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  • 2005年05月06日(金) Home Sweet Home

    漫才とコントの違いが見えにくくなった理由

    先頃発売された『M-1グランプリ2004完全版』のレビューで、オリエンタルラジオ、オオカミ少年、レム色イシバシハザマパンクブーブーさくらんぼブービーあたりを名指しして、「こんなの漫才じゃない」といってる人が一人二人じゃなくいたのを見ると、何度もしつこく言ってることですが、やっぱり言い続けなきゃいけないのかと思ってしまうのですが。

    ショートコントが漫才じゃないと言ったら、漫画トリオも漫才じゃないのかということになるし、横山ホットブラザーズも宮川左近ショーもチャンバラトリオも新人賞の部門ではチョップリンもせんたくばさみもよゐこ上方漫才大賞取ってるんですからね(笑)。

    この「漫才とコントの違い」というのは凄い深いテーマとして話も出来るし、色んな分け方の基準出せると思うんですが、ただ一番多そうな「センターマイクに並んでたって会話だけで進行する、楽器を使う場合もある」という定義はちょっと漫才というジャンルの幅を狭める危険な分け方だと思うので、これだけは声を大にして「No!」と言いたいですね。

    「コントはひとりでもできるけど、漫才は最低ふたり必要」

    これは吉村智樹さんがご自身のサイトの掲示板で最初に言った定義で、この後この掲示板で考察が広がり、吉村さん自身もかなり深く広げていかれたのですが、これは吉村さんも後々に深い考察を入れていることから、この最初のコメントに関しては軽く思いついたことを書かれたのかもしれないのですが、物事を簡潔に言い当てていると思う。そのぐらい漫才とコントの違いというのは明確なモノはないと思います。

    例えば、ネタの設定において椅子を使ったらコント、空気椅子でやったら漫才かなとか一瞬思ったんですが、そういうことでもないような気がするんですよね、結局いとしこいしが楽器を置いた時、エンタツアチャコが洋服を着た時、カウスボタンがジーパン姿で登場した時、紳助竜介がその当時の若者の喋り言葉そのままで話し出した時に、全部「こんなの漫才じゃない」と言われながらも、全てその後スタンダードになっていったように、いま違っても後々そうなるかもしれないわけで、もしかしたら何十年か後にはオリエンタルラジオやオオカミ少年のスタイルこそスタンダードになっているかも知れない。漫才とは色違いのジャージでどっちかがギターを持つのが正装という認識になる日だってあるかも知れないわけです。

    それで思ったのはMixiのM-1コミュニティで、横山ホットブラザーズは 『音曲漫才』と紹介されていたけど、同じ番組に出ていたボカスカジャンは『音楽ショー』と紹介されていたというのを見て、チャンバラトリオは『剣劇漫才』と言われているし、ザ・プラン9超新塾も5人漫才と言われているけど、4人以上で動きのあるネタをやっているグループで漫才扱いされていない人は多いですよね。

    でも例えばウッチャンナンチャンの往年の名作『日比谷線VS銀座線』は僕はコントだと思うんですが、ダウンタウンの『この「あー」はどんなシチュエーションの「あー」でしょう』は僕は漫才だと思う、でもダウンタウンのこのネタで浜ちゃんは設定を客観視してツッコミを入れないし、完全に二人とも役回りを演じている、一歩ウンナンの『日比谷線VS銀座線』は小道具も使ってなければ、動きはあるけど基本的にセンターマイクから外れることはありません。また小道具を使っているけど、ナイナイの往年の名作『ガム』のネタは僕は漫才だと思う、雨上がり決死隊も基本的に漫才、FUJIWARAやバッファロー吾郎も基本的には漫才、でもチュパチャプスはコントだったと思う、僕はテツandトモは漫才だと思うけど、野性爆弾はコントだと思うんですよ(笑)。

    で、そこで僕が考えた結論です。僕の考える漫才とコントの定義は、「演ってる人が『漫才』だと言えばそれは『漫才』、『コント』だと言えばそれは『コント』」ということだと思うのですが、どうでしょうか?(笑)

    いやでも究極的にいうとこういうことなんじゃないでしょうか? 本人達が根っこの部分でいま自分がやってるネタがどう思っているのかということだと思うのです。コントと漫才は僕は明確に違うものだと思っています、でもそれは思想的な問題で決して表面的なものではないような気がします。

    センターマイクで喋りだけで客を大爆笑させることが出来るコンビでも、漫才ではなく単なるフリートークでしかないコンビはいるし、本来はコントのネタを無理矢理漫才にしただけでもきちんと漫才として成立するコンビもいれば、そうじゃないコンビもいる。一方で漫才の形を取ってもフリートークにしか見えなかったり、コントに見えるコンビもいます。

    これはやっぱり根っこに漫才という魂を持っているか、持っていないかということだと思う、ウンナンはどんなに漫才スタイルのネタをやってもコントの魂が強すぎるし、アンタッチャブルは本質的に漫才の魂の人だったと思う。

    『漫才とコントの違いはその人の持ってるソウルの違い、両方持ち合わせている人もいるけどね』というのが、僕の思う漫才とコントの違いだと思います。

    センターマイクを挟んで喋れば漫才か?

    先の項でも少しセンターマイクを挟めば漫才かということ書きましたが、もうちょっと深いところに突っ込んでいきます。吉村さんの所でも安田大サーカスアンタッチャブル東京ダイナマイトが漫才というよりコントだという話題が広がっていますが、ただ僕は逆に言うとカンニングやアンタッチャブルの一部のネタにある、漫才のお約束事をあえて外し続けるネタや、麒麟『M-1グランプリ2001』で衝撃を与えた『漫才に小説の要素を取り入れる』にしても、漫才のパロディのコントを漫才形式でやっているという取り方も出来ると思うんですよ。漫才師が漫才をやるコントを漫才の設定で押し通しているコントだという見方も強引ですが言えなくはないと思うんです。

    また吉村さんが「設定を演じきることがコントで、演じきらないのが漫才」と書いていますが、僕はこれには異を唱えたいです。僕は本人達が演じきっているけどダウンタウンの『この「あー」はどの「あー」?』やナイナイの『ガム』のネタは漫才だと思いますし、ウッチャンナンチャン野性爆弾次長課長はどんなに漫才風のネタをやってもコントに見えるんですよね。

    サンパチマイクというセンターマイクの存在とピンマイクの存在については二つばっかし思うことがあります。まず歴史的なことをいうと、コント55号が初めてのテレビ出演の際に、固定カメラが一台の中でネタをしないといけないので、この枠から出てはいけないというバミリがあって、それだと自分たちの本来のネタが出来ないと、もうテレビには出られなくても良いから自分たちの本来のネタをやろうと、目の前のお客沢笑わせることだけに全力を尽くして動き回るネタをやったら、次からカメラが何台も用意されて動きを追うようになったという伝説がありますが、同時に舞台上にサンパチマイクが舞台上に何本も立てられたという伝説がありますが、これがいまのナイナイやテツトモにつながっているという感動は、こうして振り返るとありますね。

    もう一つは去年の「M-1の敗者復活戦」において、何組かのコンビがオープンエアでセンターマイクのみという環境下において、全くサンパチマイクを使いこなすことが出来ずに、マイクにネタ中の音をほとんど拾われてなかったり、声が割れてしまっていたコンビが多くいて、M-1の事前番組でハチミツ二郎さんが『M-1の一回戦は素人さんが多いから、センターマイクを巧く使っただけで良く見える』という話をしていたんですが、敗者復活まで勝ち上がったコンビでも多くのコンビが使いこなしてなかったのでした(笑)。

    しかしその一方で、前述のコント55号よろしく、完全にセンターマイクを無視して自分たちのネタをやり遂げたパンクブーブーと、センターマイクから遠く離れても、きちんと会場やテレビの前にも声がはっきりと通っていたザ・プラン9は格好良かったなあ、あそこはネタに関係ないところでちょっと痺れたよ。

    演芸はテクノロジーの進化に伴って変わり続けるものである

    最後に僕は演芸というか、お笑いの世界が今後発展していくには、演芸会の夏目房之介というべき存在が現れないといけないと思っていました。

    でもこれが言える、きちんと指摘出来た上で、評論をエンターテイメントに昇華させる存在は、既にいたんだということが分かり安心しました。吉村智樹のお笑い評論があれば、絶対に日本のお笑い界は大丈夫だと確信しました。いやあでもこういうテクノロジーとの関連性とかに、既存のお笑い評論家やライターはいかなかったので、ついにここにたどり着いてくれた人がいたと嬉しいです。本当に嬉しいです、ありがとうございます。(吉村智樹の原宿キッス〜うれしはずかしな日々〜

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