せめてバトンをつなぐためだけの

朝、ふとんの中でケータイを開くと、
訃報が舞い込んでいた。目が覚めた。


知っている人が亡くなると、自分の「ひとでなしさ加減」が、
あらわになる。ふだんは、人間のようなふりで暮らしているが、
本当は、ヒトではないのだ、ということがあからさまになる。


お通夜・お葬式にしてもそう、「自然」と浮かんでくる思いにしてもそう。
「死」に触れる機会が少なかった、というのは、そうかもしれないが、
それにしたって、こんなにも鈍い心で生きていていいものだろうか。


車中のとも。
宇田智子『本屋になりたい: この島の本を売る (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房

棚こそが、本屋の肝なのです。(p.66)


購入。
北野新太『等身の棋士』(ミシマ社)
本の雑誌編集部『本の雑誌415号2018年1月号』(本の雑誌社
BRUTUS(ブルータス) 2018年 1/1・15合併号[危険な読書]』(マガジンハウス)


買おうと思っていた本をひとつずつ拾い上げながら、
何かもう1冊あったような気がして口元がゆがむ。
結局、思い出せないまま、レジへ向かう。


明日以降は平日とは言え、また混んでくるかもしれない。
比較的空いている今日のうちに買い、本はロッカーに入れておいて、
暗くなった夜道を急いで駅へ向かう。お通夜はもう、始まっている。


集まっていた友人の赤い目を見て、目を伏せる。
ひとりの友に付き添われて、瞑目した顔を見にゆく。
心の中で、別れのことばもなく、ただもやもやとした、
「感想」のようなものが雲のよう浮かんでは消えた。


泣きはらした顔で亡くなる前のことを話してくれる友人の、
その悲しみの深さに触れてようやく、涙腺も活動を始めたようだが、
それは、単なる生理的な条件反射のようなものではなかったか。
小学生くらいの女の子が退屈そうな顔でたたずんでいた。
親戚の子だろうか。若すぎる死に対する、若い魂。
彼女は今、何を思っているのだろう。


車中のとも。
宇田智子『本屋になりたい: この島の本を売る (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房


「手放すときは、古本屋に売ってくださいね」(p.72)
このあたりに、宇田さんの「声」を感じる。


「本のリレー」(p.101-103)のとこ、いい。

たとえば、本は所有するものではなく、一時的に借りているものだと考えてみてはどうでしょうか。新刊書店や古本屋で見つけて買った本を、時期が来たら売ったりあげたりして、次の人に渡す。そのあいだだけ、預かっているのです。私がいなくなっても、私の持っていた本は誰かの棚に並び、読まれ続けるかもしれません。本がバトンのように手渡されていくのです。(p.102-103)


鈍いココロでも、
リレーに参加している。
バトンが次の人に渡されたなら、
途中のランナーのひとでなしさを、
ののしる人もいないだろう。