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2017-02-08

ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 7ページ目(不定期更新の短編小説)

20:53

お知らせ。

※現在ご覧頂いているページは7ページ目です。



 1ページ目はこちらです

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 1ページ目」

  http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20141029/1414590993

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 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 6ページ目」

  http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161124/1479999656


※目次のページをつくりました。

 こちらのページから本小説の別のページに飛ぶことができます。

 目次/sommaire http://torasangmotoki.jimdo.com/sommaire/


※更新マーカーを設置しました。

 これは本小説は随時不定期に物語の続きを更新する小説なので、

 その更新した場所を明確にするための栞のようなものです。

 ↓ここから更新↓、このように作中に挿入しています。


※2月8日に更新しました。



//※//


↓ここから更新↓



僕も彼女と似たような精神的構造を持っている。

それこそが僕が

フェラチオという行為に固執している理由というわけ。

正確に書くならば僕はそれが要因だと思っている。

こんな回りくどい書き方になるのは —— 自分自身のものでさえ ——

人生には解釈しかなくてそのあとには

解釈への各々の好みだけが残されているからなのだけれど 。


僕はフェラチオという性行為が好きなんだ、

まあもっとも嫌いな男なんてそうそう居ないとは思うけれど、

もちろんして貰うほうだけれど、

あるいは"させる"ほうと言うべきか、

この辺は趣味の違いだろうね、

させるのが好きなのかされるのか好きなのかどうか、

心の話だよ、

心理的にさせるのが好きなのか、されるのが好きなのか、

させるとされる、一文字違いだけれどその実際は大違いだ、

僕は両方好きだけれど、気分によるね、

気分だよ、SとかMの話じゃない、

だいたい日本ではSやMという言葉、

つまりサディズムマゾヒズムのことだけれど、

それを簡単に扱い過ぎるんだ、

語源となった作品を読めば

簡単に扱えるものじゃないことくらいわかるじゃないか、

マゾヒズムのほうはまだ良いよ、

でもサディズムカジュアルに扱うことについては反対だ、

サディズムマゾヒズム

この言葉の源が片方はサドというフランス人の作家の、

もう片方をマゾッホという

オーストリアハンガリー二重帝国の

作家の作品であることは、

今の日本だったら知っている小学生だっていることだろう、

でもその作品を読んでいる人はあまりいないようだけれど、

読めば分かる、マゾヒズム文学になるけれど、

サディズム文学にはならない、

あるいはこう言うべきか、

マゾヒズムはジョークになるけれど、

サディズムは冗談にもならない、

フランス哲学者ドゥルーズの著書を取り上げるという

回りくどいことをしなくても、

2人の本を実際に読めば分かる、

サディズム文学にはならない、

文学にならないということは

その後の研鑽と軟化を受けた結果である、

ポップカルチャーになりえないし、

気軽な話題にもなりえない、

サディズムマゾヒズムは昼と夜のように

互いを支え合う対極の関係にあるわけじゃないんだ、

マゾヒズムとは人間同士の精神的な関係性、

依存的な関係のことだけれど、

サディズムは依存する相手を必要としない、道具があれば良い、

もちろんこの道具というのは

痛めつける人間の肉体と精神と表情のことだけれど、

つまり性の道具としての人間だ、

マゾヒズムは相手個人に依存するものだから、

相手の選択が非常に重要なものだけれど

サディズムは攻撃可能でその結果として破壊出来る相手ならば、

相手がどんな人間でも構わない、

個人性ともいうべきものを必要とはしてない、

その証拠に彼らの作品を改めて読み返してみればいい、

マゾッホが自分の主と定めたのは1人の女だが、

サドは300人の老若男女を誘拐し拷問し殺している、

マゾッホは女と契約をしたが、サドは契約などはしない、

サディズムの本質は質ではなく量なのだ、

量とは相手の個性も相手との関係も必要としないものだ、

それに対して質は相手の個性や関係性が重要になる、

当り前だ、質は1つ1つを丹念に楽しむものであり、

量は数を楽しむものだから、

質を繰り返した結果が量になることはあっても

それは始めからの目的ではない、

僕は経験的に知っているけれど、

酒にしても食べ物にしても大量に摂取するものと

少量を味わうものとでは、味から舌触り、喉越し、

そして胃に納まった際の心地さえもが違っている、

例えば和洋食のフルコースは

2時間3時間4時間という時間をかけて料理を胃に収めるもので、

この時点で大食いは不可能なんだ、

食事時間と満腹の度合は比例している、

ゆっくり食べるば食べるほど、

少量の料理で腹はふくれるからね、

例えば小説などで料理の質を描写する際に語られることは

皿一品一品のことだが、

量、つまり大食いの描写で語られるのは

食事をする人そのもののことだろう、

本質が違うんだ、

サディズムマゾヒズムもそうだ、

マゾヒズムには支配者と被支配者の2人が必要なわけだけれど、

マゾヒズムにおける支配者とサディズムはまた違った存在なんだ、

わかるよね?、

マゾヒズムにおける支配者は

被支配者が喜ぶような支配の仕方をしなくてはならない、

そうしないとご主人様失格だからね、

この時点で、支配する方もまた

被支配者から支配されるような存在になっている、

つまりマゾヒズムというものは両者が依存的で、

相手を支配する者であると同時に

相手に支配される者でもあるんだ、

あるいはこうも言える、

もっとも我がままなのはマゾヒズムの奴隷である、と、

それに対してサディズムは相手の要望なんて一切聞かない、

自分の満足だけがあればいい、

相手が苦しめば良い、相手を痛めつけられれば良い、

繰り返しなるけれど、だからサディズムマゾヒズムが、

対極の関係にあるわけじゃないんだ、

正反対のものですらない、まったく違うものというわけ、

だから人間同士の関係に欲情するマゾヒズム

文学ポップカルチャーやジョークになりえても、

サディズムはいつまでたっても変態趣味でしかない、

ムチに打たれて喜ぶ人間の有様は簡単に喜劇に出来るけれど、

人にムチ打って喜ぶ者の笑顔を喜劇にするのは難しい、

少なくてもお茶の間、

という日本の文化の中では後者はとても難しい、

特に難しいのがサディズムの牙にかかった人間の手記だ、

マゾヒズムの被支配者や支配者の言葉は文学的で

読んでいると目眩がする、耽美と言うやつだ、

サディストの文章もなんとか物語の形を取ることはできる、

しかしサディストの牙に噛み付かれた人間の言葉は

いわば犯罪被害者の独白であり、

陵辱の記録であり破壊の再描写であり、

強引に剃られた体毛の惨めな跡であり剥がされた皮膚であり、

そこには現実しかなくて性欲にはなんとかなりえても、

文学にもポップにもなりえない、

文をこより文章を作り出すという工夫も喜びも無い、

暗く重く苦しい告白だ、

その上で僕は

サディズムに狂ってしまった女の話をこれからするよ、

そして僕の話だ。



以下、内容が重複している文章を2つ、文体を変えて掲載した。

1つはいままでの僕の —— そんな立派なものはないけれど—— 文体で書いた文章であり、

もう1つはこのインターミッションのなかで語った

ジェームス・エルロイ風の文体でお送りする。

片方のみをお読みいただくのも良いけれど、

可能ならば両方に目を通して欲しい。

なぜならばこれから描くのは僕の過去を襲った悪夢の根源であり、悪夢とは日常の中のフラッシュバックや深夜の睡眠の中で夢という形をとり、繰り返し繰り返し何度も現れ反復して押しては引き再び押し寄せる、真夜中の海の冷たい波のように心を痛めつけていく存在で、だから複数の文章が必要になるからなのだけれど。

それを文字にしてみようというわけ。

それでは早速はじめよう。


それは僕がまだ幼稚園児のときで、

仲の良い男の子の家にあそびに行ったときだった、

友人は痩せて身体の小さな色白の男の子だったけれど、

いじめやからかいの対象にはならないタイプの子だった、

それもそのはずで彼は頭が良くて、

新しい遊びを発明しては大勢の友人たちを喜ばせていた、

鬼ごっこやかくれんぼに飽きてきた僕たちに、

宝探しゲームや一風変わった障害物競走を教え、

どこで覚えてきたのかちょいとばかし難しいなぞなぞ問題を、

僕たちに出題したのだった、

どこの地域にも、誰の幼児時代にもこういう友人はいるもので、

僕の場合は彼だった、僕は彼と気があった、

言葉にできぬ親密さ、

というか互いを繋ぐ何かが2人のあいだにはあったのだ、

僕たちには友達が沢山居たけれど、

一番楽しかったのは2人きりで遊んでいたときだった、

彼は新しいなぞなぞ問題を誰よりもはやく僕に教え、

僕はその最適な回答者だった、

ともかく僕と彼は仲良しだったんだ、

彼の家には何度もあそびに行っていたし、

彼の家族にも何度も会っている、

両親と祖父と祖母、

友人は一人っ子だから、

5人家族で1軒の家に住んで居たというわけ、

お爺さんとお婆さんはとても優しくて、

彼の父は愉快な人で僕たちが家の前でボール遊びをしている時に、

混ざって一緒に遊んでくれたし、

彼の母は綺麗な人で遊びに行く度に、

手作りのクッキーなんかを振舞ってくれた、

当時の僕から見たら2人はオジサンとオバサンだったけれど、

いまの僕よりは歳がいくつも下だろう、

あるとき、僕たちは2人きりで彼の部屋で遊んでいた、

家には僕たち以外誰も居なかった、

祖母と祖父はどこかにいき、父親は仕事へ、

母親は買い物へ行ったのだろう、

僕たちはいつものように、

ファミリーコンピューターロボットの玩具で遊んでいた、

僕たちは攫われたお姫様を救い出すためにゲームで戦い、

玩具のロボットを使って悪の総大将と英雄の戦いを演じた、

その最中で彼が立ち上がり腰に手をあててズボンを脱いだ、

下着も一緒にだ、

動作に躊躇いはなく一瞬で、

あまりにも突然のことなので、

僕は驚きの声も出せずに固まってしまった、

僕の目の前にある彼の下半身、露になった小さなペニス、

そのころの僕のペニスも彼と同じように小さかったわけだけれど、

そのときの僕はきっと、

自分の父親と一緒に風呂に入った時に目撃した、

大人のペニスと彼のものを比較をしたのだろう、

友人は小さなペニスを露にしたままで僕にも同じことを求めた、

僕はなにがなにやら分らなかったけれど、

これもなにかの遊びだと思ってそれに応じた、

疑問は多くあったけれど、彼の言う通りにした、

なにせ彼は新しい遊びを発明する名人だったから、

だから2人して下半身を露出した、

幼児期の言葉でいえばスッポンポンだ、

だけれどこの先の展開は、

そんな牧歌的な響きのある言葉の方には向かわなかった、

友人が近づいてきて僕の足下に跪いたかと思うと、

僕のペニスを口に含んだんだ、

その口でぱっくりと丸ごとね、

そしてそのまま僕のものを舌で舐め回し始めた、

僕は混乱と怯えと、

沸き起こった快感と、

それからくる凄まじい罪の意識の中で身動きがとれなくなった、

なにがなんだかわからない、その感情の混乱は凄まじく、

これこそが彼の考えた新しい遊びなのだと、

思ってしまったほどだった、

1番やっかいなのは、

彼の行為に気持良さを感じてしまったことだった、

そしてそれがいけないことだとも思っていたことだった、

この点で、

ジークムント・フロイトが考えだした精神分析の理論は正しい、

しかし幼少の僕の性器は射精という機能を、

いまだに持っていなかった、

射精をしないペニスは延々に勃起し続けた、

だからその混乱と恐怖と快感と罪の意識が延々に続いた、

しばらくしてから友人は僕のペニスを口から吐きだした、

僕は放心していた、

そして次に彼は僕に同じことを求めた、

彼のペニスをほうばり舐め回すことを僕に求めんたんだ、

友人は僕の顔をみつめて無邪気に笑っている、

そしてその顔はこう言っている、

僕がしたのだから君も同じことをしなければならない、

それから僕にペニスを舐めさせた、

なにかの力が働いて僕はそうするしかなかった、

このそうするしかなかったという状態や感情は、

こういった酷い事体に巻き込まれた人間でないと、

わからないものだろうね、

そうするしかなかった、

人生の中にはそうとしか表現出来ない一瞬がやってくることを、

その状態と感情を、君は理解出来るかね、

それに大人になっても悩ませ続けられることに、

あの時の僕が口に含んだ幼児のペニスの味とにおいを、

僕はいまだに覚えているしいまでも再現出来る、

それを僕は恐怖と呼んでいる、

そうとしか僕には表現が出来ない、

フランス小説家ジョリ・カルル・ユイスマンス

さかしま」という小説で退廃と美の極致を書いた小説家

退廃の極地はこの小説の主人公にとっては、

自分の信心を見つめ直すための内なる教会でもあるのだけれど、

ともかくこの作家は女性器が放つ芳香を23種類の花の香り

それは蘭やジキタリスなどのことなのだけれどそれに足して、

肉料理にかける4種類のソースの香り

赤ワインやオレンジのソースを調合した匂いに例えた、

だけれど僕には個人としても作家としても、

性器のにおいを花々に例える趣味はない、

それに端的に言えば少年のペニスのにおいは豚の皮のにおいだ、

焼いた皮じゃないよ、

生の豚肉の皮のにおいだ、

ヌルっとした白い塊になった脂肪と、

凝固した血液がこびり付いた皮と、

滲み出る油と骨のにおいだ、

僕はそれを口に含んでいる、

唾液が彼のペニスのにおいと混ざって口内をかき回る、

唾液だけじゃないな、

僕はきっと眼から涙を鼻からは鼻水を垂れ流していただろうから、

唾液と涙と鼻水と彼のペニスのにおいが混ざったにおいだ、

今でも僕は覚えている、

幼い友人の性器は射精という機能を持っていない、

僕が舐めても舐めても彼は射精をしない、

しばらくすると再び彼が僕のペニスを舐めはじめた、

射精しない僕、

そしてその次は僕が彼のものを、

僕たちはそれを繰り返した、

射精をしないと言ってきたけれど、

射精出来ないと言った方が正しいと思う、

終わらないんだ、快楽が、

ただの快楽だったいいよ、

でも男性器の快楽というのは、

射精によって終わるように設計されているんだ、

つまり射精をしない性器は機能に不全を起しているわけだ、

役目を全う出来ない、だから苦しい、でも気持良い、

快楽と苦しみに疲れて無射精の果てに僕たちは放心した、

下半身を丸出しのまま壁に寄りかかった友人に、

僕は質問を投げかける、

なんでこんなことをするの?ってね、

すると彼はこう答えたんだ、ママが僕にこうするから、って、

あの時の彼の母親は一体何歳だったのだろう?、

幼稚園児からすれば大人の女性なんて皆等しくオバサンだけれど、

そのときの彼の母親の年齢は20代中後半から30代だろう、

つまりいまの僕よりも若かった可能性が高い、

あの優しくてクッキーを作るのがうまい彼の綺麗な母親が、

そんな女が実子のペニスをほうばって舐め回していたわけだ、

男児に欲情する妙齢の女性が、

ポルノやアダルトコミックなどを含む、

空想の世界にしか居ないと思っていて、

老若男女関係なく、

女性に感情移入して、

まあ男児に感情移入する方でも同じだけれど、

それらをマスターベーションの道具としか思っていない人々は、

優しくて平和で牧歌的だ、

なにせそこには現実世界で、

性的虐待をされた男児はいないのだから、

だが空想の世界でしか起っていないと思っているのならば、

随分とのんきなものだ、

友人が質問の答えを僕に告げてから少したったあと、

僕たちのもとに、

僕が大人のいまになっても見たことがない、

異常な笑顔を浮かべた女性がやってきたのだった、

そして友人は何も言わずに、

パンツとズボンをはき直してどこかへといってしまった、

僕に一瞥すらせずにね、

やってきたのはもちろん彼の母親で、

その最中、

彼女が僕になにかを言ったのか、

無言のままだったのかを僕は記憶していない、

僕の頭の中からすべてが抜け落ちている、

そして彼女は笑顔を向けて僕の前でうずくまると、

自分の息子の唾液がついて、

テラテラしている僕のペニスをほうばって、

舐め回し始めた、

それは僕にとって友人にされるよりもショックな出来事だった、

幼児期の僕にとっての同性の友人とは、

ヒーローゴッゴやプロレスごっこで肉体的に、

肌触合いもつれあう仲だけれど、

年上の女性は自分の母親の類型であり優しくて、

しかしおっかなくてだけれど保護してくれる存在だったから、

決して肌触合う存在ではないし、

ましてやペニスに快楽を与える存在でもない、

僕はこの時のショックで思春期が始まるよりも早く、

精通が始まるよりも遥かに早く前もって、

女性への価値観の転換を迫られることになったんだ、

彼女は鼻息を荒く涎を垂らしながら僕のペニスをほうばっている、

彼女の興奮した姿はいまでも、

こうやって語れるほどによく覚えているよ、

それにそれだけじゃなかった、

彼女は優しい手つきで僕を仰向けに寝かせた、

それから彼女はスカートと下着を脱いで、

僕のペニスの上に跨がった、

そして女性器のなかに僕の小さな小さなペニスを入れたんだ、

僕のペニスはこのとき勃起してない、ショックで縮こまっている、

それでも彼女は自らの膣に僕のペニスを差し込んだ、

入れるのには苦労したと思うけどね、

ともかくそれから彼女は僕の上で激しく腰を振った、

もはや僕は快楽を感じていなくて、

そのときの僕は彼女のグラインドの激しい動きで、

ペニスが千切れてしまうんじゃないかと恐怖していた、

実際に彼女は、

ペニスを自分の性器で千切りとろうとしていたんじゃないか、

彼女は口から涎を垂らして狂乱している、僕にはそう見えた、

僕の顔には恐怖の表情が張り付いていたことだろう、

彼女の瞳は僕の眼の奧を覗き込んでいる、

開いた瞳孔、輝く瞳、火照った頬、笑う口元、

僕はこのとき、女性が性欲というものを持っていることを知った、

彼女の陰毛がまだ毛も生えてない僕の陰部に突き刺さる、

唇を彼女の唇で塞がれた、

実子の唾液塗れの僕のペニスを頬張った口が、

その舌が僕の口内を舐め回した、

2人の口のあいだを、

どちらのものとも判断がつかない唾液が掛かる、

彼女に犯されていた時間が実際のところ、

どれだけの長さだったのかは知らないけれど、

僕の記憶では一瞬だ、

満足した彼女は丁重に僕にパンツとズボンを着せた、

彼女に手を引かれて2人して居間に行くと、

友人がソファーに座っていた、

彼はなにも言わなかった、

それから彼女はキッチンに行って、

冷蔵庫から取り出したケーキを僕たちに差し出した、

赤いイチゴが上に乗っているショートケーキ

友人はいつもと同じように僕に話しかけた、

その内容はたしか彼が昨日観たアニメかなんかの話だったはずだ、

たぶん僕もそれに応じたと思う、

僕は友人のペニスを含んだ口で、

その母親に舐め回された口でショートケーキを食べた、

ケーキを食べたあとで2人でまたテレビゲームをして、

それから僕は帰宅した、

このことを僕は家族には1度も話したことがない、

幼児に通常以上の愛情や欲望を抱いてしまう人の気持も、

理解できないわけではない、

それは僕が大人になったあとの話で、

僕にはいまでも子供がいないけれど甥っ子はいる、

実兄の子供だ、

その子が赤ん坊のときは、

あまりに可愛過ぎて食べたくなってしまったほどだ、

比喩じゃない、

ハンニバルカニバルもかくや本当に口にしたくなったんだ、

僕にはそのとき付き合っていた女性がいたのだけれど、

彼女にそのことを話したことがある、

彼女には20ほど年の離れた弟が居るのだけれど、

彼が赤ん坊のとき、

彼女は弟の愛くるしさに、

その手を口に含んだことがあると言っていた、

幼児あるいは赤ん坊というのは、

過大な愛情や感情を大人に生じさせるものなのだろう、

しかし、

友人の母親が僕にした行為をいまの僕ならば、

サディズムに乗っ取った行為と判断するだろう、

男児のペニスを自分の膣で引き千切ろうとしているんだ、

僕のペニスはヴァギナによって引き千切られる、

サディズム文学にはならない、

なぜか僕は彼女との行為を何度も繰り返したんだ、

僕はそのことを未だに解釈できていない、

恐怖により身体と思考の硬直が起り、

彼女から逃れるという意志が捨てられてしまったのか、

それとももしかして僕は彼女との行為を楽しんでいたのか、

判らないんだ、

だけれどあの時から僕の性質の大半が決定されてしまった、

運がいいのか悪いのか、

僕はそんな出来事に巻き込まれても、

大きなミソジニーを抱かずに生きている、

あくまでも大きなものはね、

他の人と同じように、

それなりのミソジニーならばもちろん僕も抱いている、

人間は母親に育てられて、あるいは捨てられて、

あるいは顔さえ知らずに成長するのだから、

男女問わず女性に嫌悪感をもっていないはずはないんだ、

だから僕も大きなものはもっていなくても、

それなりのものを持って生きてきた、

そんな僕が女性と愛し合って付き合うようになったのは、

10代後半のことなのだけれど、

その彼女は家庭を持っていた、20代の人だった、

先ほど話した弟の手を口にした女性には年上の旦那さんが居たし、

いまつきあっている、

フェラチオをする際に落涙する彼女にも夫が居る、

未婚の女性ともお付き合いをしたことがあるけれど、

あまりにも上手く行かなかった、

どの様に上手くいかなかったかを僕は言うつもりがないから、

察して欲しい、

君にならばわかるだろう、

だからこれからも僕は既婚者とのみ関係を結ぶのだろう、

そして僕はいまでもフェラチオという行為が大好きなんだ、

夫を持つ女性達が愛情をもって僕のペニスを口にふくむのも、

恋人間の義務のように男性器を舐めるのも、

鼻息荒く興奮しながらそれをしゃぶるのも、

フェラチオをして彼女が涙を流すのも大好きだ、

だけれどここでこんなことを語りたかったわけじゃないんだ、

本当はほかに語りたいことがあった、

いや本当は語りたかったのかもしれないし、

やはり語りたくなかったのかもしれない、

僕はどうやってこれからを生きていけば良いんだ。



幼少時代 —— それは俺にもあった —— 母親への甘えも ——

父への恐れも —— 友人も —— 遊びも。

東京の郊外=静かな街並/立ち並ぶ一軒屋=家族向けの住環境

—— 昼間でも人通りが少ない —— 。

俺の記憶が確かなものならば

—— 模造した記憶の可能性 ——

幼稚園へは母親が漕ぐ自転車の後ろに乗せられて通っていた。

家への帰り道も同じだ。

帰宅して近所の友人たちと遊ぶ=同じクラスの友人。

友人/ノッポな友人/デブの友人/ガキ大将/

金持ちの友人/貧乏な家の友人。

東京の郊外=さまざまな家庭の共存

金持ちの友人=ファミリーコンピューターのソフトをたくさん持っていた。

ガキ大将=ボクシングごっこ。俺達は色々な遊びを知っていた。

大勢でも遊ぶことも、数人で遊ぶこともあった。

俺には特別仲の良い友人が居た。

やつはあたらしいあそびを

かんがえる

俺は彼の家に遊びにいく。

友人の家=袋小路の一番奧。

袋小路の入り口には閉店したヴェデオショップ。

朽ち果てた建物/日焼けして色あせた看板/生い茂る雑草ポイ捨てされたゴミ/錆びたシャッター/錆びた自販機。鉄と土のにおい。

自販機はまだ動いている= ポルノヴィデオ が並ぶ。

裸の女たち/セーラー服/縛られた裸体/タイトル=毒々しい色の文字列/セックス、レイプ、誘惑、暴虐、おしゃぶり=幼少の俺には解読不能な言葉たち=危険と性欲を感じ取る。

あるとき俺たちは自販機に並ぶポルノヴィデオを眺めていた。

大人が通り過ぎる、俺たちは別の遊びをしてごまかした。

それからまたヴィデオのパッケージを見つめる。

ヴィデオを見つめる友人が

突如パンツを膝まで下ろして皮の被ったペニスをとりだした。

小さなペニス/彼は言う=ここが熱くなるんだ/

俺達は彼のペニスを指差す=みんなで笑った。

友人宅=袋小路の家。

思い出したくない記憶=幼少時代。

記憶=幼少時代。

そこは白い一軒屋だ。

品の良い友人家族が住む。

母親=やさしい。父親=やさしい。

祖父母=やさしい。友人=やさしい。

みんな= やさしい

子供部屋での遊び=テレビゲームロボットの玩具/ブロック遊び/

プロレス2人きり

おやつ=母親の手作り=ケーキ/ビスケット。

その日は赤いジャムが真ん中にのったクッキー/白い牛乳。

クッキーを口に放り込む/舌の上で転がしてから歯で噛み砕く/咀嚼する/唾液と混ざるクッキー —— 真っ赤なジャム —— /牛乳を飲込み/ジャムが牛乳の中で溶けてゆく/

喉を通り過ぎて —— 胃に落ちていく/においは —— 鼻に抜ける。

ジャム=花の香り、牛乳=生臭い。

しばらくして突然、友人がパンツからペニスを取り出した。

ポルノヴィデオ自動販売機の前のように/

俺は笑った。

だが今度は彼1人のジョークじゃなかった/

あいつは俺にもペニスを出すことを求めた。

そっちの方がおもしろい/彼の言葉だ。

俺はペニスを取り出し/やつが笑う/俺も笑う/大騒ぎ。

騒ぎ疲れて壁にもたれかかる=吐く息が熱い。

下半身裸の彼が俺の方に這い寄る=四つ足で近づいて来る。

突然、やつが俺のペニスを口にくわえた/混乱/驚き。

僕はやつの頬を引っ叩いた/やつがぶっとんだ/

歯が俺のペニスに引っかかる。

血が出る/傷が出来て=この時の傷跡はいまだに消えていない。

俺のペニスに残っている。

うずくまることもなく起き上がりやつは俺に近づく/

俺のペニスを舐める。

ごめん、ごめん、ごめんなさい=やつの言葉

やつはペニスを頬張る/

やつの口内で唾液と俺のペニスの血が混ざる/

豚のにおいだ

これは血が溜まった豚肉のにおいだ

俺はなにもできない。ごめん、ごめん、ごめんなさい。

涎と血

そんな最中に俺に変化がおこる/快楽=意味が判らない/

勃起=意味が判らない。

俺はどうしてしまったんだ。

射精はない=幼児の肉体=快楽が続く。

やつ/顔を上げる/微笑んでいる/意味がわからない/

やつの勃起したペニス。

壁際にもたれる俺+立ち上がりペニスを俺の顔に近づけるやつ。

ペニスが俺の/顔に —— やめてくれ —— 。

こんどはきみの番だよ。

—— やめてくれ —— 。

こんどはきみの番だよ。

—— やめてくれ —— 。

こんどはきみの番だよ。

—— やめてくれ —— 。

やつのこの言葉はいまでも俺にこびり付いている/こんどはきみの番だよ。

俺に/こびり付いている/俺にこびり付いている/俺にこびり/ついている/ついて/いる。

そのにおいが俺にこびり付いている。こんどは/きみの番だよ。

やつが俺の頭を両手で押さえつける。

このときのやつはどんな男よりも怪力だった。

俺の口に強引にペニスがねじ込まれる。

血が溜まった豚肉のにおいだ

息が出来ない。息が出来ない。

俺はやつのペニスをしゃぶる。

一心不乱=はやくおわらせろ/はやくするんだ=満足させろ。

やつの精液と俺の口内の痰が混ざる=溺れる/飲込め。

豚のにおいだ

やがてすべてが終わる/俺の番は終わった。

そしてあの女がやってくる=笑顔の母親

—— こんどはきみの番だよ —— =友人の言葉。

俺は女に強引に床に引き倒された/頭を強打=目眩/

足が動かない=友人が押さえつけている。

腕を押さえつけられる/動けない

—— ピンクに塗装した爪先が俺の肌に食い込む —— 。

化粧臭い顔が近づいて来る/舌が俺の口に入って来る/

はぁあああああああああああああ

=興奮した女の声 。

大丈夫/大丈夫よ/かわいいわね/女の声/

はぁあああああああああああああ

女の興奮/臭い息。

俺は涙と鼻水を垂らす/混ざって口元へとながれていく/

女が俺の舌と一緒に/それをすする。

あああはぁああああああああああ

俺=自分の人生を/恨んでいる —— やめてくれ ——。

気が付くと女の股が俺の腰の上で浮いている。

女の黒いショーツ —— ゆっくりと下ろされる=ヴァギナ

女性器/開いた口。

びしょびしょに濡れた性器。

食いちぎられる!

ペニスがそこに吸い込まれる。

俺のペニスの/皮が引っ張られ/さけて/ただれて/とけていく/

もうおわりだ= おわり

やつの性器に俺のペニスが噛まれる。

あああああああっはああああああ

女は涎をたらし髪を振り乱す/女の爪が俺の腕に食い込む/背骨が軋む音/床と擦れて俺の背中が壊死していく。皮膚が破れて/肉があらわになり/細切れに千切れていき/血管が切れて=血を噴き出す。

背中はぬるぬるした血液の水たまりでぬるく/痛みは増していく/やがて皮も肉もすべて無くなって=骨だけが残る/俺の背骨と床がこすれる/そして骨が/女が腰を振る度にすりおろされていく/骨の中の神経が粉みじんになる/脊髄が漏れて尻とペニスを濡らしていく/痛みを耐えることが出来ない/俺は嘔吐とする/おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ

サディズム文学にならない

だいじょうぶ/だいじょうぶよ/

かわいいいいわね/だいじょうぶよ。

マゾヒズムだけが

文学として機能する

だいじょうぶ/だいじょうぶよ/

かわいいいいわね/だいじょうぶよ。

女が腰をものすごい速さで振る=このとき俺のペニスは折れて/外れて/床に転がっていき/ 部屋の角で止まった/

そこで俺のペニスは踏み潰された/友人に。

俺の人生のすべて= このときにおわった



だいじょうぶ/だいじょうぶよ/かわいいいいわね/だいじょうぶよ。



なにもかも文学にはならない。だれか俺を助けてくれ。




人生というものには解釈しか存在しないということは

万人が知っていることだと思う。

運命という言葉も宗教精神分析も歴史も悟りも占いも物語も

諦めも批評も解釈という言葉のヴァリエーションだ。

自分がフェラチオという行為に依存している理由は

2つの文体で語ったこの出来事が原因だと僕は思っている。

僕はそういう解釈をしているというわけ。

僕の人生に対する

そんなが解釈が本小説には大きく反映されている。

これが僕の話だ。

これで僕の話はおわり。

そして物語とその読者である君を休憩させるために設けた

このインターミッションも終わりだ。

どうだろうか。

最初に表明したように

このインターミッションで書かれた文章には

優雅と美と前衛があっただろうか?

あれば嬉しい。

だが優雅と美と前衛があったとしても

このままでは

インターミッション幼児虐待の仄暗さに塗れたままで終わり、

その余韻を引きずったままで物語が再開してしまう。

それは撤回出来ない。幼児虐待は既に起ってしまったことだし、

ここまで文章を読み進めてしまった君も

それをなかったことにすることはできない。

1度起ってしまったことは

そこを始発点としながらあるいは中継点としながら

一本の線を描き現在まで続く。

その線の先端は未だにこない未来へと繋がっている。

小説のページや文章のセンテンスも同じことだ。

文章を、あるいは物語を読んでしまった君は

もう後戻りすることが出来ない。

だけれど心配はしなくて良い、本小説は明るくなってから終わる。


だって、この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なのだから。




(Intermission/終了)








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2016-11-24

ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 6ページ目(不定期更新の短編小説)

00:00

お知らせ。

※現在ご覧頂いているページは6ページ目です。



 1ページ目はこちらです

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 1ページ目」

  http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20141029/1414590993


前のページはこちらです

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 5ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161104/1478271150

次のページ

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 7ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20170208/1486554803


※目次のページをつくりました。

 こちらのページから本小説の別のページに飛ぶことができます。

 目次/sommaire http://torasangmotoki.jimdo.com/sommaire/


//※//



さて、自分の作品を解説する際にそのものを語るのでなくて、

影響を受けた作品の解説だけをするという

少しばかりアクロバティックな方法を選択したわけだけれど、

このやり方は些か前衛的すぎるところもある。

前衛は物事が持っている本質を露にするが、

前衛によって露に出来るものは

本質しかないのだとも言い替えることが出来る。

故に先祖への言及ではなく、

ここからは先祖との繋がりを示すことで

前衛を少し牧歌的な方向に振り戻し、

肉感的な土着性をこのIntermissionに与え

前衛にはないある種の泥臭さを伴った豊かさを得るために

もう少しだけ踏み込んだ解説をしたい。

前衛的な解説をすることで本作品の骨格についての解説は

出来たのだから次は肉体の解説というわけだ。

この解説の中でゴダールとプイグの引用趣味について触れた。

彼らの解説をすることをもってして

本小説の解説としているのだから、

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」にも

沢山の引用が登場する。

作中登場する引用の出典を明かし僅かな説明を加えることで

この解説が持つ前衛と牧歌のバランスを保ち、

それと共に引用元への敬意を捧げる儀式の一端としたい。

この儀式は先祖への捧げものであるので、

物語中の僕の実体験をもとにした出来事の解説はここでは省く。


本小説はBarを舞台にしたシークエンスから始まる。

そこにはまず始めにゴダールがいる。

物語の冒頭に登場するフランス語ダブルミーニングと謎掛け。

フランス語の《masculine》は男を指し示す言葉である。

男の中には顔とケツがある。

フランス語で顔を意味する言葉は《mascu》であり

ケツを示す言葉は《cul》だからだ。

このシークエンスの最後には同じような謎掛けが登場する。

ただし男性が女性に交換されている。

フランス語で女性を意味する言葉は

《feminine》であり女性の中には終わりがある。

フランス映画を終わりまで観れば分かる通り、

フランス語で終わりを表す言葉は《fin》であり

feminineの中には当然の様にfinが、終わりが含まれている。

このフランス語の男女に関する謎掛けは

ゴダールが1966年に制作した映画「男性・女性」に登場する。

「男性・女性」という映画は

60年代のパリの空気を真空パックして現代に伝える映画だ。

つまりそこで描かれるパリは

お洒落で可愛くてとても埃っぽくて少し汚い、政治的なパリだった。

シャルル・ド・ゴールという軍人にして

後に政治家になったフランスの男がいた。

第二次大戦中、パリがナチスドイツによって占拠されていた時代。

彼は亡命フランス人により英国で結成された亡命政府を率いていた。

そんな彼は当時の米国合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトから

保守派の象徴と見なされていた。

保守派。

フランスには服飾からワインまで数多くの名門メゾンがあり、

食品品質保証機関である

アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレがある。

それらに代表される哲学は血筋と正統性であり、

そしてそれらに相応な品質を維持する義務であり、

口悪く言えば権威主義である。

この権威主義は貴族と職人の折衷の末に産まれたものでもある。

貴族のなすことは豪華で規模の大きなものであったが

ムラが多いものであった。

戦争からワイン生産までそうだった。

戦争で大きく勝ったと思えば惨敗し、

歴史に残る名ワインが作られたかと思えば翌年には大不作であった。

ギャンブルそのものだが、

貴族は博打で負けても平気なだけの資産を持っていた。

それは土地である。

一方、土地を持たない平民はギャンブルができない。

仕事は堅実なものが求められた、

それは儲けは出ないが食べていけるだけの糧を得るためである。

常に一定の品質の保つこと、

これを出来る者が職人と呼ばれ、腕の良い者は重宝された。

しかし歴史的な名ワインが産まれることはない。

市民革命であるフランス革命がこの2つを結びつけた。

この革命の結果として土地を所有する市民つまり資産家が生まれた、

それに続き一般的な市民までもが資産を持ち権力を持つに至る。

そして服飾しかり食品しかり高品質なものを

常に供給し続けるという商売の需要が産まれた。

人々には金の使い道が必要だった。

需要に応えうる能力を持つ企業は長い間存続し

企業史を作りやがては名門と呼ばれるようになった。

そして人々はそれをありがたがった。

これを近代的な権威主義の始まりとしている、

なんせ名門という言葉は本来は家柄に使う言葉である。

商売人に対して使う言葉ではないのだ。

フランスはそんな近代的権威主義を生んだ国だった。

そしてド・ゴールはそんなフランスを象徴する男だった。

彼はアメリカやロシアなどの大国におもねらなかった。

自国を大国として復活せんとした。

あるいは権威を呼び戻そうとした。

それは権威というものへの欲動だった。

彼の政治的振る舞いは独自路線と呼ばれ、

ド・ゴール主義、ゴーリスムという言葉まで生み出した。

ゴーリスムを実践する人をゴーリストと呼んだ。

もちろん一番のゴーリストはシャルル・ド・ゴール自身であった。

そのド・ゴールがフランスの政治のトップ、

フランス語でプレジダン・ド・ラ・レピュブリックと言うが

これを引退したのが69年の春であった。

前年の68年には保守的で権威的な彼の政治体制に反対する

学生や労働者による大規模なストライキ運動、五月革命が勃発した。

この革命の種火は3年前の66年に

ストラスブール大学の学生が起した、

フランス学生連合への解散要求運動だった。

端的に言えば彼らは当時の学生連合が

ゴーリスムに傾いていたことを批判したのだ。

学生たちが起した政治的な運動は政府からはもちろん

最終的にはド・ゴールが起した解散総選挙により

国民からも非難されることとなるが、

学生による大学の自治は認められた。

つまり高等教育に政治家が介入することが禁止されたのだ。

この革命は日本を始め世界各国に飛び火し

当地の学生運動を加速させたが、

それらの国では運動が成功したとは言い難い。

そして後には若き日の想い出や

若者の怒りという言葉で語られる青春の想い出となっていった。

想い出になるのは悪いことではない、

若者の主義主張の転向を認めない国はどん詰まりだ。

キリスト教では放蕩息子の帰還は喜ぶべきものなのだ。

しかしコピーした革命は成功しない。

革命にはオリジナリティがなくてはならなかった。

フランス、66年当時は老哲学者であり

左翼の守護者たるエスプリの権化サルトルが健在で、

精神分析医にして哲学者であるジャック・ラカン

64年パリフロイト派を立ち上げ

66年に代表作である論集「エクリ」を刊行、

哲学者のドゥルーズとデリタは66年に「ベルクソンの哲学」

68年には「差異と反復」

デリダは67年に「エクリチュールと差異」を書いた。

つまり60年代後半のパリはアンテリジャンスと

政治の時代だったのである。

パリが政治的でなかった時代などは存在しないのだが。

対してインテリジェンスが喪失した時代は多く存在する。

そんな60年代の一時代を切り取ったのが

ゴダールの作品「男性・女性」なのだ。

「男性・女性」は男と女の間に存在する

政治と知性を取り扱った映画だった。

繰り返すがそのイマージュ

お洒落で可愛くてとても埃っぽくて少し汚い。

本小説はそんな映画から引用した台詞が

冒頭に書かれることで物語が始まる。


ジントニックのくだりで登場するラスベガスを、

僕は映画の「ハングオーバー!」で描かれた

ラスベガスの青空を想像しながら書いている。

砂漠と歓楽街を覆う青空だ。

トッド・フィリップスという

コメディー映画ばかりを撮っている監督が作った

ハングオーバー!」も

もちろんコメディーでそれも気の利いた状況設定と

ぬるくはないがエグ過ぎることのないジョーク、

いわゆるキャラ立ちした登場人物と

現代的なスピード感がある編集リズム、

そして壮大な自然風景と都市の景観を撮影した

モダンな映画作品になっている。

「男だけで観ると最高だ」という説明をされがちな作品だが、

スパイス程度の下ネタに眉をひそめない人ならば

女性でも笑える作品になっているこの作品は、

日本では「消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」という

副題がつけられた。

そのとおりアメリカの映画でよく描かれる結婚前夜パーティーをラスベガスで行った男たちが翌朝シーザーパレルホテルのスウィートルームで目を覚ますと昨晩のバカ騒ぎの跡を残す部屋には脱いだばかりの大量のランジェリーが散乱しており、室内に本物の虎が居て、おまけに人間の赤ん坊も居て、主人公の1人の前歯が抜けていて、もう1人の髪の毛がつるっぱげに剃られていて、最後の1人には病院に入院した形跡があり、ホテルまで乗り付けた車はパトカーになっており、最悪なことに、何故こうなったのかを覚えている人間が1人も居ないという混乱に混乱が継ぐ設定が物語の冒頭に設置される。

そしてもっとも重要なことは花婿が行方不目になっており、

その居場所を彼らの中の誰もが知らないということだ。

花婿と昨晩の記憶を探すことを物語の推進力としながら

主人公3人はラスベガス中を走り回る。

ホラー/サスペンス映画である「CUBE」や

「SAW」が生み出したソリッドシチュエーションの要素を

コメディー映画に転用したのはちょっとした発明だった。

この映画は低予算映画で

だからスターは出演していないけれど、大ヒットを記録した。

そして主役を演じた3人の俳優、

ブラッドレイ・クーパー、

エド・ヘルムズ、

ザック・ガリフィアナキス

そして強烈な脇役を演じたケン・チョンスターダムに押し上げた。

ハングオーバー!」シリーズは

現在3作目まで制作公開されている。


この他にもこのシークエンスに出て来る国々には

映画のイメージが投影されている。

実在の場所を想定して書いているものもある。

"フランスはパリで開かれる上流階級の晩餐会"は

フランス映画の「アントニー・ジマー」の晩餐会、

"イングランドのロンドンで行われる株式公開記念の祝賀会"は

詐欺行為で逮捕された実在する株式ブローカーの

ジョーダン・ベルフォートをモデルにした映画

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で描かれた祝賀会。

"ドイツのベルリンで模様される楽団への寄付金パーティー"

この楽団のイメージは

アメリカのTVドラマ「ザ・メンタリスト」の68話に登場する楽団。

"スペインカタルーニャのレストラン"は

実在したレストランの「エルブジ」、

"ベトナムにあるパタヤビーチのダンスホール"は

ニコラス・ウェンディング・レフン監督の「オンリーゴッド」で

描かれたダンスホール、ただしこの映画の舞台はタイだが。

"アラブ首長国連邦のアブダビに

設置された外国人観光客向け高級クラブ"は

ホテル「ロイヤルメリディアン」の地下にあるBarのこと、

"東京の場末のバー"は読者である貴方が知っているBar

あるいは想像するBarのことだ。


"歩道に出る"

冒頭のBarのシークエンスが終わり

本小説の主人公の"暖房器具"氏は尾行対象の"レッカー車"を追う。

ここからが繁華街の路上を舞台とする第2のシークエンス

彼が通行人の女性と目が合い彼女のことを観察して

評価を下しその後に妄想の世界に持ち込むシーンは

チャンドラーに倣っている。

彼が描いたマーロウも

女性のことを良く観察して評価を下していたから。


レッカー車はソドムとゴモラの街に並ぶ悪徳の都でもある

風俗店のピンクサロンに入店して

暖房器具も彼を追って店に入る。

この3番目のシークエンスで初めて本小説に会話文が登場する。

ただし通常の小説で使われる会話文を囲むカギ括弧はついていなし

句読点もほとんど使用していない。

会話文にカギ括弧と句読点を使わないスタイルは

アメリカの作家コーマック・マッカーシーに倣っている。

マッカーシーは小説における暴力の詩聖であり、

日本ではコーエン兄弟が監督した映画「ノーカントリー」の

原作小説を書いた人として知られている。

80回目のアカデミー賞で作品賞に輝いて

日本でも興行収入を稼いだからだ。

ノーカントリー」の原作は

彼の書いた小説「血と暴力の国」で、

これの他にもマッカーシーの小説では

会話文でカギ括弧が使われないのである。

それが小説に独特の雰囲気を与える、

例えば読者に乾いた印象を与える文体を構成することに

それは寄与している。

小説というものは通常は2つの文章により作られている、

地の文は登場人物の心中の描写や行動描写

そしてナレーションの役割を果たす、もう1つは会話文。

地の文と会話文の2種類で小説は構成される。

通常の判断ではカギ括弧が使用されていない文章を地の文と呼び

カギ括弧で覆われている文章のことを

会話文と呼ぶ慣わしになっている。

つまりカギ括弧こそが地の分と会話文の区切りである。

ところがマッカーシーの小説にはそれがない、

地の文と会話文の区切りが不明瞭なのだ。

ある文章が主人公の心中の描写なのか会話なのかが

一見すると見分けられないことがある。

端的に言うとそのことで説明文と会話文の違いが明確に分からない。

このことを理由に読者は彼の小説に淡々としたドライさを受ける。

彼の小説にはおびただしい量の暴力が登場し

それに付随して被害者の叫び声もおびただしい。

ところがカギ括弧で囲われてない叫び声や

死の間際の言葉や恐怖の呪詛は

地の文と見分けがつかずナレーションのようにも思える。

これが文章に乾きを与える、徹底的にドライなのだ。

想像して欲しい、君はある映像を見ている。

とある部屋に1人の男が立っていて、

突如として彼の腹部に刃物が突き刺さる。

彼は「うぎゃああ」とか「がっぎゃあああ」とか

壮絶な叫び声をあげて地面に倒れこむ。

それからしばらくのたうち回ってやがては動くのをやめる、

彼は死んだのだ。地面には赤い血が流れている。

これが普通の小説である。

ところがマッカーシーの小説では

映像についていた音声があらかじめカットされている。

そのかわりナレーションが入る。

その映像を観ても刺された男の叫び声は君の耳には入らない。

ただナレーションが言うのである、

男はうぎゃああと叫んでから倒れて死んだと。

これがマッカッシーの小説だ。ドライなのだ。

フルカラーの生々しい映像ではなく、白黒の乾いた映像だ。

そしてカギ括弧の不使用はもう1つの効果を発揮する。

物理的な、文章の見た目としての区切りがないのだ。

文章を追う眼に区切りが無いのだから

読者は文章を淡々と読み進めることになる。

つまり会話文を読む直前に読者の心に生まれる

身構えるような気持が発生しないのである。

読者に会話文を特別視させないという言い方もできる。

すると全てが均一化して来る、そこでは心中の描写も行動の描写も

説明も会話もすべてが同価値である。

それは物語を現実を越えた超現実なものにし、

物語ではなく詩を読んでいるかのような印象を読者に与える。

どんなに現実的な物語であろうと地の文と会話文の違いが

不明瞭になることで作中の現実と非現実も不明瞭になっていくのだ。


この後。

レッカー車と暖房器具はプレイルームに通される。

性的サービスを受ける場所だ。

彼はそのために設置されている椅子に座る。

暖房器具は女性従業員がやって来るのを待っている。

周りは絡み合う男女、嬌声、精液の臭い、

ピンク色のライトで満ちている。

暖房器具は観察する。周りを。

女とからみあっている尾行対象の男を。

このシークエンス。ここではエルロイの文体を倣っている。

エルロイ。ジェームズ・エルロイ。アメリカ人。大男。

そして現代に生きる希代のノワール小説家だ。

彼の小説はアメリカの戦後を舞台にしている。

主人公は刑事。女が男に犯される、殺される。刑事は犯人を捜す。

捜査が進む。そして主人公は闇に飲込まれて行く。

戦後のアメリカ社会が抱えていた闇に飲込まれて行く。

犯罪はその暗闇の一端。

地底から噴出する暗黒のマグマ。

歪な表現方法だ。

それに触れることは歪んだ戦後アメリカに触れること。

彼の小説の大半はこの要素で出来ている。

その理由はエルロイ本人の母親が殺されているからだ。

その犯人は捕まっていない。

彼は小説を書くという行為によって

母親の死と向き合っているのである。

女が殺され、主人公は犯人を追い、

そのことでノーワルに、闇に飲込まれていく。

簡単に答えは出ないし、答えを見つけてもろくなものではない。

彼の小説の文体は異様だ。

もちろん全てがではない。

特に初期の作品では何の変哲も無い普通の文体を使っている。

しかし文体の変容は「L.A.コンフィデンシャル」から始まる。

L.A.コンフィデンシャル」はエルロイ9作目の小説であり

後に映画化もされた。

そしてアカデミー賞の数部門にノミネートされた。

ところが同年の話題をさらったのは

あの「タイタニック」だったのである。

だが「L.A.コンフィデンシャル」は

90年代のノワール映画の名作として

名を残すことには成功している。

しかし映画は原作の魅力を完全には引き出せていない。

原作の文体が異様なのだから仕方が無い。

あるとき。この小説は途切れるのだ。

文章が。短く。細かく。切断されたように。

そして説明は極力省く。必要以上の装飾もない。

文章が短いことで、リズムと、緊迫感が物語に加わる。

そして次作の「ホワイトジャズ」でその文体が完成する。

「ホワイトジャズ」では文章に記号が挿入される。

単語を——の様な記号で繋いだり、

あるいは文章を/この記号で区切る。

——そして時には 文字が大きくなるのである。読者はまるで電報に書かれた文章/コンピューターの言語を読んでいるような感覚に陥る。生じるのは——緊迫感を遥かに越えた 切迫である——あるいは 狂気偏執この文体は物語に何らかの 異様が起っていることを読者に——伝える。異様なことなど沢山ある/そこで起きた事件/主人公の心理状態/犯された/殺されたあるいは戦後のアメリカ。しかし本小説が倣ったのは「ホワイトジャズ」ではない。「L.A.コンフィデンシャル」のエルロイの文体なのである。「ホワイトジャズ」の文体は僕には手に余る 狂気であり作品の性質を—— 内側から作り替えて——しまうのだ。



そして主人公の暖房器具氏とピンクサロンの女性従業員という

繁華街の夜に生業をこなす人間2人の会話劇が始まる。

ここで彼女が話す身の上話は

ポール・シュレイダー監督のアメリカ映画「ハードコアの夜」の

又聞きのようなものだ。

ハードコアの夜」は失踪と捜索の話であり

類例として神話ならばヒンドゥー教に伝わる叙事詩「ラーマーヤナ

日本文学ならば10世紀の「落窪物語」、

アメリカ映画ならばジョン・フォード監督の「捜索者」を

挙げることが出来る古今東西にある典型的なものだ。

主人公の中年男は敬虔なキリスト教徒であり

善人でありそんな彼の娘が失踪する。

父は探偵を雇い娘を捜索させるが

しばらくのあとに探偵が持ち帰ったのはポルノフィルムであり

スクリーンには娘の裸体が映されていた、

娘は画面のなかで2人の男と性行為をはじめた。

娘は誘拐されポルノに強引に出演させられていたのである。

僕が観た「アラビアのロレンス」のintermissionが

映画観賞という文化のなかでもっとも幸福な瞬間だとしたら、

彼が観たのはスクリーンに出現した地獄そのものだろう。

娘を救出するために善人なキリスト教徒

70年代後半のアメリカ西海岸のセックスゾーンを

地獄巡りめいて渡り歩くことになる。

それはダンデの「神曲」で描写される地獄が比ではないほどの

苦悩に溢るる汚物と欲望に塗れたものであった。

しかし物語の真相はそれまで描かれてきた

誘拐と捜索の物語とは違うものだったのである。

娘は善人たる父親の

正しさと正さし故の規律の押しつけに辟易しており

彼の元に居ては自身の将来さえ自分で選択出来なくなるという恐怖と

父親への愛情の間で葛藤していた。

その二律背反たる拮抗が崩れたときに彼女は

自ら性風俗の世界に飛び込んだのであった、自由を得るために。

本小説は同じ物語の視点を父親から娘に移し替えて

マッカーシー風の会話劇を使用して

娘自らにそのことを語らせている。

それは「ハードコアの夜」という素材の周りを

マッカーシー風味のゼラチンで固めたジュレのような食べ物だ。

しかしこの料理の上には

おびただしい量の精液が振りかけられている。大量の男女の精液が。

だが食べることはできる。


これは引用元への感謝ではなく純粋な作品解説なのだが、

本小説は次のシークエンスのとある1シーンで

主人公の変更を行っている。

"僕は彼女が愛情を演じた手紙をくしゃくしゃに丸めた。

ゴミ箱に投げ入れる。"までが暖房器具の視点であり、

"僕はコンビニから風俗店を眺めている。"からは

もう1人の主人公である"観葉植物"の視点で物語が続く。

2人共に探偵であり同じ会社に勤める同僚であり

暖房器具は男性で観葉植物は女性だ。

2人とも心中の一人称は僕だが人前での一人称はそれぞれに違う、

心の中では2人とも僕だが、

人前では暖房器具は俺に観葉植物は私になる。

故に内心の描写……モノローグが半分を占める本小説では

主人公の見分けがつき難い。

いま現在物語を紡いでいる主人公の性別が

男性なのか女性なのか一見すると判らないのである。

これは意図してやっている。

本小説はそういう設計のもとに書かれた小説なので

それを読者がどう受け取るかは自由だ。

ある人はこの主人公変更のことを

「男性の主人公が女装をした」と捉えたしそれでも間違いではない。

この2人は"少なくとも現在のところ"は

他人とコミュニケーションが発生する場面は別として、

内面的には非常に判断がつきにくく

同一人物が男性と女性を演じ分けているようにさえ

あるいは1人の人間の精神の女性的な部分と男性的な部分が

ジキル博士とハイド氏のように

シーン毎に別れて登場しているようにも読める。

2人の主人公は人と対面する場面では

男と女それぞれの性別を演じているが

実は内面的にはその部分は混合しているようにも

捉えることができるのだ。


観葉植物氏がホストクラブに勤める男性従業員と話すシークエンス

街中で見かけた中年男性に自分の父親を重ねるシークエンスのあとに

本小説は趣向を変える。

ここで現れるシークエンスは枠物語である。

観葉植物は過去に受けた依頼を思い出していく、

回想では異なる人種国籍を持つ依頼主たちが

それぞれの人生を物語として語っていく。

それは本小説の本筋の物語の中で語られるまた別の物語であり

つまり物語の中の物語なのだ。

この枠物語はヒンドゥー教の聖典であり「ラーマーヤナ」と並ぶ

マハーバーラタ」に起原をみることができる。

有名なものではアラジンやシンドバッド

そしてアリババが登場する「千夜一夜物語」や

ボッカッチョの筆による「デカメロン」がある、

この2つの物語も枠物語の構成をとっている。

デカメロン」を書いたボッカッチョ

ダンテやペトラルカに並ぶ歴史的な快挙を遂げたトスカーナ人で

彼の本では10人の男女が10日間かけて100の話をする。

実は彼らは流行の疫病から逃れる為に室内にこもっているのだ。

故にその話は、物語を語り聴かせるという行為は、

それを聴くという行為は暇つぶしのためなのであった。

千夜一夜物語」は横暴な王を物語によって沈静化する話である。

アラジンやアリババが登場する物語の語り手は2人の姉妹であり、

朗読の場所は王の寝室だ。

横暴な王は若い女を宮殿に呼び

夜な夜な処女を奪っては次の朝に殺すということを繰り返している。

なぜならば王は妃に性的に裏切られており、

そのことが原因で妃を殺しているのだ。

そして女に復讐するように

妃とは無関係の女たちを殺し続けることになる。

王の魂は混乱し、女性への復讐心に捕らわれてしまっているのだ。

そんなことを繰り返すうちに、とある姉妹が宮殿に呼ばれる。

美しい姉妹であったが

彼女たちはそれまでの女たちと違っているところがあった。

彼女たちは物語のすぐれた語り手だったのだ。

王の寝室で姉妹が話すシンドバットやアラジンの物語は

一日では終わらない、

物語の面白さと展開の仕方、

語り方の巧みさによって王は話に魅せられ続きを求める、

故に姉妹は1日を生き残る。

これを繰り返すことで王は物語が持つ

鎮静作用の力によって精神の混乱と怒りを沈めていく。

物語には人の精神を沈静させる効果がある。

物語はそれが語られることで人々に別の世界を想像させる。

だから我々は実際には行ったことのない

小人の国の法律や未来の火星の経済、

古代ギリシャの怪物が巣くう島の植物学や

天国の空と地獄の大地を知っている。

ゾラやモーパッサンフロベールのような

リアルに徹した物語もあるが、

それが書かれたものである時点で現実ではない別世界である。

物語とは異世界そのものであり

我々読者は1度でも異世界を知ってしまうと、

リアル、我々の現実を相対化してしまう。異世界と現実は向き合う。

異世界を感じることで、初めて現実の世界を感じるのだ。

現実は誰もが知っているが、物語によって現実の世界を知るのだ。

現実だけでは現実を相対することが出来ない、

あたりまえだ、比べるものがないのだから。

読者は物語により想像の翼を羽ばたかせ、

一方で異世界を知ることで現実の世界にも気がつく。

たとえば、魔法がある世界を想像することで、

現実には魔法がないことを改めて知るのだ。

あるいは暗澹悲惨で残酷な物語を読むことで、

現実の平穏を改めて知ることもあるだろう。

または人類未踏の大地での冒険譚を知り、

現実でも勇気を奮い立たせる。

そのことで読者は実生活の幸せを再認識し、

時には惨めな気持になり、励まされることもある。

これは現実を異なる場所からの目線で

見ることができたからである。

物語に共感して自分の人生と同一視することもあるだろうけれど、

その話を自分の物語だと思えている時点で、

読者は人生を俯瞰して眺めることが出来ている。

残酷なことにそれは否が応にでもなのだが。

ともかく、そうやって物語は読者に異世界というもの、

現実を眺める足場を提供するのだ。

これが沈静である。

夢に浮かれていた時間を懐かしく思うことがあるのが

人の人生だから、必ずしも鎮静が幸せなこととは限らないが。

しかし王の混乱は納まり、

女への怒りは消えた、殺される処女はいなくなった。

物語が持つ鎮静の力とは物語自体を受け取ることと

その物語が自分に対して語られているのだという確信をえることで

発動するものなのだ。

王は精神に混乱をもつ1人の人間であり

その治癒を巡る攻防こそが「千夜一夜物語」の本筋なのだ。

物語を語ることで王の魂と国を救った姉妹は英雄であり、

古今東西ありとあらゆる物語に登場する人物の中でも

屈指の物語の語り手なのである。

これらを原型にして多くの枠物語が作られた。

本小説の枠物語はそのなかでも

スタッズ・ターケルの「よい戦争」そして

それをアイデア源とするマックス・ブルックス

「ワールドウォーZ」に近い形になっている。

「よい戦争」は戦争回想記にしてインタビュー集であり

第二次大戦に関わった様々な職業や

人種の人々の証言が収められたノンフィクションである。

「ワールドウォーZ」はそのゾンビ戦争版で、

世界を襲った生きる屍、ゾンビ渦を生き延びた人々への

インタビュー集という形式をとった小説である。

この2つの作品の共通点は中心となる主人公が居ないこと

あるいは全員が主人公ということである。

つまりこれは世界のどこかに生きる個人個人の話なのだ。

そして特に「ワールドウォーZ」において顕著なのは多国籍感である。

この小説では数十のエピソード

それとほぼ同じ数の人間によって語られる。

それは10カ国を越える人々の証言である。



次は本小説の枠物語のなかで語られる物語の引用元を明かす。

この枠物語のシークエンスには9人の依頼主が登場する。

ベトナム人コートジボワール人、アメリカ人、トルコ人、中国人、

メキシコ人、ロシア人、インド人、アルゼンチン人の9カ国である。

彼らの話す物語は既存の物語に強く寄りかかることで成りたっていて

それはつまり本小説の中でも

引用元の影響が際立って強いということだ。

際立っている必要があったしこのシークエンスの最後で

その理由を観葉植物が話している。

彼らの話しの中で各々の物語の引用元を

それとなく登場させている。本や映画の題名のことだ。

それは読者への投げかけと共にこの物語が

ただの剽窃ではないのだということへの言い訳の陳列であり、

感謝をこめたクレジットタイトルであり、

それらの作品名を自らの物語に出すという

マニアックな喜びの羅列である。

アナタ自身がそうである場合もあるし、

あるいはアナタの配偶者や恋人のなかには

アナタが特に集めることに価値を認めることができないものを

集める収集癖を持つ人がいると思う。

僕は本小説のなかで引用というものを沢山行うことで

それと似たようなことをしているのかもしれない。

次からはその引用元の簡単な解説をしていきたい。

つまらない答え合わせにはならないように心がける。


ベトナム人の彼は映画と恋の関係を語った。”

彼が話した物語は本名アラン・スチュワート・ケーニヒスベルこと

ウディ・アレン監督の映画「アニー・ホール」と

エヴァン・グローデル監督の「ベルフラワー」から取っている。

2つともアメリカ映画で前者の舞台は

アメリカの国土の数パーセントしかない大都会のニューヨーク

後者はカリフォルニアベルフラワーという

アメリカの国土の大半を占める田舎町を舞台にしている。

ベルフラワーとは詩的な言葉だがそれは彼が生まれ育った

町の名前を映画のタイトルにしたものなのだ

—— だから地名とはそれだけで詩的な言葉なのである —— 。

前者は女性たちのあいだで流行となる

ファッションスタイル —— ボーイフレンドライクな —— を生み出した洒落た作品であり、後者は映画の「マッドマックス2」に登場する悪役に共感を抱く田舎に住むオタクの話しである。

2つの映画は作中の舞台を都市と田舎と大きく違えているが

その他の点では多くのことが共通している。

それは主題が輝かんばかりの愛と失恋の痛手

そして回復と許しであることと、

実体験を元にしていること、

主人公を演じているのは監督自身であること、

ヒロインが他の男のところに行ってしまうこと、

ヒロインを演じている女優が

監督の元交際相手であるというところだ。

あるところに男が居てあることを切っ掛けに

彼女と出会い付き合い始めて眩く甘い恋愛初期の時期を過ごす。

少し後に暗礁が乗り上げて口論が増えて

彼女は他の男のところに行ってしまう。

残された彼は彼女を恨むも結局は許すことした。

だってあの時の2人のあいだには愛は確かにあったのだから。

数年後に2人は町で偶然再開する、

その時には互いに別々の恋人が居て、

だから友人として話を始める。

2つの映画で書かれた物語をまとめると

おおよそこういうことになる。

愛は複雑であり単純なのであった。本小説ではベトナム人監督が

復讐の物語を描こうとしていたことを語る、

あるとき別れた交際相手と偶然再開した監督は

自分が復讐を企てていたことを恥じて

脚本の筆の進路を許しと反省の物語へと変更した。

脚本を読んだ彼女は映画製作に協力する。

これは「ベルフラワー」を撮った

エヴァン・グローデル監督の実体験に近い。

大きく違うところは「ベルフラワー」作中の"元カノ"を

実際の元彼女が演じているところである。

監督が書いた脚本を読んだ彼女が自ら志願したのである。

それは彼の失恋から5年後のことだった。

これは「アニー・ホール」も同じで

監督兼主演のウッディ・アレン

ヒロインを演じたダイアン・キートン

この映画を撮影する数年前のある一時期付き合っていたのだ。

2つの映画は制作活動を通じての許しと反省であり

故に画面には真に迫る恋愛の葛藤と痛み、

そして愛の複雑さと単純さ故の救いが描かれている。


"コートジボワール人の彼は家族と子供達

そして富についての物語を話した。"

彼が語るのは自身の傲慢と従順だと思っていた

長女と次女の裏切りと末娘の純粋さである。

それとアフリカ諸国における経済的暗黒と軍事の脆弱さ、

つまりアフリカ大陸

国という概念そのもののもろさを語っている。

前者はシェイクスピアの「リア王」の引用だ。

この老人が語る物語に登場するセリフのいくつかは

彼の作品から取っている。

例えば中盤に登場する「舌より重い愛情」という言葉は

リオ王の末娘コーディリアの台詞

「私の愛情は私の舌よりも重いのです」からであり

一番最後に使用した

「十分な知恵が付かないうちは年を取ってはいけないのだ」も

「リア王」の言葉であるがこの台詞は王の言葉ではない、

王に仕える道化師が王に対して発する言葉である。

アフリカにおける経済と軍事と

近代的な国家という概念の弱さを語っている部分は

アフリカを舞台にした映画を参考にしているが

”アフリカ映画”と一重に表すことはできない。

アフリカ映画というジャンルには

センベーヌ・ウスマンなどが撮った映画つまりアフリカ人映画監督アフリカ人俳優を主演に据えてアフリカを舞台にした映画 —— これはつまり日本人映画監督が日本人俳優を主演に据えて日本を舞台にした映画と同じことである —— からアフリカの諸部族の風習を西側諸国からの視点で奇妙なものとして捉えて見世物小屋的に撮影し編集したモンド映画そしてアフリカ大陸にはびこる問題を他国からのシリアスな視点で描いたもの —— こちらは日本にはびこる問題を西他国からの真剣な視点で描いたものあるいは他国にはびこる問題を日本からの真剣な視点で描いたものと同義である ——まである 。

本小説は最後の映画に拠っている。

具体的にはエドワード・ズウィック監督の

ブラッド・ダイヤモンド」と

マッツ・ブリュガー監督の「アンバサダー」だ。

ブラッド・ダイヤモンド」は2006年に公開された

レオナルド・ディカプリオが主演している映画で、

彼が子役から青年期のあいだ続いてたアイドル俳優 —— アカデミー助演男優賞主演男優賞にノミネートされたことがあるのにもかかわらずだ —— というイメージを払拭するべく汚れ役すら厭わずに演じていた時代の作品だ。

この傾向は2016年に

念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞した現在まで続いている。

6度目のノミネートだった。

念願を果たしたその後の彼がどうなるかはいまはまだわからない。

ブラッド・ダイヤモンド」の主題は紛争ダイヤモンドであり

これについては本小説で語っているので説明を省く。

この映画は国際的な社会問題にコミットしようとする米国人俳優が作った映画という点ではシェールガス採掘と環境汚染の関係を語った「プロミスランド」や中東産油国を巡る国際情勢を語った「シリアナ」などと同じである。この3つの映画は主演を演じたレオナルド・ディカプリオ、マッド・デイモン、ジョージ・クルーニーが製作総指揮に名を連ねているところも共通している。

一方の「アンバサダー」も同じ紛争ダイヤモンド問題を

主題にしているけれどこちらはドキュメンタリー映画である。

「アンバサダー」、日本語にすると外交官という題名のとおり、

本小説の中でも語られている

金で購入することの出来る外交官の地位と

それを利用したダイヤモンドの密輸入問題を扱っている。

この映画の主役はマッツ・ブリュガー。彼は監督も務めている。

ブリュガーは前作でも北朝鮮に赴き実態に迫る

ドキュメンタリー映画を作っているからつまりそういう男なのだ。

じっとしていられないし、

実物を観ないとなにも分からないと思っているし、

それが面白いと思っているのだろう。彼はコメディアンなのだ。

今回彼が向かったのはアフリカ大陸の大西洋に面した国リベリアで

この国は90年代のあいだに

例の"外交官権"を2000通以上も売っている。

ブリュガーは13万ドルを支払うことで外交官権を買い

本物の「ブラッド・ダイヤモンド」である鉱山から

ダイヤモンドの購入を試みる。

そこは暴力が空気のように満ちている現場であり

命がけの映画撮影だった。

コートジボワール人の依頼主の場面は「リア王」と

ブラッド・ダイヤモンド」と「アンバサダー」を引用している。


"アメリカ人の彼は世界経済と自分の仕事の役割を聞かせた。"

アメリカ人の猫好きな経済分析家の語ることは

これまでの依頼人が語っていることのように

引用元の作品があるわけではない。

ここで語られたのはロシア経済史でしかない。

しかし歴史というものは所詮は後世の人々が物語的視点や

分析的視点あるいは思想的視点で過去を語ることであるから、

その点では歴史も物語である。

既存の作品を引用元として新たな物語を作ることと歴史を引用元として物語を作ることは —— 作品も歴史も結局は物語なのだから —— 物語を引用元として物語を作るという点では同じであり、この2つの違いを明確に指摘することにどれだけの意味が、あるいは面白さがあろうか?

その上で僕は作者として、

この段落で書いた物語はロシア経済史を引用元にしていると言う。

またこの後でロシア人の依頼主が登場するが

彼は内からみたロシア史を語っているのに対して

アメリカ人経済分析家は外から見たロシア史を語っている。

1つの国を物語として語ること、

その視点の違いを念頭に置いて2つのパートを制作した。

同じ物語を引用するにしても視点を変えれば

違うものが生まれるということを表現した。


"トルコ人の彼は異国の地で体験した不思議な事件が

人生に与えた影響を告白した。"

この段落ではまず始めに依頼主の青年が

イスラム教国家である母国トルコのことを語るが

その内容はただの豆知識にすぎない。

彼が語る物語の引用元は1つだけ。

フランスの批評家、小説家であるアンリ・バルビュスが

1908年に発表した「地獄」である。

19世紀のフランス人エミール・ゾラから始まった物語に宿るロマンスを捨てて現実に則って描く自然主義文学—— 仏語ではNaturalisme(ナチュラリスム) —— はフロベールの「ボヴァリー夫人」やモーパッサンの「女の一生」を経過して20世紀の初頭のバルビュスの作品で終わる。

ロマン主義はもちろん、

象徴主義の作家達も20世紀を前に活動を終えて、

残った自然主義文学も流れを止めた。

フランス文学は1908年に19世紀を終わらせたのだ。

その作品こそが「地獄」である。

フランスというロマンスの国 —— フランスはロマンス発祥の地であり、そもそも仏語でromanといえば小説のことを指し示す言葉である —— において自然主義文学は女性を美化することや戯画化することを止めた画期的な主義傾向だった。

そしてバルビュスの「地獄」では

人間の本性を装飾も無しに描くことに成功した。

これに続く流れとして人間個人の本当の真実、

つまり精神の深層部分である無意識などを描こうとする

シュルレアリスムや、

作家個人の実生活に基づいた真実を描こうとする私小説がある。

さてそんなバルビュスが

人間を描くために使った手法が覗き穴である。

「地獄」の主人公は人生を憂いているしがない男であり、

彼は銀行員の職を得たのを機に都会 —— パリ —— に出て来る。

彼が泊まった宿屋の壁には小さな穴が開いていて

そこから隣室を覗くことができた。

隣室には毎晩様々な宿泊客がやって来る、

主人公は隣人たちの本性を穴から覗き観る。

そして彼らのことを観察するうちに主人公はその目を自身や

社会国家宗教に向け始めるという物語が「地獄」で展開される。

"覗き"という行為は偶然や意図の有無

そして間接と直接を問わず物語に多用されるものである。

川端の小説からハリウッドのサスペンス映画や

青年漫画のサービスシーンそしてドガの絵画にまで

多岐にわたり使用されてきたものだ。

文学に覗きを取入れたのはバルビュスが初めてではない —— 覗き魔のことを英語ではピーピングトムと言うけれど由来はゴディバ夫人にまつわる伝説でそれは西暦1000年頃のことだし、聖書のダニエル書では老人がスザンナの沐浴を覗くし、日本神話ではスサノオがオオゲツヒメが食物を生み出す場面を覗く —— 覗きという行為は性と人間の本性に関連することであることを人類は大昔から知っていたのだ。そんな普遍的な行為を題材にして自然主義文学 —— ナチュラリスム—— と組み合わせた「地獄」は現代にも通じる物語になっている。

日本で働くトルコ人青年の物語は

そんな「地獄」を引用しているけれど

彼の目は始めから自分自身にしか向いていない。


"中国人の彼は国家との闘争と個人の精神的闘争を述べた。"

この段落では2本の映画作品を引用している。

1つは王兵(ワン・ピン)監督の「収容病棟」であり

もう1つはフランソワ・ロラン・トリュフォー監督の

「大人は判ってくれない」だ。

製作国は前者が中国で後者はフランスである。

そして前者は中国の精神病棟を舞台にしたドキュメンタリーであり

後者はフランスの鑑別所を抜け出す少年を描いた

監督半自伝のフィクションである。

トリュフォーのことはゴダールの段で語ったので説明は省く。

王兵監督は非常にインテリジェントに優れた人だ。

彼は中国に居ながらにして中国政府を批判している、

それも中国政府の許可無くしては撮影不可能な場所を舞台にした

ドキュメンタリーを撮ることで批判しているのだ。

王兵監督は映画を芸術風味に仕上げることで巧みに政府批判を隠す。

そして作品を海外に配給して中国で実生活を送らなければ知ることも

出来ない真実を我々に伝えているのである。

忍耐強い賢人のやり方だ。

この点はこの段落の依頼主とは違うところであるけれど、

賢人ではないからといって愚か者とは限らない。

映画「収容病棟」の舞台になった病院は依頼主が話しているような

中国公安の統治下にある収容施設であり

彼の言葉はこの映画から取っている。

フランソワ・ロラン・トリュフォー監督の

「大人は判ってくれない」は監督の半自伝的な映画だ。

もう1度書くけれどゴダールが「勝手にしやがれ」で

長篇映画デビューした1959年に

トリュフォーもこの映画で長篇映画デビューした。

ゴダールは前述したとおり

彼流のフィルムノワールを作ったわけだけれど

トリュフォーが作ったのは不良少年の映画だった。

実年齢14歳の頃に12歳の少年である主役を演じた

ジャン=ピエール・レオは不良と呼ぶには可愛らしくて、

だからこの映画は不良少年の物語というよりも

社会に上手く馴染めない

孤独な少年を描いた物語と言ったほうが適切だろう。

青年の多くが外国と女性に恋をしてその結果として手痛い経験をしたことがあるから「勝手にしやがれ」がヒットしたのと同じように少年の多くが世間に馴染むことが出来ずに孤独であったから「大人は判ってくれない」はヒットした。そういった多感な少年時代を送った監督 —— それは誰もが送っている —— が半自伝として作ったこの映画は同主人公同俳優のまま続編が3本も作られた。レオが18歳の時に上映された「二十歳の恋 」と24歳の「夜霧の恋人たち」そして26歳の「家庭」だ。レオはたいへんな美青年でトリュフォーは自分の分身として美形を選んだ、美化していると言うことも出来るのだけれど監督自身は若い頃はもちろん壮年に入っても尚キュートな顔立ちをしていた人だったのでその点はレオと一致していた。レオが演じた主人公のアントワーヌ・ドワネルは作中で映画監督にはならなかったけれど彼が経験したことやその心中はトリュフォー監督自身の人生の歩みや成長していく中で感じたものと一致していた。

いわばこの映画はゲーテの「ファウスト」や

ヘッセの「車輪の下」のような読者の人生の糧になるような

青年の成長譚、教養小説であるわけだけれどそこはフランス人

生真面目な映画ではなくて

—— パリらしい少々の野暮ったさを持った ——

お洒落と冗談に溢れた楽しいものだった。

「大人は判ってくれない」の最後で

アントワーヌ・ドワネルは鑑別所から抜け出して海に逃げる。

そして砂浜で振り返りカメラのレンズ

—— それは観客のことである —— を見つめる。

彼にはもう逃げるところが無い。なんせ背後は海なのだから。

彼が最後に放ったカメラへの —— 観客への —— 眼差しは

自分の人生と闘うことを決意したことの表明だ。

本小説では精神病院から抜け出した

政治犯の密入国者とアントワーヌ・ドワネルを重ね合わせた。

依頼主の最後の台詞はイギリスの詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの「インビクタス」という詩から引用している。

この詩は南アフリカの故ネルソン・マンデラ大統領に関わりが深いことで有名で、彼は当時の南アフリカで敷かれていた人種隔離政策に反対する政治運動していたことから政府により国家反逆罪という名目で逮捕され27年ものあいだ厳しい刑務所生活を過した後に釈放され同国の大統領になった。

彼は刑務所生活のなかでこの詩を読むことによって

心を奮い立たせ生き抜いてきたという。

ネルソン・マンデラとウィリアム・アーネスト・ヘンリーの

インビクタス」との関わりを有名にしたのは

クリント・イーストウット監督の

映画「インビクタス/負けざる者たち」である。

この映画でもこの詩が登場し、主題にもなっている。

私は決して屈服しない。

私こそが私の運命を支配する者なり。

私こそが私の魂を指揮する者なり。


"メキシコ人の彼は彼自身が作ったストーリーを発表した。"

この段落では南北アメリカ大陸形成史に始まり先住民の文化と神話そして欧州文明による大陸の搾取とそれに続く国家間戦争史と国内間戦争史つまり内戦史や革命史を彩る歴史的な人物の逸話が連なるメキシコ史とラブクラフトやスターチャイルなどの怪奇的な四方山話が合わさることで依頼主が語る話しを展開している。

この段落は本小説の中でもっとも長大な段落であり、

依頼主と主人公の観葉植物が言うように複雑で混沌としている。

なのでこの段落に登場する要素を羅列することで

解説の代わりにする。

解説してしまった混沌は混沌ではないからだ。

あるいは解説出来ない諸要素の積み重ねと

その絡み合いが混沌なのかもしれない。

以下がその諸要素の羅列 —— 解説の代用 —— だ。

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。アメリゴ・ヴェスプッチ。ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル。プリンスオブウェールズ岬。デジニョフ岬。フロワード岬。マゼラン海峡。アメリカ大陸。サンブラス地峡。アメリカ大陸間大交差。スエズ地峡。運河。中央アメリカアメリカ合衆国アステカ文明。儀式と人身御供。クリストファー・コロンブスコンキスタドール。銃・病原菌・鉄。混血。アンブローズ・ビアス悪魔の辞典。私が愛したグリンゴ。チワワ州。メキシコ革命。パンチョ・ビリャ。メキシコ独立戦争。ミゲル・イダルゴ。ラテンアメリカ解放戦争。シモン・ボリバル。迷宮の将軍。テキサスとテハス。1819年恐慌。米国人のテハス入植。綿花。テキサス革命。テキサス共和国。米国によるテキサス合併。米墨戦争。ナポレオン戦争グアダルーペ・イダルゴ条約。メキシコ割譲。1500万ドルの戦争賠償金。南北戦争。オメルカ文明。頭像。死者の日。ウィリアム・ウォーカー。マヤ文明。カスタ戦争。フランスによるメキシコ出兵と占拠。アメリカによるメキシコ支援。メキシコ麻薬紛争。ベニート・パブロ・フアレス・ガルシア。サポテカ文明。ホセ・デ・ラ・クルス・ポルフィリオ・ディアス・モリ。自由進歩主義。格差社会。米国1907年恐慌。メキシコ革命。モンパルナス墓地。アルフレド・ドレフュス。フランシスコ・イニャシオ・マデーロ・ゴンサーレス。ビクトリアーノ・ウエルタ。エミリアーノ・サパタ・サラサール。ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサ。パンチョ・ビリャ。ウッドロウ・ウィルソン。米軍ビリャ討伐隊。バナナ戦争。ジョージ・パットン。アルバロ・オブレゴン・サリード。ビリャ暗殺。アルバロ・オブレゴン。オブレゴン暗殺。プルタルコ・エリアス・カリェス。ラサロ・カルデナス。スターチャイルド。羊飼いハイタ。ハスター。ビアス失踪。アゴーリー。アイルランドジャガイモ飢饉。アイルランド人のアメリカ移住。オザーク高原。ヒルビリーカトリック弾圧。毛沢東。文化大革命ヨシフ・スターリンコルホーズ。ホロドモール。ユダヤ人虐殺。ポル・ポト派クメール・ルージュインドネシア虐殺。ルワンダ虐殺。ペスト。スペイン風邪。コレラ。ロシア正教古儀式派集団自殺。ピョートル1世。ソロヴェツキー修道院。ジム・ジョーンズ。人民寺院の集団自殺。沖縄戦の集団自決。古代ローママサダの集団自決。 ジョン・ゲイシー。フリッツ・ハールマン。カタコンブ。卑弥呼。ファラオ。始皇帝。兵馬俑。殉死。バルトロメ・デ・ラス・カサス。聖杯伝説。ニコラス・トリスト。ベルナルド・コウト。宇宙人ブーム。エリア55。ナスカの地上絵。エイブラハム・リンカーンエイブラハム・リンカーン。ジョン・ブース。シカゴトリビューンアル・カポネスコット・フィッツジェラルド。グレートギャツビー。ウェストポイント陸軍士官学校。モンマルトル。パリ。

この段落は引用によって作られている本小説の中でも

その数がもっとも多い箇所なのである。

メキシコ人の彼が語る物語は多数の引用と

無根拠のデタラメと混乱で作られている。

引用と嘘と混乱、そして一片の真実こそが彼自身なのだ。


"ロシア人の彼は仕事と一個人の人生の関わりを表現した。"

この段落で語られる話はとある物語に依存している。

イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドが書いた「闇の奧」だ。

物語の舞台は1900年前後の

まだアフリカ大陸が暗黒大陸と呼ばれていた時代のコンゴだが、

この偉大な小説の影響を受けて生まれた作品は実に多く、

それらは舞台となる時代と場所を変えて同じ内容を語っている。

「闇の奧」を追って生まれた小説は数多いが

この小説の影響は文字媒体だけに限定されていない。

映画監督のフランシス・フォード・コッポラは

ベトナム戦争に舞台を移して「地獄の黙示録」を撮影した、

これが一番有名な「闇の奧」の引用だろう。

マイナーなものではドイツ製のコンピュターヴィデオゲームの

「スペックオプス・ザ・ライン」がある。

舞台は近未来、未曾有の砂嵐によって国政が崩壊したドバイである。

舞台は違えど物語の大筋は同じだ、ある男がある異国の奥地 —— 多くの場合でその場所は自国と比較すると科学などが発達していない、あるいは崩壊している —— で現地住民を支配し王のような存在になっている。主人公は男を自国に連れ戻すためにまたは殺すために異国の奥地へと旅することになる。

—— 西洋文明からみた —— 非文明国家に

白人が降り立ち王になる物語はコンラッド以前にもあった。

ジャングル・ブック」で有名な小説家ラドヤード・キップリング

書いた「王になろうとした男」などのことだが、

そのような僻地の白人王となった人物は実際に存在していたし、

そもそも植民値というものの思想がそういったものではないか。

「闇の奧」の新しい所はそれに対する批判の意味を強くもたせ、

異なる文明の衝突を描いたことだった。

舞台となったコンゴは1885年からの13年間

ベルギー国王の私物でありその後は50年間は植民値だった。

後に独立するのだがこのベルギー国王レオポルド2世の私物時代は

搾取と暴力が吹き荒れた時代であり、

多くの人々が過酷な労働の果てに使い捨てられ殺され

あるいは不作の罰として手足を切り落とされた、

虐殺された人々は何百万人に及んだと言う

—— もちろん正確な記録などは残しているはずがない ——

現在コンゴに限らずアフリカ大陸には同国人同士の殺し合い、

過激派や支配勢力によって手足を切り落とされた人々が多く居るが

それはこの時代から始まったと言ってもよい。

ロシア人依頼主が語っているようにコンラッド

小説家になる前は船乗りだった、それも船長だった。

彼はかの時代のコンゴをその目で見ているのだ。

本小説のこの段落では元KGBの探偵を語り手にして

舞台をバブル崩壊前後の日本に移し、

そこにソ連崩壊史の実話を加えている。

ソ連に実在した連続殺人鬼アンドレイ・チカチーロが登場するのはイギリスの小説家トム・ロブ・スミスが書いた「チャイルド44」からの引用で、イタリアレストランは実在したイタリア系アメリカ人ニコラ・ザベッティが開いた日本で一番最初に本格的なピザを提供した店のことで —— もちろん彼も裏の道の人でその生涯はロバート ホワイティングが書いた「東京アンダーワールド」で語られている —— あるいはイタリア系アメリカン俳優のアル・パチーノやデニーロが出演した映画からの引用だ。

T・S・エリオットの詩「虚ろな人々」が登場する。

エリオットは「闇の奧」に魅せられて「荒野」を書き上げ、

この「虚ろな人々」の冒頭には"クルツが死んだ"と書いた

—— クルツは「闇の奧」の支配者の名前である ——。

またコッポラ監督の「地獄の黙示録」では

支配者が 「虚ろな人々」を読み上げる。

「闇の奧」でも「地獄の黙示録」でも

支配者の男は"恐怖……恐怖……"とつぶやきながら死んでいく。

支配者はなにかに対して

押しつぶされそうなほどの恐れを抱いている。

この段落は一般的な冒険小説や

探偵小説に展開しそうになるように心がけた。

ロシア人依頼主の話もメキシコ人依頼主の話と同じように

すべてが嘘かも知れないけれど。


"インド人の彼は裏切りへの怒りを表明した。"

この段落が引用しているのは

デンマーク映画監督ニコラス・ウェンディング・レフンが

撮った「プッシャー」だ。

レフン監督の経歴をとても簡単に書く。

僕はこの監督の作品が大好きなんだ。

北欧の国デンマークで生まれた彼は多感な時期をニューヨークで過して帰郷後に映画の道に入った。彼を世界的に有名にしたのは2011年に公開した「ドライヴ」でカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞したこの映画は西部劇の「シェーン」から続く正体不明の流れ者の男が荒くれ共にその身を狙われている一家や未亡人やその子供を助けるという古典的な物語の舞台を現代のロサンゼルスに移し主役を逃がし屋のドライヴァーに変更し映像は美しく艶かしくフェチィッシュでアートでありながらポップな感触を残した作品、つまり色々なものが詰まった豊かな名作だった。彼も前衛と古典を繋ぐ人だ。

世界がこの名監督を知る前からデンマークでは名を馳せていた。

24歳の時に撮った長篇映画デビュー作「プッシャー」が

デンマークの映画興行収入の歴代1位の記録を叩きだしたのだ

—— そしてこの映画はあの俳優マッツ・ミケルセンを輩出した ——

その後シリーズは続き主役となるキャラクターを変更して

「プッシャー2」「プッシャー3」を制作。どちらもヒットした

—— 2では初作の主人公の相棒役だったマッツ・ミケルセン

主役を務め、3では1作目で主人公と敵対する大ボスを演じる

ズラッコ・ブリックが主役を務めている —— 。

その内容はインド人の依頼主が語る物語と同じである。

彼が語る友人は「プッシャー」の主人公から引用している。

友人の行動は主人公の行動そのものだ。

ただしこの映画と依頼主の話は最後が違う。

主人公は進退窮まり身動きが取れなくなる、

彼は自分が敵対する人間に殺されることを確信する。

それはまさに絶望といったもので、

デンマークの夜の闇の中、

画面には彼の追いつめられた表情だけが浮かんでいる。

そしてそれも闇に飲込まれて映画は終わる。

彼はきっと敵からは逃げ切れない。

ここが本小説と映画の違うところだ。

デンマークという北欧の国に対して想像するものが自然の美しさや洒落た建築や綺麗な人々だという人が観たら驚く映画だろう、なにせそんなバイオレンス映画が大ヒットを飛ばした国がデンマークなのだという事実をこの映画が作ったのだから。もちろん「プッシャー」はただのギャング映画/バイオレンス映画ではなく人生の上手くいかなさを描いた映画であり、その悲劇を描いた映画として観ることが可能になっている。それはシェイクスピア悲劇の多くが政争を舞台にしているのにもかかわらず、王族でも兵士でもない我々の人生のことを描いているかのように思えることと同じだ。

デンマーク国内で大ヒットした本作はレフンを総指揮にすえて

スタッフとキャストを変更したリメイクが作れている、

しかも2作品も。1つは白人を主役にした英語版

もう1つのリメイクはインド移民を主役にしたヒンドゥー語版だ。

どちらもイギリスで制作されている、

ハリウッドとアメリカ人だけが

映画を作っているわけではないということだ。

当り前の話だが。

さてこの段落で重要なことは

インド人依頼主の言葉が韻を踏んでいるということだ。

押韻といってもイメージしているのは詩人が詠んだ詩ではなく、

ヒップホップ文化の中の音楽の押韻、

つまりラッパーが歌うラップだ。

なかでもただライミングするだけではなく、

押韻することで物語を語る曲をイメージしている。

ラッパーのスリック・リックに代表される

ストーリーテリングものの曲や、

スリック・リックに影響を受けた

ギャングスタラップのスヌープドッグの曲のことだ、

そのなかでもやはり

スリック・リックの「チルドレンズ・ストーリー」

—— この曲の内容は悪友に誘われて路上でひったくりを繰り返している少年がおとり捜査に引っかかり警官に追われ街中を逃げ回りスラム街を走り回り車を盗み逃げるも追いつかれ妊婦を人質にとり彼女の頭に銃を突きつけるもの引き金は引かずまた逃げて逃げて逃げて最後には警官達に囲われて射殺されるまでを描いている —— を参考にしている。

本小説にはアメリカ人もアフリカ人も登場しているが

ラップ風なことをさせるならばインド人などの南アジア人

または中東地域の人間であるべきだ。

だからこうした。


"アルゼンチン人の彼は愛と金と人間の関わりを嘆いた。."

この段落はある曲を引用している。

フランク・オーシャンの「スーパーリッチキッズ」だ。

彼はR&B界に生まれたスーパールーキーで

現在のところ1枚だけだしているフルアルバムは売れに売れた。

それ以外にもクオリティーがとても高い楽曲ばかりを発表している。

彼はR&Bの領域に属しながらそれを破壊、

あるいはそこから逸脱しようとしているアーティストの1人だ。

なにせフランク・オーシャンは自分がバイセクシャルであることをカミングアウトしているのだから —— R&Bそしてこの領域に重なり合うように隣接するヒップホップ業界というのは男女の役割とその型が決まっているのだ、他の音楽においても多くの場合でこの役割と型の固定は適用される —— 。「スーパーリッチキッズ」はそんなフランク・オーシャンが発表したアルバム「チャンネルオレンジ」 —— オレンジという色は赤でも青でもない。これはミュージシャンのプリンスが自らのイメージカラーを紫にしていたことと同じことだ。つまり固定された男女のイメージやその役割を自分は演じないという意志の表明なのだ —— に収録されている。

「スーパーリッチキッズ」ではオーシャンが

フックアップしたラッパーのアール・スウェットシャートが

ゲストとして参加している、

彼もオーシャンと同じく年齢が若いミュージシャンだ。

そもそも「スーパーリッチキッズ」は90年代から活躍を続ける

R&Bシンガーの —— セクシーでとても凛としている、

男前でキュートな —— メアリー・J.ブライジが歌った

「リアルラブ」を引用している、サビをそのまま利用しているのだ。

つまりベテラン女性R&Bシンガーの曲をバイセクシャルであることを

公表したスーパールーキーが引用して歌唱し、

その間に彼と同じくルーキーのラッパーがラップを挿入するという

構図を持っているのが「スーパーリッチキッズ」なのである。

本小説のこの段落ではオーシャンに倣って

ブライジの「リアルラブ」のサビを和訳したものを使用している。


以上が本小説のなかの枠物語の引用元の解説。

そして物語は一度中断して

このインターミッションに入るというわけである。

ここからはこのインターミッションの解説をしようかとも思ったのだけれど —— 冒頭にあるのはインターミッションそのもの説明であってこの休憩時間(インターミッション)そのものに対する解説ではないのだから —— それではあまりにも複雑というか多重構造的になりすぎるのでやめることにした。


そのかわりに

本小説の作者である僕のことについて少し解説をしたい。

とはいってもこんな無名の男の経歴なんて聞いても

退屈になるだけだだろうし

僕はそんな自己顕示欲は持ち合わせてはいないんだ。

だから僕の経歴ではなくて、

この小説を制作している環境や背景のようなものを語ろうと思う。

少し風変わりなインターミッションの一環として

読んでもらえれば幸いだ。


最初はすぐに完結するはずだった小説も

僕の元来の性質ともいうべき

手を広げ過ぎてしまうという行為を理由に

1年以上も続いてしまった。

この小説はご覧のとおり"はてなブログ”に

投稿する形で掲載している。

その文章はマッキントッシュノートパソコンを使って

シンプルなテキストソフトを使い横書きで書いている。

マッキントッシュ、英国の老舗のトレントコートメイカーと

同じ名前を持つこのパソコンは偉大だ。

とても丈夫だから。

僕が使用しているラップトップは相当古いものだ。

当時使用していたウィンドウズが搭載された

パソコンが壊れてしまい嘆いていた僕に

当時の恋人がプレゼントしてくれたものだ。

マックの丈夫さを僕はこの数年間で使用者の実感として知っている。

このパソコンには意図的でないとはいえ酷いことを沢山して来た。

大きな辞書を1メートルの高さから

キーボードに向かって落としてしまったことがある。

あるはコーヒーの雫や炭酸飲料やカヴァやスプマンテ

炭酸水の泡を掛けてしまったこともある。

正直に告白すると体液—— うっかりと飛んでしまったクシャミの唾液や、つい飛ばしてしまった射精の精液とか、セックスをしたあとで洗わない手でマックを弄ったことでついた他人の愛液とかのことだけれど —— をこびりつけたこともある。

そのせいでいまでは

DVDの読み込み機能が物理的に失われてしまったけれど、

それ以外の部分は正常に機能している。


小説を書くときのこだわりについて、

僕はそういったことをあまりもっていない。

ここでいうこだわりとは作品制作に対する信条や

作風の同一性ということではなくで、

作品外のこと、文章を書くときの環境のことだ。

有名な小説家のなかには

ペンを握る時はかならずスーツを着るという人や

和服を着るという方も居るけれど、

僕にはそういったこだわりがない。

だけれど出来る限り清潔で

自分なりの感覚に合った服を着るようにはしている。

1度も外出しないときだってそうしている、

正直に言うと夏の風呂上がりかなんかに

真っ裸で書いている時もあるけれど

—— 汚れた服を着ているより、裸の方が清潔だろう。

僕はそういう感覚を持っている —— 。

そうしないと野暮ったい

気の利かない文章しか書けないのではないかという

強迫観念みたいなものがあるからだ。

だけれど小説を書いている期間が

春夏秋冬をそれぞれ1度は経過しているから

必ず身に付ける決まった服装というものはない。

僕は暑がりで寒がりだから冬に半袖を着ることはできないし、

夏に長袖を着ることは耐えられない。


しかし"のようなもの"ならばある。

それはジミーチュウのオードパルファム、香水だ。

ジミーチュウはルブタンに並ぶ高級な婦人靴のメイカーだ。

ディオールとかグッチみたいにこのブランド名も人名だ。

東南アジアマレーシアで生まれたジミー・チュウは

後にイギリスに渡る。

マレーシアは慢性的な貧困のなかにあるけれど

イギリス連邦の一部を成す国でもあり

エリザベス2世を長にすえているのだから

彼が出国した先が英国なのは不思議なことではない。

靴職人の彼が作った靴は

ダイアナ妃が愛用したことで一躍有名になった。

チャールズ皇太子の元配偶者であり

ウィリアムとヘンリー両王子の母でもある故人は

ファッショナブルな女性であり諸外国の貧困にも

精通していた人だったから

彼女が彼の靴を選んだのも不思議なことではない。

なによりも彼が作る靴は女性の目に美しく映った、

そして高いヒールなのにも関わらず穿き心地は天国だった。

ダイアナ妃が王宮に静かに納まって満足するような

女性でなかったことはいうまでもなく、

そんな彼女には必要な靴だったというわけだ。

1914年にココ・シャネルジャージー素材の婦人用スーツを作り

女性をコルセットから解放して女性の社会進出を後押ししたように、

その一方で1947年クリスチャン・ディーオールが

華々しいドレスを作り上げ

女性とそれを眺める気分を明るくしたように

時代は新しい服装を要請し召喚する。

言うまでもないことだけど1914年は

第一次世界大戦が起った年で

1947年は第二次世界大戦が集結した直後の年だ。

プラダを着た悪魔」という主演のアン・ハサウェイの魅力を

最大限発揮して映像に残したこの大ヒット映画の舞台となったことで

ファッションに興味のない人々のあいだにも名が知れ渡った

イギリスファッション雑誌ヴォーグ。

その英国版の編集者タマラ・イヤーダイ・メロンも

彼の靴に魅了された女性の1人だった。

彼女の父親はあのヴィダルサスーンを作ったビジネスマンだった、

そしてジミーの靴と出会った時に彼女の身体にかよっていた

父から受け継いだ血が目覚めた。

この父娘とジミーが会社を設立する。

ビジネスマンと元来の職人気質のジミーとのあいだに

確執が現れた時期もあったが、

困難を乗り越えた会社は現在でも

美しい靴を求める女性達に満足を供給し続けている。

同社が販売している香水がこのパルファムというわけ。

もちろんレディースだよ。

同名のオーデコロンもあるのだけれど、

パルファムとコロンは濃度と値段が違うだけではなく

その匂いの方向性も違うんだ。

このパルファムの匂いはすばらしい、

節操というものを知っている澄んだ匂いがする。

甘いが甘過ぎず華やかだが華やかすぎない、

そして婦人向けパルファムにありがちなパウダリー

—— つまり化粧品の匂い —— な

においは隠し味のようにわずかだけ入っているだけ。

端的に言うと大人のための香水で、

しかしフランスのマダム向けのパルファムのように

濃厚さやむせ返るような甘さはない。

僕はひょんなことからこの香水のことを知ったのだけれど濃い匂いのする香水 —— 例えばサンローランとかシャネルとかゲランとかジバンシィーとかヴェルサーチのことだけれど —— が苦手な僕にとってはおあつらえ向きのパルファムだったわけだ。

それ以来、気が向いた時にこの香水を身に付けているのだけれど

まさか使用する機会が一番多いシチュエーションが

小説を書くときになるということは想像したことがなかった。

小説を書いていく途中で筆が進まなくなることはよくあることで、

そのときに気分転換のつもりで香水を着けたのがきっかけだった。

香水をプッシュした境にそれまでの文章と比較して

とても優雅な文章を書くことが出来たのだ。

それ以来の習慣 —— 縁担ぎ —— の

ようなものになっているというわけ。

以降、小説を書く時の服装はスーツのときも

Tシャツのときも全裸のときもあるけれど、

僕がこのパルファムを付けることを忘れたことはない。


これでパソコンと筆を持つときの

僕の格好のことは書いたから次は環境のことだ。

黒い合板の机が僕が小説を書く際の定位置で中途半端に高いスツール —— 馴染みのBraが店じまいした際に貰った —— に

座って文章を打ち込んでいる。

パソコンの他に机の上にあるのは1冊の本と葉巻で、

本は表紙が良く見えるように立てて置いて

ありその前に葉巻きが転がっている。

それはコロンビアの作家ガブリエルガルシア・マルケス

「予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語」という題名の本で、

この本は「予告された殺人の記録」という中編小説と

「十二の遍歴の物語」という

12本の短編小説をまとめたハードカバー

つまり13本の話が収録されているものなんだ。

葉巻はニカラグアのブリックハウスという銘柄だ。

僕にとってそこは祭壇のようなもので、

創作に対する祈りのようなもの象徴で、

中南米の小説に中南米産の葉巻が線香や

蝋燭のように供えられている光景

—— 火はついていないけれど —— を

みると心が憧れの異世界と繋がっている気分になって

文章に対する勘のようのものをより強く意識するようになる。

ブリックハウスはお供え物だから仏壇のおはぎや果物のように

ときが来たら使うことにしている。

たとえば小説創作上の難所を越えたときなどだ。

だからこのインターミッションを書き終えたら

僕は目の前に転がっている葉巻を吸うことだろう。

近所に叔父が住んでいて彼の持ち家には立派な庭がある。

そこにはシュロの樹が植えれていて、

僕はそのかたわらに置かれた

木製のイスに座って喫煙をすることが多い。

当然そこには叔父が居て彼と一緒にモカや

エスプレッソを飲みながらのひとときだ 。

葉巻の趣味を教わったのはこの叔父からだ、

多趣味の彼から影響を受けたものは他にもあり、

叔父が人当たりのよい柔和な人柄であることも手伝って

彼とは沢山の話をしてきたから、

音楽や映画に関連することの多くを彼から教わってきた。

彼は周囲に穏やかな雰囲気を作り出す天才で、

故に彼と一緒に居る僕は自然に色々な話をすることになる。

彼の存在がこの小説の根源のようなものの1つだ。


環境の話はここまで。

次は僕の悪癖の話だ。

いままで小説を何本か書いてきたけれど、

それを読み直してそして本小説を書いていくなかで

気が付いたことがある

—— 本当は一番初めの小説を書いていたときから

気が付いていたけれど ——

それをこの場で告白する 。

僕はフェラチオという行為に執着している。

本小説にはピンクサロンが出て来るし、

以前の小説ではセックスシーンがないのにも関わらず

フェラチオの話が出て来る —— まあこれだって性行為(セックスシーン)の1つなわけだけれど —— 。

執着している理由は思い当たるし、

そのせいで小説に結構な頻度でフェラチオという行為が登場するし、

実生活のなかでも結構な頻度で行っている、

僕がペニスをしゃぶるわけではないけれど。


たとえば、本小説のピンクサロンの場面は

彼女にフェラチオをされながら書いた。

いうまでもないことだけれどこの彼女とは

現在交際 —— もう少し曖昧なものだけれど —— している

女性のことだ。彼女は僕が小説を書いていることを知っているけれど

それを読まないことが2人のあいだの約束だから

こうして彼女をインターミッションに登場させることができる、

もちろん個人が特定されないように

情報をぼかしながら書くことになるけれど。

そのときの僕はいつもの様にスツールに座り

デスクに向かって小説を書いていたのだけれど

彼女が悪戯な顔をして僕の股のあいだに潜り込んできて

股間のジッパーを下げて —— それも器用に口だけで ——

取り出したペニスをしゃぶり出したんだ。

正直にいうと彼女とこういったことをするのは初めてじゃない。

頻繁にしていることなんだ。

きっと、化粧を顔に施している最中の彼女や

本を読んでいる最中の彼女に

おもわずちょっかいをかけたくなってしまうように、

僕がパソコンに向かっているときに

彼女も同じようなことを思っているのだと思う。

それに彼女は僕の顔を評して

「あなたは怒っているときと小説を書いているときが

 一番セクシーな顔をしている」と言ったことがある。

それ以来、僕は彼女に対して怒ることを

躊躇するようになったのだけれど、

小説を書くことをやめるわけにはいかない。

だからだろう、結果としてこんなことになっている。

作業を邪魔するかのように彼女が僕の耳や股間を

舐め始めることもあれば、

抱き合う形で彼女が僕の上に座り彼女と僕の喘ぎ声と

イスの軋む音が合わさって

それぞれの音の聴き分けができなくなったことも何度もある。

一度そのまま後ろに倒れて後頭部を床に強打しそうになり

ラップトップをデスクから落としそうになり彼女の中に入っていた

僕のペニスがまっ二つにボキッと折れそうになったことがある。

全て回避することができたけれど、

あのときは嫌な汗をかいたものだ。

ピンクサロンシークエンスを書いているときは

彼女にペニスを吸われたままでディスプレイに浮かぶ

テキストソフトに文章を打ち込んでいた。

小説を書くことをやめると彼女が怒るのだから仕方ないことなんだ。

しかしあのときは彼女が途中で泣き出してしまった、

これも良くあることなのだけれど。

僕の股のあいだに涙で頬を濡らす彼女の顔が浮かんでいる。

彼女は「怖い怖い」と泣いている。

彼女は僕がフェラチオをお願いすると応じてくれる。

ときにはこのように僕が求めていなくてもそれをするときがある。

どちらの場合も途中で彼女が涙を流すことがある。

大抵の場合はなにもなく僕が射精するわけだけれど。

しかしそのときの彼女は涙を流しながら「これ、怖い」と言う。

「これ」だ。

これとはペニスに出来るフォアダイスのことだ。

汗腺に脂肪がたまると皮膚上にできる小さな粒

—— 形状としては鳥肌を想像するのが一番近い —— を

フォアダイスという名称で呼ぶ。

ニキビのようなものだけれど膿みも血もださない無害なものだ。

身体の様々なところにできるものだけれど、

皮膚が薄いペニスでは目立ちやすく

これが1つ2つある人もいれば亀頭の先端に出来る人もいる、

同じく皮膚が薄い女性の性器にもこれができる、

大抵の人間がこれをもっている。

だから男女の多くがこれを見たことがあるはずだけれど、

今イチ分からなければ男性は自分のペニスを見れば良い、

女性はこれを機会に彼や夫のペニスを観察してみると良い。

僕はペニスの付根に小さなものが少々あり

彼女が怖いというのはそのことなのだけれど、

不思議なのは明るい場所でフェラチオをしても

彼女がまったく平気な顔をして

僕のペニスを弄んでいることがある一方で、

目の前すら見えない真っ暗闇のベッドのなかでのフェラチオ

彼女が「怖い」と泣き出す場合もあることだ。

ともかく泣き出した彼女を僕は落ち着かせる。

ニキビやホクロを整形手術で消せるように

フォアダイスも消去することができる。

以前そのことを話したら彼女は「そうじゃないの」と

言うばかりで僕は困ってしまった。

だから落ち着かせるのに精一杯で

彼女は僕の胸の中で散々泣くのだけれど、

泣いた後で彼女は再びいたずらな顔をして

僕の股のあいだに顔を沈める。

彼女がペニスを口に含む音や吐き出す音や口内の唾液の量は

泣き出す前より遥かに大きくそれが睾丸まで伝う、

僕のふとももに置かれた彼女の手のひらはとても汗ばんでいて、

机の下に見える彼女の下半身は震えている。

彼女はあきらかに泣き出す前よりも性欲をたぎらせている。

だからセックスを最後まですることになる。

コンドームのなかで射精をし終えた僕のペニスを

彼女はティッシュを使って —— 半笑いで ——

綺麗にしてくれる。

そして最後に彼女と僕はキスをする。

そこで僕は思うのだ、

彼女が僕のペニスを口に含んでそれを「怖い」と言って泣いて、

僕になだめれて泣き止んで再びフェラチオを始めるという

一連の行為こそが彼女にとっての欲望で、

それはなんならかの形で解消されないといけないのだろうと。

そしてその欲望は彼女のこれまでの人生 —— 過去 —— から来るものなのだろうと。僕は彼女の過去の男の話を聞いたことがないし、彼女が父親の話をしたことは1度たりともない、その代わり母親の話はよく聞かされる —— その内容は娘から母への不平と不満の嘆きだ —— その話はあまりにも明け透けに彼女がずっと抱いている父親への不満を母親に肩代わりさせているようなものなので僕は少し辟易してしまうのだけれど、そもそも娘と母親というのはそういうものなのかも知れないから僕は黙って彼女の話を聴くことにしている。

そして彼女と日々を凄し沢山の話を聴いていく中で、

僕はさきほどの考えを確信に変えていくようになった。

それは父親だ。

彼女と父親のあいだにはなにか —— それは性的虐待という言葉が意味するものに及ぶものなのかもしれないし、よくある父と娘のすれ違いかもしれない、まあどっちにしても(好きと嫌いが両立しているが故に心が引き裂かれる)ファザーコンプレックスだ —— があったのだ。

僕の知らない人生が、彼女の過去にあるのだと感じている。




(Intermissionはまだ続きます)


そして、つづきはこちらです

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 7ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20170208/1486554803



.

2016-11-04

ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 5ページ目(不定期更新の短編小説)

23:52

お知らせ。

※現在ご覧頂いているページは5ページ目です。


 1ページ目はこちらです↓

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 1ページ目」

  http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20141029/1414590993


前のページ

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 4ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20150828/1440777404

次のページ

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 6ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161124/1479999656


※目次のページをつくりました。

 こちらのページから本小説の別のページに飛ぶことができます。

 目次/sommaire http://torasangmotoki.jimdo.com/sommaire/





//※//






Intermission


第一次世界大戦

アラブの叛乱

シナイ半島

砂漠

スエズ運河

アラブの宮殿

英国陸軍司令部

将校専用のBar

レモネードが2つ

喜ぶ少年

砂漠色の制服を身に付けた兵士達の後ろ姿

画面の奧へと去って行く

スクリーンには大きな文字で

Intermission


僕がIntermissionというものを初めて体験したのは、

映画「アラビアのロレンス」を観ていた時のことだ。

Intermissionという英語をカタカナにすればインターミッション

日本語に翻訳すると休憩となるけれども

使用の自由度が高い言葉ではない。

この言葉が当てはまる状況は限定されている。

インターミッションとは

映画上映中に挟まれる休憩時間のことである。

監督の「アラビアのロレンス」は上映時間が

3時間27分もあるのだ。

ロレンスのように上映時間が長い映画は途中に休憩時間を挟む。

その時間は20分前後。

スクリーンにIntermissionという文字が表示されると

照明がつき劇場が明るくなる。

ロビーと劇場を仕切ることでシアターという1つの特別な

異空間を存在させていた扉が開け放たれ

新鮮な空気が観客の肺に入り込む。

彼らは背伸びをして、

イスに窮屈に押し込まれていた腰や尻を伸ばして

身体に血の巡りを通わせる。

誰かと連れそって劇場に足を運んだ者たちは家族や恋人や友人たちと

映画のこれまでの展開について

感想や賞賛や不満や疑問点を話し合う。

床には赤い絨毯が敷かれ、

天井からはきらびやかな照明がぶら下がるロビーには

笑顔で接客する従業員一同が客を待ち構えている。

彼らには魂胆がある。この時間を利用して

喉が渇いた客にジュースを売り、

小腹が空いたと感じる客にはポップコーンを売るのだ。

ペプシやコカコーラ

アイスコーヒーそしてオレンジュースが客の喉を潤す。

ポップコーンはいつだって映画鑑賞のお供だ。

中には手洗いに向かう者やタバコを飲みに行く者もいる。

映画製作者はインターミッションを挟むことで

観客の集中力が切れないことを期待している。

なにより休憩時間が劇場に飲食収入もたらすことを理由に

長時間の作品を上映出来ることを期待している。

映画製作者、劇場、観客という1つの映画作品に集う者たち全員に

利益をもたらすインターミッション

映画作品の途中に挟むことは理に適っている。


上記の文章は現実的なインターミッションの描写だが、

僕個人の現実ではない。

デヴィット・リーン監督による映画、

アラビアのロレンスが日本で劇場公開されたのは1963年だ。

そのとき僕はまだ産まれていない。

それどころかまだ若かった父と母も出会っていない。

だから僕は映画館でこの作品を観たことが無い。

僕はこの映画を

自宅のパソコンでDVDを再生することで初めて観賞した。

それも完全版という形で。

劇場公開当時の上映時間は3時間27分と長いものだったが、

監督が編集した直後の

アラビアのロレンスの上映時間はもっと長かった。

配給会社の方針で短くカットされ

3時間27分という"短さ"になったのだった。

後年、カットされた部分のフィルムの傷を直し再編集、

完全版が作られることとなった。

その制作にはリーン監督も関わった。

作業には膨大な時間と費用が必要だったが

映画監督スティーブン・スピルバーグや、

フランシスコ・コッポラ監督が援助に名乗りを上げた。

彼らは若き頃この映画を観たことで、

将来は映画監督になるという運命を決定された

大勢の若者の内の1人だった。

付け加えればその中でもっとも成功した人物でもある。

言わばロレンス完全版への貢献は彼らなりの恩返しであり、

映画監督としての父である

デヴィット・リーンへの親孝行でもあった。

3時間47分。

これが彼らが作ったアラビアのロレンス完全版の上映時間である。


実在した人物である

トーマス・エドワード・ロレンスが書いた手記を原作として、

1人のイギリス軍人が中東の広大な砂漠に降り立ち、

アラブの民族と邂逅し彼らと飲食を共にし

オスマン帝国相手に戦い勝利し英雄となりアラブの天使化し、

最後には自国イギリスの三枚舌外交の汚さと

中東民族同士の複雑な力関係に絶望し帰国、

除隊後に自殺するように事故死するという

壮大な規模で展開される

美と哀しみに溢れた情念の物語は僕を圧倒した。

ロレンスの相棒にして実質的にこの映画のヒーローである

アラブの戦士アリが言ったセリフを今でも憶えている。

「アラブとして生きることは辛い道なのだ」。

アラブとは定住する場所を持たない、

あるいは定住を歴史から否定された流浪の民である。

ロレンスもまた自国であるイギリスにも戦場である中東にも

居場所を得ることが出来なかった流浪の民だ。

放浪とはイバラの道なのだ。

公開当時から現代に至るまでこの映画が

多くの人々の心を打った理由はここにある。

ロレンスを演じたピーター・オトゥール

アリを演じたオマー・シャリフの演技も素晴らしい。

作曲家モーリス・ジャールの音楽はいまでも耳に流れている。

撮影監督フレディ・ヤングによる

映像の美しさと躍動感は伝説となっている。

それら全てが力を合わせ描いているのは

流浪の民であることの苦しみと美しさだ。

そして人々は生きている限り誰もが流浪の民なのである。

肉体として精神として。

我々は生きている限り放浪を定められている。


アラビアのロレンスは非常にホモソーシャルな映画であり、

またゲイ的である。この映画に女性は登場しない。

その代わりに

美しいイギリス人とアラブ人の青年と老人と少年が登場する。

いやむしろこう言うべきだろう、

美しい青年と老人と少年がいればその作品に女性の入る隙はない。

それがホモソーシャルだ。

先程、アラブの戦士アリのことを

この映画のヒーローであると書いた。

であるならばヒロインは主人公のロレンスだ。

ロレンスは試練を乗り越えることで認められて行く。

試練を課したのはアラブ、

彼にとっての異国人と砂漠という大自然だ。

ロレンスの勇敢さと優雅さに感化されたアラブの民たちは

彼を清らかで美しく、

天使の様な存在だとみなし始める。

その証拠として彼らはロレンスに真っ白な民族衣装を送った。

ロレンスは作中最大の笑顔で純白の衣装を身に纏い、

彼を囲んだアラブの民は賞賛を送る。

勇気への賛歌と友情の表明という多幸感に包まれた名シーン。

ロレンスが纏う純白の民族衣装

ウェディングドレスの暗喩である。

彼の結婚相手はアラブの民たち、そして砂漠だ。

ロレンスはこのシーンを境に自分の肉体が

2つの異質を持っていたことに気が付き始める。

異質とは当時の社会がおぼろげに定めた

常人という規定の範疇を越える

能力や性質のことである。

そして異質にはもう1つの意味があるがそれはあとで話す。


彼は異質を2つ持っている。

彼自身もそのうちの1つには気が付いているが、

もう1つには気が付かない様にしている。

1つは軍事的な力だ。

ロレンスは他民族であるアラブの民を率いて広大な砂漠を渡り

オスマン帝国の要塞を背後から強襲して陥落する。

ゲリラ戦を展開して砂漠を横断する鉄道網を蹂躙する。

ロレンスには作戦を考え部隊をまとめ率いて

都市や野という場所を問わず敵を根絶する力があった。

もう1つはゲイ的な要素である。

ロレンスは軍隊という

社会的にもっともホモソーシャルな環境に身をおくことで、

自分が持つセクシャリティーに気がつき始める。

彼は自分の性から逃れるために

戦士的なマチズモを心にまとうが

物語りの終盤で己の性を自覚する。

ロレンスは敵軍に捕まり拷問を受け

複数の男たちによる陵辱を受けてしまう。

ここで彼は自身が持っていた異質を反転する様な形で

受け入れざるをえなくなる。

マチズモ→ゲイという反転だ。

それは本当の自分というものの発見という生温いものではない。

その大きな傷を受け入れざるをえないのだ。

自身の軍事的才能を活かし

アラブの民を率いて多くの勝利を得た彼だが、

敵に肉体を蹂躙されたことで1人の人間、1つの肉体としては、

個人としては敵に抗う力が無いことを強制的に知らしめされる。

まとっていたマチズモという仮面を剥がされてしまうのだ。

自身を偽ってきたかりそめの性質が無くなり

裸体の自分を見つめることになる。

そして自身がゲイだという異質性を受け入れる。

ゲイが異質だと言っているのではないし、

陵辱されたものは弱いと言っているわけでも、

犯された男がみな自分をゲイだと認識すると言っているのではない。

異質とは自分が思いもしなかった自分のことである。

ロレンスは自分がそうだとは思ってもいなかった。

そう思いたくなかった。

自分は特別な力があると思っていたが本当はひ弱な人間であること、

そして異性愛者だと思っていた自分が

同性愛者であったことに気がつく。

ロレンスは物語を通じて自覚的だった自身のなかの異質である

軍事力への確信を深めると共に、

自覚していなかった、いや自覚を遠ざけていた異質にも気がつく。

自身のなかの異質をめぐり精神が引き裂かれんばかりの

アンヴィヴァレントな状態におかれるのだ。

アラビアのロレンス流浪の民の物語であると共に、

才能と性という2つの異質をめぐる物語でもあるのだ。

異質というものはそれが敵を蹂躙するという才能や

ゲイというセクシャリティではなくとも万人が持っているものだ。

自分でも自覚している才能は万人のなかでいまだに眠り、

万人が眼を反らしている異質を隠し持っている。

大抵は両方に無自覚なままで。

社会における流浪と

異質に対するアンヴィヴァレントな精神の葛藤を

砂漠の青空と夕陽と共に描くのが

アラビアのロレンスという映画だ。


そんな作品の最中にIntermissionが挟まれる。

繰り返しになるけれど

僕はこの映画をパソコンを使いDVDを再生することで初めて観た。

パソコンの液晶画面に現れたのが一番最初に書いた描写だ。


スクリーンには大きな文字で

Intermission


宮殿、去って行く兵士たちの後ろ姿、Intermissionの文字。

モーリス・ジャール作曲による主題曲が流れている。

彼が書いた旋律は

広大な砂漠の彼方に横たわる

地平線に沈む夕陽を我々に直視させる。

絵、音楽、画面上で起っている出来事の

全てが美しく優雅と言うほかなく、

だから僕は圧倒されてしまう。

物語の休憩という行為が優雅なものであることをこの時に知り、

そんな休憩を告げる画面の美しさに目眩がしたのであった。


しかし前述したとおり

僕は本当の意味でのIntermissionを経験していない。

もう一度言うけれど僕がロレンスを見たのは

自宅のパソコン画面上でのことなのだから。

同じ映画を鑑賞するにしてもシアターと自宅では訳が違う。

映画館では1度上映が始まれば

客の都合でフィルムを止めることは出来ない。

一方でパソコンを使い映画鑑賞した僕は

ロレンスの物語をいつだって停止することが出来た。

早送りや巻き戻しをすることさえ出来た。

一時停止のボタンを押してトイレに行き便座に座りながら物思いにふけったりコーヒーを飲むために豆をミルで粉砕するところから始めて水道水をヤカンに入れて湯を沸かしドリップペーパーの糊を水で落としてからすべてをセットしてスウィッチを押すことも、携帯電話を使って恋人に電話をかけてひとしきりの愛を囁くことも、あるいは当時購入したばかりのデジタルカメラを使用して撮った彼女の裸体や、彼女の柔らかい唇が僕のペニスをくわえこんでいる写真を観ながら自慰行為にふけることもできた。

どれもしなかったけれど。

僕にはロレンスの一生、

眩しくも漆黒のその物語りを

途中で止めることなどできなかったのだ。

画面にIntermissionの文字が表示されていたのは

僕が観たDVDでは5分ほどだったと思う。

20分前後の休憩を取る映画館での上映とは違うというわけ。

しかしアラビアのロレンス完全版を制作したスタッフたち、

リーン監督やスピルバーグは5分間の短時間とはいえ

意図してIntermissionの時間をDVDに克明に焼き付けたのだ。

それは映画鑑賞という文化にとっての偉業だった。

Intermissionを体験したことのない僕たち。

1997年にキャメロン・ディアス監督の

タイタニック」という映画が大ヒットした。

この映画の上映時間は3時間19分。

長時間だがこのときは

休憩無しのノンストップで映画は上映されたのだ。

だから僕を含む大勢の若者が

Intermissionを体験したことがなかったというわけ。

そして僕は「アラビアのロレンス」で画面の前から動けなくなった。

何度も言う様で申し訳ないけれど

それは初めて体験したIntermissionが美しくて優雅だったからだ。

僕はそれに虜になり、

身体が硬直してしまい、つまり緊張していたのだ。

そして僕は3つの意味でIntermissionを正式には経験していない。

1つ目は、映画を観賞したのが

自宅のデスクの上に設置した

パソコンの画面上の出来事であったこと。

2つ目はIntermissionの文字が画面に表示されていたのが

5分程だったこと。

3つ目はその5分間のあいだに一切の身動きができなかったこと。


Intermissionなのにもかかわらず休憩していないという

アンヴィヴァレンツな状態に僕は陥ったのだった。

しかしロレンスが僕にもたらしたアンヴィヴァレンツは

若干の苦しさを感じるものの非常に優雅で美しい時間だった。

休息と緊張、苦しさと優雅さが僕の中に同時に存在し

僕の精神を引き裂こうとしている。

砂糖だけを入れたコーヒーから

甘く柔らかい湯気が立ち上り消えるまでの僅かな時間。

それはこれまで体験した来た映画鑑賞の瞬間のなかで

もっとも前衛的な時間だった。


アンヴィヴァレンツがもたらす優雅で美しく少しだけビターな

前衛的な時間。

僕はそんな時間を映画とは別の仕方で存在させてみたい。

あるいは存在を越えて、

僕が知らないどこかの誰かの心に出現させてみたい。

そんな目的があってこのインターミッションを書いている。

ロレンスのIntermissionに近づくのは難しいだろうけれど、

挑戦してみよう。


では小説の合間に挿入される休憩時間とはなんだろうか。

DVDで観る映画も小説もある共通の性質を持っている。

小説とは文字を読むことで観る物語である。

読むことを中断すればいつでも物語を停止させることが出来る。

単純にページを閉じれば良いのだ。

そしていつでも再開することが出来る。ページを再び開けば良い。

DVDを再生して観賞する映画も同じだ、

停止ボタンや再生ボタンを押せば良い。

いつでも停止出来る。これが本とDVDで再生する映画との共通点。

故に書物は時代を越える。

祖父が物語の半ばのところでページを閉じ書庫にしまった本を

数十年後に彼の孫が見つけてページを開き物語を続けることもある。

もちろん1人でそれをやってもいい。

10代のころ苦労して10ページ読み進めたものの断念した書物を、

90歳のときに再び開いて一夜で読み終えてもいい。

小説とは読者が自由に中断と再開を行える物語なのだ。

中断と再開こそが休憩である。

中断したままでは休憩にはなりえない。

映画のIntermissionも上映の中断の後の再開が約束されている。


このようにして文字を読むことで物語を進めていく小説には

あらかじめ休憩が含まれているものなのだ。

読者が恣意的に行う読書という行為の中断と再開という形で。

だから小説には休憩時間と銘打ったページが存在する必要がない。

お気づきのとおり、

休憩中であるのにも関わらずこのように文字を読んでいるのでは

休憩にはならない。

肉体も精神も休まらない。

僕がアラビアのロレンスで経験したインターミッション

同じものだった。

なにせ休憩にも関わらず画面を見つめたままで

音楽を聴き続けていたのだから。

これでは肉体も精神も休まらない。

しかし優雅と美があった。

繰り返しになるけれど少しの苦しさと共にそれがあったのだ。

美徳と苦痛が共存している、なんと前衛的なことか。

だからこのインターミッションで書く文章にも

優雅と美と前衛があることを心がける。

そしてわずかな苦しみを。




Intermissionは英語なのだが

フランス語ではEntr'acte —— 読みはアントラクト —— と言う。

突然にランガージュの話をしたのではない、

「Entr'acte」という映画があるのだ。

1924年の12月24日、

クリスマスイブのフランスで公開された映画だ。

題名に偽りなく休憩時間のために作れた映画である、

これは半分は本当。

半分だけの理由をこれから少し書いていく。

「Entr'acte」の監督はフランス人ルネ・クレール

彼はパリで生まれ育って第1次大戦を兵士として過して

終戦後は再びパリに生きた。

だからこの映画はフランス映画だ、舞台もパリである。

これ以上先の話しを続けるためには

映画史における音楽のことを説明しないといけない。

詳しく言えば映像と音のことを少し説明しないといけない。

もしあまりにも興味がないと感じるのならば

この段落を読み飛ばしても構わない。

僕がこのように進言するまでもなく、

ページを読み飛ばすのも閉じるもの読者の自由だ。

話を元に戻す。

映画というものは人間の欲望により生まれた。

動いている人間の姿をそのまま別の誰かに伝えたい、

動いている自分の姿を後世に残しておきたいという欲望だ。

そして動いている人物に音を合わせたいという欲望も持っていた。

そちらのほうが無音のフィルムよりも

遥かにリアリティーがあるからだ。

その欲望は無声映画が発明されるはるか昔からあった。

古代ギリシャ

野外劇場で行われた劇には悲劇の王オイディプスや王子オレステスや神であるプロメテウスを演じる役者の他に合唱団が参加しており台詞と歌唱の応酬で物語は進む。

その劇場はすり鉢型だったし —— つまり音が響くように設計されていたわけだ —— 時代を先に進めてルネサンス期以降になると劇中全ての台詞に旋律が付くオペラが作られるようになる、

そもそも物語は歌によって語られ歌によって伝達したのであった、それはホメロスを代表する吟遊詩人であり平家物語を歌う琵琶法師であり浄瑠璃は三味線の演奏と言葉で物語を表現する。

物語があり動きがあり音楽がある。

この欲望は総合芸術というものへの欲望でもある、オペラには物語があり役者がいて彼らは凝った衣装を着ているし全編で音楽が奏でられ舞台のセットは絵画や彫刻と同じ芸術品であった。

全てがあるのだ、それを総合と呼ぶ。

映画に話を戻そう。


映画にも物語があり役者がおり彼らは衣装を着ていてセットもある。

ロケ —— 野外撮影 —— ではセットはないが

カメラで撮る以上は構図というものがある。

構図とは美的感覚や表現したいことがらによって

意図的に切り取られた現実風景のことだ。

だが映画には音楽が足りない。

それがサイレント映画というものだった。

当然、人はそこに音楽を付け加えたがった。

映画は始め1人で楽しむための娯楽として産まれた。

トーマス・エジソンが発明したキネトスコープは

双眼鏡めいた覗き穴が付いた木製の巨大な箱だった。

彼はオペラ座で毎晩のように行われていた貴婦人たちのオペラグラスを使った観劇方法 —— それはとても優雅な行いだ ——をイメージの元にしてこれを制作したのであった。

これが映画の始めでありテレビやパソコンで観る動く映像 —— つまり動画 —— の始まりだった。

1891年の出来事だがその3年後に開かれたシカゴ万国博覧会エジソンは音の出るキネトスコープ、名前をキネトフォンというがこれを出展している。

しかしキネトフォンは映像とレコードから流れる音楽を同期させたものだった、このレコードは誰もが知る円盤の形をしたものではなく、縦に長い筒型のものだった —— なにせエジソンは筒型レコードの発明者でもあるのだから、キネトフォンが売れれば大もうけだった —— 。

その箱には双眼鏡の他にイヤフォンの線が生えていた。

つまり映画はあいかわらずの1人用の娯楽だったのである。

イスに座った大勢の観客が巨大な画面を見つめている。

そんな現代的な映画の形式を生み出したのは

リュミエール兄弟というフランス人だ。

兄弟が発明した映写機は

エジソンのキネトスコープを改良したものだった。

エジソンが作り出したオペラグラスをとっぱらった兄弟は観客全員が1つの舞台 —— スクリーン —— を見つめるという観賞方法を可能にする技術を生み出したことで映画をさらにオペラ本来に近い形に近づけたわけだ—— これはオペラの本場であるフランスで生きた人間らしい仕事であった —— 。

彼らがしたことはつまりスクリーンを作り上げたことである。

そして自らスクリーン専用の映画—— 工場の出入り口から大量の従業員が出入りしたり、汽車が駅に止まるあの有名な映像のことだ —— を製作して有料で上映したことだ。

彼らの業績のなかでもっとも凄いものはそれだった、

つまり世界初の映画館を作り上げたことだ。

故に彼らこそが映画の創造主と言われている。

1895年のことだ。

彼らの姓であるリュミエール —— Lumière —— とは

フランス語で光を指し示す言葉である。

兄弟は映画の他にも世界初のカラー写真も発明している。

写真も映画も、そもそも生物の視覚という機能が動くのも

光の受容によるものである。

リュミーエル、光、映画、写真、しかしすべてはまったくの偶然だ。

兄弟が作った映画上映装置をシネマトグラフと言うが

それには音は無かった。

だから音を付け足したいという欲望が当然のように生まれた。

ここから多くの発明家や映画人が試行錯誤を繰り返し

映像と音の一致をいの一番に目指す時代に突入する

—— 欲望は競争を生むのだ —— 。


そこには一攫千金の夢もあった。

この時代、世界の娯楽の頂点に映画が君臨することは

火を見るより明らかだった。

世界初のトーキー映画はなにか?

ということは未だに議論になる問いかけである。

物事というのは段階的に達成されるものだ。

急に産まれたようなものもあるにはあるが それは人々の目に付かない陰のうちで実験と失敗が繰り返されてきた結果だけを目にしているからで、成功だけがあるように錯覚しているだけだ。

リュミエール兄弟の前にはエジソンが存在しエジソンの前にはコダックの創設者にしてロールフィルムを実用化したジョージ・イーストマンと連写可能な写真機である写真銃を作ったエティエンヌ=ジュールがいたのだ。

そんな映像の歴史と同じくトーキーの完成も段階的なものであった。

トーキーの語源はトーキングつまり

音声を発することであり映画ならば有声映画ということになる。

重要なのは音楽ではない、声なのだ。

だから世界初のトーキー映画がどれであるかということを検証するのならば世界で初めて音声と映像を一致させた映画を追えば良いのだ。

重要なのは音声と映像が完璧に同期していることだ

—— その一致をリップシンクと呼ぶ —— 。

そして世界初のトーキー映画は1923年2月1日に映写された

Love’s Old Sweet Song( 愛の懐かしき甘い歌)である。

題名は同名の曲から持ってきている。

内容は歌手の歌唱や舞台俳優たちが演じたミュージカルや

芸人の芸を撮影したものだった、つまりドキュメンタリーなのである。

この映画には完璧なリップシンクが登場する。

その後の1926年には

かの有名な映画「ジャズシンガー」が公開される。

「ジャズシンガー」は長篇映画としては初めてリップシンクする場面が登場する作品でその台詞は「君はまだなにも聞いていない!」という非常に気の利いたものであった。

人々の欲望を満たすこの映画は当然のように大ヒットを記録した。

だがこの映画は上映時間の1/3にしか音声がついていない。

もちろん当時はそれでさえ魔法のようなものだったわけだけれど。

全編トーキーの映画は1928年7月6日に公開された

ニューヨークの灯」である。

動画と音声の一致が映画全編で行われるまでには

このような段階があったのだ。

1891年のエジソンの発明から

ニューヨークの灯」公開の1928年までつまり

37年間の発明史だ。

歴史として見れば短い期間、

常に日進月歩の発明史ならば中期間だが、

1人の人間の人生に例えればとても長い期間だ。

1世紀を100年とし、その1/4の25年を四半世紀と呼ぶが、

それを余裕で越えている。

例えば、37年後、あなたは何をしているだろうか。

そもそもまだ生きているだろうか。


発明史の側面には特許とそれが産み出す大金をめぐる歴史がある。

膨大な金だ、しかしそれと比べれば少ないと言わざるをえない

金額の金をめぐる歴史もあった。


映画界全体ではなく個々の劇場の主、劇場主の工夫である。

当り前だが映像に音を付けたいという欲望は

むしろ聴衆の方にあった。

だから劇場主は映画とは関係の無い

既存の曲を収録したレコードをかけて映画上映中のBGMにした。

これはエジソンがキネトフォンでしたことを

拡大反復した行為だった。

そこには選曲の自由があり、音楽によって映画の印象は変化した。

音楽はクラシックやジャズだった。

物語や台詞を読み上げる弁士もいた。

当然他の劇場を出し抜こうとする興行主も現れた。

彼らはレコード代わりにピアニストやバンドやオーケストラを携えてその生演奏と映画を組み合わせた —— 現在では特別な興行でもないかぎりは体験することのできないこの観賞方法は演技と生演奏の組み合わせという点ではオペラの定義を完全に満たしており非常に高級で優雅な映画の鑑賞方法だった。想像して欲しい、あなたがそういった特別な映画鑑賞会にいくとしたら、どういった服を着るだろうか、あるいはどういった心構えでそこに出向くだろうか —— 。

そして特定の映画専用の音楽が登場する。

それまでは既存の曲を使っていたわけだから

有名な曲や人気の曲は複数の映画のBGMとして使用された。

ところが専用の曲の場合は1本の映画にのみ使用される、

これで映画はよりオペラ的なものになった。

つまりそれはost、英語でoriginal sound track

—— オリジナル・サウンド・トラック ——

日本語なら映画音楽の誕生であった。

そんな映画音楽の登場で映画はそれまでもより豪華で

ゴージャスでリュクスなものになったのだ。

世界初の映画音楽が作られた作品は

1908年フランスで制作された

「L'Assassinat du Duc de Guise(ギース侯爵暗殺)」である。

内容はある種のコスチュームプレイ —— この言葉の本義は時代劇のことだ。制服という意味でのコスチュームを纏ってセックスをすることでもなければ、ホビーとして漫画やアニメーションや映画の登場人物の衣装を真似たものを纏うことでもない —— でありオペラに近いものだった。

"オペラに近い"極めつけがその映画音楽の作曲者が

「動物の謝肉祭」などで有名なサン=サーンスだったことだ。

映画のフィルムがスクリーンに投影される、

そのなかで彼が書いた曲をオーケストラが演奏したのである。

この時点で映画のオペラ化は頂点に達した。

以降フランスを中心に映画作品専用のオリジナルスコアが

書かれていくことになる。

公的な映画史ではそうだ 。

しかし映画館で働いていた楽団員やピアニストバンドマン達がこれと同じことを思い付かないはずが無く、曲と演奏が評判を呼べば色々な映画館から引っ張りだこになるだろうから金に目ざとい彼らがオリジナルスコアを作らないはずもない。どんなところにも商人や発明家は居る。もちろん音楽家のなかにもだ。だから上記のことはあくまでも公的な映画史のことなのである。

さて「Entr'acte」はそんな時代、

オールトーキー映画が公開される1928年の4年前である

1924年に作られた映画だ。

「Entr'acte」は無声映画だがオリジナルスコアが書かれている。

書いたのは一般的にはジムノペディを作曲したことで知られる

エリック・サティである。

クラシック音楽の作曲家が映画音楽を作曲するという点では

「L'Assassinat du Duc de Guise」のサン=サーンスと同じだ。

「わが町」という映画のスコアをコープランドが書いているし、

シェイクスピアの演劇が映画化された際には

ウィリアム・ウォルトンが複数の作品に曲を書いた、

そういう時代だったのだ。


じつは「Entr'acte」はそれらの映画とは違い

単独で上映される作品ではない。

なんとこの映画はバレエ公演の幕間に流すために作られた映画なのだ。

幕間とはバレエや演劇公演のあいだに挟まれる

休憩時間のことであり、

英語ならばIntermissionという言葉になり

フランス語ならばEntr'acteになる。

そう「Entr'acte」なのである。

そもそもそのバレエ自体がサティが音楽を書いた作品なのであった。

公演の題名は「本日休演」という人を食うものだったが名前のとおりに初演は踊り手の急病のせいで休演になってしまった。名前には不思議な力があるらしい。

バレエの内容はサティらしく人々を驚かせるもので、

舞台には円状の小さな鏡が何百枚も張られていた。

曼荼羅やあるいは岐阜県の地下1000メートルに作られた宇宙素粒子観測装置であるスーパーカミオカンデの光センサー群を連想させる鏡の前でダンサーが踊るのだ。

「Entr'acte」はそんな公演の幕間に上映される映画であり監督のルネ・クレールはパリにおけるシュルレアリスムを牽引した人だから映画の内容は筋の無い超現実的な作品となった。

とはいえダリ風の奇妙で怪奇なシュルレアリスムではなく、

写真家カルティエブレッソンを生んだパリらしく

どこかキュートで小戯れたシュルレアリスムだった。

あたりまえだけれどスペインのカダケスと

フランスのパリは地理的に離れているらしい。

ダリはカダケスの海岸に並ぶ潮風で奇妙な形に削られた岩と

砂浜を観て自身の絵画を作った。

一方でパリには都市があった。

「Entr'acte」には芸術方面の著名人が多く登場する。

その点では多くの人がこの映画を観て驚くだろう、

映画は大砲の前で2人の男が戯れるところからはじまる。

それがサティと画家のフランシス・ピカビアなのである。

ピカビアは「本日休演」と「Entr'acte」の

原案者だし彼はクレールの師匠だった。

その後に登場するのは小便器に「泉」という名前をつけたビアス風アイロニーの芸術家マルセル・デュジャンや写真家のマン・レイフランス6人組の1人である作曲家のジョルジュ・オーリックにバレエダンサー/振付師のジャン・ボルラン。

そうそうたる顔ぶれである。

しかし作品の内容は彼らが集まって映画用のカメラという

新しい玩具の前で楽しく騒いでいる風を感じさせる

キュートなものだった。

ところが後半になると優雅で不思議で悲しい映像 —— それは映像の魔術師と呼ばれることになるイタリア映画監督フェリーニの登場を予言するような映像だ —— が登場する。

それこそが彼らの面目躍如というべきところで、

「Entr'acte」がつまらない実験映画に

終わっていないことを証明している。

この休憩時間(Entr'acte)は

優雅で不思議な白昼夢そのものなのだ。

そして現在の目でフィルムに映っているパリを観るとミニチュアのように小さくて可愛くて田舎のようで、ホコリっぽくて小汚くて、その色はセピア色 —— もちろん当時制作された映画の大半がモノクロ映画だ。「Entr'acte」もそうだ。全編カラー映画が公開されるのは1932年のことでこの仕事を成し遂げたのはウォルト・ディズニーで彼が制作した僅か7分30秒の短編アニメーション映画「花と木」でのことだった。多色を初めて取入れたのはアニメだったのだ —— をしている。

ここまでお読み下さった方にはお判りのとおり

この「Entr'acte」も休憩時間ならざる休憩用の作品なのである。


しかし実を言うと当時はバレエ公演の幕間に映画を上映することが流行っていたのだけれど —— つまり映画史における初期段階で映画自体が休憩ならざる休憩として使われていたのだ —— 、そのなかでもピカビアとサティが作ったカミオカンデめいた舞台で行われるバレエの幕間に上映される「Entr'acte」はその製作目的と内容からして

群を抜いて休憩ならざる休憩だった。

僕がアラビアのロレンスで経験した

インターミッションも同じものだった。休憩ならざる休憩である。

このことを言うためだけに文字を多く使ってしまった。

サティは1912年に管弦楽曲

「優雅で感傷的なワルツ」を発表した。

約16分に渡り演奏されるワルツは

題名のとおりに優雅で感傷的である。

感傷的なのは演奏時間を通してあまり変化のないこのワルツが

ギリギリのところで退屈に踏み込んでいるからだ、

足の親指の先だけ退屈に踏み込んでいるものだから聴衆は

ハッキリとした退屈を感じないがペーソスは覚える。

「優雅で感傷的なワルツ」が表現しているのはフランス料理

フルコースを食べるということに近い。

フルコースを食べるということは食事に時間をかけるということで食前酒とアミューズブーシュをつまむことに始まってワインを選びアントレを食べてスープを飲んで魚料理のポワソンと肉料理のヴィアンドを食べてソルベで舌を洗い流して2種目の肉料理に舌鼓を打ち生野菜とチーズつまりフロマージュを食べて最後にデセールと果物を食べてカフェを飲む。必要ならばこのあとでレストランに併設されたBarでカクテルを飲んでも良い。ともかく時間がかかるものなのだ。

この長丁場を文学上で唯一再現出来たのは

マルセル・プルーストの手による

失われた時を求めて」だと言われている。

音楽ならば「優雅で感傷的なワルツ」である、

演奏に1時間以上かかる交響曲よりも

この曲の16分間の方が

フランス料理のコースを長時間かけて食べる行為に感触が近い。

全ては退屈ではない退屈だ。


休憩なのだから物語を前に進めることはできない。

代わりに物語の過去を表現する文章を書くことにする。

過去とは昔を振り返ることで現れるおぼろげな幻のことだ。

しかし幻といえども過去は常に存在している。

あなたの顔には過去が常に張り付いていて、両肩にもたれ掛り、

あなたの手足を動かしているのも過去の記憶と経験だ。

あたりまえだが、ピアノを練習したことのない者が

ピアノを優雅に弾くことはできない。

恋も味覚も家族も仕事もセックスも他の諸々もそれと同じことだ。

過去とはそういったものだ。

過去は常に存在している、

しかしそれと過去を意識することや表現することは別ものだ。

過去を意識して表現することもあれば、

意識せずに過去を語ることもある。

例えば個々人の昔話は前者だが、

ある人の言葉使いやその人が放つ雰囲気は個人が意識せずとも

他人にその人の過去……

つまりどうやって生きてきたのかということを感じさせる。

もちろんその推測が外れることも多くあろうが、

勘の鋭い者や他人をしっかり観ることの出来る者ならば

推測も当たるだろう。

故にこの物語の過去を語らなくとも鋭い人ならば、

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」の

過去にあるものを察していることだろう。

だから過去を表現することは蛇足かもしれない。

しかし休憩時間という言葉に甘えて

その蛇足をあえてやってみようと思う。

蛇に足はない。

それなのにも関わらず蛇に足を描くことを蛇足と呼ぶ。

中国の故事から産まれた言葉だが、

その故事は1つの事実をいまに伝えている。

余分なことをやって産まれるのは足のある蛇、

キメラであるということだ。

キメラを誕生させることは

中世時代の錬金術士たちの夢の1つであった。

異形であるが新しい生物を産み出すという夢である。

または古代ギリシア人の夢想の1つか。

かの神話群に登場する半獣半身のケンタウロスミノタウロス

そして半神半人のアキレス

ヘラクレスオリンポスオリオンもキメラである。

ここは1つ蛇足なことをすることで本小説を

キメラめいたものへと生れ変わらせよう。

それが迷宮の王になるのか夜空に輝く星座になるのか

短命な異質な生物になるのかは不明だが。

休憩時間だからできる余興の1つである。


それでは解説を書くことで物語の過去を呼びだしてみよう。






まず始めにゴダールがいる。

次にプイグがいて、それからオースターがいて、

そもそものはじまりの前にはチャンドラーがいる。

チャンドラーゴダールに仕事を教え、こつを伝授し、

チャンドラーが年老いたとき、ゴダールがあとを継いだのだ。

物語はそのようにしてはじまる。


ゴダールとは映画監督のジャン・リュック・ゴダールのこと。

彼はフランス人だ。1930年に産まれた。

インドのカンジーが英国に対して抗議運動を始めた年だ。

国家間の代理戦争の様相も見せる

サッカーワールドカップが初めて開催された年でもあるし、

ジャズテナーサキソニストのソニー・ロリンズもこの年に産まれた、

あとショーン・コネリーも。

ゴダールは1959年に「勝手にしやがれ」という映画を撮った。

この映画はフランス映画界に

ヌーヴェル・ヴァーグという現象を起こした。

ヌーヴェル・ヴァーグとは新しい波という意味だ。

旧来の映画とは異なる手法で作品を制作する

若手映画監督たちが台頭した。

クリエイターの急務は新しいものを作ることにある。

以降ゴダールフランス映画界の顔となっている。


ブイグとは小説家のマヌエル・プイグのこと。

彼はアルゼンチン人だ。彼の生まれは1932年。

アメリカではルーズベルトフーヴァーを破り大統領に就任し、

ソ連がポーランドと不可侵条約を締結し、

フランスではドゥメール大統領が暗殺され、

上海では日中軍が衝突し、犬養総理大臣が暗殺され、

ドイツでは選挙でナチス党が与党となる。

つまり第二次大戦前夜が形作られた年だった。

彼は1963年に発表した

リタ・ヘイワースの背信」で小説家になった。

それまでは映画監督を目指し

フランス人の監督の下で修業を積んでいた。

彼の作品は既存の小説の形式を破壊する前衛的なものだったが、

そこで書かれた主題は愛と哀しみという古典的なものだった。

彼は前衛と古典を洗礼された文章により繋ぎ合わせ、

全世界の読者を魅了した。

クリエイターの役割は前衛と古典を繋ぐことにある。

プイグは中南米小説界のポップスターだ。


オースターも小説家だ。フルネームはポール・オースターだ。

彼はアメリカ人で1947年に産まれた。

第二次世界大戦の敗戦国であるドイツを

米英仏ソの4カ国が分割統治し始めた年だ。

世界史というのは残酷物語という言葉と同義だが

その中に登場するにはキュートな事件としか言いようが無い

ロズウェル事件がアメリカで起こった年でもある。

彼は1982年に「偶然の発明」という小説でデビューした。

しかし彼の作品が好評を得始めるのは

85年と86年に書いたニューヨーク三部作からである。

すなわち「ガラスの街」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」という

ニューヨークを舞台にした一連の作品のことだ。

彼の作品は日本ではエレガントな前衛という批評を得て

読まれ続けている。

エレガントはフランス語だが、

その語源はラテン語のエリールである。

エリールの意味は選択だ。

クリエイターの目標は作品にエレガントを持ち込むことにある。

オースターは現代アメリカ小説の代表的な存在だ。


はじまりの前にいるのがレイモンド・チャンドラー

産まれたのは4人の中で一番早い1988年のことである。

オースターとは60年歳ほど離れている祖父の代の作家であり、

ゴダールとプイグからしても40歳も離れているのだから

年を取ってから産まれた子供の様なものだ。

1988年と言えば英国はロンドン

切り裂きジャックがもっと活動的に犯罪を行っていた時代であり、

ボールペンの特許がアメリカで提出され、

画家のゴッホが顔に張り付いていた左耳を

自らの手で切り取った年でもある。

アラビアのという枕詞で有名なトーマス・エドワード・ロレンスも

チャンドラーと同い年だ。

彼が作家デビューしたのは45歳の時で、

かの有名な私立探偵フィリップ・マーロウが初登場する

「大いなる眠り」を書いたのは50歳を超えた時だった。

彼はアメリカに産まれてイギリスやドイツで育った。

公務員の資格を取得して英国海軍本部で働いた、

この時点で彼は名実共にイギリス人だった。

しかし直ぐに退職して新聞や雑誌に

事件記事や文学作品の批評を書く

ジャーナリストになった。

だがこの仕事は彼に向いていなかったらしい。

彼のエッセイを読むとこのころは極貧であったことがわかる。

そして職を求めてアメリカ国籍を獲得して渡米した。

アメリカ人だった男がアメリカ人ではなくなって

再びアメリカ人になった。

つまり彼はアメリカの内外を知り、

内外からアメリカを眺めることが可能になったのだ。

このとき、後の大作家誕生の下地が整っていた。

その後の彼は石油会社で長年働いた。

途中で第一次大戦が勃発しカナダ軍に入隊し

ヨーロッパを駆け回った。

戦後になると石油会社の副社長にまで上り詰めた。

石油シンジゲートのバイスプレジデント。大変な権力者だ。

だがそれが悪い方向にでた。

事務員と不倫関係になってしまったのだ。

現代でも厳しい批判を受けるこの行為が、

1930年代では如何程の非難を受けるかは語る必要は無いだろう。

もちろん解雇された、その地位は剥奪された。

石油会社の副社長から一転した彼には、

それでも愛想をつかさなかった妻が傍らにいた。

妻は彼よりも年が18歳も上だった。

なんとかして生きていかなくてはならない。

そこでチャンドラーが小銭稼ぎに始めたのが

小説を書いて売ることだった。

これが彼が45歳の時だ。

若い頃は上手くいなかった物書きの仕事だが、

年を重ねたら上手く行った。

この時から彼は我々が良く知る彼となった。

彼が50歳の頃に発表した「大いなる眠り」は世界中で好評を得た。

描かれた文章は硬質で優しく洒落があり美しかった。

それまでの私立探偵小説で描かれる探偵は

無頼で用心深く狡猾で読者との距離も離れた存在だった。

それを当時はハードボイルドと呼んでいた。

だが彼が生み出したマーロウという探偵は

過去の男たちよりも幾分に感傷的で

洒落というものを生きるのには必要な量を越えて知っていた。

読者は私立探偵マーロウに馴染み、親しんだ。

彼の文章も美しかった。風景描写は1つの絵画で、

人物描写は解剖学だった。

行動の描写は音楽で、それらを違和感無く繋ぐ術を知っていた。

チャンドラー探偵小説の大家にして

このジャンルに文学性を持ち込んだ革新者だ。

クリエイターの信条は常に自由であることだ。

チャンドラーの作品とマーロウハードボイルドだが

その規則には捕らわれなかった。

しかし彼の最大の功績は

アメリカが2度に渡り経験した世界大戦の戦後という時代を

その作品によって再構築したところにある。

彼はその世界でどうやって生きるのが理想的かということを

読者に教えたのだ。

アメリカ合衆国という国家を

個人の為の国家として存続させたのは彼の功績だ。

マーロウは言う、

君の気分は僕には関係がないんだ、

僕の気分が君には関係がないように、と。

それは個人が個人として生きていくということである。

クリエイターの義務はなにかを存続させることにある。


映画監督ゴダールは初めは映画批評家だった。

批評家と制作者の間に半透明に存在する淡い膜を越えて

彼が製作側に移った時に参考にしたのがフィルムノワールだった。

無数にある映画作品をその作品内容を根拠にして

おおまかに分類して区別しようとする行為、

ジャンル分けというものがある。

フィルムノワールもそんな無数にあるジャンルの中の1つだ。

分け方の根拠とするのは

1940年代にアメリカで作られた映画であることと、

主人公が探偵や悪徳警官やギャングであること、

あるいはそういった人々が生息している社会の裏側に

偶然足を踏み入れてしまった一般人であることだ。

そして主人公を誘惑し

その人生を狂わせる性を持った

魔性の女=ファム・ファタールが登場することだ。

ノワールフランス語である。黒という意味だ。

ファ、ム、ファ、ター、ルという語感の良い言葉も

フランス語である。

ファムは女でファタールは運命だ。

だから運命の女と言う意味だ。

だがファタールにはもう1つ意味がある、致命傷だ。

運命の女は男の人生に必ず致命傷を与えることを

フランス人は熟知していた。

あるいは致命傷を与える女だからこそ

男の運命の人たりうるのか。

フィルムノワールとはフランス人が作った映画分類方法の1つであるがそれだけではなくこの言葉が誕生する以前は低俗な作品と看做されることも多かったアメリカ産の犯罪映画の芸術性をフランス人が見抜き評価したということも証明している言葉である。

フランスアメリカ産のものをアメリカに先駆けて

評価することが得意だった。

ジャズはアメリカの音楽だが

その帝王と呼ばれたマイルス・デイヴィス

芸術家として真っ先に価したのは

マイルスが生まれ育ったアメリカではなくてフランスだった。

ゴダールはそんなフィルムノワールに魅了されたのだ、憧れたのだ。

そこに描かれる、アメリカに。

ゴダールの盟友/好敵手に

フランソワ・ロラン・トリュフォーという映画監督が居る。

ゴダールトリュフォー、2人のヌーヴェルヴァーグ

実力や影響力や人気を二分するフランス人映画監督だった。

そもそもゴダールの長篇デビュ−作「勝手にしやがれ」の

脚本を書いたのはトリュフォーだった。

ゴダールがそれを引き継ぎ映画にしたのだ。

あるいはこうとも言われている。

ゴダールが新聞を読んでいる、彼はある事件記事に注目した、

その事件を映画にすることを決めた、

映画の脚本用のあらすじを書くようにトリュフォーに依頼した。

トリュフォーが書いた物を受け取ったゴダール

セリフを付けたし肉付けして脚本にした。

なせこの様に説が2つもあるのか?。

2人は映画界に新しい波を起した盟友であったが、

後に仲違いをして壮絶な喧嘩を繰り広げるようになるからだ。

そうなれば最後、人は自分の立ち位置と記億からものをいうもので、

その結果として真実は曖昧になる。

芥川龍之介の「藪の中」や

アラン・レネ監督の「去年マリエンバートで」と同じだ。

そんなトリュフォー

ゴダールの「勝手にしやがれ」が公開された59年に

「大人は判ってくれない」で長篇デビューした。

翌年第2作である「ピアニストを撃て」を公開した。

この映画の原作は小説だ。

作者はデイビッド・グーディスというアメリカ人だ。

彼が書いた小説は犯罪物や探偵小説

つまりフィルムノワールの原作となる物語だった。

そういう物語は当時のアメリカでは

読み捨て雑誌に大量に掲載されていた。

トリュフォーアメリカのことをこう言っている。

「一度読み捨てられた物語は繰り返し読まれることも再び取り上げられることもない。そういった作家たちは人々に名前も知られないまま忘れさられ、死後に運が良ければ評価される。アメリカはその大地が大きく、東海岸と西海岸では読まれる新聞も雑誌も違う」

そして彼はフランスのことを言う。

フランスはそうじゃない、どんな本でも批評される。

 犯罪物や推理小説ならば確実に批評される」

批評とはなにだろうか?

色々な考え方はあるだろうが、

批評という行為に欠かしてはならないことは1つだけである。

それは批評の対象とした作品の作品名と作者名を記すことだ。

作者自身の名乗りではなく、

それを読んだも者による明記こそが批評の正体なのだ。

ギリシャ神話ホメーロスによる「オデュッセイア」も

人々に語り継がれることで生き残った物語だ。

フランスは海外の文化にこれをするのが得意だった。

この国は日本画の浮世絵や春画を評価することで

ゴッホやゴーギャンを産んだ。

フランスとはそういう国であった。少なくともその昔は。


青年であり批評家であった時分のゴダールが夢中になった

フィルムノワールにはチャンドラーが居た。

正確には私立探偵フィリップ・マーロウが居た。

更に言えば探偵マーロウを演じた

俳優のハンフリー・ボガートが居た。

ボガート演じるマーロウ

彼が生きた時代のアメリカにあった

最大限の良心を身に纏う様にして

トレンチコートとスーツに袖を通し、

ソフト・フェルト・ハットを被っていた。

アメリカの良心とはどの街にも

自分を貫いて生きている男や女が居て、

彼らは普段、街の隅々にあるBarに

静かに溶け込んで生きているということだった。

個人として生きていくことが出来るとも言い替えることができる。

ゴダールのデビュー作「勝手にしやがれ」で

主人公を演じたのはジャン=ポール・ベルモンドである。

フランス人のこの伊達男もソフト・フェルト・ハットを冠り

スーツを身に纏っていた。

彼の恋人はフランスで暮らすアメリカ人だった。

明らかな模倣である。

ベルモンドはゴダールにとってのボガードでマーロウだった。

ベルモンドがコートを纏っていないのは

勝手にしやがれ」の舞台となった季節が

潮風香るマルセイユの初夏と

けだるいパリの夏だったからでそこはご愛嬌だ。

ベルモンド演じる主人公はアメリカ映画に憧れた男、

アメリカに憧れた男、

ボガードが演じたアメリカの良心たるマーロウに憧れた男である。

しかしこの男は私立探偵ではない、車泥棒だ。

ハードボイルドに沈殿した末に警察官を銃殺してしまう。

もちろんそんな男はマーロウにはなれない。

この主人公はゴダール自身だった。

フランス人として産まれたのだ。

アメリカ人としてフィルムノワールそのものを制作することは

ゴーダルにはできない。

だから「勝手にしやがれ」は彼流のフィルムノワールなのである。

アメリカフランス経由のゴダールノワール

私立探偵マーロウが登場する映画に憧れたフランス人映画監督

マーロウに憧れ車泥棒をするフランス人の男の物語を映画にした。

錯綜している。錯綜した彼の創作活動。

この映画以降のゴダールはある季節に差し掛かるまで

彼なりのフィルムノワールを撮り続けた。


マヌエル・プイグアルゼンチンに誕生した

小洒落た魔法使いである。

思春期と青年時代を首都ブエノスアイレスで過した彼は、

映画館に通う男として育った。

ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれていた。

プイグはヨーロッパに渡り

映画界の巨匠ルネ・クレマンの下で映画人としての修業を積んだ。

ルネ・クレマンヌーヴェルヴァーグを作った監督たちの

兄にあたる年代に産まれた男であり、

太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」という

名画を撮った映画制作の達人で、

フランス人でありながらもその作風は

ヌーヴェルヴァークと距離を置いていた。

名画として名高い代表作の「太陽がいっぱい」は

60年に公開された。

当時としてはアヴァンギャルドとさえ言っても良い

勝手にしやがれ」が公開された翌年に、この映画を公開したのだ。

しかしその内容はヌーヴェルヴァークではなかった。

クレマンの作品は絵は美しく洗練されていて、

登場人物の内面の複雑さを見事に描いていた。

だが彼の元で修業をつんだプイグの

映画人としての結果は芳しくなかった。

環境が合わなかったのか、

映画制作と自身の能力が釣り合わないことに気が付いたのか、

ともかくプイグは映画の道を諦めたのである。

しかし彼は物語に魅せられていたのだ。

この下積み生活で映画ついてより詳しくなり、

クレマンからは物事の洗練、

あるいはソフィスティケートというものを学んだ。

映画がダメならば次に来るのは小説だった。

コロンビアの小説家ガブリエル・ガルシア=マルケス

67年に南米文学の1つの到達点である「百年の孤独」を書き、

81年には「予告された殺人の記録」を書くことになる。

そんなマルケスが初の長篇小説を発表したのが61年の事であり、

この時はマルケスも映画制作に関わっていた。

だが足を洗い小説家に転向したのである。

そういう時代だったのだ。

プイグの小説は自身の経験を色濃く繁栄させていた。

小説というものは作者自身の懐からは決して抜け出せないものだが、

プイグが書いた小説ではそれが顕著であり、

その作品には彼が下積み生活で得た

都会的な洒落と軽妙さが与えられた。

名作というものはそういうものだ。

彼自身が愛と洒落に満ちた物語が好きだったのだ。

フェディリコ・フェリーニの映画「8 1/2」と同じだ。

「8 1/2」はフェリーニ自身が体験した

映画監督としての苦悩を題材にした映画だ。

この映画も軽妙な洒落を、

あるいはファッションとも言って良いものをもっていて

それが画面に表れていた。

ブイグの小説では文字が、文体がそれを持っていた。

プイグはマルケスが初めての長編小説を発表した2年後の63年に

リタ・ヘイワースの背信」でデビューした。

代表作は「蜘蛛女のキス」という

ホラー映画やサスペンス映画の題名のような小説だ。

この小説の主人公は監獄に捕らわれている2人の男で、

片方は革命運動家の青年で

片方はゲイの中年という組み合わせになっている。

牢獄暮らしの中で暇を持て余した男たちは会話を始める。

狭い空間に閉じ込めれれた2人がそれとなしに会話を始める、

なんともリアリティーがあって良いではないか。

しかしそこはエレベーターやタクシーの社内でない。獄中だ。

その窒息した空間には2人の人間しかおらず、

頼れるのは目の前に居る1人の人間だけなのだ。

そこでは親しさや親密さ、

もっといえば会話の中での誠実さが重視されるようになってくる。

なにせ出口もなければ希望もないのだから。

娯楽と言えば食事か会話なのである。

会話の重要性が、日常生活の何十倍も増す。

ゲイの囚人はこれまでに観賞した映画のストーリーを話す。

革命家の囚人は相づちを打ったりつっこみを入れたりする。

「蜘蛛女のキス」はつまり、

映画について話す時に我々が話すことを描いた小説なのである。

小説に登場する映画は実在する作品もあれば、

プイグが創作した実在しない映画の場合もある。

プイグの頭の中に浮かぶスクリーンにだけ上映された映画だ。

江戸の仇を長崎で討つという諺があるけれど、

プイグは映画界での失敗を小説で補ったのだ。

劇場では彼の作った映画が上映されることはなかったけれど、

彼がそれを文章にしたことで、

読者の心の中では上映された。

ちなみに「蜘蛛女のキス」は1985年には映画化されている。

さてプイグはこのようにして自身の小説に

既存の映画や音楽作品を登場させる。

あるいはモデルにした場面を描く。

それは引用趣味というものでありゴダールもこれを持っている。

しかもゴダールの方が過剰に引用趣味だった。

ゴダールの映画は過去の映画や絵画や小説の引用によって

出来上がっている。

例えば処女作である「勝手にしやがれ」の全てのシーンで

何らかの作品の引用を見つけることができる。

主人公はフィリップ・マーロウーであり、

台詞にはシェイクスピアフォークナーが現れ、

音楽はモーツァルトが使用され、

画ではラングやヒッチコックやフラーといった

偉大な監督の作品の影響が大きく、

そもそも脚本は実在の事件を元にしており、

実際の犯人も自動車泥棒であり恋人はアメリカ人だった。

プイグにしてもゴーダルにしても素晴らしいのは

そういった引用元をまったく知らずに作品を鑑賞しても

面白いことだ。

彼がしたのはパロディーやオマージュではなくて、

モンタージュマッシュアップなのである

持ってくるだけではなく、混ぜ合わせたのだ。

話をプイグの小説に戻す。

ゲイの囚人には目論みがあった。

彼は革命家の青年からその所属する組織の情報を引き出し

密告する代わりに刑期の短縮を得るという取引を

警察から持ちかけられていたのだ。

秘密を引き出すためには青年と親しくなり

彼の信頼を得なくてはならない。

2人の男が映画の話をすることで互いに心を近づけて

やがては愛が生まれる。

ついには肉体的にも交わることとなる。

「蜘蛛女のキス」では3つの話が重層的に、

ロシアの名産品のマトリョーシカの様に展開されている。

1つは革命組織の情報を聞き出すというサスペンス、

2つ目は2人の男の間に産まれる愛について

そして3つ目は作中で語れる映画の物語。

しかし複雑になっておらず軽妙で洒落たものになっている、

それはプイグが小説に施した技の結果だ。

物語の最後でゲイの中年は

革命組織の者が放った銃弾によって殺され、

革命家の青年は警察の拷問の末に死んでしまう。

それにも関わらずこの物語は軽妙だった。

残虐非道な拷問から解放されて

死に至るまでの僅かな時間で青年は夢を見る。

夢の中ではゲイの囚人の幻が

彼にこうやって語りかけて物語は終わる。

「だって、この夢は短いけれど、

 ハッピーエンドの夢なんですもの」


最後に登場するのがオースターである。

ゴダールもプイグも1960年頃から活躍を始めている。

しかしこのアメリカの小説家が登場するのは80年代のことである。

82年に小説家デビューした彼は、

86年に発表した小説「幽霊たち」で世界に衝撃を与えた。

「幽霊たち」は一般的な探偵小説の形式を保っている。

探偵が居て、依頼者が居て、依頼があって、探偵は仕事をする。

だが通常の探偵小説とは何もかもが違っている。

この小説の書き出しはこうだ。


まず始めにブルーがいる。

次にホワイトがいて、それからブラックがいて、

そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。

ブラウンがブルーに仕事を教え、こつを伝授し、

ブラウンが年老いたとき、ブルーがあとを継いだのだ。

物語はそのようにしてはじまる。


登場人物の名称は全て色の名称であり探偵たちや犯罪者たちの間であるいはスパイたちの中で飛び交うコードネームのようだ。実質的にこの小説の登場人物には名前が無いのだ。

「幽霊たち」はまず始めに登場人物に

名前がないことを表明して始まるのである。

この文章に続いて主人公と彼を取り巻く状況が説明される。

探偵ブルーは師匠のブラウンから仕事の仕方を教わった。

そんな彼のところに仕事の依頼がくる。

依頼主はホワイトと名乗る人物で

その依頼内容はブラックという男を暫くのあいだ監視すること。

要約するとこうである。しかしこの仕事がおかしい。

依頼主ホワイトはとあるアパートの一室を借りている。

その部屋の窓には望遠鏡が設置されており

覗けばブラックの住むアパートの一室を望める。

ブルーはその部屋に住むことになる。

ブルーは初めこれは簡単な仕事だと思った。

素行調査か家庭や恋愛のいざこざが関係しているのだろうと

推測して一日中ブラックを見張る。

ところがいつまでたっても何も起らない。

ブラックは特別なことを何もしない。

彼は毎日机に向かい読書をし

紙の上にペンを走らせ何かを書いている。

何週間もその毎日の繰り返しなのである。

時たまブルーが覗く望遠鏡の視界から

ブラックが消えることもあるが、

それも数分で、だからトイレに用を足しに行ってるのだろう。

そんなふうにして何日も何も起らない。

きちんと仕事をしているのにもかかわらず何も起らないのだ。

彼が置かれているのはどういう状況だろうか?

想像してみよう。

君は店番を任されている。

君が働いている店は個人がやっている

古道具屋とか古本屋などのように、

接客や商品の入れ替えや整理があまりない商いの方が良い。

その店に客は1人もこない。

だが君は別のどこかに行って仕事をさぼることは出来ない。

君は君の雇い主から雇用契約を結んだ勤務時間のあいだは

その場にいることを定められているし、

何より君は真面目な人間だから

仕事はしっかりと果たそうとするのであった。

しかし君はこの時間を持て余してしまう。

この仕事を始める以前の君は身体を使う仕事に就いていたのだ。

暇な時間などはなかった、

身体を使い流した汗の分だけ客に感謝されて会社からは給料を貰い、

Barに寄り道してビールを飲む。

あるいは帰宅して冷蔵庫で霜がつく程に冷やされている

ビールを飲むという想像でも良い。

だから君はこれまでの人生の中で

暇な時間というものを意識することは無かった。

肉体労働のすべてがそうというわけではないが、

運良く君はそういう仕事にありついていたのだ。

しかし君はなにかの理由があってその職場を去り、

それから新しい仕事に就いたのだ。

君はそんな新しい職場で困っている。

仕事中なのにも関わらずこんなにも暇なのでは

勤務中の時間も勤務外の時間も似たようなものだ。

店番をしながら君は時計を横目で観る。

しかし針は依然として進まないし、

小さな窓から朧げな日光が差し込んでいる店内はどうにも薄暗い。

客の来店が無いのだから店の扉は開かないし

だから外の空気も入ってこない。

部屋の中は淀んだ空気が充満していて、

君はそれを肺に入れて呼吸している。

憂鬱だ。

憂鬱に耐えているぶん

少しは仕事をしているような気にもなるが

いかんともしがたい気持だ。

とりあえず君はぼーっとしてみるのだが

そんなものにはすぐに飽きてしまう。

前の職場が懐かしい。

だから君は店の古道具で遊んだり、

古本を読んだりすることを試みる。

いまの君の手が届く範囲にあるのはそれしかないのだ。

古道具や古本を暇つぶしの道具として使うことに対して

真面目な君は若干の罪悪感を感じるが、

これも仕事の勉強だと自分に言い訳をした。

君のそれまでの人生では文章を読むという行為は

新聞のちょっとした記事やエッセイを読むことを意味していた。

だから君は上手く本が読めない、

読書というものに馴染んでいないのだから仕方がない。

君は亀の歩みで文字を拾っていく。

大して難しい本ではないのだが、

君は始めの1ページを15分かけて読んで、

次のページを13分かけて読んだ。

そうこうしていくうちにしだいに君の瞳は

文字を追うことに慣れていく。

読書のときの呼吸を覚えて、

ページをめくる指の動きも滑らかになっていく。

そして君は新たに読書という行為を覚えたのだ。

古道具を手に取ったり眺めるのも同じことだった。

そして君は独りで書物や道具と対面する。

聞こえるのは自分が出す音だけ、

呼吸やページをめくる音だけだ。

仕事をしていても何も起らないとはこういうことなのだ。

だから思考が産まれる。

惚けていたり本を読んだり独りで道具を手に取る君は

どうしたって内相的になってしまう。

1人なのだ。君は色々なことを考えてしまう。

君の人生や君の家族や君の恋愛や君の仕事や君の存在や

まだ観ぬ客や君の未来について考えだしてしまうのだ。

進んで思考しているのではない、

そういうことを考えざるをえない状況なのである。

肉体を使う仕事をしていた時はそんなことは考えなかったのに。

独りで、目の前には本か古道具しかない。

客は来ない、なにも起らない。

それはブラックのことを見張るブルーも同じであった。

彼は自分のことを考えブラックのことを考える。

ブラックが読んでいる本の表紙を望遠鏡で確認して

同じ物を取り寄せて読む。

これも仕事だと言い訳をする。

ブラックが読んでいる本をブルーは読んで

ブラックがなにを考えているのかをブルーは考える。

あるとき遂にブラックが外出をする。ことが動いたのだ。

はやる気持を抑えてブルーは彼を尾行する。だが事件は起こらない。

ブラックがしたのはただの散歩で近所を一周したのちに

帰宅してしまった。

その日からブラックは時たま散歩をするようになった。

しかし彼が歩くところは決まったもので、

それでも複数のコースがあったけれど、

街から抜け出すことも彼が誰かと接触することもなかった。

これではなにも変わらない。

なにも起らない日々に

散歩という行為が1つ加わっただけなのである。

しかしブラックが散歩を繰り返すものだがら

彼を尾行するうちにブルーは街並を観ることを覚えた。

街の片隅のレンガ塀の割れ方や揺れる樹々と木漏れ日、

水面の輝きや風になびく女たちの髪の毛を観察するようになった。

そこにも他人との会話はなくてだからブルーはまた考え事をする。

しかし部屋の中での思考と

歩きながらの思考では頭に浮かぶ物事が違った。

例えば自分の過去を考えるにしたって

散歩をするブルーの思考に現れるのは

この道を幼き頃の自分が父親と一緒に歩いたことだった。

部屋に居てはそうはいかない。

部屋の中で彼が思い出したことは

しばらく会っていない恋人のことだった。

思考は場所によって変わるのだ。

部屋にいる時と本を読む時と散歩をする時では、

思考に現れるのはそれぞれ異なる人や情景なのだ。

こんな風にしてなにも起らずに

物語は最後の数ページまで進んでいく。

これが「幽霊たち」という小説である。

いままでの探偵小説とはまったく違った小説だ。

前衛小説であるがそこに中南米文学のような

グロテスクや狂気や狂信や幻想はないのだ。

オースターの作品が

エレガントな前衛と評されたわけを理解して頂けただろうか?


そして面白いことが見えて来た。

ここから話が少しだけ複雑になる。


オースターは探偵小説が身に纏っていたものを引き剥がした。

それは探偵が纏っていた

マントやスーツやトレンチコートみたいなもので、

殺人事件と破滅とか悲劇とかいったものだ。

そういった探偵小説におけるアイコンをすべて取り払った。

そしてたった1つの真実だけが残った。

探偵に読者はついていき、

探偵は街中を歩き、そして物語が進むということである。

探偵は事件を解決するために街のあちこちを駆け回る。

その度合は恋愛小説よりもホラー小説よりも高い。

つまり探偵小説とは観光のことで、

探偵は読者を導く道先案内人だったのだ。

旅行や冒険譚や戦場を舞台にした小説は旅であって観光ではない。

部屋にいながらにして事件の全貌をあばく探偵もいるが

彼らは安楽椅子探偵である。

そういった名前を与えることで

他の探偵小説とは分別されているのだ。

言うまでもなく探偵小説推理小説は同じものではない。

探偵は街を駆け回る。例を出そう。

チャンドラーが作り上げたマーロウという探偵は

ロサンゼルスの街の観光に読者を誘う。

横溝正史が書いた日本を代表する探偵金田一耕助

美しくも陰鬱な日本の片田舎に読者を連れて行く。

ダシール・ハメットの小説「マルタの鷹」の探偵サム・スペードは

サンフランシスコだし、

ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャー

ハリウッドのサンセット大通りに事務所を構える。

ロバート・B・パーカーの探偵スペンサーボストンで、

日本ならば野村胡堂が生んだ銭形平次は江戸を駆け回った。

忘れてならないのはアーサー・コナン・ドイルが世に出現させた

シャーロック・ホームズだ。

多くの人間がこの名探偵の住まいの住所を知っている。

ロンドンのベーカー街221Bだ。

映像作品に眼を向けてみるのも良い。日本に限定しても、

松田優作が主人公の工藤俊作を演じた

探偵物語」の舞台は東京都内の西側である渋谷や新宿だった、

浅野忠信が演じた「私立探偵 濱マイク」は

横浜の黄金町に事務所がある、大泉洋と松田龍平

探偵はBARにいる」の舞台は北海道はススキノだ。

これで探偵という人間は

自分達の街を持っているということが分かってきた。

縄張りと言い替えも良い。

彼らは自分達の縄張りに読者を連れて行くのだ。

作中では街が丁重に描かれている、

探偵の物語を描くためには

中央から隅々まで街の全景が必要だからだ。


探偵は社会的には正義でも悪でもない。

そこが警官や犯罪者と違うところだった。

探偵は必要とあらばどこにでも出向くことが出来るのだ。

街の表と裏。清潔な所と汚い所。

読者である君は探偵に同行することによって

そういった場所に行くことができる。

君はロサンゼルスの夜、ピンクと黄色のネオンが輝きジャズが鳴り響くナイトクラブに向かい、昼間の横浜、港湾仕事を仕切る暴力団の事務所をお茶を飲みに行く気軽さで訪ねる。かと思えば夕方のロンドン、しとしとと霧のように降る雨を抜け賑やかになってきたパブで労働者に酒を奢り情報を得て、ブルックリンマンハッタンの間に流れる河に掛かる橋の下に夕陽が沈んでいくのを眺める。深夜の渋谷、警察署の一室でくたびれたスーツを着てタバコの煙を飲んでいる刑事の話を聞く。江戸ではそば屋で、因習が伝わる地方の村では地主の権威と禍々しさが同居する屋敷、サンフランスコではチャイナタウンボストンはミスティック川に浮かぶ船の上だ。そして早朝の小樽、陽の出始め、深い闇の中で美しく輝いていた夜景が光の中に消えていく最中に港の角で君は犯人の自白を聞くのだ。

職務として正義を背負っている警察官や、

生活の為に法を犯す職業的な犯罪者ではこうはいかない。

彼らはいける場所が限られている。

しかし正義でも悪でもない探偵は違う。

見晴らしの良い丘の上、背の高い壁で囲われた住宅街があって、

出入り口には警備員がいる。

そこは富裕層のみが住める住宅街で、その家の1つ、

君は肌触りの良い生地をふんだんに使った

ふかふかのソファーの上で依頼を聞いて、

スラム街で年端もいかない少年少女が

身体を売っているのを横目に情報を集める。

精神病院に潜入して、

証言能力がないと判断された目撃者を君は探し当てた。

ホテルのBarカウンターで君は

ギムレットを1杯飲んで一時の休息を感じて、

深夜営業のスーパーマーケットで食料を買い込み、

どこにでもある集合住宅の一室で眠りながら

どこかで女が殴られ泣き喚いている声を聞く。

固茹で卵とカリカリのベーコントースト

そして昨日の夜にドリップした苦いコーヒーで朝食をとり、

大学の図書館で資料を調べて、

弁護士の事務所や警察の署長室に招聘され、

君は企業のオフィスに乗り込む。

違法カジノや売春宿の場所も知っていて、

君はそこでの作法を熟知している。

どこかのカフェで開かれている読書会に潜入するのも、

観劇や芸術観賞やその批評もお手のもので、

なにせ君は汚れたインテリなのだ、遊びも学びも良く知っている。

君は時には繁華街に居を構える暴力団事務所の一室に監禁され、

一晩を警察署の拘置所で過すこともある。

緑が生い茂る公園でたたずみ波が囁く浜辺で星を見上げ、

恋人のベッドの中で相手の肌を指でなぞり、

真夜中のハイウェイをドライブしながら君は精神を集中させて

記憶のピースをパスルとして繋ぎ合わせ事件の全容に辿り着く。

最後に君は再び例の街に舞い戻り、肌触りの良い生地を使った

ふかふかのソファーに座り依頼人と対当する。

そして本を閉じた読者である君の頭の中には、

舞台となった街の地図が出来上がっている。

君はこの街にすっかりと馴染んでいる。

こうして探偵たちは各々の馴染みある街に読者を案内するのだ。

これは身のこなしの軽さ、

各々の職業が持つ

フットワークの重軽というものに関する議論でもある。



オースターの探偵小説はエレガントな前衛だから

「幽霊たち」はこの探偵小説の本質をしっかりと捉えていた。

エレガントというフランス語の語源はラテン語のエリールで、

その意味は選択をすることだ。

この小説にも街への馴染みがある、

というより先程書いたとおりそれだけが残っている。

物語は1947年から始まる、

舞台はニューヨークブルックリンだ。

読者はまずブラックを見張るためにブルーが何年間も住むことになる部屋に馴染み、毎日のように散歩をするブラックを尾行するブルーに同行することでブルックリンの街に馴染む。

「幽霊たち」はエレガントで前衛な探偵小説だから事件は起きない。

だから主人公ブルーは内相的にならざるをえず、

彼が語ることといえば自分の過去と自宅と街の様子と

いま読んでいる新聞や本について、

そしてそれらに対してなにを感じて考えたのかというものばかりだ。

他の探偵小説よりも街そのものへの思考が際立って描かれていて、

故に読者は街の様子によりいっそう詳しくなり馴染んでいく。

部屋の壁にはいま何が張られているのか、

テーブルの上には何が置かれているのか、冷蔵庫の中身は、

ブルックリンの街の地面、建物の壁、人々、天候、歴史、

ブルックリン橋の建設過程、教会の庭に立つ像、野球チームブルックリンドジャース、映画館、Bar、郵便局、食料品店、川、空、1947年のブルックリンを通り過ぎる風。

それらを読者が当たり前のようにして知っているのは、

オースターが探偵小説という存在の肉体から骨格だけを残して

肉と脂肪を根こそぎ削り取ったからであった。

そして本質だけが残った。

探偵小説に必要なものは探偵と依頼人であり、

探偵が街中を動き回る動機さえあれば他には何も要らなかったのだ。

チャンドラーは言った

「物語を終わらせたければ、

 銃を持った男を登場させればいいのだ」。

事件とその結果などはなんでも良いのだ

しかし更に踏み込んでいけば探偵小説には

事件さえもが起きる必要がない。

オースターは自ら探偵小説を書くことで

その事実を証明してみせたが故に

「幽霊たち」という小説は前衛的である。

それも知識と洒落っ気溢れる軽やかな文章

つまりエレガントな文章で証明してみせたのだ。

だから彼の作品はエレガントな前衛と呼ばれるのだ。


以上が本小説

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」の解説だ。


アラビアのロレンス」から「幽霊たち」まで、

影響を受けた作品の解説を羅列することで

本小説の解説の代わりとした。

この解説は

「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」の

これまでの物語に対しての解説ではない。

Intermissionのあとにも続く物語の終わりまでを

範疇に収める解説である。

だって、この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なんですもの。




(Intermissionはまだ続きます)


そして、つづきはこちらです

 「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている 6ページ目」

 http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161124/1479999656




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2016-10-17

「憂鬱のための甘い鎮静剤」をあなたに。

01:14

この度、当ブログリニューアルしました。

気分的には新設なのですがアドレスも同じままですし今まで掲載してきた文章を消すわけでもないので実質はリニューアルと言ったところです。しかしここは自分の気分を優先して、新設と宣言します。本当は消したい文章もあるのですが、まあ自分への戒めというか、料理人のように創作物が次から次へ胃やゴミ箱に消えていくわけではないですし(このことについて和食料理人の道場六三郎さんは自分が料理人で良かったと仰りました。例えば映画ならば自分が作ったものがずっと残ってしまうわけだからとても恥ずかしい思いをするだろうと)アマチュアとはいえ物書きの宿命だと思いそれを受け入れることにします。なにを宿命とするのかは各個人の意識が決めるものですが、宿命は受け入れるものですし、それを拒否したら悲惨でしょう、たとえば出版した本を自らの意志で次から次へと絶版にするような作家もいますし、私のようにWEB上で文章を発表している人の中にも書いたものを次から次へと消す方もいます。それらに対してあまり辛辣なことは言えませんが(気持は分かるので・笑)格好が良いとはいえません。


以下の文章はブログを新設した動機の告白ですが、新しいコンテンツなどの説明はそれの下部に書きましたので、気が短い方はそこまで文章を飛ばしてください。


今回でブログを新設するのは4回目です。始めてブログを開設したのは10年ほど前のことで、当時師事していたジャズギターの先生から勧められて始めたものでした。ブログへのアクセス数は1日3あれば良いというほうでしたが(もちろん自分がアクセスしたものは除いてです・笑)、Webの世界へ招待して下さった師匠には感謝しております。


2代目のブログはその題名を「インヴィジブル・ポエム・クラブ」として数年前に現在のアドレスを使用して始めたものです(正確には1代目のブログ音楽作品掲載用にして、インヴィジブル・ポエム・クラブの方を詩や小説や批評の掲載用に分けて使用していました。ですが1代目の方は(サーバー自体が)クローズされてしまったので、途中からは2代目のみの運営となりました)。ネットの片隅で開いたブログとはいえ1代目のころと比べると観て下さる方は数十倍から百倍に増えました、観て下さる方は間違いなく好事家中の好事家です、ありがとうございます。そういった好事家/マニアークな方に私は支えられています。


「インヴィジブル・ポエム・クラブ」という題名は私が敬愛する米国人の作家チャック・パラニュークの複数の作品名から取りました。パラニュークはデヴィット・フィンチャーが監督した「ファイトクラブ」の原作小説を書いた人物として知られています。私が言うまでもないことですがこの映画は真の名作です(この題名は日本ではテレビ番組で行われた企画の1つ、チンピラをプロボクサーとしてデビューさせるというものに取られてしまったので勘違いされて居る方も多いのですが、映画で描かれる地下ボクシングに参加して闘うのは一般的な社会人ですし、そこでは勝ち負けは価値がないものとして描かれますし(自分自身を痛み付けるのが目的なのです)ラストシーンでは人生がぼろぼろになってしまった男とぼろぼろの人生を生きて来た女が手を繋ぎます。固くしっかりと。そして映画は終わるのです。ですからこの映画はチンピラとかボクシングとかそういったものが主題ではないわけです)。パラニュークは日本では著作物の1/3も翻訳されていない作家ですが、私は彼の作品がとても好きです。自分の小説創作の下地になるほどに。


「インヴィジブル・ポエム・クラブ」のクラブという単語はそんな「ファイトクラブ」から借用しました。文頭のインヴィジブルという単語は同じくパラニュークの著作である「インヴィジブル・モンスターズ」からの引用です。残されたポエムという言葉はこのブログは詩を掲載するために作りましたから、直接過ぎますがまぁそういうわけですね。そして今回新たなブログを開設することにしました。理由は数年前と比べて私の趣味も作風も変化したからです、端的に言えば今でもパラニュークのことを愛しているとはいえ彼1人の作品から引用したブログ名が窮屈になったのです。人間の体/体型は成長や老いにより止めどなく変っていきますし、その身体を包み込む服装も人や社会からの影響や自発的な美意識の変更などにより変っていきます。精神も同じものだと思います。気持的にはブログを新設することにより私という作家は、やっとパラニュークという(作家の)父の許から離れました。


実は作家の父というものを越えて、単語で「父」と思っている人々も居ます。もちろんそれは創作という営みの上での父です。なので父親代理として精神的に依存し〜とかいうわけではありません(苦笑)。父という言葉が不適切ならば神と呼ぶのもやぶさかではない人々なのですが、私は何でもすぐに神神と言う少し前のネット市民ではありませんし、そういうのはあまり好きではありません。そもそもこの人たちはそれを嫌うでしょうし、存命していますので(笑) 神とは呼びません。しかしそう言った意味において既に亡くなっていて、私が本当に神のようだと思っているようなアーティストにはジャズトランペッカーのマイルス・デイヴィスサックスチャーリー・パーカーそしてビッグバンドを率いたエリントン侯爵が居ます。さて私が(創作という営みの上での)父と思っている人々を臆面も無く書いてしまいましょう、それは芝村裕吏さん、菊地成孔さん、前田ただしさんの御三方です。繰り返しますが私が勝手に創作という営みにおける父と思っているだけです(なんせ芝村さんとはお酒の席で年に数回お会いする程度、菊地さんとはファンとアーティストという関係で、前田さんとはWEB上でお話をさせていただいたりその音楽を拝聴する程度の関係ですから)。


芝村さんはゲームクリエイター、菊地さんと前田さんは音楽家ですが、彼らのゲームや音楽作品には大いに影響を受けて生きてきましたし、その言葉にも影響を受けています。彼らの言葉は強く美しく私の心を打つものばかりです。現に芝村さんと菊地さんは多くの著作物を出版しており、前田さんの言葉で私が確認出来るのはWEB上のものだけですが(現在ご活躍されているのがエクアドルなので。だからエクアドルに行けば日本に居るよりも多くの文章が読めるのかも知れません。それにはエクアドル公用語であるスペイン語を私が読めるようにならなくてはなりませんが)その多くが私の心を打ちます。この文章を読んでいる方が芝村さん、菊地さん、前田さんのことをご存知でしたら、私がこの御三方に強く影響されていることを簡単に暴くことが出来るでしょう。まあしかし創作という営み上のことで私が独りよがりに勝手に父と思っているとはいえ、それでも随分と駄目な息子です。


話は変り、実際の私の父は既に天に召されています。国民公園の中に新宿御苑というものがありますが、その外縁、門の外のアドレスは新宿区1丁目です。いわゆる1丁目と呼ばれる場所(その裏がゲイタウンとして有名な2丁目です)ですが、古くはオフィスビルが立ち並び、現在では古いオフィスビルと近年進出し始めたお洒落で落ち着いた雰囲気の飲食店が並ぶ場所になっています。父はそのオフィスビルの1階で不動産屋を営んでいました(正確には父の父(私の祖父)が新宿で印刷屋を経営しており、故に父は新宿界隈で育ち、新宿不動産屋に就職し後に屋号を譲られたのです)。現在もそのビルは存在していますが(昨年、母と共に現地に行き、現存を確認しました)私が小学生4年生のころには父はもうそちらは辞めて、他の県で不動産業をしながら精一杯働き家族を愛し、その一方で酒を飲んで暴れ新興宗教にはまり家庭を壊したりして、最後は広島市内で土地屋業に関わりながら(この辺はあまりにもヤバいので詳しくは書けません)死にました。その際広島の方々には1から10までお世話になりました。


こうして父親たちのことを語ってきましたが、正直に言ってもっとも私に影響を与えてきたのは(肉体の種類と形を問わず)女性たちです。幼少のころから父が不在がちだった家で育った私は、祖母と母と姉から始まり、友人たち、そして(こんな私とも)お付き合いをして下さった女性たちに支えられて生きてきました。そんな私の人生は情けないものですが、せめて創作物だけは恥ずかしものになら無いように、彼女たちに捧げ、少しでも楽しんで貰えるようにと作ってきました。と思っていたら小説を面白いと言って下さる男性もおられて、人間のなかの男性性/女性性の豊かさ(ユングが提示したアニマ/アニムスジェンダー/セクシャルの話をしたいわけではありません、人間が持つ豊かな感受性への賛辞を示したいのです)に心から嬉しくなることもあります。ともかく女性たちには感謝をして生きているわけです。


さてこれで好事家の皆さんへの感謝を捧げ、三種類の父親(作家の父、創作上の父、実際の父)のことを告白し、女性たち/男性たちのことを話し終えました、私は彼ら彼女らに感謝を捧げながら、これから少し冒険をしてみようと思います。ブログを新設するのはそのための第一歩です。前置きが長くなりましたが、以下から新しいブログの紹介に入ります。


ブログの新しい題名は「calmant doux pour la dépression.」です。


これはフランス語です。私はフランス語ネイティブでも無く、それどころかレストランで注文をするような簡単な日常会話さえできないのでカタカナでの表記になりますが、読みは「カルマン・ドゥ・プール・ラ・デプレシオン」です。それぞれの単語の意味は「calmant 」は鎮静剤、「doux」は甘口、「pour」の〜ため、〜用、「dépression」は憂鬱です。(la はフランス語冠詞の女性名詞。フランス語では言葉が男性と女性に分けられていることは有名ですが、フランスでは憂鬱は女性名詞なのだということに納得したり、しなかったりです・笑)。


「calmant doux pour la dépression.」の全文を日本語に訳すと「憂鬱のための甘い鎮静剤」となります。


これを「憂鬱に対する鎮静剤」と読む方も居られれば「憂鬱になるための鎮静剤」と読み方も居られると思いますが、それはどちらも私の意図と一致しています。どちらと受け取っていただいても、あるいは両方の意味を同時に受け取っていただいてもかまいません。フランス人フランスに住んでいて(住んだことがあって)フランス語を日常生活に支障がない程度に話せる日本人がこの題名をどう捉えるのかは分かりませんけれど(笑)。


calmant(カルマン)は鎮静剤ですが、Crémant(クレマン)と響きと綴りが似ておりこれを連想させる意図があります。クレマンシャンパーニュ地方以外の場所で作られた発泡ワインのことです。ご存知の通りフランスは言葉の使い方が厳格なことと同等/同質に食品の規格にも厳格です。アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(AOC)により指定された原材料を使い、製造場所や製造期間も指定通りのものをクリアしなければ名乗れない食品名が沢山あります(例:青カビチーズの一種であるロックフォールロックフォール=シュル=スールゾン村の貯蔵庫(洞窟)で3ヶ月は熟成しなければ名乗れない。このへんは何処で作っても讃岐うどんを名乗ることができる日本の食品規格とは大違いです。どちらにも一得一失があり、食への考え方が違うということなのでしょう。日本人は旨い物はどこで作ってどこで食べても良いし、ばんばん広がっていけば良いと思っているのかもしれません)。シャンパン(正確にはシャンパーニュですが)にもAOCが定められおり、シャンパンと同じブドウを使い同じ製法で作ってもシャンパーニュ地方で作らなければシャンパンと名乗ることが出来ません。とても誤弊があることをあえて言いますが、クレマンとは別の地域で生まれ育ったシャンパンのことなのです。そもそも発泡性のワインを産んだのはシャパーニュ地方ではなくて同じくフランスのリムー村でした。


calmant(カルマン)とCrémant(クレマン)という似通った響きを持つ言葉を読み/聞くと脳裏には発泡ワインが注がれたグラスに鎮静剤を投入するイメージが浮かびます。私はワインには詳しくはありませんが、このイメージが大好きなのです。ワインで薬を飲むこと、グラスから泡が立つこと。前者からは退廃的な匂いがしますし、後者には壮快感があります、特に想像するのは映画「オール・ザット・ジャズ」で主人公の毎朝の目覚めの儀式として行われるあの場面です。彼の場合はヴィヴァルディレコードをかけながら飲む頭痛薬と覚せい剤ですが、白い錠剤がグラスのなかで溶けていく、泡を吐き出しながら。「タクシードライバー」やマイケル・ジャクソンの「Beat it」のミュージックビデオなどアメリカ産の映像では度々描かれる場面ですが(あれはアメリカの日常であると共に、各々の監督が撮影するにあたいすると判断した美しい瞬間なのでしょう。アメリカ映画史のなかで主人公がハンバーガーを齧っている場面と同等の数、あるいはそれ以上に撮影されてきた場面かもしれません)私はあの映像が大好きです。彼らが飲んでいるのはアメリカでは市販されているアルカセルツァー/頭痛薬ですが、これを映画で観るだけで実際には飲んだことのない私の中では、バスタブに投入された入浴剤や子供の頃に駄菓子屋で買って楽しんだ錠剤型のジュース(ラムネのようなものを水に溶かすと水が炭酸の抜けたコーラメロンソーダの味になる。仕掛けはアルカセルツァーと同じ)の記憶/映像と結合しているのかもしれません。それらが私に発泡ワインと鎮痛剤という組み合わせを想像させました。グラスの中で泡立つワインに鎮静剤を入れるとそれが更に泡立つ。そしてブログのタイトルにcalmantという言葉を使わせたのです。


あとこれは間違いなく余談ですが、カルマン(calmant)という単語は映画監督ルネ・クレマンClément)を想像させるのも良いです。


「doux」読みは「ドゥ」はワインのエチケットに書かれる言葉でその意味は甘口です。日本酒のラベルにも辛口とか淡麗とか書いてありますがあれと同じです。これはもちろん鎮静剤のcalmant(カルマン)が発泡ワインCrémant(クレマン)という言葉を連想させるということからの更なる連想ですが、発泡ワインは大抵の場合で(好まれるのは)辛口ですので、連想ゲームとしては「burt」と続けるのが適切です。ワインに関連する限りではbrut=Dry=辛口という意味ですから。しかしそれに続く言葉が pour la dépression(憂鬱のための〜)ならば甘口の方が適切でしょう。私は憂鬱のための鎮静剤として切れ味の鋭い言葉を使ったり表現をしたいわけではありません。そもそも憂鬱というのは甘いものです。甘美という言葉がありますが、この言葉と憂鬱という言葉の組み合わせがどれだけマッチするのかということは私が説明するまでもないことです。


「pour」の読みは「プール」でこれは「〜のための」という意味ですが、日本に暮らしていてこの言葉をもっとも目にするのは「エゴイストプールオム」や「ブルガリ プールオム」など香水ひいてはファッション全般に関わる言葉の中ではないでしょうか。プールオムはフォーメン、男性用という意味です。pourという言葉がフランスではどの程度の頻度、場面で使われるのかは一切分かりませんが、やはり私は日本に暮らし少しはファッションに興味がある者として、この言葉からは香水や服飾のことを強く連想します。calmant doux pour la dépressionという題名の裏にはワインのイメージがあり、それに香水や服飾に関連する言葉が連なる。なんとも素敵ではないか。という程度の考えでpourという言葉を使用しました。


最後の「dépression」の読みは「デプレシオン」で意味は憂鬱です。これに関しては気分の話ですから、気分を表す単語を言葉によって説明/表現することに意味などあるのでしょうか(笑)?などと書いてはその言葉を題名に使用して小説を書く者としては矛盾しているというか最早無能です。しかし気分を言葉によって表現することに意味はあるのかということに関しては多いに考えていかなくてはなりません。私は憂鬱を悪いものであるとか良いものであるとかといった捉えることすることをしません。厳しい人生を生きていく中で憂鬱が必要なものなのか、本当は必要の無いものなのかどうかもわかりません(これが「涙」だったのならば、必要だし良いものだと断言出来るのですが)しかし憂鬱は我々の人生の中に必ず現れるものです。ならば私はそれを抱える人に私が出来る仕方で奉仕をしたいのです。そんな思いから題名に憂鬱を意味するフランス語のdépressioを使いました。


さてここまでお読みの皆さんのなかにはある疑問を持っている方も多いのではないかと、私はこの文章を書きながら推測しています。それはそもそもなぜ題名がフランス語なのか、なぜ英語や日本語ではないのかというものです。


この疑問に対する私の回答はハッキリとしています。それは少々の気取りです。フランス語って素敵よねみたいなものです(笑)。私はフランス語を話すことが出来ませんし、例えばメモを差し出されそこに書いてある簡単な文字(例えばそれがSteak au roquefortやSteak haché程度のフランス語でも)を読めといわれても正確に読むことが出来ないでしょう。フランス文学を少々嗜み、フローベールの「ボヴァリー夫人」の一節、「手紙を書くあてもないのに彼女は吸取紙や書簡箋やペン軸や封筒を買いこんだ。棚のほこりを払い鏡に姿を写し、本を一冊手に取りそれを読みながら空想を追い、本を膝の上に落とした。旅行がしたくなったり、昔の修道院に帰りたくなったりした。死にたくもあり、パリへ行って住みたくもあった」を人間の心の機微を表す理想的な文章と捉えていますがフランス語の原文を読んだわけではありませんし、このブログに書く小説の内容がフランスと関係しているわけでもありません(これは英語の題名を持つブログや本の内容がほとんどの場合でイギリスアメリカと直接的に関係ないことと同じですが)。また私はフランスへ行ったこともありません。なので題名にフランス語を使用することは少々の気取りを表現するためであるということが純然と言ってよいほどの動機です。


ではなぜフランス語を使うことが少々の気取りになるのか。これもハッキリしています。彼の国と我国は距離的に離れており、それでいて我々は適度にこの国のことを情報として、また想像上のものとして知っているからです。フランスへの渡航経験の有無は別としても我々は書物に書かれたフランスや映画で描かれたフランスというものを知っています。実情は別としてそこにあるのはスノッブを見事に回避してきたエスプリ欧州哲学の中心地、「アメリ」に代表する欧州kawaii、ファッションショーのパリ・プレタポルテ/オートクチュールコレクション、ワインとレストラン等など気取りを内包するものたちです(もちろんその裏側にあるものとして、それらとセットにして1789年革命から続くテロール/テロリズム、そしてサドバタイユなどが行った暴力に対する試論も日本にも輸入されているわけですが)。まあ汚いないものはわざわざ輸出しませんよね(笑)。実直に言って日本に住んでいる限りでは、多くの人が(特に書かれた/描かれた)フランスに対して気取りという態度の存在をそのイメージの一端として持っているはずです。


とここまではフランスフランス語のイメージに関する話です。なぜフランス語が"少々"の気取りなのかは話していません。気取りとはそれらしく取り繕うことですから、自分は他の人とは違うのだという姿勢を本当に気取るならば、題名には韓国語中国語ロシア語(つまり日本の近隣諸国の言語ですが)を使えばよいのです(特に韓流ブーム過ぎさりし現在の日本では韓国語を使うことがもっとも良いでしょう)。しかし私が取入れたいのは本当の気取りではありません。少々の気取りなのです、言葉を悪くして言えば安全圏ということなりますが(苦笑)、それこそが憂鬱のための甘い鎮静剤になるのです。


その第一弾としてインヴィジブル・ポエム・クラブ期から連載している「ずっと後ろで暮らしている/どこかにわたしは落ちている」の続きを掲載します。数ヶ月間で連載が終わるはずだったこの作品も、長く続いたことで、1人の人間の文章能力の成長ドキュメンタリーという側面が出てきてしまいましたが、きちんと終わらせますのでもう少しお付き合い下さい。


またブログデザインをリニューアルするにあたり、改行や段落の区切りが不自然になり文章が読みにくくなってしまった作品があります。こちらは折りをみて修復していきますのでお待ち下さい。



(※ここからがコンテンツの説明です・笑)


今回はインヴィジブル・ポエム・クラブをcalmant doux pour la dépression.にリニューアルするのと同時に、もう1つ「gris homme」というブログを新設しました。グリソムと読む(grisのsとhommeの無音のHと続くoがリエゾンしているわけです)このブログは批評や日記を掲載するために作りました。なのでcalmant doux pour la dépression.は小説と詩のみを掲載するブログとして再スタートさせます、ですので現在お読みのこの文章以降はここに批評を載せることはありません。詳しい新設の動機はgris hommeの最初の投稿記事に書きましたので宜しければそちらをご覧下さい。そして2つのブログを新設するにあたり私の詳しい自己紹介や連絡方法を書いたホームページを作りました。またインヴィジブル・ポエム・クラブのときから掲載していた小説や詩を読みやすくするために作品一覧とそれぞれの作品に飛ぶことが出来るリンクを掲載するいわゆる目次のページを作りました(こちらは現在制作中です。なぜならばいま家にレンタルDVDが10枚以上あり、それはルイス・ブニュエルが5本/カサヴェテス/ジョン・ブアマン 、この他にはジャック・ベッケルを初めとするフレンチ・フィルムノワールの名作多数でこれを返却期限が来る前に全て観なければならないからです・うはは。)。それ伴い少々の戯れ、そして私の無意識への実験として私が撮影し加工した写真を掲載するphotoページを作りました。現在は各ブログホームページの背景画像に使用した写真のみを掲載していますが、いずれは様々な写真を載せたいです。またそのうち自作の音楽を掲載するページも作製する予定です。


全てのページへはこのブログ左側に設置したメニュー欄から行くことができますが、下記でも紹介します。

よろしければ小説と合わせてお楽しみ下さい。


詳しい自己紹介(ホームページ)

http://torasangmotoki.jimdo.com/

批評や日記を掲載しているブログ(gris homme)

http://grishomme.hatenadiary.com/

写真を掲載しているページ(photo

http://torasangmotoki.jimdo.com/photo/

私への連絡方法を記載したページ(contact)

http://torasangmotoki.jimdo.com/contact/


ネットの片隅に存在するページですが、それでも続けて来れたのはこの文章をお読み頂いている好事家の皆さんのおかげです。このブログでは「憂鬱のための甘い鎮静剤」をお届けいたしますので。どうかよろしければ、これからもお付き合いのほどのよろしくお願いいたします。





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2016-09-01

君が僕に対して話した君の話を/ノートルミュジーク

00:24

昨今は小説や批評しか掲載していない本ブログですが、

その始まりは詩を掲載するためのものでした。

そしていま、久しぶりに詩を書いたので掲載します。

(不定期更新の小説「ずっと後ろで暮らしている/どこかに私は落ちている」

 の続きは今月中に掲載予定です)


それではどうぞ、お楽しみ下さい。


//※//



君が僕に対して話した君の話を/ノートルミュジーク


君の生きている世界に君の腹を満足させる程度の食事があって、それは決して君の味覚を満たすものではないが、そして今日が晴れていて、これもまた君の好みに完全に一致した気候ではないが、それらを悪く無いと君が思ったとして、それでも人はドン・キホーテになろうとするのだろうか?


エル・インヘニオーソ・イダルゴ・ドン・キホーテラ・マンチャミゲル・デ・セルバンテススペイン、1605年。スペイン語。小説。この時代は南アメリカ大陸で悪事の限りを尽くしていたスペインがその無敵艦隊をエリザベス1世率いるイングランドによって破れらそれを発端にした凋落が始まっていたときだった。しかし教会にはエル・グレコが居て宮廷にはベラスケスが居た。そして文字の世界に居たのがセルバンテスだ。国の斜陽が、その混乱が偉大な芸術を作ったのだ。


キホーテが闘ったのは数基の風車と若干の豚だが、自分がそれらと闘うことで人を救えると信じたんだ。彼は狂人だがどうせ君も同じだ。やはり食事と晴天を得ても君はドン・キホーテのままだろう。だって君は君のやり方しか知らないだろうから。僕は君にとっての風車が、それと数匹の豚がなんなのかは知らないけれど、どうせ僕にとっての風車と豚がなんなのかは君にも分からないだろうからおあいこだけれど、とにかく、そのままでいるといい。狂ったままでいなさい。おっと、やめてくれ、この詩は君への悪口じゃないんだ。賞賛の言葉でもないけれど。


それはつまり、僕は君みたいな狂人には関われないということさ、そして僕自身も狂人だから君も僕には関われはしない。君は自分が狂人であることを自覚している、ならばわざわざ人を自分の世界に導こうとしたり、押し付けたりするだろうか? まさか自分の正常性を主張することなどはしまい。


ともかく、僕はこの世界にある紛れもない共通の真実を公にしているだけなんだから。それは次の文章みたいなものだよ。人生。


君の父親のことを僕は念頭に置いて話をしているんだ。彼のことは良く覚えているよ。君はあのときのことをよく僕に話すからね。君のお父さんは働き者で決して楽ではない日々の労働を真面目にこなして君を育てるための金銭を稼いで生きてきた。世間からの評判も悪くなく君が通う学校の行事には良く参加したし、休日になれば家族を色々な行楽地に連れて行った。


そんな部分だけを切り取って描けば良い父親だけれど君は彼の習慣を知っている。君が気がついたある時期から彼は、仕事のある平日は帰宅して晩ご飯を食べたあと、休日は家族と楽しく過した外出先から帰ってきた夕方から、予定がないときは1日中、君の父親リビングに置いた1人用のソファーに座り酒を飲む。ベッドに入るまでのあいだずっと。


君の観察によればアルコールには特にこだわりはないようだった。ビールの6本パックや安い焼酎ワンコインで買った赤ワイン、高いブランデーバーボンでもなんでもいいみたいだった。彼は休みなく酒を飲む。酔えればいいのだろう。彼の目は眼前にあるテレビの画面に向いている。


その内容にも特にこだわりはないようだった。野球でも映画でもニュースでもバラエティー番組でもなんでもかまわない。打席に立つバッターがその手に握るバットを勇猛果敢に振るい自らのスポーツマン人生の価値を表現するかのような満塁ホームランを打つ。スタジアムの観客が悲鳴と歓声を上げる。しかし君のお父さんは声の1つもあげない。君の観察が正しければ眉毛の1つも動かしていない。なにを観ていても同じだった。罵声も、笑いも、涙もない。


どんなに酒を飲んでも暴れることも家族に暴力を振るうこともなかった。椅子に深く座って酒の入ったグラスを口に運ぶ以外は身動きしない。君や彼の妻が声をかければ返事はするが、返ってくるのは適当で曖昧な言葉だった。このときの彼は会話をする気分じゃなかったんだろう、人の言葉を必要としていなかったのかもしれない。そのうちそんな彼に声を掛けるのを止めたと君たちが言っていたことを僕は覚えているよ。君はソファーに座る父親の背中を数秒見たあとでなにか言葉をかけようとして断念したのだよね。それを何回か繰り返したあとで全部諦めた。父親、ソファー、彼の背中、アルコール、テレビ。


朝になればまたいつもの父親に戻っている。仕事に遅刻したことや欠勤したこともない。休日は彼と良く遊んだ。そして君の父親は夜になればまた1人でアルコールを飲み始める。夜の君たちには会話がなかったよね。君はそんな父親のことをはじめのうちは奇妙に思っていたけれど、そのうちそんなものだろうと思い始めた。朝と夜。その両方が彼なのだということを君は幼いながらに学び取ったのだった。君は思った、僕の人生もそれなりに大変なのだから、彼の人生もそれなりに大変なのだろう。


あるとき君は夜中に目を覚ました。暗い自室の中で起き上がった君は喉が渇いている。だから君はキッチンに足を運んで流し台の蛇口をひねって手に持つコップに水を入れる。そこで君は気がついた。父親がまだソファーに座って酒を飲んでいる。照明が消えたリビングのなかでテレビ画面の光に照らされた父親の顔が浮かび上がっている。彼の頬を涙が伝っていた。そのうち彼は頭を抱えて声を詰まらせて泣いた。泣いた。泣いている。君は彼に声を掛けることが出来ない。テレビ画面になにが映っていたのか君は良く覚えていない。どうすればいいのかわからない。君は部屋に戻って布団を被って目を閉じた。父はいまも泣いているのだろうか。君はその意味と自分がなにをすべきだったのかを考えていた。それから一応の、仮置きの、取り繕った、急ごしらえの、当面の答えを出した。つまりこうだ。人生。


君の母親の話をしよう。この話も君から何度も聞かされたものだよ。まだ幼い時分の君が母親と一緒にデパートに行ったことをいまの君は覚えているだろうか。あの日は平日で君と母親は父親の仕事が終わるのを待っていた。デパートで待ち合わせて母親の洋服かなんかの買い物をして、それからディナーを食べに行く。そういう約束だった。特になにかの記念日というわけではなかったけれど、両親はなんとなくそういう気分になったのだった。だから君と母親はデパートに父親が来るのを一緒に待っていた。


彼の仕事が終わるまでにはまだ時間があったので君は母親に手を引かれて売り場を見て回っている。1階の化粧品売り場、6階の家具売り場、5階の紳士服売り場、それから3階の婦人服売り場。母親が婦人服売り場を丹念に見るので君は不思議に思った。父親が来たあとでまたここにやってくるのだからいまは見る必要がない。幼い君はそれまでの人生の中で父が母に洋服をそうやってプレゼントする場面を何度も見てきたからそういうことも知っているのだ。


それから勘の鋭い君は母親の思惑を見破った。彼女はいま、あらかじめ気になる服を選出している最中なのだ。そのなかのどれかを夫に、君の父に買わせる魂胆なのだろう。そういえばそうだった。幼い君はそれまでの人生を振り返りそういった場面をなんどか見てきたことを思い出している、そしてそれらをまとめて結論をだした。もっと早く気がついても良さそうなものなのに。君は心の中で自分の頭の悪さを罵った。それから君はそんな母親のことを可愛らしく思った。彼女はきっと彼に言って欲しいのだ、その服は君に良く似合っていると。それが嬉しいのだろう。だから君は母が鏡の前で服を手に持ち体に合わせているところを見てこう言ってやった。ママ、その服すごく似合っているよ。


事件の発端はこのあとに起った。婦人服売り場の側には宝飾品売り場があった。ディスプレイのなかにはきらめく宝石たちが並んでいる、誰かの手に取られてその肌を飾る日がくることを今か今かと待ち望んでいる。プラチナで作られた葉が真珠を抱えるようにデザインされたイヤリング、金の三日月とエメラルドのネックレス、ブレスレッドは銀の星とハート、ルビーが散りばめられた腕時計、そして女王、大きなダイヤモンドがついた指輪が真ん中でスポットライトを浴びて光り輝いている。


君の母親は夫から送られた婚約指輪を持っている。それは金の指輪で大きいものではないけれどダイヤモンドがついている。君はいつか彼女からその薬指を飾っている指輪を見せられて、そう自慢されたことを覚えている。綺麗でしょ、これはダイヤモンドと言ってとても高価なものなのよ。それは1組の男女に輝かしい恋愛の軌跡があったことの証明、想い出であり、愛が形を持って彼女の指に納まっているということなのだ。幼い君にも判っていた。つまり彼女は君に、彼女とその夫のあいだには愛がありその結果としてあなたが生まれたのだと言っているのだ。


その指輪はいまでは寝室に置かれた彼女の化粧台の棚のなかにある宝石箱のなかにひっそりとしまわれている。彼女が指輪を外したのではない、彼女の指が指輪を手放したのだ。彼から愛の形を送られたとき彼女の指は細かった。結婚をして君を生んで、社会や家庭の仕事をするうちに徐々に指が太くなっていく。指輪のサイズと彼女の指のサイズが合わなくなっていった。そしてあの宝石の輝きが彼女の指の上で踊ることはなくなった。だが、そうであっても大切な想い出だから無くさないように彼女は棚の奧にそれをしまったのだった。


結婚をして君を育てるとはそういうことだった。

細い指ではいられない。

というのは嘘さ。


実は僕は知っているのだけど、それを君だけに教えるよ。彼女には君を産まないという選択肢もあった。もちろん結婚をしないという選択肢もあったしそれ以前の選択もあったわけだけれどそれらを言いだすと切りがないから省くよ。彼女には君を生まないという選択肢があった。社会や家庭の仕事を一切しないこともできた。僕はそちらを選んだ彼女のことを、その結末を見たことがあるんだ。結局は彼女の指は太くなっていったよ。そして指輪をはめられなくなった。年を取るということはそういうことなんだ。


君のことを産んだ彼女はデパートで君の手を引いている。2人は婦人服売り場を見終わって宝飾品売り場の前を通りすぎた。そこで彼女は運命の出会いをした。運命というのは彼女が僕に言った言葉だ、ある時期のあいだだけ、それが彼女には素敵な運命の出会いに思えたんだ。


そこにはこの時期だけ設置されたカウンターがあって、そこではジュエリーリフォームを受け付けていた。いまならば特別に値引きした価格で請け負うようだ。その文字を見た彼女の頭のなかで小さな、輝かしい花火が上がった。音もなく、派手さもなく、単色で地味なものだが、暗闇の中できらきらと輝いたオレンジ色の火の粉が地面にゆっくりと落ちていく。それは棚に大事にしまってある愛が再び光り輝いたものだった、その予兆だった。結婚指輪のサイズを直せばまた彼女の指にダイヤモンドが輝く。


夫と合流した彼女は、彼に気を使って、彼の愛を誤って傷つけないように、慎重に計画を話した。妻が指輪を身に着けることが出来ない理由を彼も知っていたから彼女の計画を快く承諾した。良い計画だとも言った。それから君をつれて3人は例のカウンターに向かった。販売員が笑顔で夫妻を迎えた。そこには様々な写真や文言が用意されていた。指輪のビフォーとアフター、職人の顔と経歴、仕事風景、依頼者の感想。そのどれもがこの1組の夫婦の愛を刺激するのには十分なものだった。リフォームした指輪の実物もあった、写真に映っているリフォーム前の指輪と比べるとサイズも、デザインも石のカットも若干だが変っていた。つまり昔の指輪を現代風のデザインに直して洗練させることもできるのだ。夫はそれが良いといった、初めのうちは躊躇していた妻も快諾した。古い愛が、新しくなるのだ。そういった象徴や意味を持たせるのには結婚指輪が最適だった。言葉にはしなかったものの、夫妻を担当した販売員も含めてその場にいた全員がそれこそが指輪をリフォームすることの価値だという前提で話を進めていた。過去に、過去の愛に固執しない勇気のある決断だとも。


販売員が見積もりを出して、その数字を夫妻は受け止めた。決して安い金額ではなかったが、それでも良かった。値引きされている事実事体に2人は安堵した。そして後日、君の母親は、宝石箱から久しぶりに取り出した指輪を店に預けたのだった。


指輪が職人の手に渡り、その技法によって魔法が掛けられ真新しい存在になり彼女の手に戻ってくるまでの数週間、彼女はずっとせわしなかった、それにはワクワクという表現が適切だった。君が誕生日やクリスマスの当日に感じるあの幼くかわいらしい感情を彼女はこの時期だけ持っていたのだ。古い愛が新しい形になる。彼女の全身から喜びが溢れていた。それは彼女をあの頃の、夫となる男と付き合い始めた当初の彼女に戻していた。朝のキッチンに立つ彼女や夜のベッドの中での彼女は新鮮な空気そのものだった。テーブルの上に差し込む澄み切った光、夜を包み込む柔らかなシルクだった。それから数週間のあと、電話を受け取った彼女は喜んでデパートに行った。あのカウンターへ。


指輪が完成したのだ。


家に戻ってきた彼女の全身からは失意が放たれていた。それを君は良く覚えている。彼女はそのときそれを必死になって隠そうとしていたが、君は母親の僅かな変化に気がついた。疲労を表すうなだれた小さな背中、疲れた顔、力のない腕の動き、遅い足の運び、皮膚の上のシワやもう若くはない女が体から放つあのにおい、そういったものが彼女の悲しみを表現していた。


彼女は君に指輪をみせた。それは君の目にも明らかだった。安っぽく薄っぺらく軽い指輪だった、小さな石がその片隅で鈍く光ってうなだれて座っている、デザインこそ現代風になったが、取り繕っただけのものだった、完全に完璧な真新しい現代のものではなかった。偽りの新しさ、偽物のいまだった。それがかえって指輪を安っぽくみせていた。あの古い愛がそんなものになってしまった。そんなものが君の母親の指を必死に飾っていた。そしてついに彼女は君の目の前で泣き崩れてしまった。なにもかも思い通りにいかない。


それからも彼女は結婚指輪を指にはめていた。誰もが指輪のリフォームは失敗だったことを知っていたが、そうするしかなかった。だがあるとき彼女が夫と君と外出しているとき、あの小さなダイヤモンドが指輪から外れて地面を転がりどこかへと行ってしまった。石の留め着けが不完全だったのだ。正確にはどこで石を落としたのか、どこで無くしたのかも分からない。彼女とその夫と君は地面に這いつくばって石を探したけれど見つからなかった。彼女たちの膝は地面と擦れ皮膚が剥がれ、傷からは血がにじむ。それほど必死になったのに。道行く人が彼女たちを横目で見て不思議そうな顔をして通り過ぎていく。あの鈍く光るダイヤモンドは見つからなかった。


夫はあの販売員に連絡をして店の過失を訴えた。相手は不手際を認めて指輪は再び引取られた。詫びとして代わりの石が取り付けられた。代金は払い戻しになった。しかしそんなことは彼女にとってはどうでもよかった。指輪がまったくの別ものになってしまったと彼女は感じた。古かったけれどそれでもあれは愛の形だった、なのにもうどこにもない、別のものに変わってしまった。あんな安いっぽいものに。もとの指輪はそうじゃなかったはずだ。それから君の母親は指輪を再び化粧台の棚のなかの宝石箱にしまったままにした。それどころかあれから彼女は他のアクセサリーを付けることすらもやめてしまった。死ぬまでずっと。君は考える、なんで彼女はあんな出来事を経験しなければならなかったのか。それから君はまたいつものように一応の答えを出した。つまりこうだ。人生。


最後に君の弟の話をしよう。妹でもいいけれど。とにかく君より年下の家族の一員と考えて思い出して欲しい。この話も君から聞いたんだ。僕は君がした話ならばなんでも覚えているんだ。君の弟は若者らしい活発さと飽きやすさで色々な趣味に手を出していた。君たちは少し年が離れた兄弟だったから、彼の若さが君の目にはより印象的についていた。


彼は色々なスポーツをやった、それに学問も芸術もやった、当たり前のように少々の悪さもやったしボランティアもやった、恋愛もやったしもちろんセックスもやった。だけれど彼はそのうちのどれかにのめり込むことはなかった。器用貧乏といえば聞えは良いけれど、その実、緩やかな自殺をしているような気分に彼はなっていた。死から逃れるために君の弟が次に選んだのはギターだった。その演奏だった。とはいえ君たち家族は音楽一家というわけではなかったら家にはギターがない。だから彼はアルバイトをして購入資金を貯めることにした。


彼が選んだ仕事はハンバーグ屋の厨房で、右手にトング、左手にヘラを握りながら大きな鉄板の前に立ち1日100枚以上のハンバーグを焼くことだった。細長い厨房の先端に彼は居て、ガラスで囲まれたその場所からは彼が焼いたハンバーグを食べる家族や恋人たちのランチやディナーの様子を見ることが出来た。季節は夏だった。気温で溶けた生肉が指の皮膚にこびり付き、彼のコックコートと前掛けを血が汚し、熱した鉄板が肉汁を蒸発させて油の脂肪酸が熱になりグリセリンが煙となって彼の体や髪の毛を包み込んだ。帰宅した彼は生肉と焼いた肉を混ぜ合わせたにおいを放っていた。しかし君は弟の頑張りを知っていたから、そのにおいを悪いものと捉えることをしなかった。


それから数ヶ月がたち、アルバイトを続けて無駄遣いをすることもなかった彼はそれなりに良いギターを買った。練習をした彼は技術を身に付けて、諸手を挙げて褒めるようなものではなかったけれどそれなりに様になった演奏をした。このとき君は心配していた、弟は他の物事のようにギターにも飽きてしまうのではないかと。そして君はそのあとに経験したあの夜のことを僕に教えてくれたのだった。


あの夜があったのは夏が彼方に過ぎ去った、秋の終わりのことだった。とても小さな音で奏でられた音楽が弟の部屋から聞こえてくる。しばらくして君はそれが弟のギターの音だと気がついた。あれは音楽だった。練習という言葉はもちろん演奏という言葉でさえもそれを表すのには不適切な響きを持った美しい旋律だった。その音楽は演奏者の気まぐれからか途中で終わってしまった。普段はそんなことはしないけれど、君は思わず弟の部屋のドアをノックした。顔を出した彼に対して君は言った、良い曲だ。もっと聴かせて欲しい。弟の部屋。ソファーに座る彼。君は床に座って彼の奏でる旋律に耳を傾ける。部屋は薄暗く、窓の向こうを眺めた君の目には民家の屋根と空に浮かぶ星々の光が入ってくる。僅かな隙間が開いている窓から入る肌寒い風はさわやかで、静かな夜を部屋へと運んで来た。君の弟が弾くギターの音は目の前で聴いていてもとても小さなものだった。その小ささが旋律に静けさと繊細さと想像力を与えていた。君はそれこそが彼の持つ技術なのだと理解した。彼が意図して曲に与えた繊細な音だった。君はそれに気がついて、今まで知らなかった弟の一面を知った。しばらくして音楽が終わった。君の弟ははにかんだ笑顔を浮かべて、ギタースタンドに楽器を慎重に置いた。冬が始まりつつあった。


結局のところ、彼はギターをやめてしまった。あの夜から数週間後、せっかく手にしたギターを楽器屋に売ってしまったのだ。得た金は新しく興味を持ち始めたスキーをやるための用具を買う資金にするという。だから君はもう永遠にあのときの音楽を聴くことができない。弟があの技術を発揮することは二度とない。君の一生にあの夜が再び現れることはないのだ。君は考えている、なぜ自分があんな夜を体験することが出来たのか、それから君はまたいつもの一応の答えを出した。つまりこうだ、人生。


すべては寓話だ。君は君の経験を人に話すとき、この経験とはつまり君の過去のことだけれど、君はまるでそれに価値があるかのように話す。君はそれを教訓や学びがある話として、つまり寓話として僕に語ったんだ。そんなものは本当はないのだけどね。君のさも寓話めいた話は人類の誰にとっても価値のないものなんだ。だいたい君は僕に本音を語っていないじゃないか。僕は知っているよ、あのとき君が父親にかけようとした言葉を、母親にしようとしたことを、弟に思ったことを。だけれど真実はこうだ。不可能。なんせ人間に本音なんてものはないからね。無意識を意識出来たらそれはもう無意識ではないということだよ。君は君自身の本音を君の人生のなかで理解することはできない、そんな日はこない。


…… …… …… …… 。


いつか君は死ぬ。案外あっけなく死ぬんだなと思った一瞬のうちにそれは君にやってくる。その瞬間はスローモーションになり0.1秒が1秒に引き伸ばされる時間感覚だが所詮は短い。君はその想像を僕に語ったことがある。君はいつどうやって死ぬのだろう? 癌や心臓病か?殺されるのか?交通事故か?それとも恋人や子供と行った遊園地でのデートで乗ったジェットコースターが脱線して君は青空の中に投げ出され逆さまになり誰かの悲鳴を聞きながら地面に頭がぶつかり頭蓋骨が割れ首が折れて髄液が漏れて死ぬのか?そういった心配はするだろうけれど、死ぬその瞬間は言葉のとおり一瞬のあいだなんだ。


しかしそこにいたるまでの人生というやつが生と死を区切り、

君の眼前に先の見えない道を作っている。

だから僕には君のことがわかるよ。


でも死なんてものはないし人なんてものはいないんだ。君に死は無い、そして君の世界に僕はいないし僕の世界に君はいない。その世界で誰が君を狂人と決めるのか。問題はなにもない。だから風車と闘うと良い、数匹の豚とも。思う存分やれば良い、君の仕方で。キホーテは狂っていたが人を救おうとしていた。そして、彼はその旅の途中で人々と出会ったんだ。


詩は思いを伝えるものよりも、世界を丸裸にするものの方が良い。丸裸にすると言ったって、裸婦画ならばマネもドガもいたし、男の裸ならばベーコンミケランジェロもいたわけだけど。つまり、そのやり方はいろいろあるということだけれど。



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