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2016年08月07日 深く高らかに潜航せよ「トランボ/ハリウッドに最も嫌われた男」

toshi202016-08-07

[][]「トランボ/ハリウッドに最も嫌われた男」 「トランボ/ハリウッドに最も嫌われた男」を含むブックマーク 「トランボ/ハリウッドに最も嫌われた男」のブックマークコメント

原題:Trumbo

監督:ジェイ・ローチ

原作:ブルース・クック

脚本:ジョン・マクナマラ



 かつて20世紀には「冷戦」と言われる戦争が存在した時代がある。

 世界が二つに割れるという、そこを境に思想も経済も人も分断されていた時代があった。


 1945年に第2次世界大戦が終結した後、世界は「資本主義」を基盤とする国と「共産主義」を基盤とする国に色分けされた。おおざっぱに言えばそういうことになる。

 分断された「向こう側」の思想を持つと言うことを「敵性」とみなし、アメリカ、西側諸国、さらには日本も例外では無く、「共産主義」を「是」とする人々を糾弾、排斥する動きが出てきたのである。

 共産主義はアメリカでは1930年代に若者の間で広く受け入れられ、その理想に共鳴する人々は多かった。その時期に共産党に入党したり、その思想に深く傾倒した人々は、「敵性」思想を持つ人物としてリストアップされ、監視と弾劾と、そして事実上の追放の憂き目に遭ってしまったのである。


 それは映画業界も例外では無かった。この映画は、そんな時代の物語である。


 さて。この映画のタイトルは「トランボ」である。


 トランボ。・・・トランボ?トランボって何かね。

 わたしが最初にこの名前を聞いて最初に頭に鳴り響いたのはこの音楽。




D

 そりゃ「真犯人に最も嫌われた男」。


 てなわけで。この映画の主人公の名前は「ダルトン・トランボ」という。

 この「トランボ」なる人物が何者なのか。


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 このひげのおっさんが実際のトランボ氏である。


 まず彼の基本的なプロフィールをさらってみる。彼は1905年の生まれである。

 南カリフォルニア大学卒業後に、雑誌編集者を経て脚本家に転身。1940年に書いた「恋愛手帖」がアカデミー賞脚色賞を受賞し、一躍トップ脚本家としての地盤を築く。戦争映画「東京上空三十秒」脚本や「緑のそよ風」の脚色を手がける一方、のちに自身の脚色で映画化される「ジョニーは戦場へ行った(ジョニーは銃をとった)」などの小説も書くなど多彩な才能で知られるようになる。

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 だが、前述の通り、第2次大戦後、ハリウッドでも「赤狩り」の炎がかけめぐり、その疑惑の10人、いわゆる「ハリウッド・テン」の中にダルトン・トランボの名前があった。事実、彼はアメリカ共産党員であり、そして共産主義の闘いに自らの稼ぎを惜しみなく使ってもいた。彼は法廷に呼び出され、法廷侮辱罪で収監された後、事実上ハリウッドから追放。仕事はなくなり、メキシコに移り住む。

 だが、彼はそれでも脚本家であることをやめなかった。彼は偽名を使い、その才能を安く買いたたかれつつも、B級作品をいくつも手がける事で食いつなぎながら、自分が本当に描きたい物語が描ける機会を待った。

 そして、彼が「偽名」で描いた「ある脚本」がアカデミー賞を受賞してしまう!そのタイトルとは?


 これは是非、頭に何も入れずに映画に臨んだ方が面白いので、実際映画を見てから知ってもらう方が良い。


 見終わった私の感想はこれである。

D


 すごい男がいたもんだ。いや本当にそれだけである。逆境にも負けぬ、強き意志。類い希なる才能。抜け目ない才覚。その強さゆえに、失意のうちに死んでいく「同志」たちの血をかぶってもいる。

 伝説的な実在のハリウッドの大スターや映画監督、脚本家、製作者たちも登場人物として多数登場し、彼の敵となり、または味方となる。

 才能があっても才覚がなければ生き残れない、ハリウッドという残酷な世界で、彼は抜け目なく立ち回り、そして彼が最後に見せるのは、時代が彼に微笑み、そして勝利へと至るその姿である。世界に裏切られ、世間からつまはじきに遭い、逆境に追い込まれた男が、やがて時代の波を味方につけるまでの、長き雌伏の時。この映画はその、長きに渡る苦難の時代にスポットを当てて映画化している。

 そしてラストに待っているのは、時代を味方につけた男の大逆転!巨大なカタルシスのクライマックスである。


 思想弾圧は「人」を、「才能」を殺せる。これは言わばトランボにとって長きに渡る「戦争」であった。彼に遺されたのは「タイプライター」と「才能」と「家族」だけ。それを恃みに彼は世界と渡り合うのである。ただただ平伏するしかないその生き様。まさに「映画」になるにふさわしい「波瀾万丈なる人生航路」である。傑作。大好き。(★★★★★)


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2016年08月05日 マツコの知らない「マツコプレイリスト」の世界

toshi202016-08-05

[][][]マツコの知らない「マツコプレイリスト」の世界 マツコの知らない「マツコプレイリスト」の世界を含むブックマーク マツコの知らない「マツコプレイリスト」の世界のブックマークコメント



 テレビは好きで見ているが、最近バラエティは年々見る本数を減らしているジャンルである。HDDレコーダーの出現は「好きな番組だけを見られる」という、視聴者の固定化を招いているとも言え、わざわざ新しいバラエティを探すという「熱量」はもはやないわけです。

 その中で、唯一タレントとして信を置いて出ている番組を欠かさず見ているのは「マツコ・デラックス」だけ。インパクトのある体格、その見た目に違わぬ鋭い舌鋒、その中に裏打ちされる知性の輝き、そしてどんなプロアマ問わず、どんな相手とも絶妙に絡むその人柄。まさに、見ていて「気持ちのいい」バラエティタレントの代表格と言っていいでしょう。


 そんな、「マツコ・デラックス」の番組を好んで追ってきた私が気づいた「説」がこちら!(なぜ「水曜日のダウンタウン」風)


「マツコ・デラックスの出ている番組で使われた音楽を集めたらおしゃれなプレイリストが完成する」説







 というわけで検証してみましょう。





「ホンマでっかTV」(フジテレビ系列)

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 まずはメジャーなところから。


 まずは長くレギュラー出演している「ホンマでっかTV」。ここで使われている曲はアニメファンなら言わずと知れたアニメ史に燦然と輝く傑作SFアニメーション「カウボーイビバップ」のオープニング「TANK!」。


D


作曲・菅野よう子さん。演奏を国内外のアーティストが多数参加した「THE SEATBELTS」が担当している傑作オシャレオープニング曲ですね。

COWBOY BEBOP Blu-ray BOX (通常版)

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 では次。





「5時に夢中」(東京MX)

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 こちらのオープニングも有名。ジャクソン5の「 I Want You Back (帰ってほしいの)」。

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 リード・ボーカルを務めたマイケル・ジャクソン、当時まだ10歳。Pitchfork Mediaの「偉大な1960年代の曲ベスト200」では堂々の2位。グラミー賞殿堂入りも果たした名曲でございます。





「マツコ会議」(日本テレビ系列)

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 ここからは冠番組が続きます。番組リポーターが送ってくる潜入放送を会議室でやりとりしながら、番組で作るVTRの方向を番組内で決めていく番組「マツコ会議」。そのオープニングで流れるのはフランク・シナトラ「Strangers in the Night(夜のストレンジャー)」。

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 こちらもビルボードホットチャート1位を皮切りに、爆発的ヒットを記録。この曲名を冠したシナトラのアルバムは、彼の音楽人生で最も売り上げたアルバムとなったのです。





「マツコとマツコ」(日本テレビ系列)

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 「マツコ会議」の前番組と言えば、ロボット研究の第一人者・石黒浩教授が作り上げたマツコロイドと、マツコ本人が共演し、数々の実験を行う、傑作バラエティー番組「マツコとマツコ」。

 そのオープニングは毎回マツコとマツコロイド、石黒教授が登場する短いアニメーションで大変見応えがあったのですが、そこで懸かっていたのはこちら。


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 オランダの女性ジャズ歌手・カロ・エメラルドの「Coming back as a man」。

 カロ・エメラルドさんは1981年生まれ。

 デビューするやいなや、アルバム「Deleted Scenes from the Cutting Room Floor」が30週連続1位を獲得するという、オランダでは怪物級人気を博す。その甘い歌声、英語歌詞を基調とした聞きやすく、キャッチーな歌詞とメロディで一世を風靡。1950年代の社交ジャズの世界を現代風にアレンジし、ノスタルジックな世界を醸し出している。とのこと。






「マツコの部屋」(フジテレビ系列)

 かつて深夜に放送されていた低予算深夜番組。ディレクターが撮ってきたVTRをみてマツコがコメントするという、構成の番組。そこでかかっていた曲がこちら。

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 ポーラ・ネグリが歌う「Ich spür in mir」。1935年のドイツ映画「マヅルカ」の主題歌。「傷だらけの天使」で主役ふたりが雇われている「綾部情報社」の社長・綾部貴子(岸田今日子)の部屋の蓄音機からこの曲が常に流れていたイメージを持ち込んだと思われます。






「マツコ&有吉の怒り新党」(テレビ朝日系列)

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 有吉弘行と夏目三久アナウンサー熱愛報道「新・三大」などの名物企画でもおなじみ、みんな大好き「怒り新党」。夏目アナが「卒業」した今もこの時間帯の看板番組として君臨する人気番組。そのオープニングで流れているのはこちら。


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 ザ・ゴー!チームの「T.O.R.N.A.D.O.」。

 ザ・ゴー!チームはイギリスのロック/ヒップホップバンドで、メンバーは日本人を含む男女6人構成。だったが、現在は日本人男性は脱退し、日本人女性は産休中で、日本人以外の6人編成になっているとのこと。バンド名の由来は「災害の原因を究明・調査する人々(The go Team)」から。






「月曜から夜ふかし」(日本テレビ系列)

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 さて、ここからひとつの番組で複数の曲がはいります。

 日本テレビ月曜深夜、若者を中心に絶大な人気を誇っている「月曜から夜ふかし」。複数のカードから一つの話題を選択して、そのVTRを見ていく構成の番組。プロアマ問わず、様々なキャラクターを次々と発掘して、ブレイクさせているお化け番組である。


 まずオープニングで流れるのが、映画ファンなら知らぬ者はない大作曲家エンリオ・モリコーネ御大の楽曲。

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 日本未公開のルチアーノ・サルチェ監督による1965年の映画「スラローム」のサウンドトラックから。



 エピソード紹介の時に鳴る音楽は。

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 大友克洋監督「AKIRA」のサウンドトラックの「TESUO II」から頂いている。


AKIRA 〈Blu-ray〉

AKIRA 〈Blu-ray〉


 そして「マツコにたべさせたい件」で流れる曲。

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 フランスの4人組女性カルテットLes Parisiennesが歌う、その名も「Les Parisiennes」。フランス語で「パリジャン」という意味ね。





マツコの知らない世界(TBS系列)

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 そして最後に。プロの芸人が得意分野を紹介するのではなく、その道の第一人者の素人(プロもたまに来るけど)から、彼ら自身のプレゼンによって、その知られざる世界を知っていこうという画期的な番組。今や、「アメトーーク」の牙城を崩し、「ジャンル紹介番組」の新たな道を開拓したと言っても過言ではない、マツコ・デラックスのタレント性だからこそ生まれた番組。それが「マツコの知らない世界」である。


 オープニングで流れるのはこちら。

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 1960年代から70年代にかけて活躍した女性シンガー・リンダ・スコットの「I've Told Every Little Star(星に語れば)」。ちなみにこれが彼女のデビュー曲。映画「マルホランド・ドライブ」でも使われたりしている。



 オープニングのダイジェストで使われる曲。

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 Klischeeの「Entrée」。Klischeeはスイス発のジャズバンド。古き良きスウィング・ジャズと現代のエレクトロ・サウンドを融合し、新感覚の踊れるジャズを作り出すのが特徴。とのこと。



 お次に番組途中の番組ダイジェストで流れる曲。

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MISS KOOKIEの「Puttin' On The Ritz」。曲は1930年代の同名映画がオリジナルで、「踊るリッツの夜」として知られていたものをフレッド・アステアミュージカル映画「ブルースカイ」で歌い、メジャー化。それをさらにダンサブルにアレンジした本作である。80年以上の時を経てなお愛される名曲である。


ブルー・スカイ [DVD]

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以上あらためて曲目をまとめます。







「マツコプレイリスト」曲目

・THE SEATBELTS「Tank!」

・ジャクソン5「 I Want You Back (帰ってほしいの)」

・フランク・シナトラ「Strangers in the Night(夜のストレンジャー)」

・カロ・エメラルド「Coming back as a man」

・ポーラ・ネグリ「Ich spür in mir」

・ザ・ゴー!チーム「T.O.R.N.A.D.O.」。

・エンリオ・モリコーネ「Slalom」

・「AKIRA」サウンドトラックより「TETSUO II」

・Les Parisiennes「Les Parisiennes」

・リンダ・スコット「I've Told Every Little Star(星に語れば)」

・Klischee「Entrée」

・MISS KOOKIE「Puttin' On The Ritz」


 これらの楽曲をあつめてプレイリストにすれば、あら不思議!おしゃれな「マツコプレイリスト」の完成です!


 どうですか!マツコさん!







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 すみませんでした。

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2016年08月02日 あなたは何をシンじてますか?「シン・ゴジラ」

toshi202016-08-02

[][]「シン・ゴジラ「シン・ゴジラ」を含むブックマーク 「シン・ゴジラ」のブックマークコメント

監督:庵野秀明(総監督)/樋口真嗣(監督・特技監督

脚本:庵野秀明



 この映画が公開された日、ボクは日本にいなかった。


 先のエントリに書いたとおり、「別の映画」を目当てに台湾にいたからである。


 携帯電話を切り、ネットにもあまりつながない状況で台北で映画を見たり、屋台で飯食ったりして、ホテルに戻ってきてWi-FiにつないでiPadでTwitterのタイムラインをながめたら、そこには、この映画に熱狂する書き込みがずらっと並んでいた。

 正直な事を言えば、この時からすでにこの熱狂の火種は急速に燃えさかっていた。


 はっきり言えば。この公開直後から数日、Twitterやネットに吹き荒れた熱狂の熱は異国にいたからこそ、異様に気圧されるものがあった。

 台湾ではこの映画の公開はまだ先で、しかも日本とはまだ違う映画が映画館を独占している状況であったから、完全に「シンゴジラ」については「いずれ見ようかな」くらいのテンションで台湾に向かった自分としてはただただ面食らうばかりの状態であったし、異国の中では日本の情報はほぼシャットダウン状態であったから、Twitterとネットの情報が自分の中の「日本」を知る数少ない手がかりなのである。その手がかりの多くを「シン・ゴジラ」がとんでもないことになっていて、人々を熱狂させている「ようだ」という情報が覆ってるのである。そういう情報の断片が異様に自分の中で大きくなっていた。

 Twitterをつなげば、そこには常に熱い書き込みがタイムラインを覆っている状況は、自分の中に「シン・ゴジラ」を「大きく」するには十分だった。



 帰国してから1日置いて2日後には自分はこの「シンゴジ」を見に行っている。しかし、あんまり期待していないから情報はほとんどない。


 見た。


 その時のぼくの感情を一言で言えば、「苛立ち」であった。ボクは見終わった後、その感情をTwitterで一気にはき出した。

 結果としては、結構ウザがられた気がする(笑)。長年フォロワーだった人があからさまに切ってきたりと言うこともあった。


 ひとつだけはっきり言っておくべきことがある。この映画、ぼくにとって「つまらなかった」わけではない。

 面白かった。

 面白かったと思うのだ。しかし、ボクに納得できなかったのは、あの異国から異様に見えたあの熱の正体が「これ」なのか、という素朴な、そして率直な疑問ではあった。


 ボクが何故イラだったのかと言えば、この映画の構造にある。

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 ボクが映画館に行く道すがら、目にしたポスターは「現実VS.虚構」という惹句のポスターで、「ふうむ」と思いながら見始めたのだが、見始めて気づいたことは、まずこの映画が実際は「虚構 VS. 虚構」であることである。

 「ゴジラ」という「圧倒的虚構としての災害」に対して、「日本」が現実としてどう立ち回るか、という構図。ではある。だが、そこで描かれているのは「現実」のように振る舞う「作り手が考える虚構」であり、その「現実」のように見せている「虚構」こそが、「ゴジラ」という「虚構」に拮抗すべき「虚構」である。


 この映画の「絵図面」というものをどう考えるか、と言うとつまり「会議」に次ぐ「会議」によって、日本は「ゴジラ」という「虚構」をどうするか。それを決定せねばならない。この映画は簡単に言えばそういうことだ。

 だから、この映画はこれ以上無くシンプルだ。わかりやすいし、明確である。しかし、ボクがいらだったのは、前半部の「会議」の場面に集中した。


 この「会議」の場面が「退屈」だったことである。


 さて。このボクのいらだちに疑問がある人もいるだろう。「会議」が退屈なのは当たり前じゃんか。と。むしろ「退屈」なのは作り手も折り込み済みだろうと。

 だが。ボクの考えではそうではない。話の流れとしてはそうかもしれない。だが。問題は演出の質だ。「退屈な会議」を表現するのに演出まで退屈にしていることにボクはイラだっている。

 カットの編集、台詞の抑揚、劇判の付け方。この映画は理想を突き詰めれば「退屈な会議」の場面の演出こそが肝要だった。そこまで思っているのである。

 もっと面白くできたろう。あの「監督」なら。そう「思ってしまった」のだ。


 ボクがシンゴジを見るにあたって不幸だったのは、台湾にいることでネット上に拡散していた「シンゴジ」の熱を過剰に感じてしまった事。そして、もう一つ。ボクは庵野秀明監督を「生」で見たことがあるのだが、問題はその場所だった。


 それは池袋・新文芸坐である。


 「岡本喜八監督」の「激動の昭和史 沖縄決戦」の追悼特集上映の後に開かれたトークショウだったことである。それを通じてボクは知っていた。庵野秀明監督が「岡本喜八」監督の大ファンであることを。

日本のいちばん長い日

日本のいちばん長い日


 だから当然、なんの前情報も入れてないのに、映画の前半で気づいてしまう。すでに多くの人が指摘しているように、この映画は「日本のいちばん長い日」の会議シーンの叩き台にしているということに。カット割りからテロップの出し方から、多くのエッセンスを抜き出している。

 だとするならば。この映画の、庵野秀明が考えていた隠された構図とは。


 それは「岡本喜八VS.ゴジラ」という事になる。


 だとするならば。会議のシーンは明らかに庵野秀明の敗北である。

 だって「会議」シーンが「退屈」だから。思い切り演出を寄せた。その上で絵図面上では「退屈な会議」を「如何に魅力的に撮るか」という虚構と、「圧倒的災害としてのゴジラ」という虚構が、がっつりとぶつかり合うべきなのである。ところが、結果としては演出は学芸会のような棒読み台詞の応酬となった。


 ところが。このこれが映画の面白いところであるが。この「退屈になってしまった演出」こそが、「作り手の狙い」と賞賛されている所になっている。

 自分はTwitterでこのように書いた。


『「シン・ゴジラ」は、俺としては庵野秀明の目指していた高みはこんなもんじゃないと思っている。だからこそ見ている間常に苛立ちを作品に対して感じていたけど、どうなんだろうな。もっと上へ行けたんじゃないかって思ったらいかんのだろうか。シンゴジはこんなもんじゃないはずだ。』


『「シン・ゴジラ」の目指した「設計図」に関して言えばあれでいいんだと思う。今出せる全てを出した。でも、苛立ちを感じるのは会議室の場面なんだよ。会議だってエンターテイメントなんだ。面白い会議映画なんていくらでもあるし、会議は本来もっと躍動するものだ。セリフと画が生きてないのは何故だ。』


『「シン・ゴジラ」に苛立ちを感じているのは「つまらない」からじゃない。方向性は間違ってないとは思ってるし、この作品としては正しい。しかし、本来ならもっと本気で会議室場面を作り込むべきところをどうもおろそかになってるように見えてしまう。こういう事言ってもあんまり共感されないだろうが。』


『そういう意味では、今のシンゴジは批評的にも「甘やかされすぎてる」気はするし、その甘やかしは作り手の志をあんまり理解できてないのではないかって思うのだ。岡本喜八の特集上映で庵野秀明の語りを生で聞いている俺からすれば、彼は本作で(岡本)喜八(監督)の後継者たろうとした部分もあったはずなのだ。』


『しかし会議室の場面は喜八(監督)のカッティングには遠く及ばない退屈さだ。演出をあえて寄せていったにも関わらずだ。だとすれば、そこは庵野秀明にとって大きな敗北を感じている部分なはずだ。ところが世間はほめそやす。そこに大きな乖離がある気がするのだ。』

(注:一部、筆者追記あり)

 このつぶやきはわりと好意的な形でのリアクションが多かったのだが、その中で一部では『「その退屈さ」こそが狙いなのだ』という指摘があった。


 だが、その指摘はボクは違うと思うのだ。なぜなら、庵野秀明監督はゴジラという「虚構」と同じか、それ以上に「岡本喜八」という監督をリスペクトしているからである。そうでなければ今回のような映画の中のとある「役」になぜ「岡本喜八」監督を選んだのか。それがわからないではないか。

 ゴジラと正対できるのは、「岡本喜八」監督の映画史において長く語らえるカッティング演出による「実写的虚構」だと踏んだからに他ならない。だからこそ、演出も「早口」で「カット割り」を多用し、テロップの出し方ひとつまで寄せたのだ。

 しかし届かなかった。


 だが。


 それこそがこの映画が、リアルだと評価されることにつながっているのであり、そしてこの熱狂を下支えしている。

 ボクは岡本喜八監督が大好きなのだ。ゴジラなどよりもよっぽど。だからこそ、ボクにとってはこの映画は、「理想の出来に届かなかった映画」として記憶される。

 だが、多くの人にとってはこの映画の「かたち」こそが「理想型」として語られていくことになる。岡本喜八ファンとしての庵野秀明が例え「敗北感」に囚われていたとしてもだ。

 もちろんそうでない可能性もあるが、庵野秀明というクリエイターが果たしてそれで「ヨシ」としただろうか。


 ボクは多分ゴジラよりも「岡本喜八」の方が大事なのだ。それはボクが持っている「信仰」のようなものだ。「ゴジラ」を信ずるか。「岡本喜八」を信ずるか。

 多くの人は「ゴジラ」を取るのだろう。その中でボクは「岡本喜八」を取る数少ない人間なのだ。


 だからこそ、ボクは映画のデキは認めつつも、いまだにシンゴジの熱狂に対して、「苛立ち」を胸に秘めながら現在に至っているのである。それは非常に「個人的」で。でも大切な「何か」なのである。私は「シン・ゴジラ」で自分の「シン仰」を問われたことになる。


 私の中で「シン・ゴジラ」の「シン」は「信仰」の「信」であった。(★★★★)

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2016年07月29日 素晴らしき台湾邦題の世界

[][][]素晴らしき台湾邦題の世界。 素晴らしき台湾邦題の世界。を含むブックマーク 素晴らしき台湾邦題の世界。のブックマークコメント



 えー。夏休みを怠惰に過ごすことでおなじみの私ですが。

 今年は珍しく遠出をするぞ!という事で。夏期休暇をもらってですね。



 成田から航空機に乗りまして。

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 台湾は台北に行ってきました。

 海外に行くのは学生時代の終わりに韓国・ソウルに卒業旅行して以来ですから・・・・15年以上ぶりです。パスポート取り直しました。


 理由はこれです。



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 9年ぶりのマット・デイモンポール・グリーングラス監督がタッグを組んだ「ボーン」シリーズ最新作「ジェイソン・ボーン」を見に来たわけです。9年。9年ぶりですよ。どんだけ待ったと思ってんだよ。しかも日本の公開世界最遅なんですよ!2ヶ月遅れですよ。

 ふざけんなよ!おれはなあ「ボーン」を「見たい」んじゃねえんだよ!もういっそ映画を「浴びてえ!」「浴びてえ」んだよ!というわけでまあ、4回くらい映画を浴びるように見まくってきたわけですが。←見過ぎだよ。


 というわけで。台北で日本とそれほど変わらない生活を送ってきたわけですが。←なにしてんだ。

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(関係ないけど泊まったホテルの部屋に描いてあった絵が何故か北斎)。


 さて。

 感想は日本版が公開された後に改めて書く予定です。本題は「ボーン」じゃないんです。


 私が映画館に行ってチケット購入のシステムひとつとっても日本とは違うのに戸惑いつつもなんとかメモ帳を使っての「筆談」と「知ってる英単語を連呼する」という、国際ディスコミュニケーションぶりを遺憾なく発揮しながら映画館に入り込みまして。

 そこにある色とりどりの新作映画の広告が目に入ったわけです。それを見て私は感動を禁じ得なかった事がありまして。きっかけはこの映画にまつわるものでした。


スーサイド・スクワッド」台湾的邦題の衝撃。



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 日本でも話題のアメコミ映画「スーサイド・スクワッド(Suicide Squad)」。

 台北でも日本よりも一足早く公開されるわけですが。その邦題がこちら。





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「自殺突撃隊 史上最悪英雄」


 かっ・・・・かっけえ。直接的!かつ無駄がないこの完璧な「邦題」!

 アメリカ本国に媚びることなく、本国の言葉だけで意味だけを抽出した芸術的な美しさよ!

 この「台湾邦題」の美しさに完全に心捕まれまして。映画館のポスターを見て回ったりしてました。

 台湾邦題には主に2種類ありまして。ひとつは「漢字数文字」系、もうひとつは「当て字系」。あとはそのふたつのハイブリッドするという計3種の系統があります。


漢字数文字系



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巨匠スティーブン・スピルバーグ監督の最新作「BFG」の日本邦題は、原題をそのまま使った「BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」。絵にかいたような、つまらな邦題ですが。台湾はこうです。



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「吹夢巨人」


 どうですか。この美しさ。原題におもねることなく、かつ、たった4文字で映画を完璧に表現しきってるわけです。


 もちろん、台湾邦題は傑作ばかりではありません。こういう例もあります。

当て字系。


 同じく巨匠・クリント・イーストウッド監督の新作。原題は「SULLY(名声を傷つけるの意)」。日本の邦題は「ハドソン川の奇跡」ですが。台湾邦題はこうです。


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「薩利機長:哈紱遜奇蹟」。

 如何にも安直に当て字を加えた、日本邦題と同レベルのセンス。あまり面白くありません。


シン・ゴジラ」はハイブリッド系。


 今話題の「シン・ゴジラ」はどうでしょうか。こうなります。







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「正宗哥吉拉」


「正宗」は「正統な、由緒正しい」という意味。「哥吉拉」は「ゴジラ」の当て字ですね。もともと「原題」もシンプルなのでこちらもシンプルにまとまってます。



更なる台湾邦題をもとめて。



 次の映画の上映を待つ間、暇を持てあました私は、地下鉄で町へと繰り出しました。


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↑台北にもSuicaみたいなICカードがある。


 そこでやってきたのがここです。

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 本屋さんです!(←本当に日本にいる時と行動が変わらない男)。

 自称・台北一の蔵書量を謳ってました。

 そこでプラップラ見て回ってたら、DVDコーナーを発見しまして。

 そこで台湾的邦題を漁ってみました。


スタジオジブリとディズニーの台湾邦題事情。


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 ジブリも揃ってました。あんまりジブリの「台湾邦題」は、漢字文化という共通点もあって、そのまんますぎて面白みに欠けるのですが、一つだけ琴線に触れるものが。

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「心之谷」

 「耳をすませば」の台湾邦題がこちら。どういうことかと思ったら、原作のひとつである柊あおい先生の少女漫画「耳をすませば/幸せの時間」の台湾邦題が「心之谷」なんですね。



 ピクサーを含むディズニー作品のラインナップも充実してました。


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 ディズニーの台湾邦題は傑作が多いです。たとえば今年公開された大ヒット作「ズートピア」。




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「動物方城市」


 当て字でない5文字でまとめられたほぼ完璧な邦題。


以下主な傑作邦題をまとめますと。



トイ・ストーリー(Toy Story)」シリーズ→「玩具総動員」



「ベイマックス(Big Hero 6)」→「大英雄天團」


「メリダとおそろしの森(Brave)」→「勇敢傳說」


「ミスター・インクレディブル(The Incredibles)」→「超人特攻隊」


モンスターズ・インク/モンスターズ・ユニバーシティ」→「怪獸電力公司/怪獣大學」



 などなど。実に無駄のない美しい邦題の数々。台湾ディズニーのセンスにほれぼれします。



 その中でも特に面白かったのが「シュガーラッシュ(Wreck-It Ralph)」の台湾邦題。

 日本盤DVDと台湾盤DVDを比較してみましょう。


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「無敵破壞王」!!


 同じ映画とは思えません。


実写映画の傑作台湾邦題たち。



 というわけで。当然実写映画作品もチェックしてみました。

 そこから気に入った台湾邦題を挙げてみましょう。



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 まずポール・ハギス監督の「サード・パーソン」。

 かなりおしゃれなイメージが先行するこの映画ですが。これが台湾邦題にかかるとどうなるか。











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「情慾三重奏」


 「三重奏」というおしゃれ感を見事に打ち消す「情慾」の2文字。このインパクトにはのけぞりました。台湾怖い。


 そんな台湾の直撃系センスが炸裂するのが邦題「恋愛だけじゃダメかしら?」。

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 妊娠と出産にまつわるロマコメを、如何にも日本的センスで無味無臭にした邦題が印象的ですが、台湾の手にかかると邦題はこうなります。









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「好孕大作戦」



 おしゃれ感ゼロ!ダイレクト!インパクト!そして、内容を完璧に表現したそのセンス!あまりの題名に最初日本の邦題の方がまったく出てきませんでした。もう「恋愛だけじゃダメかしら」なんてヌルい邦題じゃ満足できなくなる、そんな邦題です。


技あり系邦題もある、傑作台湾邦題たち。


 ダイレクトな邦題だけが魅力ではありません。時に深く唸らされる「ワザあり」系テクニカル邦題があるのも台湾邦題。

 その代表格と言えるのが映画史に残るロバート・ゼメキス監督の「フォレスト・ガンプ/一期一会」。その台湾邦題がこちら。



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 「阿甘正傳」


 一庶民の流転する運命を描いた中国の大作家・魯迅の代表作「阿Q正伝」をもじり、映画を象徴する名台詞として名高い「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでは何が入っているかわからない。」に掛けて、「阿甘正伝」とした、このセンス!まさに技ありと言わずしてなんと言おう。


(追記;ブコメで『「阿甘」の「甘」はそもそも「ガンプ」の当て字』という指摘を受けて、すごく納得した。なるほど。)


 そして、もっとも傑作だと思った台湾邦題がこちらだ!


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「惡棍英雄:死侍」


 俺ちゃんヒーロー映画「デッドプール」の邦題がこれだ!!

 「死侍」!「死侍」ですよ!?

 完璧。完璧と言わざるを得ないネーミング。ちなみに惡棍とは「ごろつき」という意味。たった6文字で見事に「デッドプール」のなんたるかを表現しきった、完璧な邦題では無いかと思います。


 このように掘っていけばさらに面白い邦題の作品に出会えそうな、「台湾邦題」の世界。まだまだ我々日本人が知らない、奥深い邦題が眠っていそうなそんな予感を抱きつつ、筆を置くこととします。

2016年07月21日 何もなくても青春だ。「セトウツミ」

toshi202016-07-21

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監督:大森立嗣

原作:此元和津也

脚色:宮崎大/大森立嗣


 ここ最近見た映画が立て続けに「暴力」によって人が死んだり痛めつけられたりする映画だった。


 自分は、暴力というものへの忌避感は基本的に強い。

 俺自身いじめとは無関係とはいかない時期はあったんだけど、高校生活はその地獄から抜け出してちょっと穏やかに過ごしていた。ただ、そのいじめによって心がやや不安定な時期でもあって、もやもやしたり不安だったりもした。けれど、ただ、なんて言うんだろう。放課後の時間だけはその不安とは無縁で、楽しかった。

 一方的に痛めつける暴力の映画は、時折ボクにいじめと関わっていた時代の辛い記憶を呼び起こさせる。いまは遠く見えるその記憶も、時折鮮明に甦る時があって、その時はちょっとつらくなることもある。そして、大人になってからも、暴力とは無縁とはいかなかった自分は、暴力というものへのあこがれは微塵もなく、ただ「痛み」を感じるようになっている。暴力とは相手の意思を力で屈服させようとすることである。生々しい暴力を見ると、どうしても引いて見てしまう自分がいるのである。


 高校時代は基本的にそういう暴力とは無縁であった。そういったとは無縁にただ友達とくだらないことを喋っている。その時間だけは今も、すごく心に残っていてそのことだけで、過去のさまざまな事が少しずつ自分の中で和らいでいくような、そんな気持ちになっていた。なんであんなに、意味も無いことを喋り合えたんだろう。今となってはよくわからない。



 この映画の主演は池松壮亮と菅田将暉。言わずと知れた、実力、人気共に兼ね備えた今をときめく当代きっての若手俳優ふたりだ。

 

 その二人がこの映画では何をするのか。


 なんもしない。


 いや。している。喋っている。ダベっている。


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 二人はともに高校二年生。内海想(池松)と瀬戸小吉(菅田)は放課後川べりで待ち合わせては、だらだらと気の向いたときに無駄話を始める。

 そういう映画である。瀬戸と内海がただ喋る映画。だからタイトルも「セトウツミ」である。


 原作は此元和津也のコミック。監督は「まほろ駅前」シリーズの大森立嗣。

 撮影期間はわずか10日だったらしい。そらそうだ。基本川べりで喋ってるだけだし。だけど、そのやりとりを如何に「漫才」にせずに「映画」にするか。その間の取り方、やり取りする二人の空気。それがまるで本当にただダベってるように見えるように演技する。実はこれが意外と難しいのである。コント風、漫才風に見せるのは実はそれほど難しくない。どこまで「リアル」に「くっちゃべってるだけ」に見せるかが、この映画の「売れっ子若手俳優」二人に課せられた演技なのである。

 ふたりは見事、適度な距離感を持つ友人同士の「空気」を絶妙な間の演技によってスクリーンに放ってみせるのだ。


 話してることは他愛もない。言葉遊び、好きな女の子に送るメールの文面、猫をめぐる瀬戸家の事情、今夜の家の晩御飯。思いついたままに話題は転がり、やがてそこに「オチ」がつく構成。そんな話が数編入っている連作短編方式である。

 なにもないけど、なにかが起こる。でもそれは、とても他愛もなく、どうでもいいことでもある。


 この映画を見ていて、俺はとても不思議な気持ちになった。ただだべるだけの話。しかしそれはとても身に覚えのある話。当然だ。高校生時代、自分が毎日のようにやっていたこととなんら変わりがないからだ。


 なにもない。なにも起こらない日々。意味もなけりゃ、生産性もない。何の役にも立たない。達成感とも無縁。ただ、いたずらに時間をつぶすだけの会話。

 しかし。そんなふたりのやり取りをただ見ているだけで、じわっと心の中に不思議な感情がひろがっていく。今思えば、その時間もまたかけがえのない日々だったのだ。

 「なにもない」ルーティーンが積み重ねって行く。そんな青春もある。遠き「あの日」を思い起こさせる。これもまた、「映画」の「魔法」なのである。大好き。(★★★★)

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2016年07月02日 勤勉なるものは毒をも食らう。「日本で一番悪い奴ら」

toshi202016-07-02

[][]「日本で一番悪い奴ら」 「日本で一番悪い奴ら」を含むブックマーク 「日本で一番悪い奴ら」のブックマークコメント

監督・脚本:白石和彌


 私は基本的に怠惰でだらだらした不真面目な男である。


 怠惰というのは悪である。この国にはある種そういうのを嫌う空気がある。隙あらば仕事をし、寸暇を惜しんで働き続ける者ほど美しい。勤勉なものほど、称揚される人間達はいない。そこまでしないとこの国は動かないわけではあるまいに、なんでかみんな余裕がない。

 その反動だろうか。国民的アニメの主人公と呼ばれる人間はおどろくほど怠惰な人間が多い。「ドラえもん」ののび太、「おばけのQ太郎」のQ太郎、「ちびまる子ちゃん」のまる子、そして「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両さんなどである。

 基本的になにもしたくない、人間、できることなら仕事なんぞ適当にやって適当に遊ぶ方でいいに決まってる。寝たり、趣味に没頭したりしていたい。一日中空をながめて暮らすんでもいい。などということは日本人は許してくれないがゆえに、その「怠惰さ」をフィクションの主人公に託しているのかもしらぬ。



 さて、「日本で一番悪い奴ら」である。

 本作は「凶悪」で映画ファンを震え上がらせた白石和彌監督の新作である。


 この映画の主人公、諸星要一(綾野剛)は柔道が強いという理由だけで北海道県警に引き抜かれた男である。彼は北海道県警柔道部を日本一に導いた男として語られる。

 その冒頭を見ていて思い出したのがこち亀の両さんが警官になった理由である。

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 「こち亀」の69巻「両さんメモリアル」の回。いわゆる伝説の「ニセ最終回」の話であるが、そこで両さんの入った理由が「柔道で鍛え直してもらうために警察に行ったらめちゃめちゃ強かったので、スカウトされた」であり、まったく入った理由が同じである。

 しかし、その後「こち亀」の両さんは隙あらば趣味やギャンブルにいそしむ不良警官として派出所勤務を満喫することになるわけである。


 諸星要一という男はどうか。


 この映画は彼が、真面目な警官だった男が少しずつ悪徳刑事として転落していく物語として描かれている。裏社会にいる子飼いの仲間を作り、彼ら「S」を使って裏情報を手に入れ、それを元に大手柄を立て、立身出世を狙う。入った当初はアゴ足で使われるだけだった諸星は、捜査課でブイブイ言わせてる先輩・村井の薫陶を受けて以降、そのやり方を愚直にやり続け、北海道県警でのし上がっていく一方、暴力団関係者とずぶずぶになりながら、次第に裏金づくりのために悪事にも手を染めていくことになる。

 「点数さえ上げればそれが強いては警察のためになり、ひいては「公共の安全を守り市民を犯罪から保護する」ことになる」というロジックと、この裏社会に顔が利く警官ゆえにちやほやされるという「成功体験」は彼を「悪徳警官」への道を邁進させることになる。

 この映画は諸星要一という男と仲間になる、暴力団幹部・黒岩(中村獅童)、山辺(YOUNG DAIS)ラシード(植野行雄)らとの奇妙な絆と、やや過剰な演出とともにハイテンションで描いている。


 諸星要一という男はどういう男か。一言で言えば真面目で勤勉だ。彼は裏社会に顔が利くようになってからもだらだらとしてはいない。「いいこともわるいことも」どんなことでも愚直に真面目にやる。

 だからこそ彼は裏社会の「S」たちからも一目置かれ、信頼され、やがて家族のような関係性にまで陥ることになる。真面目に頑張れば、警官としての数字が上がる。上がれば「公共の安全を守る」ことになるわけだから。

 柔道部を日本一に導くほど有能で、真面目で、礼儀正しく、一度この道と決めたら突き進む。彼は元来、体育会系の美点を煮詰めたような男である。一見、そんな男が「悪徳刑事」に「墜ちて」いく物語に見える。だが本当にそうか?彼は「変わってしまった」のか?


 この映画がコメディとして面白いのは何故かと言えば、悪徳刑事の道をまっすぐに突き進む諸星がすこぶる真面目でそして本気だからだ。登場人物達はみな冗談を言うわけではない。それぞれがそれぞれの立場で一生懸命に生きている。だから彼らは熱く「キズナ」のために集い、そして互いを思いやってもいる。

 だが、それゆえにその真面目さは「毒」になっていくのである。ヤクザに顔が利き、いい女を抱き、犯罪にも手を染める。それでも諸星は信じている。俺は「警官のエースになる男だ」と。それゆえに、彼は決してブレない。いいことも悪いことも吸収したことはすぐに覚え、実践するのである。一言で言えばまっさらな白紙のような男であり、そしてすこぶる有能だ。使える男。


 だから諸星は自分のやっている事が「悪事」だとしてもそれが「恥」であるとは思っていない。「点数」を上げるためだったら何をやってもいい。そう愚直に信じ切ってるわけだから。例え「拳銃を大量に押収するために、大麻の密輸を見逃す」ことも、それは警官として天地神明に誓って恥じることはないわけである。

 だから、この映画は面白い。そして観客に奇妙な共感すら生む。そして「面白うてやがて哀しき」諸星達の「末路」に涙さえ誘われる。


 「悪」とはなんだろうか。ふと考えるわけである。組織が悪い。県警が悪い。諸星が悪い。色々とこの映画を見て思う。

 だが、問題なのは「度が過ぎる真面目さと勤勉さ」なのではないだろうか。この世から悪を根絶する。その思いが人を、組織をあらぬ方向で暴走させる。警察は元来、ただ起こった犯罪に対処すればいいだけの組織であるはずだ。ところが「真面目すぎる」人間が悪と対峙したとき、その悪を「御してやろう」と考えた時に、元来「正義」のはずの組織は歪んでいく。

 諸星はなんら変わってなどいない。こいつはただ、「やり方」を覚えてしまっただけだ。体育会系で、優秀で、有能で、勤勉で、真面目で。ただソレが「悪徳刑事」の一本道だっただけである。


 それゆえにこの映画は、警察史上に大きな汚点となった事件を元にした実話を下敷きにした、ぞっとするような内容であるにも関わらず、滑稽で熱くて笑えて、主人公達の末路に涙する。そんな「笑って泣けるエンターテイメント」、非常に奇妙で優れた娯楽映画になってしまったのである。傑作である。困ったことに、大好き。(★★★★★)

 

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2016年06月30日 2016年上半期感想書き損ねた映画たち

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「オデッセイ」The Martian (リドリー・スコット

 突如起きた砂嵐がきっかけで火星にひとり取り残された宇宙飛行士が、みずからの知恵を駆使してサバイブする様を描いたリドリー・スコット監督最新作。

 いやあ、単純に面白かったですし、こういう映画を見たくて映画見ているところがあるので大変面白かった。

MASTERキートン 1 完全版 (ビッグコミックススペシャル)

MASTERキートン 1 完全版 (ビッグコミックススペシャル)


 自分がね。思い出したのは浦沢直樹先生の「MASTERキートン」の「砂漠のカーリマン」という話。同行していた教授たちが地元民族とトラブルを起こし砂漠に放り出された主人公の平賀・太一・キートンが、SAS仕込みの知恵で、一緒に取り残された人々とサバイブするエピソード。やっぱりそういうエピソードには単純に手に汗握るものを感じるし、知恵と前向きな気持ちで困難に向き合うという、その強さはただただ「かっこいい」と思うわけであります。

 だからこう、自分の中にある血肉になった知恵と楽天的な性格で前向きに「サバイブ生活をする」という主人公の強さ、そして仲間がみんな彼の生き残りのために動いていく物語というのはそれだけで嬉しくなってしまうし、こういう「人の善なるものを信じてもいいんじゃないか。」って気持ちにさせる作品を、ここまで予算を掛けて作れること、そしてそんな作品を80に手を届こうかというリドリー・スコット監督が撮ってくださったことはですね。ただただ、「感謝」ですよね。大傑作だと思います。大好き。(★★★★★)

 ちなみにボクはこの映画を見たあとこうつぶやいて結構な反響をもらったのもいい思い出です。

窓の外さんのツイート: "「オデッセイ」は最高だった。文句なし。問題はだ、豊島園から最寄駅への終電が終わってるって事だ。どう帰るかな。←お前が帰れなくなってどうする。"

映画の後も取り残され体験は続いたのでした。


「ザ・ウォーク」The Walk(ロバート・ゼメキス

 ワールドトレードセンターの二つのビルの間をワイヤー1本で渡りきった綱渡り男の実話をロバート・ゼメキス監督が映画化。


 これはニューヨーカー御用達映画というかね、ランドマークとして開業当初のビルに潜入してそして、綱渡り師としての名声と命を賭けた無謀な挑戦に挑む綱渡りバカ一代の狂気の沙汰を描いた作品。なんで、あのビルの熱気ある様子が映ると、その時代を知ってる人はそれだけで涙ぐむ作品では無いかと思ったりしますね。

 やっぱり今は亡きあのランドマークの中に潜入して「違法行為」を成し遂げていく犯罪映画的な側面とそこに向き合うまでの狂おしいまでの葛藤、そして、あのわかっていても股がきゅってなる圧倒的な高低差の3Dが圧巻。あまりに何度も往復するので、逆にハラハラ感が薄まっていくのが難なのだけど、それさっぴいてもまあ、こんな事わざわざ命がけでやるか?という、理解の外にある人の話だ。

 今はない二つのビルを下にのぞき込むのを3D眼鏡で見るこの映画は、本当に映画館で見て良かったと思った映画でありますよ。なんてもんを作ってくれるんだ。怖かったですよ。大好き。(★★★★)


 ちなみに警視庁がこの映画とコラボしたポスターがあって、あまりの親和性に思わず写しちゃった。

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『落ちたら終わり!「踏み外すな」人生のタイトロープ』

 人生も綱渡りも踏み外しちゃダメ!絶対!


「スポットライト 世紀のスクープ」Spotlight (トム・マッカーシー

 カトリック教会の性的虐待スキャンダルを暴いた新聞記者たちの実話。


 アカデミー賞の賞レースで最も地味で賞に絡まないように見えたこの作品がなぜ作品賞を獲ったのか、映画見てみるまでわからなかったのだが、実際に見てなるほど、これは・・・と思うところがあった。もちろん作品の質的にも優れた映画には違いない。だが、この映画が特筆すべきなのは、彼らが向き合った「敵」があまりに巨大で、そしてもっとも「近しい」存在ということである。

 神父による児童性的虐待において、その対象はあまりに広い。年齢性別など関係ないというところが問題で、そして被害者たちの多くは人生を破壊される。そして、新聞記者の中にもカトリック信者はいて、神父は昔から馴染みの深い存在だったということである。この映画で新聞記者たちは強大な力を持つ組織というだけではなく、最も身近でそして親しみすら覚えてきたその存在を相手に戦わねばならない。その苦しみは、日本人にとってはピンとこないところだけど、その近しい存在が自分を破壊したかも知れないという根源的な恐怖、そして彼らを告発しなければならない「罪悪感」を胸に彼らはスクープを取りに行く。

 正義とは、時に自らの痛みすら乗り越えて果たさなければならない。「スポットライト」で多くの会員に共感されたのは、新聞記者が抱えた「痛み」なのではないか、と思ったのである。(★★★★)


「レヴェナント/蘇えりし者」The Revenant(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ


 ようやくアカデミー主演男優賞を獲得したレオナルド・ディカプリオ主演の西部劇。荒野で息子を殺され、自らも殺されかけた男が酷薄な荒野を生き抜き、復讐を果たすまでの物語。

 一言で言えば、「ようやるわ。」の一言。正直「そこまでやらなくてもいいよね?」ということを映像でこれでもかこれでもかと表現し尽くす、その貪欲なまでのド変態映像の満漢全席。熊に襲われる、土に埋められる、逃げてる時に崖から落ちる。馬の体内に潜り込んで敵をやりすごす、とか編集で「そういうことしましたよー」って体にする事もできるのに、「すべてお見せします」とばかりに映像で再現する。そしてその事に徹底的にこだわり抜いて、手間暇予算をひたすらつぎ込む。しかもそれをやるのがあのレオ様。贅沢だけどどう考えても「どうかしてるな!」とも思う。正直見てるときは若干引き気味である。

 レオ様のオスカーへの妄執がこの映画に出るきっかけだとするなら、オスカーの魔力おそるべしと言わなければならない。

 物語は非常に王道の復讐劇というのに映像を通して見た後の手触りの生々しさはまるでカルト映画を見たよう後のような、そんな歪で、そしてあまりに監督の偏執に正直な映画でもあったというのが正直な感想。おなかいっぱいである。(★★★★)


「TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ」(宮藤官九郎)

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 宮藤官九郎監督作品4作目は、バス事故で死亡し、うっかり地獄に落とされた少年の冒険を描く。その主人公の死亡理由が実際に起きたスキーバス事故を想起させる、という理由で2月公開のはずが、6月公開となった。

 クドカンと言えば「あまちゃん」以降、テレビドラマなどではそのエキセントリックなコメディセンスは抑えめで、笑いとドラマツルギーのバランスを考えつつ、新たなる若者像の描き方を模索していて、その成果がドラマの最新作であり、新たなる代表作になるであろう「ゆとりですがなにか」へとつながっているのだと思うのだけれど。

 そんなクドカン氏が久々に「コメディセンス」のみをアクセルベタ踏みしたのが本作。一言で言えばくっだらねえーの一言。出てくるのは出オチの一発ギャグの乱れ打ち。それゆえに合わない人には徹底的に合わないであろうけれど、一度ツボにハマれば笑いっぱなしの映画になるという、そういうギャンブル性の高い作品となっている。くだらなさで言えばクドカンのフィルモグラフィーでも随一だと思うので、そういう意味では「金をドブに捨てるつもりで劇場に笑いに行け!」というくらいしか言うことがない。いちいちギャグを説明するのも艶消しだし。俺はですね。中村獅童登場シーンで引くほど爆笑したので俺の負けです。(★★★★)

「カルテル・ランド」Cartel Land(マシュー・ハイネマン)

去年公開された「皆殺しのバラッド」に続く、メキシコ麻薬社会の暗部に迫るドキュメンタリー映画。

麻薬カルテルが力を伸ばし、無法の限りを尽くす。そして警察は無力で手が出せない。そんなメキシコ・ミチュアカン州で1人の無名医師が立ち上がり、自警団を結成。自警団は麻薬カルテルを壊滅に追い込んでいき、軍隊も手が出せないほどの力を持つようになる。やがて自警団メンバーの一部が一般市民に対し、横暴な態度を取り始め、やがて麻薬を売るメンバーまで現れる。

そんな自警団に対し、政府は警察に帰属させることで自警団をコントロールしようとするのだが・・・。

市民のために立ち上がったはずの自警団が少しずつ歯車を狂わせ、やがて正義の集団から最悪の方向へ変質していくまでを克明に追う。声に出して「嘘でしょ?」とスクリーンに向けて声を上げてしまうような、そんな地獄メキシコの実態が浮き彫りになる。どうなってんだ、この世界は。

立ち上がった時は間違いなく「正義の集団」だった人々が、力を持つ事で変わっていく。悪を駆逐した正義はどこへ向かうのか。その本質に迫った力作。

「ビューティ・インサイド」뷰티 인사이드(ペク)

ビューティー・インサイド [DVD]

ビューティー・インサイド [DVD]

毎日容姿が変わっていく青年がある日、一人の女性に恋をした。そんな一風変わった恋愛映画。

性別年齢問わず、あらゆる人物にメタモルフォーゼする青年。そんな青年の恋人になった普通の女性の、恋の話。

予告編なんか見てる時は「こりゃ珍品映画になるんじゃないか」という懸念を持ちながら見始めたらさにあらず。映画の魔力と恋愛の本質に迫る、なかなか鋭い映画であった。

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好きになったのは「あなた」自身だと彼女は言う。けれど「彼」が毎日会うごとに体が変わる事、なにより彼女自身が「彼」を容姿が別人になるがゆえに見つける事が出来ない。それらに戸惑い、やがて青年そのものの「存在」を見失っていく過程が「人を好きになる」ってなんだろう、という本質を突いてくる。毎日姿が変わっても、変わらず「彼」を好きでい続けられるのか。


男女世代を超えた計100人以上の俳優が登場し一人の青年を演じる面白さに加え、恋愛における「容姿」と「人格」の認知との関係性について観客に突きつけるこの映画は、映画ならではのラブストーリーとしてかなり面白い境地に至っていると思います。超大好き。(★★★★☆)

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2016年06月27日 その事件は幾度も甦る。「64-ロクヨン-」前後編

toshi202016-06-27

[][]「64-ロクヨン-」前後編 「64-ロクヨン-」前後編を含むブックマーク 「64-ロクヨン-」前後編のブックマークコメント

原作:横山秀夫

監督:瀬々敬久

脚本:久松真一/瀬々敬久


 横山秀夫のD県県警シリーズ最大ヒット作「64」の映画化。



 D県県警の広報官・三上義信(佐藤浩市)は失踪した娘を探し続けている。娘は自分の顔が嫌いだと言っていた。三上の、その刑事のような目で見られるのが怖いとも。娘が蒸発してから、妻・美那子(夏川結衣)は娘からの電話を待ち続けている。ある日、無言電話がかかってきた。美那子は娘からの電話からだと信じている。三上が出て娘に呼びかけると電話は切れた。

 三上は仕事上でもトラブルを抱えていた。ある交通事故で加害者の実名公表を控えた事で、記者クラブの記者達が反発。記者クラブを仕切っている東洋新聞記者・秋川(瑛太)が抗議文を出そうとしたのを止めようとした際、不可抗力で抗議文を破ってしまったことで、記者クラブは広報室との関係を遮断。ボイコットを始めてしまった。


 三上は元刑事である。彼の中にはある一つの事件が心の中に残って離れない。それはD県で昭和最後に起こった誘拐事件。通称「ロクヨン」と呼ばれる事件だった。漬け物会社社長・甘宮(永瀬正敏)の娘が誘拐された。県警は全力で事件解決に乗り出したが、様々な不手際が重なり、むざむざ身代金を奪われた挙げ句に犯人には逃げられ、娘は遺体となって発見された。その傷は捜査関係者の中に残り、人生を狂わせた者も出た。三上も未だその傷を抱えた1人である。

 そして、そんな三上の前に再び復活する「ロクヨン」。その事件を模倣した誘拐事件が再びD県を襲うことになる。

 県警の一広報官・三上の目線から、昭和64年の事件で傷を負った人々、三上率いる広報課とマスコミ記者との確執を経て、やがて平成14年に再び甦ったロクヨン模倣事件とその顛末を描いた大作である。


 さて。

 このロクヨン。一度映像化されている。ピエール瀧主演のNHKドラマ版「64」である。そういう意味ではこの映画版は再映像化になるのであるが、話の本筋は大きく変わらない。それでも、それでも十分に引きつけられる面白さで、ドラマ版、映画版前後編ともに完走してしまった。

 「64」という小説は、落語で言うところの「古典」の風格すら漂わせるほどの傑作である。つまり語り手が変わろうとも、何度味わっても面白いという事でもある。


 ではドラマ版と映画版の違いとはなにか。それは演出する側のアプローチの違いである。


「64-ロクヨン-」前編

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 映画版前編は、昭和64年に起きた「ロクヨン」事件の顛末から、県警の隠蔽体質、記者クラブボイコット事件、そして平成の「ロクヨン模倣事件」勃発までを描いている。


 ドラマ版「64」の広報官・三上はかつては刑事だったが、今は広報官という警察にとっての「裏方」仕事を行う警察官という立場であり、地味だが重要な仕事をこなしている訳で、そういう「お仕事」ドラマとしての側面の「リアリズム」をより重視したアプローチになっている。

 だから、ピエール瀧に佐藤浩市ほどの「華」はないのだが、その分裏方として揉め事が絶えない記者たちとの関係の中で、県警の顔としての立場を模索し続ける「反骨の心を持った実直な男」としての側面をリアルに体現してもいる。


 映画版はどうか、というと、とにかく佐藤浩市という、華のある役者を主演に据えたことで、裏方ではあるが「元刑事」としての顔がより濃厚な映画となっている。もちろん映画版の三上が裏方として実直なのは間違いないのだが、佐藤浩市はたとえば記者会見のシーンでサポート側に回った時に、会見の「主役」である捜査関係者よりも「かっこいい」ため、どうしても目立ってしまうという欠点がある。広報室の部下である諏訪(綾野剛)や美雲(榮倉奈々)なんかもそうなんだけど、キャストに華があるとこういう事態になりがちである。

 しかしまあ、「実名報道か匿名報道か」で記者クラブと揉めに揉め、その解決の為に再び記者達と対峙する三上は、まるで熱血教師のように場を支配する。その面白さが映画版前編のクライマックスであり、そのシーンは映画ならではの見せ場になっていたようにも思う。ロクヨン事件被害者を演じた永瀬正敏の熱演も相まって、このなんだかんだと向かない裏方に一生懸命徹した三上を押し出した「前編」は非常に面白い。


「64-ロクヨン-」後編

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 そして後編。裏方には向かない「跳ねっ返りの元刑事」が、ロクヨン事件の真犯人と対峙することになる映画版独自の展開は、「佐藤浩市」というキャスティングに対するアテ書きのような脚色となっている。

 しかし、個人的な考えを言えば、「64-ロクヨン-」の白眉はあくまでも「裏方」である広報官の目線で、事件の全体像が明かされていく面白さにあると思っている。

 ひとつの事件に翻弄された刑事であり、1人娘の不在に苦しみ続ける父親でもある広報官・三上は「ヒーロー」ではない。裏方の一プロフェッショナルである。だからNHKドラマ版の方が「64」のアプローチとしては非常に真っ当であると言わざるを得ない。映画版「後編」はその面白さを追求しきったとは言えなかった。

 特に、後編で大きくクローズアップされるべき、ロクヨン模倣事件における記者会見での県警と新聞各社の対立、通称「記者会見千本ノック」の描写はNHKドラマ版に比べても非常に淡泊で、この「三上が裏方として屈辱に耐える」場面がねちっこく描かれればこそ、その後の「模倣事件解決」と、事件の「意外な真実」へと至る展開のカタルシスが倍増するのであるから、この点は誠に残念であったと思う。

 映画版は「裏方」であり続けることを放棄し、三上を「元刑事」としての顔が前面に出ることで「ヒーロー然」とした存在とした描き方になってしまった事で、映画自体が「画竜点睛を欠く」かのような形になってしまったように感じたのである。


 そういう意味では前編は「なかなか面白い」、後半は「つまらなくはないけど失速」という気持ちになってしまう。「昭和最後の事件」を描いた「平成の古典」の映画化としてはやや「華のある主演俳優」に話を寄せすぎてしまったかな?と思った。もう少し「裏方」としての「三上」の存在を、「後編」でも貫けていれば、映画版独自の味を出せて至ろうに!と思うだけに残念。「全体的な演出は良かっただけに惜しい」というのが本音である。(★★★)


64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

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64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

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合本 64(ロクヨン)【文春e-Books】

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2016年06月16日 キミとボク、何が違った?「ヒメアノ〜ル」

toshi202016-06-16

[][]「ヒメアノ〜ル」 「ヒメアノ〜ル」を含むブックマーク 「ヒメアノ〜ル」のブックマークコメント

監督・脚本:吉田恵輔

原作:古谷実


 生きている日常というものはどことなく茫漠として見えるものだ。

 世界では様々な事件や事象が起きていてもそこから遠く離れているだけで、世界から接続されてないように感じたりする。テレビでは事件、事故、政治、経済、様々な事が起こっているけれど、自分の中で起きていることは「寝て、起きて、仕事して」というそんなルーチンの中に押し込められた生活で、では俺はそんな世界の中で接続を絶たれているのかと言えばそんなことは無い。今日もどこかで「何か」が起きていてそれは僕らの世界と地続きなのだ。そういう当たり前のことを僕らはふいに忘れてしまう。



 無趣味でモテず、バイト先でもミスして先輩に尻拭いされるさえない日々を送る岡田は、ある日安藤先輩に喫茶店に行くことになる。そこには先輩が片思いしている運命の人、阿部ユカがいた。そして、それをじっと見つめる金髪の男。先輩がユカのストーカーだというその男を見て、岡田は気付く。高校時代の同級生で、昔仲良かった森田君だ。岡田は声を掛け、二人は久々に顔を合わせた。しばらくして、一緒に飲んだりしたがさして盛り上がらずに別れ、森田との事はそれっきりになる・・・はずであった。

 しかし、岡田は知らなかった。「森田くん」は狂気を押し殺して生きる「殺人者」であることを。やがて、あることがきっかけとなって、森田くんは岡田に殺意を抱くことになる。


 この映画で本当に重要な役はだれなのか、ということを考えたときに、この映画でもっとも「非日常」な「暴力」を体現する森田剛演じる「森田くん」が圧倒的ではある。


 だが、監督がそれと同じくらいの密度で描きたかったのは、その「暴力」という「非日常」の向こう側にある「茫漠たる日常」であり、それが容赦なくそしてあまりに「シームレス」に繋がることのほうだ。



 大河ドラマ「八重の桜」は会津の砲術師範の娘・山本八重の数奇な人生を描いているが、前半部は会津での彼女の日常と、彼女の兄である山本覚馬が会津藩を飛び出し見聞を広めていく中で、江戸幕府の時代の終わりへと向かう時代の風を感じるパートに分かれている。そして、覚馬を通して描かれた時代の変化が会津の日常を飲み込み、人々を悲劇が見舞うまでを丹念に描いていた。それゆえに、時代の流れが変わることの残酷さがより視聴者にダイレクトに伝わってくる、見事な作劇であった。

 日常というものはいつまでも続くもので、このなにげない日常はいつまでも続くんじゃないかと僕らは思っている。けれど、それはなにかとてつもない力の作用でぶっ壊されることがある。


 だから、この映画で本当に重要なのは、実はこの映画の「暴力描写」だけではない。

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 それと拮抗しうるほどの「茫漠たる日常」と「そこに起こったささやかな奇跡」をより魅力的に描かねばならぬのである。ゆえにこの映画で森田剛と同じくらい重要なのは、狂言回しの岡田演じる濱田岳の見事な童貞演技ぶりであり、彼を思わぬ事件へと巻き込んでいくことになる安藤先輩を演じるムロツヨシの思い込みの激しい非モテ変人演技だったり、森田や安藤先輩に惚れられながら岡田を好きになる阿部ユカを演じる佐津川愛美のオボコく見えながら実はそこそこ経験豊富で惚れた男は必ず落とす、意外な意志の強さを見せる演技だったりする。

 日常ドラマパートの独特な笑いやペーソスに少しの生々しさを混ぜながら展開する彼らの人間模様は、それだけで実はとてつもなく魅力的なのである。吉田恵輔監督はその過去作品で培った演出力をフルに使って、非日常パートと日常パートをまったく拮抗する形で見事に演出してみせる。


 だからこそ、突然森田の狂気が疾走を始める「タイトルバック」は一層鮮烈。ここで映画はいよいよ転調したかのように見える。しかしここから始まる暴力は決して「別世界」のことではないことを、観客は思い知るのである。

 人生に絶望し狂いゆく者が気まぐれに起こす圧倒的な暴力は、どこにでもある日常によくある「風景」の中で突然牙を剥く。それゆえに僕らは恐慌し、そこに圧倒的な理不尽を見る。日常にふいに立ち現れた強力な悪意によって尊厳を踏みにじられ、人生を壊される人々。それと、岡田やユカちゃんや安藤先輩の日常が「地続きである」ことを否応なしに突きつけられる。


 哀しき殺人者「森田くん」が次々起こす無差別殺人と、茫漠たる日常に奇跡が起こった「岡田くん」の日々。ふたつの人生がやがて、まるでそれが運命であったかのように交錯し、再び二人は向かい合う。

 二人の人生は何がちがったのだろう。殺人者とそうでない者。その差ってなんだろうか。この映画のラストシーンは問いかける。


 決して帰ることが出来ないあの日。それゆえに儚く、それゆえに美しい。


 そのシーンを見ながら僕はね、涙が止まらなかった。

 それは、境界線の無かった日々は過ぎ、完全に「ヒトデハナイモノ」になってしまった「森田くん」に流した涙である。なんでこんなことになってしまうのだ。日常を破壊する暴力が生み出すものを、透徹な目線で描ききった傑作である。(★★★★★)

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2016年06月06日 勝ったのは百姓!「殿、利息でござる!」

toshi202016-06-06

[][]「殿、利息でござる!」 「殿、利息でござる!」を含むブックマーク 「殿、利息でござる!」のブックマークコメント

監督 中村義洋

脚本 中村義洋/鈴木謙一

原作 磯田道史



 中村義洋監督による、喜劇調の初時代劇映画である。


 さて。



 日本人って「サムライ」って言葉が好きだ。

 なんだろうね。日本人と言ったら日本刀持って髷結って馬乗ってね。俺達日本人は「昔からサムライだ」なんつってね。なにかっつーたら「武士道」だ、「侍魂」だ言うじゃんか。

 ま、あたくしも好きですよ。時代劇は昔から好きだし、チャンバラ好きだし、子供の頃は偽のプラスチック刀ぶんぶん振り回して、「暴れん坊将軍」の松平健とか、「長七郎江戸日記」の里見浩太朗を真似て「成敗!」とかやってましたよ(渋い子供だなオイ)。まー基本的に時代劇にしたってが「刀持ってなきゃ話になんねえ」みたいなところがある。

 対して、商人なんかはね。基本的に極悪非道の悪い奴か、強盗に襲われる被害者か、人のいい理解者か、そんな脇に回るところがせいぜいでね。ましてや百姓なんかは基本的にそこらを歩いている群衆とか、モブですよね。


 士農工商。江戸時代の絶対的な身分制度。時代によっちゃその境がクズされて商人に武士が頭を下げるなんて事も出てくるわけでだけど、それはよほど成功したごくごく一部の話で、その絶対的な格差というものを容易に下げられるものではない。

 武士。その圧倒的な「支配階級」。その彼らからすれば、「百姓」や「商人」なんかは「人」ではない。体のいい搾取対象である。


 ところが、である。


 本作は主要登場人物の多くが「武士」ではない。「商人」ではあるが、彼らの身分は「百姓」である。舞台となる仙台藩吉岡宿は奥州街道に作られた「宿場町」であるが、旅人は裏街道を通るためスルーされることが多く、いまひとつ街に活気がない。そして彼らの肩に重くのしかかっているのが「伝馬役」と呼ばれる役目である。

 「お上の物資を隣の宿場町から次の宿場町まで運ぶ」という役目であるが、人足や馬を雇う経費はすべて吉岡宿の負担となり、その重い課役が彼らの懐を直撃した。仙台藩ではあっても伊達氏直轄領ではないがゆえに助成金の対象とならず、吉岡宿から出て行く者が後を絶たずに、吉岡宿は衰亡の危機に直面している。


 その衰亡をどうにかしたい。と思っている男が1人。穀田屋十三郎(阿部サダヲ)である。思い詰めた彼は、お上に上意を訴えようとしたところを、宿場一の知恵者と自称する菅原屋篤平次(瑛太)に止められる。女手ひとつで店を切り盛りするとき(竹内結子)の居酒屋で不景気な顔して呑んでいる十三郎と出くわした篤平次と話している間に、篤平次はふと、ある突拍子もないアイデアを思いつく。

「お上に一千両貸して利息を取る。」そうすりゃ伝馬役の負担は一気に解消する!

 一千両=3億円。そんな金はこの宿場町にはない。

 もちろん、こんなアイデア、現実的でない。篤平次の中では、呑みの中で出た「夢物語」である。・・・はずであった。

 だが、穀田屋十三郎はこの話に飛びつき、現実的に道筋をつけようとし始める。彼の叔父・穀田屋十兵衛(きたろう)、町の肝煎・遠藤幾右衛門(寺脇康文)、大肝煎・千坂仲内(千葉雄大)。アイデアを出したはいいが、乗り気ではない篤平次の思惑を裏切るように、計画はトントン拍子に進み、同志が思いの外、順調に集まってしまった手前、言い出しっぺの篤平次も仲間に加わらざるを得ず、「お上に一千両貸し付け計画」は始まってしまった。

 同志達は一千両を用立てるために私財を処分し、田畑や茶畑を処分しつつ、同志を増やしていく。両替屋で見栄っ張りの噂好き、遠藤寿内(西村雅彦)らもどこからか話を聞きつけ参加しはじめ、計画は順調だったが、なかなか目標額には届かない。だが紆余曲折あって「守銭奴」として評判の悪い穀田屋十兵衛の実弟・浅野屋甚内(妻夫木聡)が参加を決め、いよいよ目標額は目の前になった。

 すると計画の中心にいた十三郎が「計画から降りる」と言い出す。彼は浅野屋から穀田屋に養子に出された事がコンプレックスであり、浅野屋から彼を養子に出した父親を「守銭奴」と忌み嫌っていたのである。前途多難の計画はいよいよ暗礁に乗り上げたかに見えたが。


 この「計画」には思わぬ「真実」が隠されていた。その「真実」が、計画を力強く前進させていく。


無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 この映画の原作は磯田道史氏の「無私の日本人」という本の一篇を映画化したものである。


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 無私。私はこの言葉があまり好きではない。私心を捨てて公に尽くす。如何にも教条的で、道徳的だ。

 だが、この映画はあまりそれを感じさせない。なぜかと言えば、登場人物たちは別に聖人君子ではないからである。欲もあれば見栄もある。身分は欲しい。金は欲しい。名声は欲しい。愛も欲しい。私心ありまくりだ。「町に名を残したい」「武士になりたい。」「子供に楽をさせたい」「親や兄弟を見返したい」。計画に参加する理由も様々だ。

 そしてそんな彼らが計画に巻き込まれていく、その中心に「ある1人の男」の「志」がある。


 「無私」というその字面が僕は嫌いなのだが、この映画に感じるのは圧倒的な「己」である。


 密かに思い。決意し、それを人生を賭けて貫く。それが多くの人の「私心」すら飲み込み、時を越えて多大な共感を得て大輪の花を咲かせる。そして、「支配階級」の「サムライ」たちから一つの大きな勝利をもたらしていくのである。

 「刀」も抜かない。「血」も流さない。「生き様」と「志」、そして「銭」だけがその男の武器だった。でもそれが最高にカッコイイのである。


 俺達日本人の8割以上は百姓と商人であった。みんな昔の俺達は「サムライ」だったと思いたがる。だが、もっと「百姓」や「商人」であった事も、もっともっと誇ってもいいのでは無いか。この映画の「目線の低さ」、そして「志の高さ」に僕は非常に心打たれるものを感じた。

 サムライだろうとなかろうと。大事なのは「周り」の声に踊らされない「志」なのだと。その大切さを描ききったこの映画。傑作だと思います。超・大好き。(★★★★★)

 

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