虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「寄生獣 完結編」

toshi202015-04-29

監督:山崎貴
原作:岩明均
脚本:古沢良太/山崎貴




 最近よく、中国古代歴史漫画を読み返している。人権という言葉がなかった時代の物語。政争がおこれば血は流れ、内紛が起これば、人は死に、戦争がおこれば万単位で人が死ぬし、権力者はつまらぬことですぐに人を殺す。軍隊が統率されていなければ、兵は平気で虐殺と略奪を繰り返す生き物となる。中国ほど国土が広大で人口も多い大地では、より人の生き死にも我々の想像を越えたダイナミックな動きを見せる。
 人間というものが「種」のために生きているのではないことは、歴史を見ていると実感する。基本的には「利己的」な生き物だ。人は人を殺す。それはまるで決定されたプログラムであるかのように、世の東西、人種を問わない。人は人を殺すことで、己の種を「間引いて」来た奇妙な生物である。
 だが、人類は社会の中でその「獣」である「ヒト」としての本能の部分を「法律」と「人権」、人としての規範となる「道徳」などで律することで「人」となる術を身につけた。「人を殺す」ことは「悪」であり、「暴力」もまた「悪」である。人は互いの権利を尊重せねばならない。そういう規範の中で現代社会は、少なくとも表面上では「間引かれる恐れの無い社会」となった。(ま、あくまでも表面上はね。)
 人口は常に増大の一途をたどっている。


 そういう社会である時代において「寄生獣」という物語が生まれた。


 さて。映画「寄生獣」後編こと「完結編」である。


【参考】「寄生獣」感想。
君の手がうごめいている 「寄生獣」 - 虚馬ダイアリー

映画史に残るようなマスターピースを目指すタイプではないので、その辺「志が低い」と取られがちだけど、山崎貴って監督は限られた予算の中で自分のやれる範囲というものを十分に知りつつ、その範囲でベストを尽くす非常にクレバーな監督だと思うし、やりたい画を撮るためなら労力をいとわないという意味においては非常にまじめな監督だと思う。もともと特殊効果の技術屋出身だけに、自分にできること出来ないことを知った上で、「メタルギア」シリーズで名をはせるゲーム会社「小島プロダクション」との提携によって顔面変形のモーフィングなどの技術応用を駆使したりと、画を作るためになにをすべきかを、最短距離できちんと見つけ出すことが出来る人だ。だから、特撮技術と映画の融合に関して言えば、日本で有数の確かな人だというのが僕の認識である。


 映画の感触としては二部作の前編である前作の感想とさして変わりが無い。面白かったと思う。私の中の山崎貴観も前作の感想と変わりない。やはり、山崎貴監督は信頼できる映画監督であるな、と思う。


 そして、今回の「完結編」でより深く思うのはこれは当代きっての古沢良太という人気脚本家が脚色した映画でもあるということである。山崎貴監督とは「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズからの盟友であるので、その流れで引き受けた題材だと思うのだけれど、最近の古沢良太脚本の中のベースになりつつある「相反する者によってテーマを描く」という作風の源流になっているように思う。


リーガル・ハイ Blu-ray BOX

リーガル・ハイ Blu-ray BOX


 最近の古沢良太氏の作品で最もブレイクした作品は堺雅人主演のテレビドラマ「リーガル・ハイ」シリーズだと思う。カネに汚く、勝つためならば手段を選ばない悪徳弁護士が主人公のコメディであるが、「リーガルハイ」シリーズの中で描かれていくのは、その悪徳弁護士の中にある「正義」についてである。
 そして最新作だったのが、3月まで放送されていた「デート〜恋とはどういうものかしら」であり、これもまた、「恋愛不適合者が恋愛に至るまでのコメディ」であった。長谷川博巳演じる高等遊民を名乗る恋愛経験ゼロの無職ニート男と、杏演じる恋愛にまったく意味を感じない理系女性が、「恋愛感情ゼロの契約上の結婚」を目指して奮闘するという筋立てであるが、彼らが「デート」を繰り返していく中で、彼らの中にどのような感情が芽生えていくかを描いていく。


 「悪徳弁護士の中の正義」。「恋愛不適合者のラブストーリー」。


 この描くテーマとは真逆の主人公を置くことによって、より深くテーマを描こうとするその発想の原点は、この映画の脚色と決して不可分では無いと思う。「寄生獣」で主人公である泉新一(染谷将太)とミギーと対になって重要なキャラクターは、寄生生物でありながら、「実験」と称して寄生した女性の肉体を使って「妊娠/出産」を行い、育児まで行ってしまう「田宮良子(または田村玲子)」(深津絵里)である。
 主人公・泉新一くんがミギーの細胞を少しずつ取り込む事で、「人間」の枠から少しずつはみ出ていくように、田宮良子もまた、出産し育児をすることで、人の中にある「柔らかさ」と「我が子に対するある感情」を得ていく事になる。



 人を容赦なく殺す化け物である寄生生物もまた、決して「愛を覚えない」わけではなく、そして人の生き死にに動揺しなくなった泉新一もまた、決して感情や愛が消え失せたわけではない。


 人の性質とは本来残虐なものである。しかし、それでも人は人を産み、育て、愛し、慈しむ事が出来る生き物でもある。この矛盾はどこにあるのか。「寄生獣」という物語の深さは、「愛を知らないはずの寄生生物」の中に眠る「愛」を掘り起こすことによって、本能の中にある「残虐さ」と「愛」の部分は決して不可分であることを示したことにある。


 原作の中にあるそのテーマに、古沢良太は真摯に向き合い、山崎貴はその脚本にきちんと寄り添っている。だからこそ、映画「寄生獣」脚本を書いて以降も、古沢良太は「寄生獣」から学んだ、「アンチテーゼとなるキャラクターによってテーマを描く」ことに挑戦しつづけているのだ。
 そんな脚本家によって、「寄生獣」はどう料理されたのか。一度ご覧になってみるのもいいのではないかしら。山崎貴監督が事務所との契約ギリギリに挑戦した橋本愛ちゃんのラブシーンもあるよ!げへへへ。←台無し(★★★★)