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2016年04月29日 おれは、ヒーローになりたかったのかな。「アイアムアヒーロー」

toshi202016-04-29

[][]「アイアムアヒーロー「アイアムアヒーロー」を含むブックマーク 「アイアムアヒーロー」のブックマークコメント

原作 :花沢健吾

監督 : 佐藤信介

脚本 :野木亜紀子


 それは唐突に始まる。予感すらない。


 35歳。漫画家アシスタント。趣味はクレー射撃。名前は「えいゆうと書いてヒデオ」つまり英雄。鈴木英雄(大泉洋)という名前の男が主人公である。妄想癖があり、性格は引っ込み思案で暗い。1歳下の彼女との関係は冷え切っている。彼女のアパートの部屋に間借りする形で生活しているが、漫画家になる夢をあきらめきれない英雄は持ち込んではボツになりの繰り返し。結婚を望む彼女は、英雄を部屋からたたき出し、英雄は寒空の中着の身着のまま、路頭に迷うことになる。

 こんな世界。こんな残酷な世界。滅びてしまえばいい。そう願ったかはわからない。だが、その日を境に世界は唐突に「壊れ出す」。

 噛まれると感染していく病。あットいう間に死に至り、首を落とさない限り生き続ける「屍」と化す。彼女。漫画家先生。アシスタントの同僚。次から次へと感染し、街は阿鼻叫喚の地獄と化す

 東京を脱出し、タクシーを拾って外へ出たものの、実はそこに同乗した1人が感染しており、なんとかその男を社外に放り出すことに成功するが、タクシー運転手まで感染してしまったことで、英雄は同じく同乗した女子高生・早狩比呂美(有村架純)とともに、地方の高速道路に放り出されることになる



 この過程の描き方は「宇宙戦争」の冒頭を彷彿とさせる力強さで、夢を捨てきれない「普通」の男が崩壊した世界へと放り出される過程を描く場面はこの映画の白眉と言ってもイイ。この日常がグラデーションを次第に上げながら非日常に塗り替えられていく様は一気に引き込まれる勢いがある。

 崩壊前の日常では考えられなかった、有村架純似の女子高生に気に入られ、頼りにされるなんていうイベントを挟みつつ、ネット情報を頼りに富士山の山頂へと向かう道すがら、比呂美が実は「半感染」状態であった事が発覚。その感染症の名前は「ZQN(ゾキュン)」と呼ばれていた。英雄は通り沿いにあったアウトレットモールに身を寄せる。

 だが、そこもすでにZQNに感染した人の群れがいて、そこに立て籠もり「ZQN」に対抗する「人間」たちが集い、救援を待ちながら一時的にコミュニティを形成していたのだった。そこで英雄は元看護士の籔と名乗る女(長澤まさみ)と出会うことになる。


 ショットガンを入れたケースを肩に提げ、銃砲所持許可証を持つ男。クレー射撃の腕は悪くないが、人に向けて引き金をひけない「普通の男」英雄は状況に流されながら、半感染により意識混濁した比呂美を守るためにショットガンの引き金すら引けず、コミュニティーに取り込まれて生きる事を余儀なくされ、銃も取り上げられる。

 コミュニティ内の主導権争いが起こり、生き延びるための食糧確保のために兵隊とされた英雄は、元リーダーだった男・伊浦の叛逆により、こころもとない武器だけで、ZQNの群れに襲われることになる。


 ゾンビの設定に独自性を加えつつも、ゾンビもののセオリーを踏襲し、主人公を「リーダーになれない普通の男」としたことで、映画は状況に流されていく男が、守るべき人たちのために銃を取り引き金を引くまでの物語とした脚本・野木亜希子の脚色の取捨選択は見事と言っていい。

 遠慮無くおこるZQNによる虐殺、容赦なく死んでいく人々。その展開はまさにドライ。


 コミュニティは崩壊し、周りはZQNだらけ。比呂美や籔、仲間を救うために、英雄はついにZQNに引き金を引くクライマックスは、一種の高揚感をもたらす、という仕掛けだ。


f:id:toshi20:20160511191806j:image:w360


 だが、このクライマックスは、「快感」と引き替えに、主人公が引き金を引き、ZQNを倒せば倒すほど、この映画はある種の「虚無」を生み出しもする。どんだけ引き金を引いても救えない仲間がいて、どんどん彼らはZQNに食われていく。そのZQNも元は「ただの人間」だった者たちだ。

 ZQNがかつての「生前の記憶」の一部で行動しているという設定が、このクライマックスにも生きていて、それが「バケモノを駆逐する」という爽快感とは無縁の、なんとも言えぬ罪悪感を起こさせる。積み上がっていくのは「かつて人間だった者達」の肉塊。その事実が、カタルシスとは無縁の「虐殺」感を引き出していく。意識混濁した有村架純似の女子高生・比呂美は英雄を見てつぶやく。

 「・・・ヒーロー」と。だが、これは彼が望んだ自分なのか。


 この映画が単なる「ゾンビ世界の英雄になる普通の男」と言うにはあまりにもざらっとした手触りのクライマックス、そして主人公が籔に対して自己紹介する場面で、普段自己紹介する時に使っていた「えいゆうと書いてヒデオ」という例えをせず、彼はこういう。

 「ただの・・・ヒデオです。」と。

 ヒーローと呼ばれて。しかし、それは「なりたかった自分」なのかわからない。引き金を「引いてしまった普通の男」は、どこへ行くのか。引き返せない。その虚しさをも示した結末は、なんとも見事であるな、と思った次第。


 もしも、この話が「彼女からアパート追い出された主人公がホームレスに話した、有村架純似の女子高生や長澤まさみ似のナースと仲良くなる妄想」であったなら。見終わった後、そう願ってしまったりもするのである。(★★★★)

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2016年04月28日 誰がために世界は成る。「ズートピア」

toshi202016-04-28

[][][]「ズートピア「ズートピア」を含むブックマーク 「ズートピア」のブックマークコメント

原題:Zootopia

監督:リッチ・ムーア/バイロン・ハワード

脚本:ジャレッド・ブッシュ/フィル・ジョンストン


 ディズニーのアニメーション新作。多種多様な動物が住む巨大都市「ズートピア」で警察官になったウサギのジュディと詐欺師のニックが、肉食動物たちの失踪事件の謎を追う物語。


 まず。手前味噌で申し訳ないが、Twitterで書いた自分の感想をざっと引用しておきます。


「ズートピア」。見た目(種族)に囚われないウサギと見た目に屈して流されてきた狐が出会う、種族を越えた自由と繁栄と偏見と差別が重なり合う大都会で起こる難事件。田舎でもあった単純な差別が、都会ではより複雑に重なり合って偏在してるという視点が見事。差別や偏見は被差別側にもあるというね。

「ズートピア」。種族に囚われる事と種族を武器にして生きる事の紙一重。この映画の「黒幕」もある意味見た目を武器にしてのし上がってきたというところは、ヒロインと共通しているのかもしれないが、積み重なったルサンチマンという悪意が彼女に道を踏み外させるというのは皮肉な展開かも知れない。

「ズートピア」。差別や偏見をなくすための第一歩は「自分も差別や偏見を持ちうる」という事を見つめる事から始まるという真実をこの映画は描いていて、ヒロインがニックと仲直りする過程でそれをキッチリ描いているこの映画は相当に深い。人間「自分が差別する訳ない」という思い込みが一番コワイ。


 この視点での感想は個人的にこれ以上語ることはないなと思うので、この視点とは別の感想を書きたいと思う。

 それは「ズートピア」という「世界」の話だ。


 俺がこの映画についてつらつら考えていたのは「ズートピア」の世界は何故出来たか、ということだ。

 この世界が特異なのは「人間が存在しない社会」ということ。そして人間以外の動物が進化し、社会を形成し、人間の真似事ではなく、独自の進化を遂げて共生しているという点だ。

 動物もので人間社会の寓話として描きたいという、作り手の意図は理解してるつもりだ。その上で思うのは、この世界の成り立ちが、なぜこのような形にシフトしていったかだ。

 「猿の惑星」のような、言わば「人間が進化した猿によって支配された地球」というものならともかくも、独自の進化をとげて「既存の動物」が進化し、共生し、社会を形成しようとするに至ったプロセスは実に興味深いのではないかと思ったりもする。


ねこめ?わく 1巻

ねこめ?わく 1巻



 さて。

 少女漫画家・竹本泉作品に「ねこめーわく」という漫画がある。これは前述した「猿の惑星」のパロディであり、人間がいなくなった惑星で、猫が進化して独自の社会を形成しているという漫画である。そこになぜか現代の女子高生(現在の連載では女子大生)村上百合子が謎の儀式で呼び出され、猫たちの社会に関わっていくという体裁をとっている。

 竹本泉先生が律儀なのは、女の子が猫だらけの世界に呼び出されるファンタジー的な物語を紡ぎながらも、「なぜこのような世界が出来上がったのか」について、長くSF的考察を加えながら展開してきたことである。この漫画の妙味は猫という特性を忠実に受け継いだ上で、人間を「雛形」として社会を形成しようとする猫たちの「おかしみ」にある。その猫たちが人間を「真似る」ことの「ちぐはぐさ」に、地球に帰還したその惑星の「人間」ヘンリヒ・マイヤーや百合子が振り回されるところが、「めこめーわく」の面白さである。

 しかし、この「ねこめーわく」が成り立っているのは、あくまでも「人間」が遺した文明が存在し、それによって生かされ、そして猫たちは文明を「維持」しようという意思の下行動するからこそ、フィクションとしての「世界」のリアルの足場となっている。


 「ズートピア」はその辺の考察をいきなりすっとばしているアニメーションである。つまり彼らは人間的な「人格」を有しながら生き、「人間」の手助けもなしで動物たちが独自進化して、文明を発展させてきたという設定である。考えてみると不可思議なことだ。しかも、彼らは動物がもっている「寿命」にしばられずに「人間」と同じくらいの寿命を持ち、肉食動物、草食動物、小動物・巨大動物関係なく、種族・種族で独自のコミュニティを持ちつつも共存して社会を作っている。

 そもそもズートピアとは地球にあるのか。その星にかつて人間が存在していたのか。それすらもワカラナイ。けれどもメンタリティは、この世界の人間そっくり。この世界の「おかしさ」に対して映画は一切の説明をしない。「あるんだから、ある」という形で押し通していく。


 間違いなく「地球」の動物たちが「独自進化」しているのだから、ここは「地球」なのだろう。時代としては「遠い未来」、もしくは「人間が死に絶えた世界線」の「現代」という可能性もあるにはある。

 だが、より真実味が高いのは「人間」による「実験」である可能性だ。これが一番しっくり来る。つまり、このズートピア世界には「人間」がいる。だが、人間はこの「ズートピア」を中心とする世界には「不可侵」の掟があり、「彼らがどのように社会を形成し、そして折り合いをつけるか」ということを絶えず観察しつづけているという可能性だ。


 そんな妄想を考えるほどに、「ズートピア」という映画の「世界設計」は実に良く出来ている。そして彼らの生態は動物そのものなのに、一挙手一投足に「人間」を見てしまうほどに、彼らの生き方や考え方は「人間くさい」動物たちである。

 もはや既存の「擬人化動物もの」では「スルー」されてきた、「この世界はそもそもどうやって出来上がったのか」という考察という「迷路」に思わず迷い込むほどに、「ズートピア」という映画は人間社会の縮図を描いており、そして「人間社会の寓話」に寄与するためだけにこれほどの世界設計をしてみせた、ディズニーの底力に感服させられる。その力業、すげえと思う映画である。傑作。(★★★★★)

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2016年04月17日 日本映画も人間も出会ってみなきゃわからない「ちはやふる/上の句」

toshi202016-04-17

[][][]「ちはやふる/上の句」またはネットにおける日本映画にまつわる言説について 「ちはやふる/上の句」またはネットにおける日本映画にまつわる言説についてを含むブックマーク 「ちはやふる/上の句」またはネットにおける日本映画にまつわる言説についてのブックマークコメント



「ちはやふる/上の句」

監督・脚本:小泉徳宏

原作:末次由紀



 しょっぱなから景気の悪い話で申し訳ないが、最近更新量がめっきり減った。


 まあ、単純な話、それすなわち映画鑑賞量が激減しているからである。

 正直な事を言えば休日は寝ている事がめっきり多くなった。当然ながら映画鑑賞にも支障を来すようにはなる。

 その割にはてなブックマークやTwitterは頻繁に更新している感はあるのだが、基本的にソシャゲに嵌まっている人の行動原理と同じで、忙しい隙間の時間にそこそこ捗らせることが出来るためである。だもんで、基本的には「仕事してるか、寝るか、大河ドラマと朝ドラ見てるか」みたいな生活へと移行しつつあり、「これはまずい」と思いながらも半分ブロガーとしては死んだ状態で生きている。

 なのでまあ、基本的にネットは関わりも積極的に発信していくというよりも、見ながら時折茶々入れるくらいのポジショニングに終始している。そんなていたらくの私である。


 そんなはてなブックマークで一時期話題になったのが、「日本映画のレベルが低い」というものだ。

改めて考える。「日本映画はつまらない」のか。


【スクリーン雑記帖】今の日本映画にもの申す…「レベルが本当に低い!」 英映画配給会社代表が苦言(1/5ページ) - 産経ニュース


 基本的にこの記事はうなづかざるを得ないところではあるだろう。このプロデューサー氏のいうところえぐられてしまうのは、「日本映画」そのものに希望を持っている、それゆえに「ここがいかんのではないか!」と直言してくださっているところだろう。日本人ってのはなんだかんだ空気を読む文化で育ってきている。それが日本という国の良さでもあるし、それによって物事スムーズにいく場合もある。

 だが、その弊害がもろに出てきてしまったのが、去年の映画「進撃の巨人」のメディアに出てきた批評の迷走ぶりにも現れていたように思うし、批判される事になれてない人たちが、予想以上に打たれ弱さを露呈してしまったりと、色々見えてしまう事もあったりした。

 「俺達は群れない、馴れ合わない」と口で言うのは簡単だ。だが、同じ枠の業界にいると、そこに空気を壊す人間を排他する流れはどうしても生まれやすい。そこで人と違う意見や行動を取ると「なんでそんなことするの?(または言うの?)」というバイアスが懸かるという事もあるのだと、まあ色々思ったりしたのである。映画メディアの成熟と、ビジネスとしてのあり方の変革こそが日本映画を真に再生させるという提言は、悔しいけれど首肯せざるを得ないところもあったのである。


 しかしである。この記事の後に続いたブロガーたちの人気記事がまるでいただけなかった。この記事を肴にした記事のことごとくが、「日本映画は衰退している。」もしくは「日本映画はつまらない」ことを前提に話をすすめてきた事である。


 ぼくはそれらの記事を見ながらこう思ったのである。「いや、日本映画、つまらなくねえよ。」と。


 「え?おかしくない?」「さっきと言ってることと違うじゃない?」と思う人はいるだろう。

 うん。面白くない日本映画というのはもちろん星の数ほどある。柳下毅一郎氏のメルマガ「皆殺し映画通信」などは毎月のように「つまらない日本映画」を取り上げているし、「テレビ局主導映画」が毎月のように作られているじゃない?と。日本映画ってつまりそういう「ゴミのような映画」を作り続けているじゃない?という主張に一定の理があるようには見える。


 だが、一言言わせて戴く。「日本映画はゴミだらけだ。」「日本映画に価値はない」とまでいう意見を言う人々の中に、どんだけ日本映画に対して「出会おうとしてきた」人間がいるのかい?と。まずはその事をあなたの胸に問いたいのである。


 僕はね。今でこそこのていたらくだけど、でもまがりなりにも15年以上映画感想を書いてきた。その人間が言うけど、「日本映画はつまらなくなってないよ。」と思う。もちろんこれは体感的な話だけれど、日本映画は日本映画なりに試行錯誤しつつも、切磋琢磨して成長してきたんだと僕は思うのだ。

 もちろん外国の映画と比べて「ああー!悔しいけれど韓国映画おんもしれー!」とか「インド映画ってなんてパワフルなんだ−!」とか「ハリウッド、金かかってるのもあるけど、予算無くても面白い映画いっぱい出てる−!」なんて思って、「それに比べると日本映画はよお−!悔しい!」と思うこともあるよ?だけどさ。それでも面白い「日本映画」は毎年一定数出てくるわけ。


 「外国映画に比べて、日本映画が必ず面白い映画が見られるわけではない」のには理由がある。それはね。「日本映画」は「日本国内で作られている映画」だからである。外国映画は、ハリウッドはともかく基本的に「これは面白い」という評判の映画が「選ばれて」日本で公開されるのに対し、日本映画はデキが良かろうが悪かろうが、とりあえず作ったら上映して制作費を回収せねばならない。故に当然日本映画は日本で1番劇場を占領するし、その中にハズレが多くなるのは必然である。

 そのためには面白い映画もつまらない映画もひっくるめて、日本国内で宣伝してもうけを出さねばならん。それはビジネスとしては当然の帰結だ。


 そういうアドバンテージがある中で僕は、去年の映画ベスト記事で、選んだ10作品の中に日本映画を4本入れた。もちろんその中には「テレビ局主導の作品」もある。

 そして、映画鑑賞量が減り、休日は寝てばっかりいる疲れたおじさんの心揺さぶる日本映画にすでに2本出会っている。一本が先日感想を書いた「リップヴァンウィンクルの花嫁」。そして、「ちはやふる/上の句」だ。


「ちはやふる/上の句」から教えてもらった「あたりまえ」のこと。


 自分の中の映画の基準として絶対的に面白い映画に出会った時の「感覚」がひとつある。それは「映画を見始める前と後の景色がまるで違って見える」というものだ。つまり、それほどまでに「映画」に没入した結果、見た後の景色がまるっと「違う」景色のように見えることがままある。そしてそれは、今年出会ったその2本にどちらも該当する。


 一言で言えば「ちはやふる/上の句」の原作は、百人一首をスポーツとして取り合う「競技カルタ」を題材とした、言わずと知れた大ヒット少女漫画であるが、僕は恥ずかしながら未読の状態でこの映画を見た。その上で感じたのは、その「ハンデ」がまるで問題ないように脚本が練られていたことだ。

 基本的には小学校時代にかるたを通じて仲間になり、高校1年になったヒロイン・綾瀬千早(広瀬すず)とかるた仲間だった真島太一(野村周平)、そして祖父の介護のために東京を離れて福井に住む綿谷新(真剣祐)の3人が、高校1年としての「今」を生きる物語になっている。小学校編はあくまでも「過去」であり、彼らの中にある「大切な記憶」として登場する。そして千早と太一はかるた部を創設し、全国大会で競技かるたを通じて新と再会するために動き出す。

 かるた部創設メンバーとなったのは、千早と太一、おちゃらけてるけど小学校時代は新に次ぐ2位の実力者だった肉まんくんこと西田優征、学年2位の秀才で机にいつもかじりついてるから「机くん」と呼ばれる駒野勉、古典おたくの呉服屋の娘・大江奏の5名。彼らが、競技カルタ全国大会にむけてひたむきに動き出す姿を恋愛模様も交えて描き出す。


 小学校の頃に新からもらったカルタ熱を熱く持ち続ける千早は、常にカルタに全力投球だ。その熱が、周りの部員に少しずつ伝わっていくまでの過程を丁寧に織り込み、その熱が終盤で大きなうねりのあるドラマを生み出す。

 個人的に心に刺さるのはやはり「机くん」のエピソードだ。彼はカルタ経験もなければ、古典の素養も無い。ただ、その分析力と記憶力の良さを買われて部員になった新参者だ。彼は勉強しか能が無いと思い込み、ずっと周りと壁を作ってきた。部員として誘われた時もその壁を崩す様子は見られない。それは、逆に言えば、自らの「新たな可能性」を信じていないがゆえの壁でもあった。

 だが、千早の「机君とじゃなかったらやだよ。私は机君とカルタがしたい。」の一言で次第にその心の壁を溶かしていく。

 次第にひたむきにカルタに向き合うようになる机君だったが、問題は周りとの部員との経験値の差である。西田はカルタ歴は千早たちよりも実は長い。千早と太一ももちろん経験者としてカルタ部を立ち上げている。彼が追いつくには時間が足りない。そして大会で。彼は団体戦を勝ち抜くための捨て駒として扱われるという屈辱を経験することになる。

 思わずその場から立ち去ろうとする机くんは他の部員に向かって泣きながら叫ぶ。「今まで通り1人なら、こんな気持ちにはならなかったのに!」と。



 出会わなければ良かったのに。

 そう思うことは人生いくらでもある。それは映画も人も同じである。映画を見に行かなければつまらない映画を見る事は無い。そうだと思う。でも本当に映画が好きなら、そういう思いも込みで出会っていかねばならんと思う。そしてたまーに素晴らしい映画と出会った事に心の底からの歓喜が来る。

 僕はね、日本映画に希望を捨てていない。なぜなら、作られ続けているから。作られ続ける限り、それが傑作になる可能性は多分にある。そして年に何本か「これは面白い」という映画に出会えている。

 まずは本気で日本映画を見て欲しいと思う。その上でアナタの中の「宝」と「出会って」欲しいと思う。


 出会わなければ見られなかった風景がある。僕はね、「ちはやふる/上の句」でそんな当たり前の事を思い出させてもらった。映画も人も出会ってみるまでわからない。机君や太一たちが、千早と出会ったことで見る風景。それにただ涙を流していた。「下の句」がどうなるかはわからない。だが、とりあえず「ちはやふる/上の句」は純然たる傑作だと思ったのである。出会えたことに感謝である。


 日本映画は今も、生きている。(★★★★★)

2016年04月09日 ナレ死と呪い 「真田丸」「あさが来た」「とと姉ちゃん」

toshi202016-04-09

[][]ナレ死と呪い。 ナレ死と呪い。を含むブックマーク ナレ死と呪い。のブックマークコメント



 今年に入ってからNHKドラマが絶好調である。


【関連リンク】

木戸銭払っても見たいテレビドラマ - 虚馬ダイアリー

「平清盛」が象徴する新しいテレビドラマの楽しみ - 虚馬ダイアリー

向田邦子賞に「ちかえもん」の藤本有紀さん 時代劇で初:朝日新聞デジタル


 「ちりとてちん」「平清盛」でNHKドラマクラスタから圧倒的支持を得、ついに本作で向田邦子賞を獲得した脚本家・藤本有紀の新作ドラマ「ちかえもん」を始め、去年末から放映して「五代ロス」などの話題を振りまいた朝の連続テレビ小説(以下「朝ドラ」)「あさが来た」、真田家の戦国サバイバルぶりに話題沸騰の三谷幸喜の大河ドラマ2作目「真田丸」など、とにかくNHKドラマファンには、嬉しい悲鳴の連続である。そしてこの4月からは映画・ドラマからアニメまで話題作を手がける西田征史氏の脚本による朝ドラ「とと姉ちゃん」が始まっている。

 当然のことながら、私も仕事とかぶらない日曜8時には家に帰り、朝は朝ドラのBS前倒し放送と本放送を2回見るほどにテレビの前にかぶりつきで、実況用アカウントで実況をするほどにハマりまくっているのである。


ちかえもん DVD-BOX

ちかえもん DVD-BOX


 さて、そんなNHKドラマクラスタたちにとって、今年に入ってから流行し、今や当たり前のように定着している言葉がある。それが「ナレ死」である。

 言葉の定義としては「劇中の登場人物の死を直接描写せず、ナレーションによって視聴者に伝える技法。」ことである。

 「ナレ死」に至る現在3つの系統に分かれる。それをドラマ別に紹介したい。


物語上その死を触れておく必要はあるが、ドラマとしては時間を割く必要が無い場合。「真田丸」

 そもそも「ナレ死」が最初に熱い話題になったのは大河ドラマ「真田丸」です。

 有働由美子アナウンサーが担当するナレーションだけで歴史上では重要人物の死が伝えられる事で、Twitter上が騒然となったのです。武田家を裏切った「穴山梅雪」が神君伊賀越えの際に、家康と袂を分かった後行方知れずになった事を伝えるのはまあいいとして、「織田信長」「織田信忠」「明智光秀」などの名だたる人物達の死が、そのシーンすら時間を割かずに有働アナの「死んだ。」の一言で片付けられる事で、「有働アナ最強説」まで出るほど。一時は「次に有働アナの『ナレ死』の餌食になるのは誰だ?」というのが大きな話題になるほどでした。

 歴史上有名人物の死というのは誰でも知ってることであるし、その死によって「真田家の戦国サバイバル」という物語世界に影響が出てくるから触れざるを得ないが、ドラマとしてそこまで時間を掛けるわけにはいかない、という三谷幸喜独特の割り切りによって、有働アナによる「ナレ死」の応酬となったわけであります。


 そのナレ死が最も効果的に使われたのが第5話「窮地」。

 信長の死は歴史上の重大事件であるし、現代にいる我々には「すでに起こった事」として認識されているが、当時の人はまさか飛ぶ鳥を落とす勢いの信長が死んだことなど、知るよしもない。テレビもネットも電話も新聞もない戦国時代である。その情報を得るまでにはそれぞれの人物によってタイムラグがある。

 「ナレ死」で視聴者に信長の死を伝え、その上で登場人物がどのタイミングで「信長の死」を知り、そしてその情報によってそれぞれに「決断」を迫られていく様を描いた。徳川家康は「伊賀越え」を決断し、真田信繁は姉とともに上田へ引き返し、真田昌幸はその情報を元に、大大名との「外交」を巡る国衆たちとの交渉を有利に進めていく。


 このように時に「ナレ死」すら物語を効果的に進めていくための技法として使ってみせる三谷幸喜のテクニックに舌を巻いた回でありました。


登場人物を演じる俳優のスケジュールが押さえられなかった場合。「あさが来た」


 江戸時代から明治時代を駆け抜けた女傑・広岡浅子の生涯を下敷きにした、朝ドラにしては珍しい明治期の人々を描いた話であり、30年以上の時代を描く為、当然ながら後半になるほどに登場人物の何人かは死と直面することになる。

 この朝ドラでひとつ大きな誤算があったのは、ヒロイン・あさのビジネス上の導き手となったディーン・フジオカ演じる実在の人物・五代友厚が、視聴者の間で人気を博してしまったことにある。五代友厚は49歳で糖尿病で死去するという歴史的事実から劇中で亡くなりドラマから退場することになるのだが、それによって五代の退場を寂しがる「五代ロス」の視聴者が現れたことで、スタッフは急遽「五代友厚再登場週」を設けるために、ヒロイン・あさが刺されて死線をさまよう中で、亡くなった五代をはじめ、義父や祖父と再会するという流れを作るのである。

 その結果、スケジュールが押してしまい、終盤、物語上重要な広岡浅子の偉業がばたばたした形で描かれていくことになるのだが、さらなる問題は、この後ドラマ上で死ぬ予定の登場人物を演じる俳優たちのスケジュールを、明らかに押さえることに失敗した形で、登場人物が「ナレ死」が頻発したことである。

 特に象徴的だったのは、ヒロイン・あさとその姉・はつを序盤で暖かく見守り、大きな存在感を示した母親・今井梨江の死が「ナレ死」だった事である。これは明らかに彼女を演じた「寺島しのぶ」のスケジュールを押さえることに失敗したということである。予定より押しこまれるということはこういう弊害も出てくるわけで、重要人物であろうとも「ナレ死」せざるを得ないということになる事も、ままあるということです。


登場人物の、死の場面よりも重要な「この世への未練と呪い」を描く場合。「とと姉ちゃん」

 さて、今月から始まった「とと姉ちゃん」である。

 

 とと姉ちゃんの「とと」とは何か、というと「父親」の事である。「死んだ父親代わりに家族を支えるために奮闘する長女」であるヒロイン・小橋常子(高畑充希)が奮闘するドラマなのであるが、その「とと姉ちゃん」と呼ばれるまでの軌跡を描いた常子の幼少期編である第1週にも「ナレ死」が登場する。当然の事ながら、「父親」竹蔵(西島秀俊)である。


 このドラマで面白かったのは基本的には劇中で描かれるのは、家訓を守り仲良く幸せな家族の「楽しい日常」である。父親のモットーは「一日一日の生活こそがかけがえのないもの」だから「日常を大切に生きる」という事で、それを体現したような描写が続く。しかしその中で少しずつ竹蔵に「死の影」を伝えるのが「ナレーション」であるというのが、このドラマの特異なところ。竹蔵は結核によって少しずつ体調を悪化させていき、やがて、第1週の第5話で「ナレ死」する。

 その「ナレ死」直前。死の3日前。常子に対し、竹蔵は襖ごしにあるお願いをする。それが「ととの代わりになって欲しい」というものだった。

 竹蔵はいぶかる常子に対して続ける。

 「こんな事を頼んですまないね。でも、君たち3人とかか(注:妻・君子)を遺して逝くのが無念でね。心配なんだ。この世の中で女4人を生きていく困難を思うと。だから約束してくれないかい?ととの代わりを務めると。」


 確かに一理あるようにも思う。だが、ここで重要なのは家族に対して常に穏やかで暖かかった父親が見せる、死なねばならぬことへの悔いと、「新しいととを見つけてくれ」とは言えない、ある種のエゴである。常子に「ととの代わり」をしてくれという事は、竹蔵を喪った君子に新しい「夫」を見つけるという選択肢を持たせたくない「未練」であり、この世に自らの存在を常子に遺す「呪い」である。

 常子は約束し、ととの代わりを務めると家族の前で宣言することになる。


 「ナレ死」という技法を使って、ヒロインと視聴者に父親のこの世への「未練」と「呪い」を刻みつけた。そういう意味で、この「ナレ死」の使い方として長く記憶されるべきテクニックと言えましょう。

 これを踏まえたうえで、ヒロインはどういう人生を劇中で生きていくのか。期待して見守りたいと思います。

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2016年04月04日 今の私を忘れないで「あやしい彼女」

toshi202016-04-04

[][]「あやしい彼女」 「あやしい彼女」を含むブックマーク 「あやしい彼女」のブックマークコメント

監督:水田伸生

脚本:吉澤智子

 若くして子供を産み、苦労して育て上げた73歳のおばあちゃんが、20歳に若返り、青春を謳歌するコメディである。(以上ストーリー説明終わり)

 映画ファンには言わずと知れた韓国映画「怪しい彼女」のリメイクである。


怪しい彼女 [Blu-ray]

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 優れたフォーマットの物語はどこの国であろうとも輝きを増す。「怪しい彼女」は現在、中国でもリメイクされ、今回がリメイク2作目である。

 「怪しい彼女」が優れているのは、この物語が長年子供を育てるために自らを犠牲にして生きてきた「母」たちへの限りない「愛情」と「感謝」を描いた物語であり、そして「老人」がいま明確に欲する「自らに起こるメルヘン」、つまり「もう一度理想の青春を謳歌する」というファンタジーをストレートに描いてみせるところにある。

 人生経験は豊富、だが若い。それが独特の魅力となって人々を引きつける。そして、若いイケメン男性といい感じになったりする。

 「怪しい彼女」フォーマットは、民衆が青春まっただ中に苦難を強いられた世代がほぼ近隣諸国とかぶるため、リメイクがしやすいという利点がある。この映画が公開されてすぐに中国でリメイクされたのも納得である。


 

20歳よ、もう一度 [Blu-ray]

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 よって、まあ基本的に言えば、映画ファンにとってはすでに「既視感」のある物語をこの映画はなぞっていることになる。だから新しい物語を発見したという感動は薄い。

 だが、その既視感を越える魅力がこの映画にはある。それは・・・。


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主演の多部未華子ちゃん、超絶可愛い。


 いやあ、もともと可愛いんだけど、彼女のコメディエンヌぶりが絶好調で見ていて、「くはあこりゃたまらん」という感じなのである。73歳の倍賞美津子さんから20歳の多部未華子ちゃんへと若返ったあとの彼女の一挙手一投足にメロメロになる。

 ここでハタと気づくのである。このフォーマットは主演女優の「青春まっただ中」を描く映画でもあるのだと。


 画面の中の多部未華子はとにかく元気だ。とにかくいま、若い姿でいることが楽しくて仕方が無い。今まで謳歌できなかったことを全部やる勢いでイキイキと動き回る姿はとにかく魅力的だ。そして観客は気づかされる。この可愛い「彼女=多部未華子」もまた永遠ではないことを。

 この映画の「多部未華子」は「今現在の多部未華子」なのだと。そう考えるともう、この映画にいる魅力的な多部ちゃんはどれほど尊いものなのか。今、ここでその「彼女」を永遠に留め置くこの映画がどれほどありがたいものなのか。


 それゆえに、ラスト間際の多部未華子(母)と小林聡美(娘)の対話は、個人的にはオリジナルと匹敵、またはそれ以上に切なく感じてしまうのである。結果としてはぼろ泣きである。


 この映画を見終わって思った事。それは圧倒的感謝である。こんな魅力的な多部ちゃんを永遠に見られるようにしてくれた事への感謝である。というわけで、この映画はとりあえず多部未華子ファンは全員正座しながらこの映画を見るように!←座り方はどうでもええ。


 いやあー素晴らしい。ありがとう!作ってくれてありがとう。その圧倒的感謝分☆をプラスしました。いやあ、尊い。(★★★★☆)


「あやしい彼女」オリジナル・サウンドトラック

「あやしい彼女」オリジナル・サウンドトラック

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2016年03月30日 メフィストと私たち「リップヴァンウィンクルの花嫁」

toshi202016-03-30

[][]「リップヴァンウィンクルの花嫁」 「リップヴァンウィンクルの花嫁」を含むブックマーク 「リップヴァンウィンクルの花嫁」のブックマークコメント

監督・原作・脚本:岩井俊二


「私はこの涙の為なら死ねるよ。」と里中真白は言った。


 この世は契約と嘘で出来ている。国というもの、それを支える家族というもの。それらと個人をつなぐもの。組織と個人をつなぐもの。他者とのお金を挟んだやりとりをする時に間に入るもの。我々は様々な契約によってつながりが「ある」と認識される。

 他人と本当の自分を遮るための偽りの自分。そして本当の自分という「あやふや」なものをかろうじて「こういうものである」と形作るもの。こうありたいと思う理想と、どうしようもない現実を埋めるもの。それは嘘である。

 すべて本当でアル事の方が、実は少ない。嘘は「方便」と名を変えて、僕らが生きていく事を少し楽にしてくれる。



 この映画の主人公である皆川七海(黒木華)は、とあるSNSに「クラムボン」という「名前」を持っている。彼女は20代前半で、派遣教師で、女の子である。しかし、それは社会的に「認識される」ための「記号」であり、「本当の私」というものをかろうじて支えているものである。彼女はそんな自分に満たされないものを感じている。

 彼女はそこにうすぼんやりとした日常に対する不安を書き連ねている。ネットで彼氏を見つけたこと、その彼と婚約し、結婚式の親戚の数が合わなくて困っていること。不安であやふやで、ずるくて自信が無い。そんな自分が彼女は、多分嫌いだ。そんな自分だからこそ、大学教員の彼氏がいて、結婚という力強い記号となる契約に、彼女はすがる。不安定な派遣教員という道をすっぱり諦め、彼女は専業主婦になろうとさえする。

 皆川七海改め、鶴川七海。新しい契約、新しい記号、新しい名前。彼女はそれが、自分の新しい「記号」になると信じている。


 だが、その彼女がすがった「嘘と契約」は1人の男の登場で崩壊することになる。その男の名は安室行枡(ゆきます)という。


 その男は自称俳優兼なんでも屋であり、SNS上の知り合いからの紹介で知り合った男である。ガンダムの登場人物とそのせりふを文字ったふざけた偽名を名乗るその男は、結婚式の偽の親戚を手配することから、浮気調査から、とにかく手広く仕事を引き受ける。だが、その男は裏で暗躍し、別れさせ屋を手配して七海と夫、その家族との信頼関係を崩壊させて離婚に追い込んだ挙げ句、窮地から救う流れを作り、七海の信頼を勝ち取るという離れ業を演じてみせる。

 一見すると悪魔のようにさえ見える、その男。だが、その男がなぜ七海にそこまでの事をするのか。それは、ある依頼主との「契約」を満たす女性であると、安室が七海を見定めたからであった。


 七海は、流されるように「クラムボン」という「あやふやな仮面」と、彼女のこれからの人生を支えるはずだった「結婚」という強力な「契約」を失うことになる。

 こうして、皆川七海は流転の末に、安室から斡旋された「親戚の偽物」バイト先で里中真白(Cocco)と出会うことになる。七海と真白は、まるで出会うことが運命であったかのように意気投合し、そして、安室から受けた奇妙なバイト話によって七海は真白と再会する。七海は真白との出会いによって、これまでの人生では経験できなかったような事に出会っていく。

 七海が「クラムボン」という仮面を捨てて得た、新しいSNSの仮面は「カムパネルラ」、そして真白のSNSでの名前は「リップヴァンウィンクル」であった。


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 この映画をみて、ふと思い出したのは、「ファウスト」である。

 ゲーテの「ファウスト」は、神が「常に向上の努力を成す者」の代表としてさえ見定めた高名な学者であるファウスト博士が、学術的探求の果てに人生の充実を見られなかった事からメフィストの誘惑に乗って、この世のあらゆる快楽と悲哀を体験することと引き替えに、死後、魂を引き渡すという契約を行い、波乱に満ちた運命を生きることになる。

 しかし、この映画はもうすでに真白は、あらゆる快楽と悲哀を経験し尽くした女性でもあって、その彼女が得たい「もの」のために彼女は「契約」をして「七海」という女性と出会うことになる。

 安室という、何者かすらヨクワカラナイ「天使の顔した悪魔」のような人間と契約してまで、真白が望んだものとはなんなのか。それを観客は見守ることになる。


 「嘘と契約」で出来上がった、愚かで空虚な生を生きていた1人の女性が、一つの契約によって運命を激変させられ、その末に出会う世界によって、彼女が得るのは「力強い生」である。ファウスト博士がメフィストと契約してまで手に入れたかった「まことのしあわせ」、宮沢賢治が求めた「本当のさいわい」とはなんなのか。その一つの答えがこの映画にはある。そう思う。傑作である。(★★★★★)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

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ライオンブックス(3) (手塚治虫文庫全集)

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2016年01月24日 せめて、人間として。「サウルの息子」

toshi202016-01-24

[][]「サウルの息子」 「サウルの息子」を含むブックマーク 「サウルの息子」のブックマークコメント

原題:Saul fia

監督:ネメシュ・ラースロー

脚本:ネメシュ・ラースロー/クララ・ロワイエ


 第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺、つまり、ホロコーストについての映画、である。のだが。

 これがまたなんというか。うん。とりあえず置いておこう。


 歴史とは人の営みのうねりが生み出した流れである。

 歴史というものを、人は誇れるものとして語ろうとすると必ず歪みが出てくる。長年生きてるとわかるけどさ、人間ってきれいなだけじゃないんだよ、って。きれいなまんまじゃ生きられないんだって思う。それは人がこうなりたいという理想があって、こういう風になりたいと思っていても、実際にそうなれるわけじゃないし、どんなに傑出した人物だって、清廉に見える人にだって、人を傷つけたりしたことはいくらでもあるはずなんだよね。

 そういう人間の行為によって生み出されてきた「歴史」という「大河」はきれいも汚いも飲み込む濁流なんだよ、と思う。我々の民族はこんな汚いことはしない、って言うことを信じていたとしても、歴史を掘り起こしていけばイヤでも「汚いこと」なんてのはいくらでもあって、それと向き合いながら見ていくのが歴史だと思うのである。理想がこの国のかたちを形づくるものだとしても


 その歴史の濁流に呑まれながら、生きている1人の男がいる。


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 ポーランド。ホロコースト=ビルケナウ刑務所。そこではガス室に送る囚人達を安心させ、そして彼らをおとなしく誘導させるために、同じユダヤ人たちがその役割を担わされた。彼らは「ゾンダーコマンド」と呼ばれた。日本語で表すなら「特別労務班」となるらしい。同胞を適切に誘導し、服を脱がせ、ガス室に入れ、服から金品を回収し、ガス室から遺体を処理していく。彼らは、その労務が終わったら、抹殺される運命にある。

 その「ゾンダーコマンド」のひとりがサウル・アウスランダー(ルーリグ・ゲーザ)であった。この任についてから4ヶ月が経過している。心の防衛本能のために無感情になっているサウルは、今日も黙々と同胞たちをガス室へと誘導して、荷物からめぼしい金品を奪い取ると、彼らの悲鳴が掻き消えるまで、ドアの前で「待つ」のである。だが、無感情に生きているサウルの前である事件が起きる。ガス室で死体を処理している時、生存者が見つかるのである。それはガスからかすかに逃れた少年であった。かすかに呼吸しつづける少年は、しかし、サウルの目の前でその生命を消されてしまう。サウルは、その少年の遺体を引き取ると、ある明確な意思を持って行動を開始する。少年をユダヤ式で弔ってあげたい。サウルは少年についてこう言う。「俺の息子だ。」と。


 映画の開幕。スタンダードサイズのスクリーンの中で、突然遠くの遠景がぼやけ、サウルに焦点が当たる。我々はこのサウルの視点で、ホロコーストで行われてる非道な現場を目撃していくことになるわけであるが。


 常にサウルの視点がこの映画を構成するショットの大半を占めるのだが、POV視点とは異なるのは常にサウルという男が画面の真ん中で写り込んでいて、彼の一挙手一投足を観客は常に見ているということだ。この時点でかなりとんでもないことをやっているということはわかる。つまりサウル演じる俳優に常にカメラが張り付き、長回しで追いかけるサウルが行く先々で殺されゆくユダヤ人や、ユダヤ人を虐殺するナチや、サウルと同じ「ゾンダーコマンド」たちがそれぞれの立場で動き回っているのである。

 まー、これだけでも一見の価値はあるのだが、この映画、一言で言ってですね。こういう言い方をしていいものかわからないのですが・・・。


 楽しいんです。もちろん、映画として。ですが。娯楽映画としてとても優秀。


ボーン・アルティメイタム [Blu-ray]

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 この映画の凄みは「物語=人のうねり」、思いから生み出されるアクションである、という境地にたどりついていることである。

生まれいづるボーン「ボーン・アルティメイタム」 - 虚馬ダイアリー

 かつて「ボーン・アルティメイタム」感想で僕はこう書いた。「サウルの息子」もまた、サウルの意思とは無関係に蠢く世界の片隅で明確な意思を持って動き続けるサウルの行動は、まさに彼自身の「アクション」こそが映画としての肉体として物語を牽引していくのである。映画にうねりをもたらすサウルとは無関係に、他のゾンダーコマンドたちもある目的のために動き始めていた。それは、同胞を死に追いやり、その後始末をすることで生かされる屈辱を受けてきた彼らが、反旗を翻す機会をうかがっていたのである。

 サウルが向かう道程の行く先は決して明るくはない。だが、人としてユダヤ人としてすべてを否定され、未来すら閉ざされたサウルが、一つの目的の為に、自らの意思とは無関係にうごめく世界と対峙しながら、まっすぐに動き出す物語は、娯楽映画としてもシンプルに力強い。

 なによりこの映画が作られたハンガリーでは、2015年の国内映画の興行記録1位を獲得したらしい。この映画が「ホロコースト」映画というテーマを超えた力があることと無関係ではないと思う。*1


 せめて。せめて、人として生きる。ユダヤ人として。そして、1人の男として。

 この4ヶ月を人として「生きながら死んでいた」男が、明確な意思を持った人として生きた時間。そのサウルの「意思のうねり」としてのアクションこそが、この映画が描き出そうとしたものであり、そしてその意思を残酷な世界に遺そうとした男を主人公とした「娯楽映画」としても、誤解を恐れずに言えば「実に面白い」映画であると思います。「ホロコースト映画」という固定概念に振り回されずに見ると、実に豊かな映画である。おすすめです。(★★★★☆)

2016年01月20日 ゆきてながれし物語。「白鯨との闘い」

toshi202016-01-20

[][]「白鯨との闘い」 「白鯨との闘い」を含むブックマーク 「白鯨との闘い」のブックマークコメント

原題:In the Heart of the Sea

監督:ロン・ハワード

脚本:チャールズ・レーヴィット


 とある捕鯨する男たちについての映画である。


 日本では、鯨と言えば一匹取ればその村で1年暮らせるほどで「使えないところはない」と言われるほど、あらゆる用途にしようする訳であるが、欧米で「捕鯨」と言えば、石油なき時代に、鯨から取れる油「鯨油」を取るためであった。びっくりすることに、本当に鯨の肉には興味が無く「油」を取ったら鯨は放置する、という有様であったというから、日本人からすると鯨油目的の捕鯨なんてのは「嘘でしょ・・・?(鯨肉食わないの?もったいねえ!)」と思うし、欧米人からすれば日本の捕鯨は「嘘でしょ?(鯨の肉食うの?野蛮すぎでしょ。)となる。

 そういう意味では、文化というのはある意味、地域によって誠に異なることである。特に「肉を食う/食わない」というのはね。


 海に出る。ということは当然のことながら、寄る辺なき「陸がない場所」へ行くという事である。


白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)


 この映画は「白鯨」の作者となるハーマン・メルヴィルが、鯨油産業華やかなりし頃に起こった、捕鯨船エセックス号が起こした海難事故について、唯一の生存者に話を聞きに来るところから始まる。


 時は1918年。捕鯨で身を立てようと奮闘してきた野心的なベテラン一等航海士・オーウェン・チェイスは、船長なる約束を反故にされ、家柄だけで船長の座を海に出た経験のないジョージ・ポラードにかっさらわれて怒り心頭であった。長年「よそ者」と言われ続けたチェイスにとって、捕鯨船の船長になることは人生の大目標であり、街で認められることでもあった。次こそは船長になる。底意地の悪い船主たちから念書も取った。今度の航海を成功させて、必ず船長になると決めている。

 一方の船長、ジョージ・ポラードは家柄だけで選ばれたこと自体にコンプレックスを感じているし、チェイスへの劣等感を隠しきれずにいる。この2人による航海はやがて、2人の間に決定的な溝となって表れる。そして、1年あまりの航海で、鯨油は驚くほど獲れていなかった。鯨が見つからない。鯨油の為に乱獲された鯨は、その数を大きく減らしていたせいかもしれないが、それはわからない。

 とにかく鯨油を獲って帰らねばならぬ。ポラード船長も、チェイス一等航海士も焦っている。航海後の彼らの人生が懸かっているからだ。そして彼らは賭けに出る。とある港で得たうわさを頼りに、陸地から遠く離れた海洋まで出て鯨を探すことを。そして、苦難の末に、ついに彼らは鯨の群れを発見する。色めき立つ一行。嬉々としてボートを駆り出して、鯨の捕獲に掛かった。

 だが、この時の彼らは気付いていなかった。この事がまさか、あんな恐ろしい事態を招くことになる事を・・・。


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 ・・・いやマジで、びっくりしたのはさ、タイトルが「白鯨との闘い」というから、モビー・ディックな鯨との恐るべき死闘がメインだと思うじゃんか。


 そうじゃないんだな。むしろそこからが、この映画の本題。

 この話をメルヴィルが生存者の爺さんに話を聴いてるのが事故から数十年経っていて、ちょうどアメリカ大陸でも石油が発見されて鯨油に取って代わるエネルギー事情の転換期という皮肉もさることながら、街頭を明るくするエネルギー資源のために鯨が乱獲されるのと同じくらい、人間側にも寄る辺なき悲劇が起きうるという、この皮肉な展開はね、まさにちょっとびっくりするわけです。

 エセックス号が不運だったのは、鯨がちょうど捕り尽くされた狭間であったことと、彼らには被雇用者として、雇用者である船主たちから課せられたノルマがあって、それをクリアしない事には船乗りとしての査定に響いてくるという、せちがらい理由からリスクある決断した事。そして、その結果出会ったのが、乱獲の海を生き抜いた白い化け物であったことである。

 陸から遠く離れ、鯨に船を壊された彼らに待っていたのは、死よりもつらい漂流であった。そこで彼らが見た「地獄」と、生き抜くために犯したある「決断」こそが、この映画の隠された主題である。

 その地獄の前では、「鯨の肉を食う/食わない」なんて事はね、本当にささいな違いなのだということをこの映画を見て思い知らされるわけである。


 海へ出ることは浪漫として語られがちだ。だが、そのリスクを引っかぶった時、人間に待っているのは「人間が如何に海に生きるに適してない生き物であるか」という、あまりに非情な現実である。そのトラウマを長く引きずったまま生きた男と、傑作をモノにしながら生前に評価されずに悲劇的な人生を送る作家の出会いは、まさに海と鯨に魅せられたものの皮肉な出会いとも言えるのかもしれないのである。思っていた以上につらい映画であった。(★★★☆)

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2016年01月18日 クマってたら手をさしのべて「パディントン」

toshi202016-01-18

[][]「パディントン」 「パディントン」を含むブックマーク 「パディントン」のブックマークコメント

原題:Paddington

監督:ポール・キング

原作:マイケル・ボンド

脚本:ハーミッシュ・マッコール/ポール・キング


 生きているというのは不思議なことである。なぜ自分はここにいるのか。考えを巡らせてみてもわからない。それはもう巡り合わせとしか謂いようが無い。

 そして。


 クマがいる。ロンドンのある駅の構内に。コートを着て、帽子をかぶって、鞄の上に鎮座している。なぜ「彼」がそこにいるのか。



 親代わりの叔父さん叔母さん夫婦ともに幸せに暮らしていたペルーの森に大地震が襲い、「彼」は住む場所と叔父さんをうしなった。叔母さんは高齢で老クマホームに入居。「彼」はかつて叔父さんたちに「文明の利器」と「マーマレード」を授けた「タンケンカ」の住むというロンドンを目指したのだった。

 ものすごく多くの人が足早に消えていく構内で、クマは途方に暮れている。そのクマに声を掛けたのは、一男一女の家族の母親、ブラウン夫人。「彼」はその一家に手をさしのべられ、一時のすみかを得ることが出来た。「彼」がブラウン一家と出会った、その駅の名はパディントンという。そしてその駅の名が「彼」の「クマ語でない初めての名前」になった。

 

くまのパディントン

くまのパディントン


 1958年に初めて出版された児童文学のベストセラー映画化。クマの「パディントン」はCGキャラ、人間は生身の俳優が演じるのであるが、もはや技術的にはなんの違和感もなく、「同居」できてしまう辺りに驚きを感じざるを得ない。CG技術の進歩により生み出されたモフッフモフとした容姿と、「007」の新たな「Q」ことベン・ウィショーのあたたかみのある端正な声が、ペルーからやってきたクマくんに新たな息吹を吹き込む。

 「リスク管理」が仕事の堅物で心配性の父・ミスター・ブラウン、おおらかでちょっと変わり者の「冒険小説家」でもある母・ブラウン夫人。思春期に突入してちょっと反抗期だけど根は真面目な勉強家の長女・ジュディ、「宇宙飛行士」になるのが夢で好奇心旺盛なやんちゃな長男、ジョナサン。そして、お掃除大好きで一家のご意見番的役割も果たす家政婦のバードさん。個性的な一家とともに、「パディントン」の新たな「家族」さがしが始まる。


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 この話のテーマとしては、どうしても現在ヨーロッパで起こっている問題と絡めて語りたくもなるのだが、まずはそういう「政治的テーマ」を離れても存分に面白い映画である事が重要だ。つまり、今現在表面化している問題は、かつて何度も繰り返されてきた「普遍的」な問題でもあるということだ。

 で、この映画は面白いか。


 面白いです。

 CGと実写の細やかな融合、アニメーションと古典スラップスティックコメディを柔らかに融合したようなクマと現代文明のカルチャーギャップシーン、(結果として)スリを追跡するくだりで実写の中で違和感なくアニメみたいな大胆なアクションシーンを組み込むなど、趣向を凝らしながらもそれを感じさせない演出力がこの映画の鍵。堅物なだけだと思われたブラウン氏の、次第に大胆な性格が明らかになる脚本も秀逸で、「人は一面的には捉えられぬ」という人間観も見事である。

 もちろん、ロンドンには寛容も非寛容もある。なにせ主人公はクマだし。だけど、次第に互いの「変わったところ」を受け入れあうことで、ブラウン一家とクマ氏は、やがて一つの家族としての絆を結び始め、人々もパディントンを受け入れ始める。


 皆それぞれ、色々「変」でそれでいい。

 そんな当たり前を受け入れる心を称揚するこの物語は、現在起こっている現実的な問題すらも、柔らかく包み込んで、映画館をほんわかした気持ちで後にできる、優秀な娯楽映画であります。ご家族、ご友人お誘い合わせの上、ご覧になることを奨めます。面白いです。大好き。(★★★★)

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2016年01月08日 善き保険は人を救う。「ブリッジ・オブ・スパイ」

toshi202016-01-08

[][]「ブリッジ・オブ・スパイ「ブリッジ・オブ・スパイ」を含むブックマーク 「ブリッジ・オブ・スパイ」のブックマークコメント

原題:Bridge of Spies

監督:スティーヴン・スピルバーグ

脚本 :マット・チャーマン/イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン



 「鏡に映った己」を見る。その行為は年齢を負うごとに残酷になっていくものだ。

 その姿を淡々と見つめ、丹念に自画像を描いていく初老の男。彼は、東西冷戦まっただ中の1950年代のアメリカ、その社会の一角で市井の中に生きながら、淡々と諜報活動を続けていた。その男の名はルドルフ・アベル(マーク・ライアンス)という。


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 彼の話だ。

 いやさ、この映画の主人公は、逮捕されたアベルを弁護することになり、やがてアベルと交換することで、ソ連に捕らえられたパイロット、東ドイツで逮捕された学生を救う事になる、アメリカの平凡な一保険弁護士に過ぎないジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)であり、彼が結果として活躍する物語だ。

 しかしである。この映画のそもそもの発端は、このルドルフ・アベルの存在なくしてはあり得なかった物語だ。

 国家の任務を負い、しかし、淡々と自らを客観視しながら、市井の中で任務を全うし続けた老スパイは、ジェームズ・ドノヴァンという男に、ある種の深い共感と、弁護士としての矜持を奮い起こさせた。「スパイを死刑にしろ」という世論の中で、ドノヴァンは弁護士という職業人としての良心に忠実に行動する。彼は判事を説得する時に「国に対する保険になる」という言葉で説得し、老スパイを死刑から逃れさせることに成功する。

 平凡を装いながら、淡々と振る舞う諜報部員。平凡ではあるが、着実にキャリアを積み上げてきた職業弁護士。この二人の出会いが、悪化した米ソ関係と、人を救う事になる。

 3年後、ルドルフが「保険」として活かす時がやってきた。1960年の「U-2撃墜事件」である。ソ連に捕まったパイロット・ゲーリー・パワーズとルドルフ・アベルを交換する為の交渉役に指名されたのが、アベルの弁護士であったドノヴァンであった。


 平凡さと実直さを武器に生きてきた、善き市民であり続けた弁護士が、国に厳命された使命を帯びて動くこの物語において、一歩間違えばドノヴァンは、浮き足立たせることになっていたかもわからない。だが、アベルという男と出会い、その佇まいにひどく共感を覚えていたからこそ、「国益」という手前勝手な概念に振り回されることなく、ドノヴァンは迷わず自らの良心に寄り添うという矜持を貫くことが出来たのかもわからない。

 自らの良心に忠実な「善き市民」であり続けることは事ほどさように難しい。そうである為には固い信念が要る。自分が自分であること。その優れた雛形が、ドノヴァンにはあった。彼が弁護士として救った男・アベルである。


 東ベルリンで捕虜となった学生。国家が救えと厳命したパイロット。どちらの命を取るか。その二択の中で、ドノヴァンは自らの信念を推し進める。

 世界がイデオロギーで分断されていた特殊な時代に「善き市民」が起こした奇跡は、そんな時代だからこそ邂逅できた二人の男の、奇妙な絆が生み出した奇蹟なのかもわからぬ。この映画には英雄はいない。信念を貫いた「善き」2人の男がいるだけである。だがその事が、なによりも代えがたい縁である。大好き。(★★★★)

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