2010-05-15 「週刊金曜日」で死刑特集

「週刊金曜日」(2010年5月14日 798号)に死刑制度に関する特集記事があります。内容は、対談二つとインタビュー一つ、「知っていますか?絞首刑の真実」という記事です。
死刑を考える
裁判員制度開始から一年。もうじき、一般市民が「死刑にするか否か」の判断を迫られる。政権交代後、死刑執行が停止された「モラトリアム」が続くが、それは私たちがきちんと「考えた」結果なのか。いまだからこそ、死刑に正面から向き合いませんか?
■死刑から「逃げ」た
執行停止状態は
最悪です
現実の話として、いまさら裁判員制度をやめることは
無理なので、これはほんとに「お願い」なのですが、
制度はいったん停止して、量刑判断はやめませんか?
と言いたい。現実論としてはそこしかない。(中村)
「当事者は謝罪せよ」と求めているけど、あれがもし
裁判員裁判だったら、裁判員は菅家さんに謝るべき
なのか。当時の裁判員をもういちど招集して、
検証するのか、という話になってしまう。(藤井)
海渡雄一さんに聞く
国際基準に沿って「停止」の判断を
死刑の「停止」を訴え続けてきた日弁連から見て、現状の「死刑モラトリアム」や、存置が多数を占める世論をどう考えるのか。今年四月に事務総長に就任した海渡雄一さんに聞いた。
■知っていますか?
絞首刑の真実
後藤貞人
日本の死刑が「絞首刑」であることすら、知らないままの人は多い。しかし、その歴史や法的根拠、執行の現場で起きている悲惨な「失敗」事例など、知るべきことは他にもたくさんある。
■あなたは人の生を
計れますか
昨年の内閣府調査で「死刑」を容認する人が85%に上った。国家の名の下で行なわれる“人殺し”を、私たち国民は本気で支持しているのか……。あなたは、誰かに「死ね」と言えますか?
自殺はできないから頼むから
死刑にしてほしいみたいな。
そういう人にとっては死刑が
罪を犯す理由になっちゃっている。
死刑を終身刑に置き換えることが
必ずしもいいとはいえない。これは、
なぜ死刑を廃止すべきなのか、
という本質的な議論に関わる問題。
萱野
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/tokushu/tokushu_kiji.php?no=1082
2010-05-03 死刑について考えてみる

「死刑に賛成ですか?反対ですか?」というよくある問いかけ、最初に「あなたは」が付けられることも多い、この「問いかけ」自体を疑うべきだ。
「あなたは死刑に賛成ですか?反対ですか?」
この問いを疑わないでいると、ほぼ必ず遠回りをしてしまう。
その上、明白な間違いを犯してしまう。
「あなたは〜?」という問いかけの前で、問いかけられた「あなた」は、命じられた訳でもないのにお決まりのコースを辿ろうとしてしまう。
大抵の場合「あなた」と問いかけられた誰かは、その瞬間にもう「個々の犯罪に対する第三者として、冷静に国のシステムを考える立場の自分」を想定できなくなる。
では何を想定するかと言うと、以下のような自分である。
↓
もし、自分の家族が殺されたとしたら?
もし、自分が被害者の遺族だったら?
考えただけでも怒りがわいて来る!
おそらく、そうなった場合の自分は犯人を赦せないだろう!
他の人も皆が皆そう思うだろう!
いや、他の人はともかく、自分は強くそう思う!
だから死刑にするべきだ!
よって死刑に賛成だ!
↓
そして、どういう訳か自動的に
「死刑に賛成する人=被害者遺族の心情を思いやる優しい人」
「死刑に反対する人=被害者遺族の心情を思いやらない、訳のわからない人」
という図式を頭に思い描く。
この図式は誰かに教えてもらったり、お金を出して買ったりしなくても簡単に得ることができる。そして、強く信じることができる。
しかし、ここには世界の中の日本という、地理的な視野の広さへの思い至りも無ければ、長い歴史の流れの中の現在、という歴史的な視点も無い。
あるのは素朴なだけに強い思い込みと、幼稚な想像力と、問題の矮小化だけだ。
この複雑な問題を矮小化してはならない。
社会や政治や司法や犯罪や刑罰や日常生活への不満と不安、或いは自身の劣等感と攻撃欲の捌け口として利用した挙句、自分を「正義」などと思い込んではいけない。
また被害者遺族への「思いやり」と称して、勝手にその心情を捏造してもいけない。
勿論、被害者遺族の心情や補償を全く考慮せずに「死刑の廃止」だけを叫ぶようなことをしてはならない。
「賛成か反対か」という問いかけの前で、まず我々は立ち止まるべきである。
その単純さに気付き、疑うべきである。
「死刑に賛成すること」が、本当に、死刑囚や刑務官の心情や立場をくみ取ったものなのか、冤罪死刑囚とその遺族の気持ちを充分にくみ取ったものであるのか?
「死刑に反対すること」が、本当に、被害者の遺族の心情や立場を充分にくみ取った上でのものなのかどうか?
という点を考慮しながら、国民の一人としての責任を感じつつ考えよ、というのがこの問いの主旨の筈なのだが、そうならない。
ならない所に問題がある。
この問いそのものを、もう少し様々な立場、角度から書き直してみるとどうか。
1、「あなたが法務大臣だとします。死刑の執行命令書にサインしますか?しませんか?」
2、「あなたが死刑の執行を命じられた刑務官だとします。死刑の執行に賛成ですか?反対ですか?」
3、「あなたが死刑囚だとします。死刑に賛成ですか?反対ですか?」
4、「あなたが冤罪死刑囚だとします。死刑に賛成ですか?反対ですか?」
5、「あなたが被害者の遺族だとします。死刑に賛成ですか?反対ですか?」
6、「あなたが日本人でないとします。日本の死刑制度に賛成ですか?反対ですか?」
このように並べてみると、なぜか最初の「あなたは死刑に賛成ですか?反対ですか?」という問いかけが著しく5にばかり返答するような形に片寄っていることが分かるだろう。
5を問われている訳ではないのだ。
答える側が問いかけを勝手に5として読み替えてしまっているだけのことなのだ。
要するに5以外は他人事だと思っているだけなのだ。
だから、「賛成か反対か」という安易な問いかけの前で我々は安易な回答を想定してはならない。
立ち止まるべきである。
せめてそこで、
「二択で選べるような問題だろうか?」
という考え方をしても、損にはならない。
落ち着いて考えてみれば、「執行停止」という第三の選択肢だってあるではないか?
「賛成でも反対でもありません、なぜなら・・・」と自分の考えを述べてもよい筈ではないか?
「もっとよく考えてみてからにします」でもよい筈ではないか?
ある「問いかけ」があるとする。
その問いかけが重要で難解で、人の心を熱くさせるものであればあるだけ、慎重になるべきではないだろうか。ましてそれが人の命に関わることであれば、なおさらのこと慎重になるべきだ。
私の言いたいことはそれに尽きる。
アメーバブログで、「ブログネタ:死刑について考えてみる」というお題があった際に書いた文章。
日付は2008-04-25 00:11:11
2009-02-19 死刑としょこたん

タレントの「しょこたん」こと中川翔子が、2009年2月17日のブログで、裁判員制度について考えている。
この日、「ニュース」で流れていた「死刑執行前日から執行終了までの生々しい録音」を聞いた。これまで死刑の様子は書籍などでしか知らなかったので、床板が外れる音や、読経の声など「ここまで見せるか」という内容に強い衝撃を受けたという。
そして、5月から始まる裁判員制度を心配。死刑について多くを知らないのに、「ショッキングな映像」を見て考えてしまった。
「裁判員制度が始まって選ばれてから不安になってしまうより 少しずつでも本を読んだりしていこう…」
[ 2009年2月18日17時18分 ]
ブログでのちょっとした発言をさも大事であるかのように見出しをつけて「ニュース」にする。最近よく見かける「ニュース」だが、こういう形で死刑制度がニュースになるのは珍しいし、こういう所から議論が広がるとしたら興味深いことだと思う。


