いまをいきる 〜ライフネット生命編〜

2011-04-26

5月病について 〜新人はつらいよ〜

この春、当社にも3人の新卒新人を迎え入れることができた。大変めでたいことである。


新人さんが入社すると、もちろん育成コストはかかるのだが、それにかえがたい多大なメリットが組織に得られる。


いろいろあるが、例えば旧人が新人にモノを教える機会が増えることで、自身の持つ暗黙知を顕在化させることができる。潜在的な不文律は意識できないので変えにくいが、顕在化されれば意識の光に照らすことで批判的に検証できるため、知識の改訂もできる。


新人は旧人から見れば異文化の人なので、僕らが後生大事に守っている賞味期限の過ぎたマイルールを「それって不要じゃないですか?」と言ってくれる。


また「学年」という序列が異様に幅をきかせている日本においては、若い人はいじりやすい。突っ込みやすい。しかめつらのおじさん達には「鼻毛出てますよ」と指摘しにくいが(指摘すると怒ったりするし。感謝すべきなのに)、新人には余裕で言える。新人がいろいろ注意されているのを見て、大人達はそっと自分達も改善できる。


新人は社内ネットワークハブになる。若いだけでかわいいので、いろいろな人が気にかけてくれる。新人は「誰それさんからこんなこと教わった」と社内にバズってくれる。大人同士では遠慮して言わない持論を新人には偉そうにぶつことができ、そういう社内言論活動が活発化する。


若くて未熟である人と、歳をとり成熟した大人がバランスよくいることで、組織全体の人材フローがスムーズになる。どこかのニュータウンみたいにみんな似たような年齢で、一斉に各自の人生のプライムタイムを迎えてしまっては組織運営は大変やりにくい。


上に行けば行くほどポストは少ない。適任者が徐々に時を経て次々と出現するような年齢構成の組織が運営しやすい。組織はピラミッド型が基本だから、若い人が多い方がやりやすい。


などなど。まだあるがこれぐらいに。


このように挙げてみると、いかに新人さんが組織にとって大事かが改めて感じられる。ありがとう、新人諸君!


逆に言えば、よくもまあ、こんな大変な役割を引き受けてくれているものだ。


こんな負荷をいきなりかけられていることが五月病と呼ばれる新人の入社直後のモチベーションダウンの原因の一つではないか。


だから旧人たちは新人から学ばせてもらい、様々なメリットを享受しているのだから、かわいがってあげ、いろいろ教えてあげることぐらいは優しくしてあげていただきたいと思うのです。



5月病の原因のもうひとつと思われるのは、「会えない時間が愛を作る」と大昔に郷ひろみが歌ったように、人の記憶やイメージの「時が立つに連れて美化されていく傾向」である。


たまに誰かに会うと、僕はよく「太った?」などと言われる。実際にはここ20年ほどあまり変化は無く、言うなれば「太ったまま」なだけなのだが、相手は変化を感じている。


つまり、相手は自分のことを美化(ってキモいですが)しているということか。実物よりもなんか痩せて恰好好い曽和をイメージしてくれていたということではないか(ありがた迷惑ですが)。


就職も同じ。就職活動の際には、いろいろ事実を調べ、人に会って話を聞き、可能な限りリアルな情報を得てから入社意志決定をしたはずである。ところが、内定を得てからしばらく時間があるうちに脳内で会社のイメージがどんどん自分の都合のよいように美化されていく。


そして、入社して再度現実にぶちあたると、理想化されたイメージとのギャップができる(リアリティショックという)。そして5月病的状況に陥るきっかけとなる。




このように、新人は過度な負荷と、リアリティショックによって、いきなり大変な状況に放り込まれてしまうもの。


僕ら大人はこういうことを重々理解して、優しい気持ちで彼らを育てる努力をしなければならない。


若者は未来への希望であり、将来の社会や自分達を支えてくれる存在なのですから。

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2011-04-07

それでも桜は咲く 〜刹那と永遠〜

先週末、京都御苑子どもと二人で

今年初めての桜を見に行ってきた。


幼稚園入園に際して、子どもが大きくなってきたので

購入した電動自転車に乗って。


最初は梅小路公園のSL博物館にでも行こうかと思っていたが

すぐ思いついて、踵を返し、京都御苑に行くことに。

そろそろ桜が咲いているのではないかと思ってのこと。


出水あたりの入り口から入ったのだが、そのあたりは梅林

もちろん既に満開を過ぎたあたりで、それはそれできれい。

しかし、目的の桜はない。


桜を求めて、御苑の敷き詰められた小石の上を、

電動自転車のパワーアシストを受けながらなんとか北上。


御苑の北西にある児童公園あたりに着くと

近衛家跡の池にある近衛の糸桜を中心として

やっぱり桜は咲いていた。


世の中でどんなことが起こっていようとも

桜は咲いてくれる。

こんなにうれしいことはない。


ここには毎年来ているので、見慣れた風景ではある。

しかし、いつ見ても、言葉にできない美しさ。

飽きることはない。


何を思うでもないが、桜に見とれて、しばらく時間を過ごした。


子どもはと言えば、残念なことにまだ桜には興味がないようだ。

砂場で意味なく砂を掘ったり埋めたり、ブランコに乗ったり、

すべり台ですべったり、シーソーで遊んだり。

桜は目に入らない。


それでも、子どもの頃の記憶のキーになって欲しいと

肩車をして、桜の花を間近に見せてあげた。

一応「きれいだねー」とは言っていたが、はななだ心もとない。

でも、いつかどこかでこの光景を思い出して欲しい。



・・・



言い古されたことだが、

桜はぱっと咲いてぱっと散る

その潔さ、切なさが日本人の死生観と合うように思う。


いつのまにかやってきて、いつのまにか去っていく桜。


個々の人間も、広い世界、永遠の時間から見れば

桜の花びらのように、世に出るのはほんの一瞬。


しかし、桜の太い命の幹は、春がやってくるたびに

同じような美しい花を咲かせる。


個々には刹那の命しか持ちえない我々も

大きな何かの一部であると感じることができれば

永遠の命を得ることができる。


一枚の桜の花びらであるはかない存在の自分にとって

幹にあたるものはなんだろうか。

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2011-03-30

うまく悲しむのでなく、悲しい出来事をなくす 〜「半径3m」と「1周4万キロ」〜

東日本大震災が起こってから、ブログツイッターなどでなかなか発信できなかった(まだできていない)。



理由はいくつかある。



一つは、あまりに大災害過ぎて、言うべき言葉が見つからなかった、純粋に呆然としてしまったという理由。


一つは、大悲劇の前では、くだらない冗談など言う気にならなかったという理由(最近は、明るくいかねばと思いなおしている)。


一つは、震災緊急用の情報を優先して伝えていただくための自粛が理由(なので、震災情報系のリツイートはよくしていた)。


最後の一つは、自分が身近なことだけしか意識していなかったため(いつも公言しているわけですが)、今回のような大災害の時にまず必要な世界の大きな枠組みを変えて行こうという視点の高い問題については、何一つ言えることがなかったという情けない理由。



こんな年齢になって、我ながら情けないが、改めて自分が大事にしている「半径3mの世界」は、見知らぬ人々の多大な貢献のおかげでなんとか成立していることを認識した(もちろん、わかってはいたのです)。


電気、ガス、水道、鉄道、道路などのインフラ

経済活動のつながり。

人と人との間にある気持ち。


全部、何から何までつながっていて、相互に影響を与えあっている。


普通の時は空気のようになってしまい、その存在が見えなくなってしまうが、無くなるとすぐにわかる。そういうものに優しく囲まれて、自分が大事にしている「半径3mの世界」は成り立っていた。



(自分だけかもしれませんが)心理系の人はややもすると、社会に関心が薄い。人の心の内奥には興味があっても、社会問題やその原因や構造、そしてその改革などには関心が薄い。でも、人の心だって、結局は世界全体の(とても小さな)サブシステムなわけだから、関係がないわけがない。


今日、自分がとても悲しいのは、まわりまわって税制とかある社会制度のせいかもしれない。だけど、制度に目を向けることなく、心の中の問題だけでなんとかしようとしてしまう。


宗教もそういうアプローチが多いが、何か問題が起こった時に、世界を変えるのではなく、自分の心(認識・考え方等)を変えることで、問題を解決しようとしてしまう。


確かに、人は無力だから、世界なんて変えられないから、自分を変える(言いかえると「世界の現状を受入れ我慢する」)ことが、今を乗り切るには手っとり早い。世界を変えるなんて、とてもしんどいことだし、面倒なことだし、無理だと考えるのはよくわかる。悲しい出来事をなくすなんて無理だから、悲しいときに、うまく悲しみに対処できるような練習を積んだ方が早い、と。



しかし。



しかし、この東日本大震災のような難局に直面すると、そんな考えはナイーブすぎる気がしてきた・・・。



個々の人の心に、個別に直接手を当てていくことは絶対に必要である。それは前回も書いた。ただ、やはりそれは対症療法でしかなく、それだけで終わって、後は水に流してしまうというわけにはいかない。こんな悲劇は二度と繰り返してはいけない。悲しみ方がうまくなったってやっぱりだめで、悲しむようなことが起こらないような世の中にしなければいけない。



自分の世の中での役割は、個別具体的な世界での個別具体的な出会いを通して個別具体的な相手に何かサービスすることだとずっと考えてきたので、それはたぶん変わらないと思う。もう変われないと思う。


それでもこんな時には地球1周4万キロのレベルで物事を考えて、社会の枠組みレベルでの問題を解決することで悲しみが起こらない世の中に一歩でも近づくことに協力したいと思った。


自分ができなければ、そういうことができる人を応援したいと思う。

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2011-03-18

虚無感への手当てを 〜この経験を絶対に無意味にしない〜

東日本大震災が起こってしまった。



被災された方々には心からお見舞いを申し上げたい。

まだ寒い東北では、避難生活もさぞかし大変なことであろう。

東京にいる僕は、自分にできることをちゃんとやって

復興までの長い道のりを支援していきたい。



関西で経験した阪神・淡路大震災の時にも思ったことだが、

天災は大勢の人の人生を一度に一気に変えてしまう。

それも無理やりに。抵抗することはできない。


そして何よりも辛いのはそんなに大きな変化に対して

なかなか「意味」が見出せないことだと思う。



地震が何故起こったかについて、物理的な理由は説明できるだろう。

プレートがどうにかなってしまったのだ。


なぜ愛する人や町が消えたのかについて、物理的な理由は説明できるだろう。

地震が建物を崩し、津波がさらって行ったのだ。


でも、それは到底納得できる「意味」などではない。

そんな乾いた冷たい理由によって、こんな悲劇が起きてよいわけがない。

絶対にだめだ。



まだ今は衣食住などの支援が重要な時期だとは思う。

一刻を争う問題がまだまだ残っていると思う。

今はそこに力を集中させるべきだろう。


次は、起こった悲しみの出来事を現実のものとして受け止めるという

地獄のような苦しみのプロセスを通り過ぎなくてはならない。


だが、衣食住の問題が解決されても、悲劇の直視というプロセスが終わっても

最後に待っているのは虚無感。



衣食住はいつか満たされる。悲劇の直視もいつかは終わる。

いつまでも目の前に厳然としたる現実を否定し続けられるものではない。


しかし、

人生を無意味に感じる虚無感は果てが決まっていない。



この虚無感に対する手当て、「意味」に対する手当てが必要だ。



僕は、そもそも人生はどこかにあらかじめ意味があるというものではないと思う。

人生の意味は、それぞれが作るものである。見つけるものではない。

いくら探しても自分の外側にはない。



だから、いかに苦しくても、

僕らは力を合わせて「意味」を「作って」いかなければならない。



答えは容易には見つからないと思うし、今は想像もつかないが、

僕らはこの天災という悲劇ですら、意味あるものにしなければならない。



被災された方々の経験を無意味なものにしては絶対にならない。



でもまだ何をすればよいか、僕もわかりません。

しばらく考え続けようと思います。

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2011-03-10

弱さの強さ 〜さらけだすことの効用〜

日々ぼちぼち思い立ったらTweetすることにしている。気分は俳句か、一言日記のようなものとして。


何かぼんやりとした、しかし強烈な思いが心の中に生じたら、それをできるだけ簡明な言葉にしてつぶやいてみる。そうして自分の心の足跡が残っていく。


結構自分のつぶやきは自虐的であると言われる。あるいは弱音を吐くよねと言われる。昨日も新橋の居酒屋で昔の上司に言われた。


確かにあまりにネガティブな発言は読む人にとっても不愉快だし、そういうことを言う自分も自分のネガティブな言葉に縛られて、そのうち自己成就してしまうかもしれない。


でも、僕は別に「弱音」を吐いてるつもりは本当はあんまりないんですよね・・・。


僕の中では「弱音」というのは、自信がないから「どうせだめだ」と予防線を張っておいて、実際に失敗した際に傷つくことを最小限に押さえようとする行為である。


しかし僕のは単に事実を述べているだけなのです。ネガティブなのではなくて。


今日、「鼻毛が出ていることをどうしても指摘できない自分が情けない」とつぶやいたが、それは事実。「どうせ俺なんて一生他人の鼻毛なんて指摘できないのさ」とは言っていない。今、鼻毛を指摘できないという事実は改善の道のりのスタートラインであって、制約条件ではない。その現実は変えられるのである。


だから僕は弱音ではなく、むしろ自分にハッパをかけているのである。



弱みを公言することにはいくつかの効用があると思う。



まず、もう皆に弱いところを言ってしまったのだから、以後いろいろ格好つけたり、弱みを隠して生きる必要がなくなる。「ああそうさ、おれは弱いさ。今はね」と堂々としていられる。


また、いろいろアドバイスや具体的なサポートをいただける。弱みをカバーできるような方法や実際の支援をもらえれば、弱みがそもそも弱みでなくなり解消されてしまうことがある。


最後に、弱みに関する情報は、このファイティングポーズが横行する東京砂漠などでは、できるだけ個々人は隠そうとしているので、希少価値を持つ。


しかも、実際には皆弱みだらけだから、こんな弱いのは自分だけではないと思いたい。ニーズの強い希少なものには人は集まって来てくれる。つまり、弱みをさらせば、同じ弱みを持つ人と出会える可能性が高くなるのである。


弱い人達も集まれば強くなる。アルコール中毒患者の方々も断酒会などのコミュニティを作ってお互いに元気づけながら、ノウハウを共有しながら中毒を克服していくという。



このように弱みをさらす勇気さえ持てば、実はそこには効能だらけなのである。


そもそも人間は弱いもの。「性弱説」と誰かが言っていたがそう思う。別に弱いことは恥ずかしいことなんかではない。



弱さは武器。弱さは強いのである。


さらけだすことさえできれば・・・


まあかく言う僕もそんなに何でもさらけ出せているわけではないのですが・・・

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