[][][]「この世界の片隅に

toshi202016-11-12

監督・脚本:片渕須直

原作:こうの史代『この世界の片隅に』


ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

この物語はフィクションである。

作中の如何なる人物、思想、事象も、全て紛れもなく、貴君の現実に存在する人物、思想、事象とは無関係だ。

以上のことに同意した者にのみ、このゲームに参加する権利がある。


同意する/しない


ゲーム「ペルソナ5」より。



 私は、ついこの間まで「ペルソナ5」というゲームを熱心やっていた。「女神転生」シリーズから派生した大人気シリーズのRPG最新作だが、そのゲームを始める前に問われる質問がこれである。そして同意しない限りゲームは始められない。

 このゲームの舞台は「東京」である。JRや地下鉄の通り方はリアルそのもので、町並みも現実の街並みをもとに模して作られているこのゲームは、さりとて物語は「現実」ではないバリバリのフィクションだ。しかし、この模擬東京は、非常に作り込まれ、「もうひとつの東京」としてユーザーの中で「認識」される。


 このゲームのテーマの一つに「認知」というものがある。

 ざっくり言うと、それは、人がその世界を「どう見ているか」という事である。人が毎日生活するなかで、どう人と相対し、どう世界を見ているか。「ペルソナ5」ではその「認知の歪み」が「異世界」として認識される。主人公達はその「認知の歪み」を糺して、正しい心を取り戻すのがゲームの大きな目的になっていく。

 だが、僕らは神ならざる者だ。目は二つしかない。心はひとつしかない。そして未来は常に不確定である。僕らが世界を正しく認識できるのは、すべてが手遅れになった後であることも多い。人の中にある「認知」というもの、世界を正しく認識するには時間がかかるものである。または永遠にすべてを正しく認識できないのかもしれない。


 さて「この世界の片隅に」である。


 このアニメを見終わった後、ずっと考えていたのは「この映画とどう相対すべきであるか。」ということであった。

 物語としては非常に小さい物語だ。広島の呉へ十代でお嫁に入り、日々生活していく女性と、その周辺の人々の物語である。




「戦争」と「朝ドラ」と「のん」

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 まず役者と物語構造の相関から考える。この映画の主人公の声を当てているのは能年玲奈改め「のん」さんである。ご存じ「あまちゃん」のヒロイン・天野アキを演じて、国民的人気を得た。その後の彼女の境遇については本エントリでは言及しない。


 能年玲奈は戦争を経験していない。


 もちろん生きている我々の多くが経験していないが、この場合、「フィクション内で」ということである。

 「生活の中で戦争を経験する」メディアとして、この日本でもっとも身近でポピュラーな表現形態と言えば、NHK「朝のテレビ小説」である。朝ドラと戦争の相性は実は非常に良く、戦前・戦中・戦後を通過する物語では大抵、戦中の生活が描かれていることは多くの人がご存じではあろう。

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 描き方によっては非常に鋭く「戦争」を描くことが出来るジャンルである。個人的には「カーネーション」での「生活する女性から見た戦争」の痛みの描写は、時に非常に刺すような鋭さがあり、当時あまり馴染みのなかった「朝ドラ」というジャンルを、ボクに大きく見直させるだけのポテンシャルを感じさせた。

 しかし、「あまちゃん」は「現代の少女たちの成長」を描いたコメディであり、その「戦争」を通過せずにきた。言ってみれば、「能年玲奈」の中で「戦争」への「認知」は非常にまっさらであるということである。

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 「あまちゃん」以後の能年玲奈という女優の活動をボクはざっと見ている。ボクの中で彼女への評価は、「ドがつくほどの不器用。だが、一度役にハマると俄然他を圧倒する輝きを放つ、ある種の天才。」というものである。

 わかりやすい比較対象で言えば「有村架純」だ。ヒロインの母・天野春子の若き日を演じた彼女は、能年玲奈とは対照的に、その後テレビで見ない日はないほどの売れっ子になっていく。彼女の場合、女優としての才能は「どんな役でもきちんとなりきれる」という器用さ、そして相応の演技力が備わっていることにある。だから、使う側から考えると非常にキャスティングしやすい。

 一方の「能年玲奈」はどうだったかというと、一言で言えば「天野アキ」をひきずったまま女優業を続けている状態だったのだと思う。だから扱いが難儀だったんじゃないかと思うし、本人もそのことにいち早く気づいていたんじゃないかと思うのだ。天才「クドカン」のアテ書きという言わば最高の環境で、バチっと馴染む「当たり役」をいきなり得てしまった彼女は、求められるキャラクターも演技も「能年ちゃん」「天野アキ的な何か」というパッケージングでしか売りようがなかった気がするのだ。


 しかし、しばらく開店休業状態の間に出会ったのが本作の「北條すず」さんという役になるわけだ。


 能年玲奈という本名から「のん」という芸名へと変更した過程で、少しずつ「あまちゃん」の色を落としかけていた頃に役に出会ったのが、彼女の中で大きかったのではないかと思うのである。

 だから彼女は「天野アキ」ではなく、「北條すず」としてまっさらに作品世界に入っていたのではないか。そんな気がしている。まるでまっさらな「スケッチブック」に描くように、彼女は「北條すずの生活」を楽しそうに演じていく。それがこの映画を非常に楽しいものにしている。

 ハマるまでが長い。ただ、ハマれば天才。能年玲奈とはそういう女優であり、「のん」になって初めて出会った「ハマる」役が本作のヒロインなのだと思うのです。


 その事は彼女のキャリアにおいてかなり幸運な事だと思うのです。




近景の「生活」と遠景の「歴史的事物」との距離。

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感想:うごめく世界の片隅で「風立ちぬ」 - 虚馬ダイアリー


 以前書いた「風立ちぬ」の感想で、宮崎駿という人は「ワールドテラー」であると書いた。宮崎駿という人は人と世界のうごめきで映画を語る事が出来る。「風立ちぬ」の特筆すべき点は「年号」が全く出ないのに、時間が経過したことを観客に理解させるという恐るべき事をやってのけていたのであるが、あくまでも宮崎駿の中の「認知」をもとにした「再創造(リ・イマジネーション)」したうごめく世界であった。

 それに対して本作はあくまでも眼目は「ストーリー」である。そして世界は「歴史」通りに動く。言わば「世界の精密再現」である。遠景を「精密再現」することで「生活者」すずさんの「フィクション」を圧倒的に補強する。そしてもう一つ重要なのが、小さく繊細なすずさんの「フィクション」と歴史との「距離」である。


 小さい頃のすずさんは自分が世界の「中心」だと思っている。だから「ひとさらい」がこわくない。ひとさらいも「愉快なおっさん」である。(いや、体験自体は恐かったのかもしれないが、恐くない形で「認知」を変えている。)。そして世界は自分の暮らす「街」とその周辺がすべてであった。

 しかし、街を出て嫁入りし、別の街で暮らすようになって初めて、彼女は少しずつ「世界」の視野が広がってくる。自分の街にあるもの、自分の街からは見えないものの存在を認知する。そして、「軍港」呉から遠くの海に見える「戦争」に関わるもの、空襲が始まってから自分たちに近づいてくる「戦争」を認知する。

 それでもあくまで、すずさんにとっては、生活や、旦那さんの周作さんとのやりとりの中で、仲良くしたり、喧嘩したり、傷つけられたり傷つけたりしながら生きていく日々が、あくまでも「近景」であり、「歴史」は遠くにあるものだった。だが、残酷な「世界」が彼女に突如牙を剥くことになる。


 この映画を見ていて僕らは改めて思うのだ。「ぼくら」の世界の見え方も所詮はそんなものだって。人々が抱える苦労や痛みや悩みなんてえものは遠くにあり、僕らは身近な一見、どうでもええような事で悩んだり、笑ったり、泣いたりするわけである。

 戦時と今の我々、何が違うだろうか。そして今こうして文章を書いている間でも世界は常に「動いている」。僕らはそれを遠景に押し込めているに過ぎない。

 だからこそ、僕らは時に危ういのである。「世界」はいつもは遠景にあって自分たちには関係ない顔をして鎮座している。だが、ぼくらはその「世界の片隅」にいるに過ぎず、時に世界が「暴力」となって自分に降りかかることがある。そのことを日本人の多くが、遠からず経験している。すずさんが自分のいる世界を「片隅」と認識して、周作さんに「ありがとね」と行った時に、彼女はより正しく「世界」と相対したということになる。


 そしてそれは、我々にも決して不可分な「意識」である。この映画を見ていると改めて気づかされる。我々も所詮は「世界の片隅」に生きる「生活者」なのである、と。



「現在」と軽やかに接続される「戦時」

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 もうひとつ。この映画が描き出すのは、戦後の日本人が無意識に断ち切ってきた「戦前」「戦中」と「戦後」の間の溝を埋めて、フラットに意識をつなげていく事を志向した作品であるということである。

 

「日本のいちばん長い日」感想。

歴史と接続されていく戦後「日本のいちばん長い日」 - 虚馬ダイアリー

 日本国民はずっと「大日本帝国」に欺されてきたのだ、という歴史の中で、昭和20年8月15日を境に我々は「変わらなければならぬ」という意識の中で「戦前と戦後」という形で「昭和」を分断してきた。

 原田眞人監督は言わばその「接続」が途絶されてしまった戦前/戦後という溝を、「昭和天皇」という存在によって歴史をもう一度「接続」しようという試みなのでは無いか。岡本喜八版が「戦前は戦後の我々とは違う」という思いを込めて撮り上げた映画に対して、原田監督は「変わったようでいて実は変わっていない日本」という映画を撮り上げたのではないか。それがすごく「今」な認識であるようにも思う。

 戦後、多くの戦争についての映画は、「今は戦後である」という意識・無意識の中で、「戦前・戦中」を終戦という深い谷を築き、その向こう側を見る映画を作り上げてきた。つまり、あくまでも自分自身が「そこにいる」というよりも、まるで「別の世界」のフィクションを見るような気持ちで映画を見ている。そんな気持ちが長く日本人の中にあった気がする。

 あくまでも「戦前・戦中」は繰り返されざる「歴史」であって、その時代に生きた人々をリアリティをもって想像するという事はされてこなかったように思う。


 かつて「戦争もの」で描かれた「戦前・戦中」は、「戦後」から見た「対岸の大火事」としてしか、描かれなかったものがほとんどだったのではないか。


 片渕監督がここまで当時あった風俗や事物、歴史を綿密にリサーチして、リアルに戯画化するほどにフィクションとして再現したのは、フィクションを「補強」する以上の意味があるのだと思う。

 生活をする中ですずさんは色々なものを見逃しながら、鮮やかな近景の物語を生きている。遠景の「世界」では様々な悲惨なことが起きていて、彼女はそれには気づかずに生きている。

 それは我々も変わらないのである。遠景にある「世界の一部」がその後どうなるか。それを彼女が知るのは、時を経なければ「認知」できないように。我々は「近景」だけで世界を認識し、「遠景」はなんとなくわかったような感じで生きていくより他はない。

 すずさんが生きた時代と現在。それは何がちがうのだろうか。そう問いかけられているような気がしてならない。

 すずさんの時代の「世界」に何が起きたか。この映画は声高には言及しない。だからこそ、自分たちで調べ、学んでいかねばならないのである。しなやかに生きてきた彼女が、喪い、歪み、苦しみ、悔しさに流した涙の根源はどこから来たのか。僕らはそれを知り、そして学ばねばならない。

 言ってみれば彼女のいる場所が「世界の片隅」であるならば、そこから少しずつ「世界」全体でなにが起きていたのか。それを補強するのは我々の方である。片渕監督は愉快な映画を撮っただけでは決してない、と思ってしまうのはそのためだ。



 この物語はフィクションである。作中の如何なる人物、思想、事象も、全て紛れもなく、貴君の現実に存在する人物、思想、事象とは無関係だ。


 しかし、このフィクションの向こう側にひろがる世界は紛れもなく「本物」である。そこがこの映画の本当に恐ろしいところだ。「戦前・戦中」と「戦後」の意識を「北條すず」という存在で軽やかに繋ぎながら、世界はまぎれもなく史実どおりに動いている。ラストに家族が遠景を見つめているのは、言わば「世界」「歴史」という「遠景」を見通している。

 ボクが見終わった後、素直に涙が出ずに、何か重いパンチを食らったような形で、半ば酩酊したような気持ちで劇場の外へ出た。その原因は多分、片渕監督が観客に対して、非常に重い課題を問うてきたような、そんな気持ちがしたからである。大好き。である。が、恐ろしい映画とも思った。傑作。(★★★★★)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

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