが、特に90年代に刊行されたものでは、フェミニズム的な視点からの問題提起に少なからぬ紙幅を割いている。
 例えば95年の共著では、
生活クラブ生協を創り上げた人たちが社会運動の拡大対象として選んだのは、『昼間は家にいないサラリーマン化が進んでいる中で、全日制市民である主婦こそ、地域社会の主役である』と考えたからであるという。だが社会運動を組織するオーガナイザーの視点からみると、彼らは運動を地域社会に根付かせるために、地域社会の中で大部分を過ごす主婦たちを運動の担い手として調達したとみることができる。つまり生活クラブ生協では、運動体の主要な構成要素が性別役割分業システムによって供給されている。」(?P319「女性職員から見た専従労働と生協運動」 今井千恵 )

 さらに97年の著書の中で佐藤氏はあまりにも端的に以下を命題として出した。

「主婦たちの生協運動は、産業社会の発展を支えてきた性別役割分業システムを前提にして行われてきた。」(?P219)

生活クラブ生協は主婦達を全日制市民とよぶ。生活クラブ生協創始者たちは,女性たちの目覚めを異口同音にたたえる。「最初主婦達は,生活クラブ生協の加入用紙に夫の名前を書こうとするが、ここには自分の名前を書くのだといわれ、はじめて自分の名前を書く人が多かった。しかし、そのことで女性たちは○○の妻や△△ちゃんのお母さんじゃなくて名前のある一人の人格としての自分を自覚するようになる。そして彼女達は水を得た魚のように活動を始める」云々。
 これは女性が主体性を獲得する運動として生活クラブ生協運動があったこと、つまり女性解放運動でもあったことの証左になるエピソードだろうか。夫の存在が家庭から消え、家族の「生活部分」の全面担当者としての妻の立場の主体性の確立という意味、つまりは、これは男女の性別分業・生活分離が進んだことの一現象に過ぎないのではないか。たしかに、主婦たちの「市民としての主体性」は発揮された。しかしそれは「人権」ではなく「妻の“座権”」の強化でしかなかったと思えてならない。
男性が戦地に出かけ「主体的に」銃後をになった戦時中のある種「主体的な」婦人運動と重なる、と見るのは、あまりにうがちすぎであろうか。
次のエピソードもまた、その主体性に留保をつける。

 「どうして自然を壊すのかしら。自然を守る活動をもっとすべきだと思う」と言う生協組合員に、「もし夫の会社がその自然破壊に関与していても活動する?」と聞いたら「しない」と即座に返事が返ってきた。

夫の家族賃金に依拠している限り本当のオルタナティブは実現しないのではないか。なぜなら,一人の男性労働者に家族分払い、それが年々上昇するという年功序列の生活給賃金の仕組みは高度成長期にしか成り立たない制度であるからだ。大量生産大量消費が続くことが,命や自然を守る主婦の運動の前提になっているとするならば、大きな矛盾を抱えていることになる。
 そして幸か不幸か時代は今や経済成長しなくなって久しい。そして年功序列賃金も、終身雇用も、従来のままではいられなくなっている。また企業は、その世界に誇った社内結束が、無残なまでにほころび始め、昨今の詐称事件などで、自滅の道を歩んでいる。
生活クラブ生協では、自らを高度経済成長の鬼っ子と称している。が、実は戦後ジェンダー社会の申し子だったのではないか。
 この論文はそれがどのように申し子であったかを明らかにするとともに、それを超える可能性を見つけるものとして書かれた。
 その理由は何よりも私自身がそれを乗り越えようと思い、15年間子持ち女性職員として生活クラブ生協に関わったことによる。しかし、女性労働者と主婦の関係は微妙なものであると指摘せずにいられない。
総評の女性運動を研究者する滋賀大学の山田和代氏は、総評運動のなかの「総評婦人対策部」と「総評主婦の会」の二つの女性組織についてその賃金問題の向き合い方の微妙さを描き出した2)。彼女は、「主婦の会」が最初は夫の低賃金を問題にしていた(それは婦人部のILO100号条約批准運動にみる男女同一労働同一賃金格差是正と微妙な齟齬があるはずの構造にある)のが、主婦たちが内職やパートに出るようになって、労働者としての自らの利益を要求・主張するに至ったことによって、二つの女性組織が共通の認識基盤に立脚する可能性がもたらされたという点に大きな意味を見出している。主婦と働く女性の分断を超えていく“契機”をそこに見ているのである。もちろんそれは“契機”に過ぎず、主婦の内職やパートは新たな「主婦モデル」の拡大にすぎないという捕らえ方もできる。その側面の分析は大変に重要である。そして実際この論文の前段でその検証をしている。しかし私はここでは山田氏の希望的観測に習いたいと思う。
 この論文では、生活クラブ生協の中で掲げられた、働くことをテーマにしたワーカーズ・コレクティブの位置付けと実践を取り上げてみた。その際よく言われる、ワーカーズ・コレクティブの、産業社会に対抗的な地域の有用生産を組織化する労働と言う側面はあえて自明のこととして明示を避けた。ジェンダー補完的である限り、真に産業社会に対抗できているとはいえない、としてここではジェンダーの視点にあえてこだわった。実際20年目を迎えたワーカーズ・コレクティブの聞き取り調査を通じてその試みが結実しつつあることを実感した。生活クラブ生協が始めたワーカーズ・コレクティブ運動の限界点、到達点を明らかにする中で、私はワーカーズ・コレクティブに性別役割分業とそれに基づくシステムを変えていく可能性を見ていきたいと思う。

それが、高度成長の鬼っ子である、と、産業社会への対抗実践と自ら自認しながら、その実ジェンダー社会の申し子として「主婦モデル」を通して産業社会に寄生していた実態を、中から変えていける契機としての生活クラブ生協の新たな展望である。そしてそれは、世界大の変動によって、日本のこれまでのシステムが激変し始めているグローバリゼーションの時代―世界的規模での「労働力の女性化」3)にあらわれるような―に新しい意味を持ち始めるはずであると思う。
 

第1章ワーカーズ・コレクティブの草創期
1.生活クラブ生協の80年代
68年に東京で、71年に神奈川で設立、現在15都道府県、組合員25万人の生活クラブ生協は、1980年代に大きな転機を迎えた。

日本が未曾有の高度経済発展を経た70年代、公害問題の激化が、あまりにも短期間に達成された高度成長の暗部としてクローズアップされた。水俣病四日市ゼンソク、イタイイタイ病をはじめ各都市の大気汚染問題や騒音問題、水質汚染の問題など経済大国と同時に公害大国の名も冠するようになった。それまで手放しで礼賛された経済成長への疑問が大きくなった。住民の生命や生活を省みない経済利益の追求により、甚大な被害が現れ、当事者の告発がメディアや司法にととりあげられ企業は社会的な批判を浴びた。
 冷戦体制下のアメリカの経済パートナーとしての位置づけによるさまざまな経済的政治的配慮、国家官僚主導の産業振興策など日本国内の政治経済の仕組み、滅私奉公的な集団的忠誠心の戦争から経済へ誘導、終身雇用・年功序列企業別組合という協調的な労使関係、それらが総合されてつくられる極端な企業中心社会の恩恵を、人々は享受するとともにその歪みをもたらしたものを目にしないわけに行かなくなった。
各地の公害を告発する水俣などの住民運動は、地域に密着し、現代の社会構造自身を鋭く問うラジカルなエコロジー思想を生みだしていった。
同時に食べ物への不満も高まった。生産の側の都合でいれられる食品添加物や農薬、不自然な加工などのない、安心安全な食べ物を求める消費者運動が各地に起ってきた。
生活クラブ生協は、経済効率を優先した生産により生命が脅かされている現代社会の中で、生命を守る食べ物をいかに手に入れるか、の問題に対して、生産者と消費者を直接につなげる事業を具体化して応え、その事業は広く都市を中心とした地域に広がり始めてい  た。「生き方を変えよう」「加害者になるのはやめよう」というキャッチフレーズで生活を見直すことから社会の変革をめざしてきた生活クラブ生協だが、80年代に入ってからさらに発展目覚しく、「共同購入から全生活へ」と様々な分野に活動が広がっていき世間の耳目を集めた。
生活クラブ生協神奈川では、1984年に初めて“オルタナティブ”という言葉を「もうひとつの」「代替・対案」「今までのようでない」という意味で使いはじめた。そしてオルタナティブを具体化するための新しいテーマとして、「デポー」「代理人」「ワーカーズ・コレクティブ」が提案された。
それまでは、生活クラブ生協では「三角錐体」という名で「(組合員の)拡大」「利用(結集)」「資金」の三点セットが言われてきた。それは生活クラブ生協の事業を軌道に乗せるための必要不可欠のものであった。つまり、安心・安全な食べ物を開発するためには、それを食べる多くの組合員が必要であり、組合員を拡大していくことが重要である。また共同購入の結集力を上げ、生産者に注文をつけて開発した“消費材”(食べ物を交換価値ではなく使用価値で捉えようと商品と呼ばずに独自にこう呼ぶ)を作りつづけ改善していくための「利用結集」が必要である。そして経営を安定させ、新たな地域の準備支部支部にして2)、配達するセンターの新設など事業を拡大する資金のために、毎月一人1000円ずつの出資の増資(利用高に応じた割戻し額が加算され脱退時に返還)が重要だったのだ。
しかし、新しく出された「新三角錐体」は、生活クラブ生協の「事業」というより、「運動」理念をさらに広げていくための、新しいテーマだった。
まず1つめの「デポー」とはフランス語で「荷捌き所」といい、これまで煩雑な班共同購入1本にこだわってきた生活クラブ生協が、さらに仲間を広げるために(組合員を拡大するために)大きな班の荷捌き所としての「店舗」を作ったのである。班共同購入の間口を広げるための新しい試みだった。
 生活クラブ生協の班別予約共同購入は大変に面倒なものであった。1ヶ月に1度4週分を頼むのだが5.6人から多い班では10人以上の班員の注文を当番がまとめて、班注文をし、毎週曜日ごとに来る購入品を班員で受け取り、分け、それぞれが持って帰る。その金額を一人ずつ計算して、班長が集め、職員に渡すという形をずっととっていたのである。牛乳や卵や計画購入品がそれぞればらばらに来るので、その受け取りに週何度も出なければならなかった。こうした班単位の共同作業によって、品物の品質にくらべ品物は安価に手に入ったのであるが、またこうした購入方法のため、生産者に対して発言権をもてたのでもあるが、組合員の負担は相当のものであった。また、各支部から支部委員や消費委員、広報委員などを選出し、彼女たちは1000人単位の支部をまとめるための仕事を役員として果たした。支部委員は、さらに共同購入を充実させるために、組合員の拡大をした。消費委員は豚肉部会や野菜部会などに別れて、毎月の班から上がってくる注文を集約し、生産者との約束が守れるように、注文調節をした。またそれ以外にも社会運動委員会などの自主的な活動もあった。これらの仕事は、PTAの役員と同じように無償で、交通費など経費だけは支給された。支部委員長などの役付きになるとその忙しさは相当なものであった。
この物流と組織運営システムのため、在宅する者しか加わることができなかった。が、70年代から80年代半ばまで当初は、このように面倒でも家族に安心でおいしいものを食べさせるために、あるいは自主的に運営してみんなで思いを実現するためにはあえて手間をいとわない女性たちが多かったのである。しかし、さすがに有職主婦が増え(後述第1章2 3))組合員の不満も増えたことから、店舗式のスタイルを82年から始める事になった。そもそも班という単位は、職員の手間を省くといったコスト的な理由から行われたのだが、しだいに、班をコミュニケーションの基本として、話し合いや活動が行われるようになり、それが生活クラブ生協の活動の基本になったので、班というものに組合員民主主義の最小単位というような大きな意味が付加されてきたし、また既存の、スーパー化する店舗型の巨大生協とは違うという自負も込められていたので、デポーを作るときには、基本をはずした邪道だと批判して脱退する組合員もあった。とまれ、店舗型のデポーは、面倒だという評判の生活クラブ生協の垣根を低くして、さらに地域に組合員を広げようというものであった。東京では、少し遅れて個人班という個人への配送購入方式が試行されるようになる。1987年には班の共同購入も、OCRというコンピューターの読み取りシステムを導入することになり、また配達を合理化することで、班の負担は相当軽減された。またデポーは、その後別生協として独立して2002年再度同じ生協として統合されるという経過をとっている。
さて、新三角垂体の2つめの「ワーカーズ・コレクティブ」であるが、その創設の立役者の横田克巳氏は以下のように定義する。

「誰かに雇われて働くのではなく、働くもの自身が出資し、自らの技術や技能を自らが組織して働く自主管理共同体的な運営をする事業体である。生産者協同組合と呼ばれる時もある。大きな資本を持たないものでも、資金を持ち寄り、協同し、自主管理していくことで、納得のいく働き方の可能性を開くことができるし、今日の企業社会、没個性的な働き方とは質のちがう働き方を、作り出していくことをめざしている。特に都市化によるサービス産業の肥大化が避けられない状況下で、生活技術を駆使して、その労働能力を地域で交換し合うことは、産業資本によるサービスの組織化に対して不買となり、オルタナティブとなる。」3)

実態的にはデポーの店舗運営のための業務を組合員に委託するために始まった。しかし、85年に神奈川の本部がオルタナティブ生活館として新設されると、そこでの様々な活動をするグループをワーカーズ・コレクティブとして立ち上げた(第2章1.3))
3つめの「代理人」とは、現在は神奈川では言葉としては使われないが、政治を「生活者」のものへと変えるための「生活者」のメッセンジャーとして議会活動を通して“政治的代理人”になってもらう議員のことを言う。84年に「神奈川ネットワーク運動」というローカルパーティ(地域政党)をつくるにいたる。現在神奈川県下に県議4人、各市議42人である(全て女性)。神奈川以外の東京や千葉でもローカルパーティーを持ち議員をそれぞれ抱える。

こうした3つのテーマを掲げて、80年代に入って生活クラブ生協は、これまで作ってきた「事業」に体現される「理念」をさらに運動として広げようと、地域を「つくり」「かえる」ことで、社会ヘアピールをしていったのである。

「この産業社会は“男”がシンボルであり、それに対するオルタナティブの場は“地域社会”、そのシンボルは“女”であるか(ママ)に見ることができよう。」4)

と、当時の生活クラブ生協神奈川理事長横田克巳氏は言う。それは、ほとんどの組合員が女性であるというこの組織5)にも、また80年代という時代にも合ったイメージだった。6)
こうしたイメージを共有する80年代という時代を見てみたいと思う。


2.女性の時代としての80年代 
1) エコロジー運動の中のフェミニズム

「80年代は、女の時代と喧伝されながら幕を開けた。日本で初の女性大使、一部上場企業の取締役、国鉄の駅長などの誕生がマスコミを賑わして、各界で活躍する女性の“淑女録”が刊行された。・・・略・・・新しいタイプの女性誌が相次いで創刊された。
また、80年は国際婦人の10年の中間年。日本で最初の女性大使・高橋展子さんがデンマークで開催された世界大会で、日本政府を代表して婦人差別撤廃条約に署名したことも、その条約の内容と相まって、女たちに新しい時代の到来を予感させた。」1)

80年代は環境問題がエコロジーとしてクローズアップされるとともに、一方で「女の時代」と呼ばれるほど、「女性が活躍した」時代でもあった。引用した状況は、国連婦人の10年(1975年から1985年)の間のさまざまな運動が功を奏したと結果というべきであろう2)。しかしこのとき第1期女性解放運動(女権拡張とも言うべき、男女同権を求める運動)はすでに、70年代のウーマンリブ運動――第2期女性解放運動をすでに経てきていた。
早くからウーマンリブに触れ、「性の政治学」などアメリカのウーマンリブの成果を日本に紹介してきた藤枝澪子氏は、「リブ運動は?期女性解放運動の開幕を告げるものであった」とし、それはまず「産業社会=男性優位社会が女性に付与する『負』の価値を負のままに直視し、そこから逆に二極分化の抑圧の構造の醜さを照らし出した」とする。そしてさらに、「意識変革(コンシャスネス・レイジング)という方法を通じて、つくられた女らしさの自己意識を洗い出すことにより、それまでタブー視されていた性を含めた、丸ごとの女としての主体の確立を求めた」。第3に、「『女のスペース』を各地に開き、『魔女コンサート』を組織するなど『表現』と交流の場を自らの手でつくりだし、女の文化活動に新たな地平をひらいた」と定義した。3)
ウーマンリブの特徴を次の3つとしたい。すなわち男性の置かれた中核的な主流の位置から周辺に負として置かれた女性の位置を逆手にとって「女で何が悪い、男の方こそが諸悪の根源ではないか」と価値観をひっくりかえしてみせたこと、そして「女」というものを名づけられたものではなく自ら獲得するものとして主語で語り始め、セクシュアリティを含めて追求したこと、そしてその運動表現が、男性のスタイルと違ったユニークなものであったことの3つである。
1980年代、生活クラブ生協だけでなく、自然食の共同購入やお店、各地での原子力発電の反対運動や、石垣島の白保の海を守る運動や神奈川県逗子市の池子の弾薬庫跡地の米軍住宅建設反対運動などをはじめとする自然保護の運動が高まり、その中で女性たちが主体的に活動していた。
女性たちの運動は、戦後民主主義の大きな成果として、50年代に始まった原水爆禁止運動から母親大会へと平和運動消費者運動住民運動として力強く地道な運動として続いてきた。これは「女性たちの運動」ではあったが「女性運動(フェミニズム)」ではなかった。男性社会を問題視するのではなく、命を生みはぐくむ「女性性」の「発露」による、命を脅かすものへの「母として」の、あてがわれた女性役割からの抵抗であり、運動であり、今の状況に対して批判をもったものではなかった。4)しかし、80年代にはそれが、70年代リブの洗礼を受けて変わった(別の形のものが登場した)といえる。
 ことに1986年のチェルノブイリ原発事故は、世界中に大きなショックをもたらした。ソ連(当時)一国の原発事故が世界中に放射線汚染を波及させる恐怖を見せつけたのだ。「チェルノブイリは女たちを変えた」と言われるように、世界各地で運動と議論を巻き起こした。日本も例外ではない。四方原発の出力調整試験反対運動を始めとして反原発運動に立ち上がった女性たちは「ニューウェーブ」と呼ばれた。
 その運動のスタイルは、日本だけでなく、他国においても、これまでにないユニークなものであったが、それは80年代初めのヨーロッパを中心とした反核運動の中で現れてきていたものである。ヨーロッパ各地で、核兵器の配備予定地では平和キャンプが自発的に発生した。ことにグリーナムコモンの平和キャンプの女性たちは、「男たちは昔、戦争に行くために家庭を見捨てた。いまは女たちが平和を守って闘うために家庭を見捨てるときだと思う」 5)「ここにきた当初、女たちは自分のことを何も主張できずに押し黙っていた。ここにいるうちに少しずつ話し始め、自分の言葉で話せるようになった。ここでの女たちの成長ぶりは、驚くほどだった」「あたしは、女たちの持つやさしさやこまやかさが大好きだ。大地を削り、木を踏み倒す基地は暴力的で男社会そのものだ。そいつに対して、女は、自分たちの持つ優しさや細やかさと非暴力で闘っていくんだ」と語る6)。と、それはリブを通ったフェミニズムだった。そのスタイルもこれまでの男性主導の運動とは異なっていた。男性たちのリーダーシップを拒否して自分たちの生活や精神を丸抱えにした、さまざまな工夫を凝らした個性的なやり方であった。歌ったり手をつないだり、キャンプの鉄条網に自分たちの好きなものをくくりつけたり。現在国際法の中でも認められる非暴力直接行動である。また、当時の西ドイツの緑の党をはじめとして、環境問題や男女平等を掲げる政党も出現していた。7)
 日本の反原発運動の中でも、女性たちは「ゲンパツは男社会の終着駅」という言い方をした。また、「女たち自身が変わり、男たちの運動を変えていけるかどうかにかかっている。女たちこそが<非暴力直接行動>の担い手となって、どれだけ新しい運動の分野を作り出すことができるかである」と規定して、今までとまるっきり違う運動の様式を作り出した。機動隊の前にのり出して、歌を歌いながらピケをはり、とたんにくるりと後ろ向きになって、『ゲンパツなくてもエジャナイカ』の音頭でおどりだす・・・女たちはそれぞれの表現で編み出された運動の中でのびのびと自分を解放した8)。
「男、この暴力的なるもの!これこそが原発を生み出したのではないか、と思う。」9)

これらは核社会の生命や環境への脅威を、男性社会の暴力性のアナロジーとして捉えたリブを経たフェミニズムの表出であると思われる。エコロジー運動の中には70年代初頭に起こったウーマンリブが表現とともに確実に受け継がれていたといえるのではないか。
各地域で元気いっぱいに跳ねまわる女性達のこうした華々しい80年代後半の活動の広がりは、「新しい女性たちの社会運動」として取り上げられた。運動の中から運動者として政治を変えるため、女性議員たちも生まれた10)。
もちろんその中には、母親が多く含まれていた。チェルノブイリ事故以後母乳や牛乳が放射能汚染されてることが明らかになると母親の中にパニックを生んだ(かくいう私もチェルノブイリのとき8ヶ月の子どもを牛乳から遠ざけるのに奔走した)からだ。特に昼間動ける主婦たちは、活動を担っていった。
しだいに一部の反原発運動の論調――例えば「まだ、まにあうのなら」(甘庶珠恵子著 1987地湧社)に含まれるような「母性主義」の傾向11)や、また、放射線の影響によって障害児が生まれる恐怖をあおる言い方が、フェミニストや障害者の間に、論争を引き起こすようになる。12)

一方「活動専業主婦」と言う言葉が出たのは85年頃である。芝実生子氏の問題提起を受け、金井淑子氏はこの言葉に、これまでの主婦運動の枠を破った大胆な草の根からの社会参加・社会変革へ向けて家庭もちの女性たちが動き出したという時代の現象を感じとった。しかし、女性たちの運動を、新しい「主婦」の運動として特徴づけていったこと、はその意図と別に問題を矮小化させてしまった面があるとはいえないだろうか。

編集部「マスコミの取材なんかも、母親、主婦というとワッと来ますね。」
石塚友子「例えば集会に100人いて、そのうちお母さんというのが半分か60%だとしても、『お母さんたちが集まった』とマスコミがまとめる。どうしてなのかというところが問題ですよね。今の日本の中での女たちの地位がいまだにね、やっぱり母親としてというのが女の地位を代表しているというか、象徴しているというかね。女がやっているというより、お母さんがやっているとみんな安心するんでしょうね」13)

実際は次のような動きもあった。
水沢靖子「反原発の女の人のグループで、『原発に反対する母の会』というような名前のグループがね、実際にいろいろやってるうちに、『母親だけ』とか『母親だから』の会はおかしいんじゃないか(笑)、ということになって、『女たちの会』に名前を変えたという話を聞いたんですけどね。そういう動きがどんどん広がってきたら面白いなって思います。」

エコロジーの運動を「女がやっているというより、お母さんがやっているとみんな安心するんでしょうね」というのは重要な指摘だと思う。誰より安心したのは男性たちであろう14)。
こうして安心したがる心根の延長線上に80年代はポストモダンという言説の中で、それに悪乗りする男流言説家たちがいたのではないか。イリイチ言説はその悪乗りの最たるものであり、いっせいにフェミニストの集中砲火を浴びた15)。彼女たちが総力を挙げて批判したのは、エコロジーや脱近代の名のもとに性差を拡大し役割分業を反産業社会的なものとして全面肯定していく、日本の論調(主に男性たちによる)とそれに絡めとられてしまう女性たちにむけてであったと思われる。エコフェミ論争とは、実在したエコロジーフェミニズムに対してのものではなく16)、反近代が性差固定へとスリップする危うさを持った、日本的思想状況に対してのフェミニズム側の総反撃だったのではないかと思われてならない。そうしたものとして総括し直す必要があるのではないだろうか。
 そしてフェミニスト総力戦の観のあるイリイチ批判とともに、フェミニズム側がエコロジー運動への距離をとり始めた。
小倉千加子氏の発言に見られるように、夫との関係を見つめないでいいから環境問題をやる17)、といった明確にフェミニズムと一線を画する主婦たち、というイメージを、80年代出現してきたフェミニズムの論壇をつくる側は規定しはじめ、エコロジーフェミニズム運動を切り離す傾向を生んだ。小倉氏はさらに「フェミニズム以外の運動に関心はない」と述べ、女性解放運動をシングルイシュー化する傾向を強めた18)が、こうした傾向は、現場の運動的なものをフェミニズムと分離することによって、現場をフェミニズム化することから遠ざけたのではないか。逆に現場は、役割分業肯定派の主婦と男性たちに仲良く占有されてしまったように見える。フェミニズムの「分離主義」(シングルイシュー化)が、80年代初頭に現れたリブの継承としてのエコロジー運動、の内実を見えなくさせてしまい、やすやすと役割分業派に引き渡してしまったのではないかと私には思える。

金井淑子氏は、こうしたエコロジーを巡る地域の運動(その中にはもちろん生活クラブ生協運動も含む)の実態を従来の女性運動とは違う、が、またリブやフェミニズムとも異なるものを嗅ぎ取って、「生活(スタイル)のオルタナティブ」を、精力的に広げて女性の力を見せつけたけれども、その運動はリブが目指した「(性役割に拘束された)関係性のオルタナティブ」を避けている、と指摘する。

フェミニズムの運動という観点から言えば、母親運動や消費者運動というのは、性別役割分業というようなものをある意味で前提にした上で、関係性はそのままにしておく。だから、母親運動や消費者運動は、女性問題をということではないのであって、母親の立場において、子どもの問題や地域の問題を取り上げていくという運動であったわけです。
・・関係性のオルタナティブということは、自らの生活のしかた、生き方、つまり関係のとり方、自分自身の性自認や身体のあり方、といったことをトータルに自主管理できるような主体形成ということを含んでいるのです。もっと言えば自己権力の思想を培 う実践といってよいかもしれません。こういう視点を欠落させたままの生活オルタナティブというのは、先ほども言いましたような、悪く言えば、自分の生活を自分で守ることがエコ・ファシズムといわれるようなところまで反転してしまわないとも限らない、そういう危なっかしさをかんじざるを得ないのです。・・・・現在、地域で活動している女性たちを『地域活動専業主婦』というふうにネーミングして、労働自立論とは違った、女たちの自立の第三の道という位置付けをして・・・かなり思い入れや肩入れをしてきたのですが、地域活動専業主婦の問題意識もまだ生活オルタナティブな運動からその先へと、意識の壁を突き破れていないのではないか。自分のつれあいとの関係とか、自分の子どもとの関係を変えていきながらでなければ、本来やれないはずなんですが。
  しかし、そこはあまりシビアには問題にしないようです。そういう動き方というのはやはりおかしいのではないか。・・・」19)
    
 80年代に起こったエコフェミ論争については、残念だがここでは深く立ち入らず、別稿に譲りたいと思う。しかし、エコフェミ論争の一方の主体はどこにもいないという奇妙な状況に対して以下の清水和子氏の指摘(85年)は示唆に富む。
「・・・今、エコ・フェミを名乗る人々は、<神話的ジェンダー>のフィクションに逃げ込むことなどせず、自然―労働の豊かな社会的価値生産をはばみ、商品価値一元化の制度の中で、蝕まれてゆく生活の屈折した叫びを、体制に投じかけるべきなのです。産業主義近代批判という以上、女性をフルタイム、パートに分断し、前者の人々からは、家庭人としての時間を、後者からは人並みの生活を成立させる自立力を奪いつつ成立している、日本の資本主義構造の欺瞞性を撃つところまでゆきつくのがほんとうでしょう。エコ・フェミも全体性を獲得しようとするなら、下部構造へのしんけんな批判を深めてゆくことだと思います。」20)

実際の欧米の運動の中で理論化されたエコ・フェミニズムは、当時こうした問題意識を共有していた21)。当時日本で訳出されていなかった不運を思う。22)
ドイツ語圏のエコフェミニスト、マリア・ミースやヴェールホフらは、世界システムの中で女性が置かれた位置を分析し、正規労働が溶解していることを、継続的蓄積論で説明し(「主婦化」という概念を使う)、また、その世界システムへ対抗策として「サブシステンス」(生存維持)というイリイチも使っていた概念を、ジェンダーの固定化に掬い取られることなく理論化している23)。しかし、清水氏が指摘するような、下部構造の問題、環境の問題、そしてさらに関係性の問題がひとつながりになっていなかった状況が、日本の80年代であった。                       
かろうじて金井淑子氏が、フェミニズムのめざす政治の課題を「関係性のオルタナティブ」「生活のオルタナティブ」「経済のオルタナティブ」(フェミニズムエコロジー、ポスト・マルクス主義)の三立をめざすものとして大きくくくった形で同様のことを提起した。24)が、それは90年代まで待たねばならなかった。
またその後も残念ながら日本のエコフェミニズム(あるかどうかも怪しいが)の中では、こうした生産的な理論構築が個々にはあるものの統合的にされないまま、エコロジー運動と結合せず、今に至っているという感が大きい。

エコロジー運動が、「生産男と家事女」のカップルで語られる産業社会の結果を引き受けたに過ぎず、それを解体するのではなく、むしろ「主婦モデル」を固定化する方向へ水路づける危険性を独自に持っていたことは確かである。しかし、実態は、エコロジー運動の中のイデオロギー以上に、当時の社会の時代状況の強固な誘導イデオロギーがあったことを次に立証したいと思う。
 「主婦モデル」が適応と変化を経ながらどう強化されてきたかを清水氏の言う0「下部構造への真剣な批判」としてみていきたいと思う。「女(=主婦)の時代」は兼業主婦モデルの開花期でもあったのだから。久場嬉子氏は、のちにこうした女性たちのことをその構造から“被扶養主婦市民”と呼んだ。

2)主婦モデルとは何か―専業主婦モデルから兼業主婦モデルへ 
戦後初の婦選運動念願の第1回の普通選挙の女性立候補者数・当選者数は、その後50年を経てもその記録を塗り替えることはなかった。男女同権の第1期フェミニズムは実際は実現してなかった。男女平等は、役割分業(主婦モデルの普及)の中で空洞化させられたのだ。いや、それは女性が自ら選んだ道であり、主婦という生き方が女性に合った洋服だったから、こういう現状になっているのだという人があるだろうか。
女性たちは専業主婦を選んだのだろうか。そういえるためには主婦と同じだけ他の選択肢があって初めて選んだといえるが、実際そういうことが実現していたことはこれまであったのだろうか。
そうでない選択=仕事をしつづけるという選択が多くの女性にとってはないに同然であったからではないだろうか。

かつて職場には、当然のように若年定年制や結婚退職制度があり、85年の均等法までそれらを禁じる法律はなかった。
1977年調査では 性差別定年、結婚・妊娠・出産退職制度のあるのは18600企業もあった。1)
1953年 東宝映画 女性のみ25歳定年制
1964年 地方公務員の女子若年定年制は36県1114市町村
1966年 住友セメント結婚退職制違憲判決     
1979年 日産自動車女性定年5才差違憲判決
多くの若年定年制を闘う裁判が行われて80年代にはようやく差別的な定年制がなくなった。それまで学校を出て就職した女性は、25歳や30歳で自動的にやめなければならない状況にあったのである。79年になっても女性の定年の格差がありつづけた。
たとい定年差別がなくとも働きつづけることは簡単ではない。
先日勝利解決を見た芝信用金庫の昇格差別裁判で原告女性は、「人事異動のときが一番いや。年下の男性がどんどん上がる。私に仕事を教えられた人があがり教えた私は置いてきぼり。今度は私が彼から命令される側になる」と語る。提訴してから10年以上かかっての解決であった。
2002年12月16日に大阪高裁で和解が成立した住友生命のミセス差別裁判では、育児時間取得中に自分の机が壁に向かって置かれ、1日の仕事は10分ほどで終わるコピー取りだけ、の仕事差別が6年続いたという。妊娠中に階段を上り下りさせる仕事をわざとさせる、また既婚女性は、最低の査定をつけられ、同期同学歴の未婚の女性は61人中50人が役付なのに、既婚女性は32人中改姓をしていない2人だけなど、の差別がずっと続いていた。
これらの裁判事例は全く特殊な事例だろうか。
住友電工での男女別採用・性別役割分業に基づく労務管理を違法としての提訴は2000年大阪地裁において全面敗訴になった。1966年(昭和41年)当時高卒男子は「全社採用」であったのに女子は全て「事業所採用」とされ、その後の扱いも女子には昇進機会が与えられないなど異なった待遇であったことを違法とする訴えに対して、「昭和40年代(1965年から1974年)ころは、未だ、男子は経済的に家庭を支え、女子は結婚して家庭に入り、家事育児に専念するという役割分業意識が強かったこと、女性が企業雇用されて労働に従事する場合でも、働くのは結婚または出産までと考えて短期間で退職する傾向があったこと、このような役割分担意識や女子の勤続年数の短さなど、さらには女子に深夜労働などの制限があることや出産に伴う休暇の可能性」ことを根拠に、当時の男女別採用は違法ではない、とした。とりあえず昭和40年代には、社会全体がそうであったことを裁判所は根拠として認めている。女性が“選んだ”から社会慣行がそうであったのか、会社や社会がそれを当然とした構造をつくっていたから女性は他の選択ができなかったのか――。

以下男性の賃金を100%とした場合の女性の賃金の比率である。2)
1909年(明治42年)53.2%
1923年(大正12年)44.5%
1926年(昭和元年)46.9%
1934年(昭和9年)32.3%
1944年(昭和19年)40.3%
労働省賃金調査課「男女賃金格差の一検討」『労働統計調査月報』7巻4号。1955年)
1950年(昭和25年)46.5%
1960年(昭和35年)42.8%
1978年(昭和53年)56.2%)
とずっと6割以下という時代が明治以来長く続いてきた。また、勤続年数が延びるほど男女の賃金の格差が露骨になった。
1992年に訴えを起こし2000年に和解した日立製作所武蔵工場では、9人の勤続25年から31年の女性労働者たちの年収は男性と120万から310万も差がついていた。
1994年に提訴した昭和シェル石油を定年退職した野崎光枝さんは、1950年に20歳で入社し、60才定年時の賃金は20代男性と同じだった。現在年金を受給しているがそこにも賃金格差は反映され、差別は定年のあとも続いている。3)
こうした状況下で働き続ける意志をどれだけ多くの女性がもてるであろうか。(しかも男性の家事労働時間は、妻が働いていようがいまいが世界的に見ても低い。)
大沢真理氏は日本の性別賃金格差がいわゆる「先進主要国」の中で、最大級であることのは日本の労使で作った年齢別生活費保障型賃金が、「妻子を養う」男性の生活費に見合う賃金が設定され、女性は決してそのカーブに乗ることはないからであると論証している4)。
一人で家族分もらえる男性に比べ、女性は年齢が高くなるほど格差が開き上昇が減っていく。労働者といえば男性を指し、大黒柱としてのしくみ=ブレッドウィナ―モデルの中で、女性は常に扶養され再生産労働に従事するものと位置付けられ、女性労働者は周辺化された存在である。これが「主婦モデル」である。

しかし、「終身」雇用制とも呼ばれた男性の長期継続的雇用も年功賃金も、高度成長あってこその制度だった。日本的雇用システムは、高度成長の神話が崩れたときに危機を迎える。1973年の石油危機は、日本型雇用制度にとっての根源的試練だった。
経済成長の躓きとして2度にわたる石油ショックを迎えた70年代、日本は世界の中で巧みに舵を切った。つまり減量経営とコスト削減、ME(マイクロエレクトロニクス)情報技術を経済活動のあらゆる分野に導入し自動化・効率化を進めながら設備投資を軽薄短小化し、製品市場と投資行動に競争原理をより強化する方向に向かうことになった。つまりよりコスト削減を進め、雇用を流動化することでのりきろうとした。その一つの大きな方策が、従来の「主婦モデル」を「専業主婦モデル」から「兼業主婦モデル」へと移行させたことである。主婦の家計補助的な「パート」という雇用機会が拡大され、パートの労働力が、生産のフレキシビリティのための大切な要素となったのだ。時代はもうすでに「専業主婦モデル」に基づく家族賃金を押し上げるだけの高度経済成長を許さない状況を迎えたのだ5)。
 しかし、このモデルの移行は、樋口恵子氏が「新・性別役割分業」と呼ぶように、これまでの主婦モデルの枠を壊しはしなかった。いままで、再生産労働(家庭内労働)の中で男性労働者を支え、働く女性への過酷さの構造を支えてきた主婦は、今度は労働の場で、低賃金で働くことによって、生活を背負う女性たちの労働条件の沈め石になった。減量経営による男性の賃金抑制を下支えするべく、家庭内においてはあくまで家計補助的な副次的収入源であり、職場構造的には、正規労働の周辺としてその労働は常に不安定で、臨時的なものであった。
また、社会保障においても79年自由民主党「日本型福祉社会」では「家庭基盤の充実と企業の安定と成長、ひいては経済の安定と成長を維持することである」と打ち出された。実際導入されたのは雇用者の扶養家族である妻は、保険料を直接徴収されない「三号被保険者」になれることになった。そしてその年金の収入源は、夫ではなく全体からまかなわれるので、専業主婦を養う男性から差別されている女性労働者は彼の妻の分の年金まで負担している構造になっている。また配偶者特別控除も導入され、パートの拡大を促進した6)。
こうして兼業主婦優遇策が強化された。男性型の電算型生活給、つまり家族賃金制度も、年金制度も税制度も、家計補助的に働く兼業主婦には有利に、正規労働者として働きつづける女性には不利になっている。

専業主婦モデルが崩れたにもかかわらず、男女の格差が実際縮まらない。それは80年代の女の時代になっても基本的には変わらなかった。

  85年、男女雇用均等法は、女性差別撤廃条約に批准するため、という国際的な外圧により鳴り物入りで制定された。
しかし現実は、女性が働くのに厳しい状況を増したとさえいえる。均等法が導入されるや、一般職と総合職のコース別人事制度が適用され、骨抜きになった。
 野村證券では、87年コース別が導入され、これまで男性に適用してきた賃金表と女性の賃金表を名前だけ総合職・一般職と変えたと言う。そして男性が全員総合職女性は全員一般職に配置されたという。また総合職に配属された女性たちも、専業主婦がいてこそ成り立つ男性と同じ過酷な労働条件の中で、短い勤続年数で辞めていった人も多かった。
男女雇用均等法制定時にはたくさんの女性たちがこの均等法の反対に集まった。全国から大変な盛り上がりを見せ、徹夜の審議や国会膨張に連日女性たちがおしよせた。男性並に働かせようとする均等法には反対、男性も女性と同じにゆったりと働ける労働条件こそがほしい。一部のエリート女性だけが過労死する権利を得られるという均等法には日本の女性運動は反対だったのである。しかし、女性差別撤廃条約に批准するための外圧で、政府は罰則規定のない、保護を減少させる均等法を通したのだった(その後改正)。その敗北感はことのほか大きく、その後に次々とせまる法案にも、コース別人事制度というすり替えにも何も対処できなかったのが実態である7)。均等法と同時に労働者派遣法も施行され、92年にはいわゆるパート労働法が制定され、女性差別撤廃条約や均等法の理念と裏腹に、女性を男性と同じ正規労働者として使うのではなく、一握りの正規労働者と、膨大な非正規労働者へと二極分解させる異なる雇用形態の拡大への道筋が作られた。 
以下は「女の時代」とよばれた80年代の日本での男女賃金格差の国際比較である。

     フランス 西ドイツ オーストラリア   日本   デンマーク オランダ 
1980年 79.2%   72.4%     86.0%   53.8%   84.5%    78.2%
1988年 81.8%   73.6%     87.9%   50.7%   82.1%    76.8%
ILO 世界労働報告 1992年)

「専業主婦モデル」が崩れ、均等法が制定されても、男女の格差が実際縮まっていない。「主婦の扶養」を理由に、この男性のみを基準とした家族賃金は「生活給」として正当化され男女格差は縮まらない。昭和シェル石油では、男性は年功で上昇するのに女性は、どんなに技能習得につとめても、40年間ほとんど変わらなかった。会社側は女性であるからではなく、職能給制度での結果であるという。裁判では、「女性には能力がないということですか」との中野麻美弁護士の追及に対しそうだと証言したという。均等法で性を理由にした差別が禁止されると、以来増えたのは、一般職だから、派遣だから、パートだから、能力がないからという女性であることを理由とした直接差別ではない形の間接差別である。他の理由をつけても結果が特定のカテゴリーの人たち―例えば女性、外国人、被差別部落の人たちなど―への差別になっている場合それを間接差別という。
結婚しようがしまいが、女性の賃金は低く、女性が主婦になればその分扶養責任を負う男性の賃金は上がるシステムである。つまり一人でふたり分働くのが労働者の基準であるから、女性がどんなに頑張っても無理なのである(ましてや家事育児の二重労働でどうやって男性並みに働けるであろうか)。主婦モデルシステムはどうしても男女平等の賃金にはならない。せめて主婦になって夫の24時間就労体制を支えない、家族賃金をささえないことが、男女平等の賃金のために必要であろう。「主婦である」ということは、こうした差別賃金を許す側にいるということでもある。
そしてまたもう一方のコスト削減策として、企業の中では従業員への締め付けが非常な強さを持って労働者を縛り付け始めたのである8)。東芝府中工場で原発反対のビラを撒いて村八分にあい、神経症になり提訴する、上野仁裁判にみるように、企業は従業員の信条や言論の自由も奪うほどにハードな管理が進む。80年八王子の沖電気を解雇になって以来今も門前で歌いつづける田中哲朗氏が叙述するように9)、ビラをとることもできないような雰囲気が職場内にできていく。
家族賃金をもらう男性自身が果たしていい目を見ているかは大変におぼつかない。『人としての良心』までを封殺して、「奉公」しなければならない男性も抑圧の中にある。
こうしたいびつな、日本の企業風土は、厳しい時期からバブルを経ても、基本的に変わらず、会社中心主義を支え、個人の良心を摩滅させることによって、企業体自身を腐蝕させ、昨今の不祥事を起こしているように思われてならない。

 「女」の時代ともてはやされた80年代は実は働く女性たちにとっても、また男性にとっても過酷な状況を作り上げた時代でもあった。家事育児の全面負担の二重労働と職場の性差別の両方に打ちひしがれる働く女性達、企業に搾り取られて疲弊する男性たちをしりめに、(正規)雇用労働の中のしんどさから逃れられている主婦達の運動はあだ花のように咲き乱れたのだ。10)
それは労働現場の過酷さをむしろ促進したとも言えるのではなかろうか。疲れ果てた男性の再生産労働要因として、企業戦士の銃後を守って見送ったのである。そうやって働ける主婦付男性が職場の基準になって、「総合職」の女性はシバ漬けのCMのように、くたくたになって体を壊していったのだ。まさに女性にも過労死する選択権が開かれたのである。
扶養される主婦たちの年金を働く女性たちまでもが負担するこの均等法と同年の85年に成立した第3号被保険者のしくみは、全く“均等法時代”の新しい「主婦モデル」の構造として象徴的である。
90年代ようやくパートの均等待遇をうたう運動が広がっていく。日本のパートは勤務時間が長いのが特徴であると竹中氏11)は述べるが、(フルタイム・パートという言語矛盾の言い方が通用している)本来フルタイムで働くべき女性たちの仕事をパートとして引き下げている切実な問題と、現実的には、その多くは、主婦モデルを基礎にした生活賃金の低成長時代の適応への補完なのだ。ゆえに本人たちの労働者性が薄い。もちろんラジカルで地道なパート運動は続いている12)が当該の活動家が本当に少ないのが、関わってきた実感である。家庭責任が妻一人に負わされ、労働組合がパートの組織化に冷淡なのがそうした傾向を生んでいるのであろうとおもわれる。
労働省の諮問を受けた「女子パートタイム労働対策に関する研究会」の座長でもあった高梨氏は調査からパートを以下のように描く13)。
「今日、パート、アルバイト、派遣社員等で働きたいという女性の増加は、生活窮乏化や貧乏を理由とするのではなく、『豊かな社会』に到達した経済社会で、労働を通じて生き甲斐を追求する、女性の社会参加運動という側面を強くもっているといえる。」

日本型パートは労働への女性の参画と言うよりも、主婦的状況のガス抜きの側面の方が強いのではないだろうか。以下の金井氏の指摘とも対応する。

「この点で、アメリカのウーマン・リブ運動を登場させた『専業主婦のアイデンティティ・クライシス』は、日本では運動化し政治過程を作ることにはなっていません。女性の側の主体的覚醒よりも、女性を再労働化し、社会化する外側からの力の方が先行し、女性の中で主婦規範への疑問や揺らぎがたとえ生じても、パートや社会参加、カルチャー講座といった、外側から用意されたさまざまな場面がそのエネルギーを吸収していったと見ることができます。『主婦である』ことと批判的に向き合うことが、女性自身の中で主体的になされていない日本の女性運動の、『主婦フェミニズム』と批判される所以も、一つにはここに起因するといってよいでしょう。」14)

90年代にはいっていよいよ日本は経済停滞期に入る。世界はグローバリゼーションを迎える。80年代から進められた新自由主義的な経済手法は、90年にはいって、バブルと経済危機を短いサイクルで繰り返しながら、巨大な富が金融によって蓄積される。こうした経済のグローバル化の中で国際競争が激化し、雇用はますます流動化する。
94年日経連は「新・日本的経営」を打ち出した。その中で、雇用システムを、長期蓄積能力活用型、高度専門能力活用型、雇用柔軟型の3グループに複線化するとした。一握りのエリート正規雇用ジェネラリストとスペシャリストを残して、多くを雇用柔軟型(非正規雇用型)にしていこうという路線である。こうしてパート問題は女性だけの問題ではなくなり、パートがこれから男性や正規雇用労働者にまで蚕食して一般化していく方向が定められ、今現在も進行中である。ミースたちのいう「主婦化」の状況は、性別を問わず進行していく。パート化した既婚女性と、フリーター化した若者、そしてブレッドウィナ―(大黒柱)たる男性労働者の失業と、正規雇用の減少が日常化して、目の前に総パート(不安定雇用)時代が見えてきている。「兼業主婦モデル」は「全員主婦モデル」に、そして2000年代は“被扶養主婦市民”の扶養の主体が喪失して、既婚女性のみならずみんなが“活動専業主婦(夫)”にならざるをえない事態を迎えるつつあるのかもしれない。

3)兼業主婦モデルへの適合としてのワーカーズ・コレクティブ
「この産業社会は“男”がシンボルであり、それに対するオルタナティブの場は“地域社会”、そのシンボルは“女”である」という80年代のジェンダー化の中で、横田氏は時代が「専業主婦モデル」から「兼業主婦モデル」へと転換したことを直感的に把握して以下のように述べ、新たな運動への主婦「調達」手法を生み出す。

生活クラブ生協が、生活クラブ生協とは別の組織体であるワーカーズ・コレクティブを生み出そうとした背景には、一つには、主婦の社会参加への関心が増大し、また、夫の給与が伸び悩んでいく中で、資本がこれを主婦のパート労働として、次々に吸収していったこと、第二には、行政改革の中で福祉切り捨てが進行し、この間隙をぬって、資本による生活技術・文化を一つひとつはぎとるサービス産業化が急速に進行しつつあったこと、第三には、生活クラブ生協の有償、無償の労働をめぐって“働く”ということについての論議が繰り返され、組合員の経済的自立への憧憬は大きいにもかかわらず、生活協同組合は直接的にはその手段とはなりにくい――などの状況があった」2)

 1982年、生活クラブ生協神奈川において日本ではじめてのワーカーズ・コレクティブにんじんが設立された。(もちろん生産者協同組合としては、長い前史もあるし多様な形態がある3)。しかしここでは、主に主婦たちを担い手にした生協運動と関連した起業をワーカーズ・コレクティブと狭く定義して進めたい。)
実は、にんじんの設立時は中小企業協同組合法の中にあった「企業組合」の法人認可をしようとしていたのに、その一週間前になって認可が下りなくて「企業組合」の名前が使えなくなり、急遽当時アメリカの西海岸で盛んになっていたワーカーズ・コレクティブと名づけることになった、と初代のにんじんの理事長宇津木朋子氏はこの名前の由来を語っている。4)
 人を二つ書いてにんじんと読む日本で最初のワーカーズ・コレクティブにんじんはその設立趣意書において「働くことの復権」を誇り高く掲げた。
「今、私たちが住み、暮らす社会は科学・技術の進歩と生産的労働によって物質的には飛躍的な発展を遂げています。しかし、その過程にあって分業と管理システムによる労働ロボット化が進行し、働くことの目的を見失わせています。産業化社会における雇用・被雇用の賃金労働は自己を物象化するだけでなく、労働の主体を曖昧にし、賃金労働以外の働くことの価値を歪曲化し、労働の差別化を促し、かつ固定化するに及んでいます。」
と現在の産業社会を批判し、
「働くことの実現は新しい自己の発見であり、他者を促し自己を革新し、活動空間を広げ、すむ人の英知で生活を豊富化し、自ずと充実した人生を演出しあう人々が、自由に群れ集う姿をイメージとします。」5)
とめざすべき姿を描き出している。
にんじんは先にあげたデポーという新しい事業形態の店舗業務をになう「主婦」の働き方として、登場した。また同時にセンター業務(注文の集計・ピッキング)等単純労働もワーカーズ・コレクティブの業務として委託された。実際は周辺労働的な業務委託ではあったので、理念の壮大さに比べ実態は少々不釣合いなものだったのではないかとも思えるが、先に引用した高梨氏の描くパート像とはぴったりと重なる(第1章2 2))。
 ワーカーズ・コレクティブの言葉は偶然の採用ではあるが、87年にはアメリカへの視察に行き、アメリカでのワーカーズ・コレクティブの状況の生き生きしたありさまを持ち帰ってくる6)。その後企業組合の法人格を取れるようにはなったのだが、むしろワーカーズ・コレクティブの名前の方を、アメリカ西海岸のカウンターカルチャーオルタナティブとしてのイメージをも含めて新しい女性たちの働き方のモデルとして積極的に使用し、定着させた。
 ワーカーズ・コレクティブは、アンペイド・ワークに良くも悪くもささえられてきた班システムの多様化をめぐって、専業主婦の減少への両面作戦ともいえるべき対応であった。一方では、有職主婦希望者の求職先として労働の場と言う新しい切り口を作り、他方有職主婦への便宜を狙って、新しい生活クラブ生協共同購入の方式を広げる間口を作ったのだ。
 最初は委託業務で始まるのだが、そのころの主婦の起業ブームともあいまって、独立した事業体としてもいくつか出発した。その手始めに各センターにポポロという食堂が作られた。また、85年に本部としてオルタナティブ生活館が建設されるのだが、その中でいくつも事業をになうワーカーズ・コレクティブを立ち上げる(第2章1.3)参照)。また、地域の福祉作りでグループたすけあいを横浜に作るのを皮切りに各地で助け合いワーカーズ・コレクティブを作り始める。(第2章1.4)これは当初からワーカーズ・コレクティブと位置付けてなかったため、のちにワーカーズ・コレクティブとして発展するものとそうでないものと分化する)
こうしてワーカーズ・コレクティブは90年代には業務委託型と、福祉型と事業型の3種類に分類できるようになる。
それぞれ形態やシステムがかなり異なっている。業務委託については、生活クラブ生協側の変化によって対応が変わる。現在にんじんはなく、お弁当やさんが「ミズ・キャロット」として名前の名残を残しているのと、デポーは各デポーで好きな名前を付けてワークシステムで運営するようになっている。また、90年ごろ、編集や、印刷などをはじめ、翻訳や、ビデオ編集など生活クラブ生協の周辺的業種において新しい仕事起こしとして生活クラブ生協の音頭で事業化し始める。その後基幹業務でのワーカーズ・コレクティブ化が進み、生活クラブ生協のセンターの配達と業務が、配達のキャリー、事務局業務のjam、に代替されるようになり、ある種のアウトソーシングが進んだ。
当時の3分類のワーカーズ・コレクティブのどれもが大きな限界を持っていた。
つまり1つめの業務委託型では生活クラブ生協の業務を代替するタイプで、ほぼ世間のパートの時給を元に委託料が換算された。いわゆるパート的労働になりがちであった(世間的パート以下の労働条件の場合も散見された)。2つめの事業型では、レストランやリサイクルショップや教室、編集プロダクションなどの独立した事業であるが、これも営業や経営力が足らずに、多くは主婦の趣味、のような状況になりがちであった。3つめの福祉型たすけあい系の福祉ワーカーズ・コレクティブは有償(あるいは無償)ボランティアに他ならなかった。
 
  「人間のトータルな生き方で言えば、一人の個人の生き方の中で、男も女も、家事も仕事も地域の社会活動も位置づけられていくことが望ましいのであって、地域活動専業主婦の存在も、その意味であくまでも一つの過渡期のありようとして位置づけておく必要はあるであろう。とくにそれは、今は、地域での女性のボランティア的エネルギーを福祉や介護の地域活力に誘導する動きが活発化している折、それらの動きは、再生産の社会化という問題を、シャドーワーク労働にパートより劣悪な条件でペイすることによって有償化し、結局のところ日本型在宅福祉・安上り福祉の肩代わりを女性に分業させる、福祉政策を通しての“新性別役割分業”の再生産に組していきそうな気配が大いに気になるところである。」7)

金井氏の懸念は全くもっともな状況であった。


4)社縁社会から総撤退論の検証 
 こうした中で、銃後史研究家加納実紀代氏が、「社縁社会から総撤退を!」という提起を行い、(新地平1985年11月号)議論を呼んだ。1)
 つまり、男性並みに企業に尽くしてのキャリア・ウーマンになることはもちろん、パートで低賃金で単純労働をすることも、女性が生きやすくなることではない。むしろそこからみんなで引き上げて、女性をうまく利用している、今の社会を困らせる方が効果がある。そして女性は家庭に入るのではなく、ほんとうの使用価値を求めて、有用な生産を地域で紡ぎだそう、という提案だったのである。その中には生活クラブ生協のワーカーズ・コレクティブの始まったばかりの実践も例として含まれていた。
この提起は現場から遊離し始めたように見えるフェミニズム業界と、少しも前進のない労働現場での女性の惨状と、それとうってかわって元気な地域の主婦たちの状況が反映していたと思われる。賃労働の場からの女性の撤退を呼びかける文章は、載った媒体のせいもあるかもしれないが、多くの批判が寄せられた。2)加納氏への反論は、なぜ女性が撤退なのか、シングルの女性との分断ではないか、役割分業の肯定である、など、むしろ女性の闘う課題は「性別役割分業解体」と「労働の場での闘い」の二重戦略を提起し、ことごとく、撤退せずに踏みとどまる路線であって、彼女の呼びかけに賛意を示し応えたものはほ                                   んどなかった。
一部に家庭擁護論主婦賛美論だと誤解を生んだが3)、加納氏は、70年代を通じて自分がパートとして関わった労働現場でのさまざまの体験をもとに、労働の持つ意味の思索を重ね、どうしたら女性が今の状況から「自律」できるのかの方策を考えつづけた4)。
私は加納氏に認識論としてはほぼ賛成だったが、当時のワーカーズ・コレクティブは、経済的自立など望むべくもなく、前述したような現状で、とても選択に値すると思えなかった。生活クラブ生協でそうであるように、新役割分業モデルを破壊するより、むしろ維持することに回るという意味では、銃後を支えるのと変わらないと思えた。
生活クラブ生協に子持ち女として働いていていた私には、女性が撤退することは、さらに社縁社会を男性的な効率社会にしていく道を作るとしか思えなかった。子持ち女の働き方をむしろ社縁社会の標準にすることで社縁社会自身を変えることが男性も変えることだと思っていた。女だからこそ、原発を作る会社で反原発を言える自由を確保できるように、労働者が市民になるために闘わなければと思った。労働を非人間的なまま夫や他の人に押し付けて全日制市民なんて、間違っている。
私の中には、「武器から社会的有用生産へ」の運動を展開したイギリス ルーカス・エアロベース社の自主管理生産が、労働運動のビジョンとして鮮明にあった。そういう形で生産点への参加を切望していた私が、その途上で予定外に子持ちになったときに、母であることを受け入れながらその思いを遂げるには、妻子を養う男にはできないこと、子持ち女だからこそできること、が、社縁社会を変えるために、あるのではないか、それ以外にない、と思って自分の場所を定めたのだ。

「ワーキング・マザーが子どもの人権を最大限尊重しながら働き続けるには、社会の方が変わってくれなければならない。そしてそれは、母親のみならず、他の女性労働者、ひいては競争原理の中で自分を仕事に埋没させている男の労働者にとって、“生きやすい状況”をつくることになる、と私は信じる。
子どもができたんだから、仕事はやめて、生協活動をやりながら子育て楽しんで、手が離れたら地域でワーカーズ・コレクティブをつくって自分の条件に合わせて仕事をはじめたっていいじゃない、という生き方に対して、フルタイムの労働者を選ぶことで、あえて“ノー”をいった私は、この選択からしかできない社会変革を自分の課題にしたつもりなのである。」5)

また、横田氏の提案した生活クラブ生協型「M字型雇用」について
「そもそも出産を機に男女とも退職、なんて時代の逆行である。子どもを持った人間を家庭や地域に追い出したら、職場はどんどん効率主義になっていく(職能給導入のための答申としては、そういう意味でふさわしいのかもしれないが)。ここでいう『地域協同社会』とは、三つのカード(労働・地域・家庭)を時に応じて都合よく切り分けて、効率よく世渡りすることではなく、この3つを常に一人の人間の中に混在させ、ぶざまにぶつかりながら社会を丸くしていくことから生まれるのが本当ではないかと思うのである。」
と批判した。
経済的自立はしっかり手に入れつつ、効率主義、能力主義に荷担しないように、生産性の足を引っ張って、居直ることで変えようという不良在庫戦略だった。
そして子持ち女の社縁社会参入のための以下の方針を出す。
?家庭内の性別役割分担を崩すきっかけを作る
?働きすぎの日本の労働状況を変える原動力とする
?職場の共同性を高める契機になる
?母親の目で仕事を組み替える

そのために社縁社会から踏みとどまるべきとした。その私の論文に対しての言及は私の知る限り2例である。6)

「協同組合とフェミニズムとの間にある問題には、次の三つの側面がある。ひとつには、運動主体の組合員女性の『主婦意識』の問題、第2としては、職員と組合員、職員と組織理事の家計における男性主導や組織原理上の問題、さらに第3には、この中で働く女性職員の女性労働者という立場での職場問題。どの問題のレベルをとっても、『運動体』であるがゆえに、『寝た子を起こすな』的にタブー視されてきた問題である。しかし環境生協(引用者:間違いだと思われる)や福祉生協さらにワーカーズといった形で多様化を遂げ政治の場に代理人を送り出すNET運動の母体にまで発展している『生活クラブ生協』が、タブーをタブーのままにしておくことはできるはずがない。その意味で、協同組合運動の中での『主婦論争』の再燃、あえて『寝た子を起こす』取り組みが必要であろう。さらに『ワーキング・マザー』として中で働く女性職員が抱える問題、これは特に経済合理性の追求とは違う理念をひきずるがゆえに問題化しづらい性格のものであったが、あえて矛盾を問題化し、運動の中にそれを位置づけていく必要がある。後者の問題については、榊原裕美『ワーキング・マザーから見た生活クラブ生協』(出典略)7)に、運動体と労働者、とりわけ働く母親にとっての職場としての矛盾をフェミニズムの視点で洗い出した鋭い問題提起がなされている。その意味で協同組合運動は女性にとっては、この『協同組合運動のフェミニズム問題』とも言うべき問題とどこまでかっちり向き合うことができるかに、「主婦の生協」からの脱皮と、新しい経済社会システムへのオルタナティブ運動たりうるかの否かの、分かれ道がかかっている。」8)

  「また、ワーキング・マザーの専従職員は、女性職員が仕事を続ける体制が整っていないことを次のように指摘している。『かつて職員研修のとき、子どもを実家に預けずにつれていって、助け合いのワーカーズ・コレクティブの人に頼んで、みてもらったことがあった。部屋は用意してもらったものの、1日5000円以上かかる保育料の申し出には、冷たいノー。2日で1万円の負担に耐えられず1日で帰ってしまったけれど、そんな交渉の後ろの研修室では、学者がワーカーズ・コレクティブで地域に保育の助け合いのしくみをつくり利用することの重要性を力説していた。そこで働く女にとっては、皮肉でしかないことに気づいいて欲しい』9)女性職員が男性職員と同じようにフルタイムで働きつづけることは、たとえば課長といった役職に女性が男性と同様に就くための前提であるが、そのためには、乳幼児を抱えた職員が生活クラブ生協を離職しないで働きつづけられる体制作りが不可欠であろう。」10)

この最後の部分はあまり的を得ていない指摘であった。と言うのも、子育て後にM字型で生活クラブ生協に「再就職」した女性職員の中には多く出世して、課長はもちろん部長や専務にもなっていたのだ。生活クラブ生協自身がまだ20年くらいの短い社歴しかなく、また子育て中に生活クラブ生協の熱心な活動家組合員であったことは、キャリアにプラスされるからであった。反対に子どもを持ちながら育児時短をして働きつづけた女性はほとんど出世しなかった。それは最初から半人前の烙印を押されてしまうからではないかと思う。出世のための戦略というより労働の権限の拡大という意味で、この問題は結局女性の勤続年数を長くする問題と大きく関わることになる。
さて私の作戦はうまくいったであろうか。90年代は比較的うまく行って、その中間報告とも言うべき報告「生きること働くこと暮らすこと」を書いている。11)
また、女のユニオンかながわの講座で呼んで議論した加納氏も、総撤退論から総参入論12)を唱えてくれた。

簡単にどんなことをしたのかを挙げてみよう。
? 家庭内の性別役割分担を崩すきっかけを作る。
夫への家事育児分担。夫の勤務時間が9時5時ではないので、送り迎えをさせた。私がユニオンの会議で遅いときは(仕事で遅いことは起こりえない)、早く帰らせて食事を作らせた。たまに本人に職場の会議が入って出席できずに不義理をすることもあったらしい。女にはしょっちゅうあることだから、当然と思った。それで降格になってもやむをえない。女には普通のことだ。それでも夫のいるときしか外に出られなかった。だから責任者になって自分の都合で日程を入れられる立場にないと活動できなかった。夫は自分が子どもの犠牲になるのは厭わないが、私が子どもを犠牲にするのは許さなかったので夫のいないとき妹に頼んで遅く帰ってきて(これは仕事がらみ)殴られたことがある。家事をしぶしぶやる生活クラブ生協嫌いの夫に半分しか家事をしないことを決めてる私が、消費材を使って自然食でやれとは要望できなかったし。独身のときの方がエコロジストだった。結局夫との関係において家父長制は全然崩れなかったと思う。
? 働きすぎの日本の労働状況を変える原動力とする
今の主婦付き男を標準にした職場で「子どもも仕事も」は、超人的スーパーウーマンしかできない。普通の女が体を壊さずに両立するためには、なんとしても労働時間の短縮しかありえない。結局女性がとることになる育児休暇じゃ、性別役割分業をつくるだけだと思って、男女ともの育児時間短縮制度は、労働組合の結成時からの要求だった。規定労働時間の2時間の短縮が、子どもが小学校に上がるまで可能になった。しかもその働いてない時間が1時間の場合は9割、2時間の場合は8割、支給されるので、賃金カットは2万円弱であった。(それ以外の違いは社会保障等にも全くなし。私は育児時短中にチーフに昇進した)
? 職場の共同性を高める契機になる
こうしたことを、一人でやるには、出世するかうまく策略する以外は無理だが、普通の労働者が誰でもできるために88年第2子産休明けに労働組合を作った。春闘の時にバッジをつけたが、この行動は自分にとって新鮮だった。賃金は恩恵ではなく自分たちで勝ち取るものだと自覚できた。ただ結果として組合は少数派で孤立を余儀なくされ、共同性はむしろ破壊された。労働組合自身が女性差別的だったので3年程で辞め長くいなかったのにずっと要注意人物であった。
? 母親の目で仕事を組み替えること
入ってすぐにチェルノブイリ事故。授乳していた私は、青くなり、野菜は極力食べないようにし、保育園では牛乳を飲ませないようにお願いした。生活クラブ生協の牛乳を取るのもやめた。でも牛乳も野菜も仕事としては供給していて、職場で危ないのでは?おかしいのでは?とおずおず言ったけど取り合われなかった。牛乳の配送してくる太陽食販の人に「放射能汚染大丈夫ですか?」と聞いたら、「仕事で運んでるだけだから」という答にショック。金もらえば毒でも運ぶのか。そういう仕事の仕方だけはしたくない、と思ったがそういう私も、自分は取らない牛乳の供給を止めるべきだと公式に提案することはできず。早速苦しい状態に。やっぱり労働組合が必要だ。一人じゃ提案できない、経営から独立して、そういう問題を話せる場所が欲しいと痛感した。
入職1年目のときデポーの経営が思わしくないので、何かいいアイディアはないか、と会議で言われ、フェアトレードのコーヒーを扱っては?と言ったら、まだ一般的でない時代で、そういうのは自分たちでやれ。うまく行ったら生活クラブ生協でやると言われてびっくりした。逗子の問題もそうだと言う。他でやってうまく行きそうなのをみてそれを取り上げて最初からやってたように振舞うのが生活クラブ生協式だと分かった。その後マレーシアの三菱化成の現地工場の放射線廃棄物に被爆したブキメラの子どもたちの支援のため14)の無農薬のフェアトレードコーヒーを地球の木でも扱ってもらって、私の部署でも扱っていたら、契約以外の仕事をしたといって始末書を書かされてしまった。生活クラブ生協で取り組む学習机には熱帯材を使ったものはやめよう、と新人研修で提案したら、そのうち国産ヒノキのものが入った。私は10年以上住宅部門の担当だったが、熱帯林を使わない家作りをめざそうと「MOK森を考える神奈川の会」という市民運動を作って、ネットの代理人を通じて、公共事業に熱帯材を使わない仕様をつくるように申し入れたり、反農薬東京グループという市民運動グループで、「住宅が体をむしばむ」というシックハウスを警告する本を作ったりした。ワーカーズ・コレクティブもつくろうとした。(第2章1.2))

 私は自分の書いたとおりに変えていく志だけはなくさないで、居続けてありとあらゆる事をした。
労働組合も作ったし、女性だけのユニオンにも入ったし、有志で学習会をしたり、フェミニズムの講座をした。育児時短制度も導入させた。仕事の中身を変えようと、環境市民運動にも積極的に関わった。
私は、自然エネルギーや、南の国の森林問題や、日本での林業問題、化学物質問題など市民運動を盛り上げて、世論や行政を変えていき、問題解決型生産として生活クラブ生協の事業を売り出すという市民運動と協同組合による連携プレーを考えていた。実際市民グループがシロアリの駆除剤の有害性を行政に訴えて、住宅金融公庫の仕様を変える成果をあげ、生活クラブ生協では、農薬でない植物性のシロアリ駆除剤を具体的に事業として普及させるということがあった。労働時間中に厚生省に市民グループと交渉に行くとか、こうした関係をきちんと事業としてつくりたいと思った。
熱帯林破壊問題に市民運動として取り組み世論を高め、生活クラブ生協が熱帯材を使わない住宅作りを売り出す、シックハウス問題を市民グループと広く訴え,規制を作り、実際的な自然派住宅の提案を生活クラブ生協でする。運動を利用した事業、市民運動にとっては、問題提起だけで、結局企業の「地球にやさしい」をはじめとする差別化戦略に寄与してしまう苦い回路ではなく、その告発すべき構造を生産点の視点から見るラジカルな視点を獲得することができるし、また生活クラブ生協にとっても良心性のイメージにのみ安住しないで、市民グループとの交流や連携を通して現実的な事業の質を市民の具体的要求に合わせて高めていき、生産の中身を具体的に変えていける。また身銭を切ってやっている市民運動の成果を掠め取るような真似をしないでちゃんと市民運動の発展に貢献できる。こういう相互作用的な回路を実践しようとした。それこそが運動と事業の両立ではないか。
のちに自然派住宅も、太陽光発電も、国産材住宅も生活クラブ生協の目玉にはなった。私の提起は何年かして、結果としては現実になった。が、私には貢献感をもたらさなかった。実現したころは世間的にあたりまえになっていて、生活クラブ生協の内発的な運動の結果ではなく、時代に合わせた結果にすぎなかったから。私はすでにその部署にはいなくて、そうするための誰も知らない苦労を一人でしただけで、成果からは疎外され、すでに世間より半周遅れになってる状況を苦い悔しい思いで見なくてはならなかった。子ども背負ってあちこち行ってやってきた結果がこれでは、苦しすぎると思った。掠め取られた市民運動だと思えばよくある話だし、生活クラブ生協にいると他の企業にいるよりも市民運動がやりやすい、などと考えれば悪くないことかもしれないが、私とすれば、もともとフルタイムの仕事以外に余分に趣味で市民運動がやれるほど優雅な身分じゃないし、母親として労働の場にいることを原点にして、生産の場のあり方を変えることこそが私のここにいる意味だった(シンシア・エンローに習えば「職場の非軍事化)である)。そうじゃなきゃ辞めて生協組合員のようにラジカルに地域活動をした方がましだと常に思っていた15)。私にしてみるとこれは成功では全くなく、やっぱり生産点の体質は何も変わらないという皮肉な、挫折を見せつける結果でしかなかった。
また、労働条件を変えることもできはした。確かに生活クラブ生協の育児時短制度は画期的で、小学校前の子どもがいる男女ともに、内実5時間労働に短縮する選択肢ができたこと、またその制度が、短縮して働いていない時間分も払わせる(時給の8割から9割)と言う意味では、育児というアンペイド・ワークを支払わせた歴史的なものとさえいえるかもしれない。そしてまたこれは、ますの氏が唱えた4時間労働論への一つの実現でもあるはずである。今では子どもを産んだあとも多くの女性たちが働きつづけている。
しかし私が辞めたほぼ同時期に同年代の女性が5人も辞めた。みな幼児が育って小学生になったころの女性たちだった。そのうちの一人の後輩が言った。
「子どもが小さい時には夢中でとにかく毎日大変で働きつづけられたが、小学校に上がって、少し余裕が出てくると、こんな仕事をずっといていくのかなあ、て思いはじめて、意味が見出せなくなった。」
これには私も全く同感であった。社縁社会の不良在庫として、参入したつもりであったが、これは失敗であったと思う。この不良在庫路線は、どんなにつまらなくてもいつづけるという路線なので16)、そもそも私の最初の戦略「母親の目で仕事を組替える」こととは矛盾するのであった。実際は子どもがいるからこそ、有意義な労働がしたいのである。お金のために無意味な賃労働するより母親業の方がずっと有意義に思えてしまうので、独身OLのように淡々と続けることが困難だ。母親労働者(特に共稼ぎでさしあたり経済的に困窮いていない場合は特に)はいつも心のどこかで、育児と仕事をはかりにかけて揺れている。ましてやわたしのように犠牲を払って賃労働に意味付与しようとした結果がこれで、それを毎日見せつけられてはなおのことだ。
 彼女以外では2人が人間関係で辞め、1人は福祉の資格をとるのを理由に辞めた。実際センター業務の女性にも配達業務が入ってきそうな情勢で、40過ぎの彼女たちにはあまり展望のない職場になりそうだったのも大きいと思われる。私と同じように、労働の裁量権が「半人前扱い」であったのと、また将来の自分の姿がそこに見えなかったせいではないかと推測する。女性が働きつづけるには、育児時短だけではだめなのだ。(もちろん育児時短を取らずに辞める女性もいる。またなかには自分一人だけ早く帰るのがどうしても嫌で辞めた人もあった。職場の理解はあっても本人が完璧主義者だと両立しないようだ)子どもが小学校前まで拘束6時間労働に短縮されても、結局それがあけるまでの勤続年数を6年延ばすだけなのだ。そのあとの女性の能力を活用するビジョンが全くないのでみな辞めてしまう。単に子育ての時間確保では女性の勤続は進まない難しい問題がある17)。
私は6時間労働の強みを生かして女性ユニオンでパートの運動もした。パートの労働相談にのったり、国会に行ったり、労働省交渉にもしばしば行った。パート集会も開催した。そこでも正規労働者のパートタイム化をことあるごとに唱えたものの、ほとんど支持を得ることはなく、もちろん後に続く人もなかった。恵まれた正規労働者、としか思われなかった。生協組合員からも、私たちのただ働きでいい労働条件なんて、と言う反応だ18